2020年10月4日日曜日

主は生きておられる

主は生きておられる
2020年10月4日、町田福音集会
重田 定義

第一列王記
22:13 さて、ミカヤを呼びに行った使いの者はミカヤに告げて言った。「いいですか。お願いです。預言者たちは口をそろえて、王に対し良いことを述べています。お願いですから、あなたもみなと全く同じように語り、良いことを述べてください。」
22:14 すると、ミカヤは答えた。「主は生きておられる。主が私に告げられることを、そのまま述べよう。」

皆さん、こんにちわ。七ヶ月ぶりにこの集会に戻ってまいりました。本当に、今日は懐かしく、兄弟姉妹の歌を直接、拝することができまして、本当に、嬉しいですね、なんだか、天国で再会したような気がしております。

コロナが流行し始めてから、七、八ヶ月が経ちますけども、本当に私たちの生活は一変したという感じですね。本当にこれだけ、よく変わったなと思うくらい、日々の私たちの生活は変わってしまいました。それにともなって、私たちの信仰の生活も大変わりしたという感じがします。今日、初めて、この変わった集会で、礼拝をご一緒にさせていただきましたけども、驚きましたね。こんなにいろんな新兵器と言いますか、新しい装置があって、ズームと言うんですか、ここに集えない兄妹姉妹も、こういうかたちで礼拝に参加できる。驚きましたね。

私は、アナログ人間でございまして、全然、ズームの操作なんかはできないんですけども、それでも、家庭で毎週、聖日には、心は兄妹姉妹と共に・・・・という思いで、家内と一緒に、礼拝を捧げております。

私たちの生活は、もうご存知の通り、高齢者の施設に今、入居しておりまして、高齢者の平均年齢が、八十三歳ちょっとですかね。ですから、もし、コロナが入って来たら大変なことになりますので、入居者の方々も、それから、職員の方々も、本当にもう一生懸命に、コロナを防いでいるという、本当に戦いの毎日という感じです。もちろん、三密を避け、ソーシャル・ディスタンスを守っております。外出もですね、外出確認証と言うのを出さなければいけない。どこにあなたは行くんですかと言うことを、記入しないとダメなんですね。私もそういうことで、記入してまいりました。

コウジ兄弟も、今日は珍しくお出でくださっていますけど、本当に、館内にいるときも、自分の部屋にいるときは、もちろん、マスクはしなくていいんですけど、館内に出た時は、もう必ずマスク、もちろん、エレベーターなんかも人数制限、エレベーターの中では話をしていけないというふうなことで、食事も、今はお互いに接触しないように、いろいろな工夫をして、距離を保って、話をしないで食べなさいということで、なんだかもう本当に、入居者の方がも大変な忍耐をしていると思うんです。

考えてみますと、私たちの年代と言うのは、忍耐に慣れているんですね。戦前、戦中派が多いですから、戦時中の事を思えば、今のこの忍耐も、そういう意味ではしやすいと言っては何ですけど、皆さん、一生懸命、理解してくださって、そういうわけで、もちろん、一人も感染者は出ておりません。

ということで、今日、本当にこのようにして――やはり、しかし、直接こうやって、兄妹姉妹とともに礼拝を守ることができるの本当に素晴らしいことだなと、改めて思いました。また、コロナが収まって、全員がですね、ともに一つの会場に、主の御体なる会場で、礼拝を捧げることができる日が、一日も早く来るようにと、私たちはこれからも祈っていきたいと思います。

長くなりましたけども、これから、しばらくのあいだ、『主は生きておられる』というテーマで、ご一緒に考えてみたいと思います。

『主は生きておられる』という御言葉は、集会の定期刊行誌の題名にもなっておりますので、私たちにとって、とても身近に感じられます。しかし、それだけに、ともすれば、この御言葉がどんなに重いか、大きいかを忘れてしまいがちになっているのではないでしょうか。そこで今日は、この御言葉の深さ、重さ、大きさについて、あらためてご一緒に考えてみたいと思います。

聖書の神様、すなわち、私たちが信じ、主と仰ぎ、おゆだね、従う神様が、宗教の神々と異なる最大の点は何でしょうか?それは、主なる神様が生ける神であること、そして、私たち人間にご自身を現され、人間の歴史を、そして、私たち一人ひとりを、ご自分の意思によって、み心のままに導かれる、生きて働かれる神であるということであります。

