2020年1月21日火曜日

キリストの弱さと強さ

キリストの弱さと強さ
2020年1月21日、吉祥寺学び会
黒田 禮吉

第二コリント
13:3 ・・・・キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。
13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

兄弟に読んでいただいた聖書の箇所の少し前から、もう一度、読ませていただきたいと思います。


第二コリント
13:2 私は二度目の滞在のときに前もって言っておいたのですが、こうして離れている今も、前から罪を犯している人たちとほかのすべての人たちに、あらかじめ言っておきます。今度そちらに行ったときには、容赦はしません。
13:3 こう言うのは、あなたがたはキリストが私によって語っておられるという証拠を求めているからです。キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。
13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

初めのところに、『今度そちらに行ったときには、容赦はしません』と、厳しい挑戦的な記述があります。このように、パウロが書かざるを得なかったコリント教会の問題について考えてみたいと思います。

パウロが、罪を犯しているコリント教会の人たちをいさめたのですが、彼らはそれを聞き入れようとはせず、かえって、パウロが真の使徒であるのかという疑いをかけました。そして、パウロを通してキリストが語っておられるのであれば、その証拠を見せなさいと求めたわけです。それは、パウロに与えられた主からの権威に対して挑戦するという問題です。この反応に対してパウロは、キリストについて語り始めたのであります。

キリストは確かに、十字架においては弱くされたが、神の大能の力によってよみがえられ、今も生きておられる。だから、キリストはあなた方の中で強い方である。そして、このキリストとともに私たちは生きている。したがって、私たちがあなたがたのところに行く時には、キリストがあなたがたの中で裁きを行われる。悔い改めずに、かえって、主がパウロに授けられた権利に挑戦するのであれば、キリストご自身があなたがたを裁かれますと、警告しているのであります。

このパウロが、キリストは、『弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます』と言っているところが大切ではないでしょうか。

今日は、コリント教会の人々に対して、パウロが書き送ったことを四つに分けて考えてみたいと思います。

第一点は、本当の権威とは何かということであります。

イエス様が十字架にかけられた時、ご自身を十字架から救うことは、いとも簡単にできました。もし、神の子なら自分を救ってみろ、十字架から降りて来い(マタイ27章40節)そのように、罵られたとき、イエス様はそれがおできになるどころか、罵る彼らをたちまち、火で焼き滅ぼすこともできたのです。しかし、イエス様は、あえてご自分の力を用いずに、ご自分を弱くされ、私たちのために、十字架にかかってくださいました。このイエス様の弱さが、神の愛の表れであり、この御愛にふれた人々が、罪赦され、救われていくという大きな御業につながっていくのであります。イエス様の生涯は、柔和さとへりくだりに特徴づけられています。『わたしは心優しくへりくだっているから』と、自ら仰っておられます。イエス様には、神の大能の力がおありです。けれども、その力を行使せずに、あえて弱い姿を貫かれ、十字架で死んてくださったのです。

キリストのしもべとされた私たちも、ですから、キリストの柔和さとへりくだりを身につけなければなりません。パウロは、若い牧会者であるテモテに対して、このように語っています。

第二テモテ
2:25 反対する人たちを柔和な心で訓戒しなさい。もしかすると、神は彼らに悔い改めの心を与えて真理を悟らせてくださるでしょう。

このように教えています。反対する人たちに対しても、柔和な心で訓戒しなければいけません。ところが、人はこのような弱さを、本当に弱いと誤解するのであります。柔和さやへりくだりを、その人が弱いからだと思って、それで反抗し、ついにはその権威を覆そうとしてます。しかし、それはとても危険なことです。なぜなら、キリストのしもべは、本当に弱いのではなく、生きておられるキリストが共におられるからであります。

ひとつのよく知られている例を挙げたいと思います。

民数記
16:3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」
16:4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。

モーセは、地上でもっともけんそんなものであったと、民数記に書かれています。このモーセとアロンに、コラというレビ人が逆らいました。彼は、このように言ったんですね――これも民数記にある言葉です――『あなたは、乳と蜜の流れる地に私たちを連れても行かず・・・・、そのうえ、あなたは私たちを支配しようとして君臨している』(民数記16:14,13)と、そのように責めたのであります。その結果、コラが立っている地面が裂けて、彼とその家族は、生きたまま地獄へと落とされたのです。キリストの弱さを身にまとったモーセですが、同時に、生きておられるキリストと共にいたからなのです。

私たちは、本当の権威を知らなければいけません。それは、キリストの弱さに裏付けされた強さです。この世は、意志が強い人、意見の強い人をリーダーとして崇め、そうでない人を見下す傾向にあります。しかし、本当の力は、キリストの柔和さと優しさの中に隠されています。へりくだりの中にこそ、真の力があるのではないでしょうか。