しかしながら、愚かにも人間は、ご自分に似るように作ってくださったほどに愛してくださる創造主にして、全知全能なる唯一、真の生ける神様の御心に背いてしまって、自然に対する神秘感や恐怖心によって満たされた神々、あるいは、理性によって考え出された哲学的な神を、神として礼拝するという罪を犯し続け、それらの神々が、死んだ神、偶像の神であることに気付きません。これについて、生ける真の神様は、聖書の中で、次のように仰せになっています。

イザヤ
44:9 偶像を造る者はみな、むなしい。彼らの慕うものは何の役にも立たない。彼らの仕えるものは、見ることもできず、知ることもできない。彼らはただ恥を見るだけだ。

エレミヤ
10:2 主はこう仰せられる。「異邦人(・・・・異邦人とここにありますのは、真の神を知らない全ての人を指しておりますけれども・・・・)の道を見習うな。天のしるしにおののくな。異邦人がそれらにおののいていても。
10:3 国々の民のならわしはむなしいからだ。それは、林から切り出された木、木工が、なたで造った物にすぎない。
10:4 れは銀と金で飾られ、釘や、槌で、動かないように打ちつけられる。
10:5 それは、きゅうり畑のかかしのようで、ものも言えず、歩けないので、いちいち運んでやらなければならない。そんな物を恐れるな。わざわいも幸いも下せないからだ。」

では、主なる生ける神は、どのようにして、ご自身が生きておられることを、私たち人間にお示しになり、そして、私たちと交わられるのでありましょうか。イエス様が、この世においでになる前には、神様は、ご自分が選ばれたイスラエルの民の預言者たち、あるいは、指導者たちに直接、働かれて、彼らに様々な体験を味あわせることを通して、ご自身が生ける神であることをお示しになりました。

さっき読んでもらった御言葉に出てくるミカヤという人は、紀元前の約八百年くらい前の北イスラエル王国のアハブ王時代の預言者であります。彼は、アハブ王に呼び出されて、大敵シリアとの戦いについて、意見を求められました。彼以外の預言者たちは皆、王を恐れて、イスラエルが勝利するという偽りの予言をしました。

ミカヤを迎えに来た王の使いのものは、ミカヤに、『あなたも他の預言者と同じように、王様の意に適うような、王様にとって心地よい、すなわち、イスラエルが勝利すると預言してください』と言うように頼みました。しかしながら、ミカヤは王を恐れず、主に告げられた通り、イスラエルの敗北を予言したために、王の怒りを被って投獄されてしまいます。そして、ミカヤの予言通り、イスラエルは、ラモテ・ギルアデの地で敗北をしてしまいました。何故、彼が王から迫害されるのも恐れずに、主に告げられた通りのことを予言できたのでありましょうか。それは、彼が主なる神は生きておられるということを、心から信じ、人間の王を恐れるのではなくて、生ける真の神を恐れたからであります。

モーセも、そのように選ばれた者の一人でありました。神様がモーセに仰せになったみ言葉に、次のような箇所があります。これは、イスラエルの民の指導者のモーセに、神さまが、エジプトの王に迫害されてる、いじめられているイスラエルの民を、エジプトから脱出させなさいというふうに命じたことでありますけれども、この箇所に次のように書かれております。

出エジプト記
3:10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
3:11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
3:12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山(・・・・ホレブ山という山です・・・・)で、神に仕えなければならない。」
3:13 モーセは神に申し上げた。「今、私はイスラエル人のところに行きます。私が彼らに『あなたがたの父祖の神が、私をあなたがたのもとに遣わされました。』と言えば、彼らは、『その名は何ですか。』と私に聞くでしょう。私は、何と答えたらよいのでしょうか。」

このように、神様にモーセは尋ねたんですね。

3:14 神はモーセに仰せられた。「わたしは、『わたしはある。』という者である。」

ここで神さまが、モーセに、わたしはあなたと共にいる、また、わたしはある、すなわち、永遠に存在していると仰せになっているのは、ご自分が生きておられる神であることを、このような形でお示しになったんですね。

そして、神様は、イスラエルの民をエジプトから脱出させて、約束の地のカナンに着くまでに、紅海の海を開いて、イスラエルの民をその中を通らせ、そして、後を追ってきたエジプトの軍隊がその道を通る時に、神様は海を閉ざして、エジプトの軍勢を溺れさせる、そういう奇蹟をなされた。あるいは、カナンの地に着くまでの荒野を旅してる時に、イスラエルの民が飢えて苦しんだときに、神様は天からマナという食べ物を降らせた。そういうふうな数々の大きな奇蹟を起こして、イスラエルの民を助けて、導かれて、ご自身が彼らと共におられる、生きた神であるということをお示しになりました。

この生ける神様の前に、私たち人間は何の隠し事もできません。私たちのなすこと、考えること全て、心の中まで、見通されるからであります。

エレミヤ
1617 わたし(・・・・これは、主なる神様ですね・・・・)の目は彼らのすべての行ないを見ているからだ。彼らはわたしの前から隠れることはできない。また、彼らの咎もわたしの目の前から隠されはしない。

第一コリント
4:5 ・・・・主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。

ヘブル
4:13 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

では、今の世に生きる私たちは、どのようにして、この神様が生きておられるということを、知ることができるのでありましょうか。生まれつきの肉の目によってはできない。霊の目が開かれることによってのみ、それは可能になります。

かつて、神様は、ご自分のメッセージを伝えるように選ばれた者たちの霊の目を、直接、お開きになって、生けるご自身を現されました。その一人は、ヨブであります。

ヨブ
42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。(・・・・ヨブは、かつては、神様のうわさを耳で聞いていた・・・・)しかし、今、この目で(・・・・この私の開かれた霊の目で・・・・)あなたを見ました。
42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

また、イザヤも霊の目で神様を見たとき、次のように主を恐れております。

イザヤ
6:5 ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。

このように、イザヤは恐れました。

いちばん最初のみ言葉にありましたミカヤ、彼もまた、霊の目で神様を見た者の一人でありました。彼は、北イスラエル王国の王アハブ――この時のイスラエルはですね、かつて、あのダビデがイスラエルを統一して、大きな王国を建てましたけれども、その息子のソロモンの時代を終わった時、また、イスラエルは二つに分裂してしまい、北イスラエル王国と南ユダ王国の二つに分かれてしまいますが――その北イスラエル王国の王のアハブが、南ユダ王国の王のヨシャパテに、こういうふうに言っているんですね。『預言者ミカヤは、私について良いことは預言せず、悪いことばかりを預言する。』こういうふうに言った。その時、ミカヤは、どのように言ったか。『私は生きておられる主を見た』と答えました。第一列王記、二十二章の十九節、『主のことばを聞きなさい。』これは、ミカヤが王様に言っているんですね。『主のことばを聞きなさい。私は主が御座にすわり、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。』

【参考】第一列王記
22:18 イスラエルの王はヨシャパテに言った。「彼は私について良いことを預言せず、悪いことばかりを預言すると、あなたに言っておいたではありませんか。」
22:19 すると、ミカヤは言った。「それゆえ主のことばを聞きなさい。私は主が御座にすわり、天の万軍がその右左に立っているのを見ました。」

ミカヤは、霊の目で主が生きておられるのを見たんですね。

二千年前に、神様はイスラエルの民のみならず、世界のすべての民に、ご自身が生きておられる神であることをお示しになろうと思いました。そして、神の御子であるイエス様を、人間の目に見える姿で、この世にお遣わしになったのであります。

イエス様は、神でなくてはおできにならない。数々の奇蹟――有名ないくつかの奇蹟があります――すなわち、湖の上を歩かれた、あるいは、権威あるお言葉で嵐をお静めになった、あるいは、五つのパンと二匹の魚で五千人の群衆の空腹を満たされた、あるいは、当時、不治の病であったらい病や足萎えやろうあや盲(めしい)などを癒された。そういう数々の御業を行われて、ご自分が生ける神であることをお示しになりました。しかし、それでも、霊の目が開かれない人には分かりません。イエス様の弟子たちもそうだですね。

ヨハネの福音書には、次のようなイエス様と弟子の問答が記されております。

ヨハネ
14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。(・・・・イエス様は、弟子たちに仰っているんですね・・・・)しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」
14:8 ピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」
14:9 イエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、『私たちに父を見せてください。』と言うのですか。
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

霊の目がまだ開かれていなかった弟子たちは、この時は、人としてのイエス様しか、見ることができなかったんですね。人間の理性や感性によって、神を見よう、神を知ろうといくら努力しても、それはできません。神の御霊である聖霊の働きによって開かれた霊によってのみ、私たちは神様が生きておられることを知ることができるんですね。

ご存知のように、聖霊というのは、よみがえられて天に戻られた神の子イエス様に代わって、信者に霊的な知恵と力を与えてくださり、助け、導いてくださる助け主のことを指しております。イエス様ご自身、天に戻られる前に、聖霊について弟子たちに次のようにおっしゃっています。有名な箇所です。