二点目は、本当の信仰とは、自分自身を試し、吟味することということであります。第二コリントに戻っていただきます。

第二コリント
13:5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。

13:7 私たちは、あなたがたがどんな悪をも行なわないように神に祈っています。それによって、私たち自身の適格であることが明らかになるというのではなく、たとい私たちは不適格のように見えても、あなたがたに正しい行ないをしてもらいたいためです。

コリントにいる人々は、パウロが真の使徒であるかどうかを問題としました。しかし、彼らはパウロのことを試すのではなく、自分自身を試し、また、吟味しなければなりませんでした。イエス様は、『さばいてはいけません。さばかれないためです』と言われました。パウロも、第一コリントでこのように言っています。

第一コリント
11:31 しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。

パウロは、このように言っています。教会は、自分自身をさばく人たちがいる時にこそ、強くされるのではないでしょうか。私たちが、よく自分自身を吟味して、自らをさばいている時に、他人を裁く心が心がなくなってきます。これによって、信仰がさらに練り清められ、自分が本当に立つべき場所を見出すことができるのではないでしょうか。

信じるものが信じるものであることの所以(ゆえん)は、自分には何も良いものがなく、いやむしろ、裁かれる存在であり、自分の奉仕も祈りも信仰の深さも、何も役に立たないことを知っている人なのではないでしょうか。ただ、イエス様のみが私を救ってくださるという立場を保ち続けているからこそ、自らをクリスチャン――キリストのうちにあるもの――と呼ぶことができるのではないでしょうか。

私たちは、初めて福音を信じた時のように、神のあわれみを求めて、キリストの十字架にすがることがなければ、必ず、他の目に見える自分の行いにしがみついてしまいます。今まで行なってきた奉仕であるとか、メッセージであるとか、貢献してきた経験に重きを置いてしまいます。しかし、自分の信仰がイエス様のみになっているかどうか、試さなければいけません。

パウロたちは今、偽の使徒であるという中傷を受けています。ですから、彼がコリントの悔い改めない人たちを裁けば、自分たちの信頼は回復するのです。しかし、彼は――先ほど読んだところにありましたように――私たち自身の的確であることが明らかになるというのではなく、むしろ、コリントの人たちが悔い改め、回復することを祈ったのです。その結果、自分たちが不適格のように見えても構わないと、言っているわけであります。

三番目は、真理によって完全なものとなるということであります。もう一度、第二コリントからお読みいたします。

第二コリント
13:8 私たちは、真理に逆らっては何をすることもできず、真理のためなら、何でもできるのです。
13:9 私たちは、自分は弱くてもあなたがたが強ければ、喜ぶのです。私たちはあなたがたが完全な者になることを祈っています。

パウロの祈りは、コリントの人たちが完全なものになるということでした。完全なものになるとは、もちろん、罪を全く犯さないような完璧な人になるということではありません。自分が抱えている問題を主の前に差し出して、主に取り扱っていただくこと、自分の失敗も成功も、全てを主の前にさらけ出している人、心が全て主に開かれている人、この人が完全な者ということができるのではないでしょうか。そして、あなた方が完全なものになるのであれば、私たちが弱くされても良いと、パウロは言っているのであります。その理由は、私たちは真理に逆らっては何もすることができず、真理のためなら何でもできるのですということであります。パウロにとっては、主なる神の真理が全てであり、自分たちの立場は二の次であると考えたのであります。

ガラテヤ
1:7 ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
1:8 しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
1:9 私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。

パウロは、もし、福音に反することを述べ伝えているなら、自分たちをも呪われるべきであると言っています。これが、真理に逆らっては何もできないと言っている意味でありましょう。そして、コリントの人たちのうちにキリストが形作られ、彼らの回復されることが、パウロの願いであり、神が望まれていることであります。

四番目になります。四番目は、築き上げるための権威であります。

第二コリント
13:10 そういうわけで、離れていてこれらのことを書いているのは、私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするためです。この権威が与えられたのは築き上げるためであって、倒すためではないのです。

主の御心は常に、人が罪から救い出されてキリストのものになること、そして、キリストにあって歩むことであります。その真理のために、すべての賜物や権威が与えられています。パウロは、コリントの人たちが、キリストにあって、建てあげられるためにその権威を用いることが、神の御心であることを、よく知っていたのであります。

第二コリント
10:8 あなたがたを倒すためにではなく、立てるために主が私たちに授けられた権威については、たとい私が多少誇りすぎることがあっても、恥とはならないでしょう。

12:19 あなたがたは、前から、私たちがあなたがたに対して自己弁護をしているのだと思っていたことでしょう。しかし、私たちは神の御前で、キリストにあって語っているのです。愛する人たち。すべては、あなたがたを築き上げるためなのです。