ヨハネ
14:16 たしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。
14:17 その方は、真理の御霊です。

14:26 助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

パウロもまた、御霊の啓示によってのみ、信者は、生きておられる神様、主を知ることができるというふうに言っております。

第一コリント
2:9 ・・・・「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

こういうふうに、パウロは言っております。

もし仮に、私たちが信じている神様が、生ける神でなかったら、死んだ神だったらどうでしょう?もし、そうだったら、そのような神に祈っても、そのような神に頼っても、何の意味もなく、私たちの信仰は全く空しいものになってしまいます。もし、私たちが信じている神が生きておられないのであれば、私たち、信者が生ける神の御言葉である聖書、いのちの書であると信じている聖書は、単なる道徳の書、思想のの書、古代文化史の書にとどまってしまう。他の宗教の教典と何ら変わらないものにとなってしまいます。

そんなものを信じて、何の意味があるでしょうか。もし、私たちが信じている神様が、生きていない死んだ神であるならば、そのような神を信じる私たち信者は、すべての人の中で、いちばん哀れな人間と言えるのではないでしょうか。しかし、私たち信者は、御霊の導きによって開かれた霊によって、父なる神、御子なる神イエス様が生きておられることを知ることができるのです。具体的には、ひとつは人類の歴史を通してであります。そして、また、今、世界に起こってる現象を通してであります。

多くの人間は、歴史というのは、人間の手で作り出すものと考えております。しかしながら、それは、とんでもない思い上がった傲慢な考えであります。すでに神様は、約二千八百年前に、イザヤ書の中で、次のように仰せになっています。

イザヤ
46:9 遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。
46:10 わたしは、終わりの事を初めから告げ、まだなされていない事を昔から告げ、『わたしのはかりごとは成就し、わたしの望む事をすべて成し遂げる。』と言う。

私たち信者は、開かれた霊の目によって、聖書において、生ける神様がこのように約束されている通りに、これまでの人類の歴史が、神様のご計画どおりに実現されたことを知ることができます。

そして、現在、世界で起こっております不安と恐れに満ちた様々な現象も、これもまた、そしてまた、これから先に人類の上に起こることも全て、生ける神様の御心によるものであって、人類の歴史が、聖書に預言されているみ言葉通り、生ける神様のご計画の完成に向かって、着々と進められていることを、私たちは開かれた霊の目で確信することができるであります。そしてまた、霊の目が閉ざされていた時には、全く気付かなかった、自分の人生に起こった様々な出来事、御霊の助けによって霊の目が開かれた時に、全てのことが生ける神様のご計画によってなされたものであることを知って、自分のようなものをも愛してくださり、いつも共にいてくださり、支えてくださり、そして、救いの完成と導いてくださる生ける神様に、心から感謝することができるのであります。

では、救いの完成の時は、いったいいつでしょうか。それは、主のご再臨の時であります。その時、信者はイエス様と同じ、聖い朽ちることのない完全な体に変えられて、空中まで迎えに来てくださったイエス様によって、天の御国にたずさえ上げられ、そこで生ける神様に直接、お会いすることができるのであります。そして、イエス様が黙示録の二十二章で三度も、『見よ、わたしはすぐに来る』と約束しておられるように、その日は、もう間近に迫っております。

こうして、私たち信者は、生ける神様、そして、生けるイエス様に守られて、慰められ、励まされ、導かれて、どんなことが起こっても恐れることなく、平安と希望と喜びに満たされて、ご再臨の時を待ち望む時を過ごすことができるのであります。何という幸いなことではないでしょうか。ただただ、主に感謝し、そして、詩篇の十八篇四十六節のダビデのように、『主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの神』と、主のみ名をほめたたえるばかりであります。

2 件のコメント:

  1. 文字起こし、本当に感謝です。
    耳が不自由な81才の母は、2年前に家族間に信仰分裂の試練を与えられました。
    その上、この度は、大きな病を与えられました。
    かつては重田兄姉とのお付き合いもあり、早速メールしたところ、とても満たされ、元気をいただいたようです‼️。
    長文の文字起こしは大変だと思います。
    その、ご奉仕の労と、主の御働きに感謝します。
    感謝して。

    近藤房子

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    1. 2年前も、やはり重田兄が力強くメッセージの中で説き明かしてくださいました。今さらかもしれませんが、その書き起こしです。
      https://worthylord.blogspot.com/2018/04/blog-post.html
      海外の私のところにも執拗に勧誘がありましたが、この書き起こしを私からの回答として送りました。お母さまのこと、お祈りします

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