ここから私たちは、主から授けられる権威は、人を建て上げるもの、回復させるものであるということを知ることができます。人が罪の縄目から解放されて、立ち上がるようにすること、これが、キリスト者の役目なのではないでしょうか。悔い改めない兄弟姉妹を、さばかなければいけないときがあります。しかし、それはあくまでも、受け入れるために、一時的に取っている手段ではないでしょうか。主から授けられる権威は、倒すためではなく、築き上げるためのものであると言っています。

今まで、四つのことを考えてきました。第一番目は、本当の権威とは、へりくだりの中にある。二番目は、本当の信仰とは、自分自身を試し、吟味すること、そして、真理によって、三番目、完全なものとなる。そして、四番目は、権威は築き上げるためのものということであります。

そして、第二コリント、十三章の手紙の結びの言葉になります。

第二コリント
13:11 終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。

手紙の終わりに、パウロは、この手紙の受取人たちに、再び、『兄弟たち』と呼びかけています。『今度そちらに行ったときには、容赦はしません』と初めの挑戦的な記述が、影を潜めています。今まで、厳しいこと書いてきたが、彼にとって、この手紙の受取人は、主にある兄妹姉妹であるとの願いが込められているのではないでしょうか。主にあって兄弟姉妹であるからこそ、心からの想いを語ってきたということでありましょう。パウロは、短い勧めの言葉を次々と並べています。『喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。』

いちばんに、『喜びなさい』と勧めるには、理由があります。この第二コリントの手紙で、パウロは自分の姿勢を記しています。

第二コリント
1:24 私たちは、あなたがたの信仰を支配しようとする者ではなく、あなたがたの喜びのために働く協力者です。あなたがたは、信仰に堅く立っているからです。

問題に向き合うパウロの姿勢は、決して、信仰を支配しようとするものではありません。主にあって、同じ信仰を抱き、同じ土台の上に立っている兄弟姉妹として、相手を尊重している姿が見て取れます。パウロの願いは、コリント教会の人々が、喜びの中に生きるようにと、そう協力する者でありたいとの、自分の立場を明確に自覚していました。だからこそ、この手紙を締めくくるにあたって、何より、彼らに喜んで欲しいと、その想いを告げています。

そして、勧めの最後には、『平和を保ちなさい』と伝えています。意見の対立で分裂を起こすことは、とても簡単なことです。しかし、もともと主にあってひとつであることは、御体なる教会の本質です。教会の分派に力を注ぐのではなく、一致にとどまることこそ、大切であります。平和を保つためには、思いがひとつでなければなりません。大切なことは、主によって建てられた教会が、キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりによって成長し続けることができるという信頼ではないでしょうか。

コリント教会の問題は、もちろん、今の吉祥寺集会の問題でもあります。私たちは、一致を保たなければいけません。同意できないことがあるかもしれませんが、そこには、キリストにある自由があります。そして、平和を保ちなさいという勧めです。私たちは、決して妥協できない部分を持っているかもしれません。しかしながら、全てのことが平和に保たれるように、務めなければいけません。罪にまみれ、どうしようもないものであった一人一人が、十字架のもとにひざまずき、主イエス様に贖(あがな)われたことを感謝する、主を賛美する、その一点においては、私たちはひとつになることができると信じます。

浮世の風の吹き回されたり、波にもて遊ばれたりすることがないように祈りましょう。そして、このような勧めに従うと、約束があります。それは、13章11節の最後に記されている言葉です。『愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。』これが、その約束ではないでしょうか。

主なる神が私とともにおられます。主との交わりは、『もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』(第一ヨハネ1:7)皆さん、ご存知の約束であります。私たちのうちに住まわれている聖霊が、主イエス・キリストの恵みと神の愛を注いでくださいます。

パウロは、主から授けられた権威が、コリントの人々によって疑われました。しかし、それは、イエス様ご自身が受けた苦しみでした。十字架のゆえにあえて弱くなられたキリストは、パウロのうちにも生きておられる。それゆえ、彼、パウロも自分の弱さを誇ったのであります。私たちもこの中に生きているでしょうか。キリストの弱さの中に生きることは、それは、本当に弱くなることではありません。それは、人を回復させ、人を建て上げ、本当の意味で人を変える力を持っています。

高ぶり、高慢になっていることが権威的であるというのがこの世の常識であります。しかし、救われた私たち一人一人は、そういう意味ではなくて、キリストの権威を身にまとっています。その特徴は、柔和さとへりくだりではないでしょうか。

最後に、御言葉を二つ選んで終わりにしたいと思います。

第二コリント
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

7:1 愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。

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