2020年9月13日日曜日

マルタ、マルタ

マルタ、マルタ
2020年9月13日、秋田福音集会
岡本 雅文

ルカ
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
10:26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
10:27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
10:28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
10:30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎとり、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
10:31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
10:33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
10:34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
10:35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

よろしくお願いいたします。本日は、非常に有名な箇所である、良きサマリヤ人のたとえから始めたいと思います。


三十年ほど前の吉祥寺で、毎週水曜日の夜に開かれていた学び会のことでした。その時、大先輩の兄弟――もう既に天に召された兄弟――が、この箇所を学んでくださいました。その日の学びを通して、与えられた驚きは、今も、忘れることができません。そして、この箇所は、それ以来、多くの兄弟姉妹方と機会ある度に分かち合ってきた私自身の宝のひとつであります。そして、読むたびに、新な思いが与えられる箇所でもあります。ですから、今日もこうして、機会を捉えて、また、兄弟姉妹方と思い起こしたいと願っています。

しかし、この箇所は、言葉では非常にお伝えしにくいメッセージのひとつであると思うんです。大先輩の兄弟の学びは、次のように、私の耳に聞こえてまいりました。この聖書の箇所を正確に読むと、律法の専門家――ちょっと長いので、以降は『律法学者』と呼ばせていただきたいと思います――この律法学者の質問は、私の隣人(となりびと)、すなわち、律法学者の隣人とは誰かということであります。

たとえを話された後、この質問者に告げられたイエス様の逆質問、反対に質問されたその内容は、この三人の中で――後で出てまいります――この三人の中で、誰が強盗に襲われたもの、すなわち、律法学者の隣人になったかという同じ質問を投げ返しているのです。言い換えると、例えの中の、強盗に襲われて半殺しになったものは、律法学者自身であり、私の隣人となってくださった方は、この半殺しにされた私、律法学者を解放してくださった方に他なりません。

このように、正確に言おうとすると、非常に複雑な、そのような例えになっています。しかし、この兄弟は、この例えは、このように言っているとしか考えられないと、何度も繰り返されました。この例えは、強盗に襲われたものと、サマリヤ人との関係が、律法学者自身と隣人の関係を告げているということを、強調されました。その時、私は頭の中がよく整理できませんでしたけれども、兄弟はそれ以上、詳しく説明することはされませんでした。そして、学びを終えられたのです。兄弟が何を言おうとされているのか、まだ、よく理解できませんでしたけれども、ところが、その時、私は突然、身体に電流が走ったような衝撃を受けました。イエス様を信じて、数年――四、五年だったでしょうか――その頃のことでありました。これまで、このあなたの隣人をあなた自身のように愛せよという箇所は、他者に対する愛の戒めとして、また、はるかに高い博愛の例えとして、私自身の現実と乖離した言葉として、聞いていたのであります。しかし、イエス様が、この例えを話し終えられた後に、質問した律法学者に言われた言葉が、ある意味を伴って突然、心に流れ込んできたのであります。

37節を、もう一度をお読みいたします。最後の言葉です。

ルカ
10:37 ・・・・するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

この御言葉が、先輩の兄弟が繰り返し語られたように、正確に聞こえてきたのであります。10章の27節、質問の初めのところです。『あなたの隣人を』、すなわち、あなたの隣人になった方を、『あなた自身のように愛しなさい。』正確に聴くように、兄弟は何度も何度も語られました。私の隣人になった人、すなわち、私を介抱してくれた人、私を救い出してくださったイエス様を愛しなさい。まず第一に、彼のところに行きなさい。それがこの日、御言葉によって、私が導かれたところでありました。

それは、私がまだ、よく知らない誰か他の人ではなく、私を助け出してくださったイエス様ご自身のことを指していると、一気に別のところに連れて行かれた――そういう想いに満たされたのであります。強盗に襲われたもの、すなわち、律法学者、すなわち、あなたが、すなわち、私が、私の隣人になった方に助けられた。いろいろな登場人物が出てまいりますけど、強盗に襲われたものとは、私自身であると、この例えの中に、イエス様ご自身が語りたいと願っておられたことではないでしょうか。

私自身が、私の隣人になった方に助けられた、あのエリコに下る道に行きなさい。そして、強盗に襲われた彼と同じように、あなたの隣人から、傷にオリーブ油とぶどう湯を注いで包帯をしてもらいなさい。そして、そのあなたの隣人に宿屋に連れて行ってもらい、彼と同じように、強盗に襲われたものと同じように、あなた自身が介抱されないと、聞こえてきたのであります。ただそれだけが、耳に残って離れませんでした。ただ、私が哀れみを受けたところへ行きなさいと、言われたのであります。律法学者もサマリヤ人も、イエス様以外の人は皆、その時、視野から消えてしまいました。私と私の隣人となられたイエス様だけが残されました。それが、あの夜、み言葉に導かれたところだったんです。

ヨハネの福音書の8章の7節から9節に、姦淫の現場で捕らえられた女性が紹介されています。彼女の場合も、彼女を訴える人々は皆、姿を消して、最後にイエス様とただ二人だけ残されたと書かれています。読んでみましょうか。

ヨハネ
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。

同じように、彼女の前から、一人一人と消え去っていって、そして、イエス様とただ二人きりになったと書かれています。

パウロも同じようにみ言葉に導かれて、イエス様だけしか目にとまらないところへと導かれたのではないかと思われるのであります。第一コリント二章、よくご存知の箇所でありましょう。

第一コリント
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

パウロも、目の前から全ての人が消え去って、そして、イエス様とだけ交わるようになったと、書かれています。こうして、約三十年前の学び会の夜、み言葉に導かれました。イエス様と二人だけの交わりへと、一気に導かれたと言ってもいいと思います。その後、幾冊かの聖書学者や牧会者のメッセージ、あるいは、註解書などの歴史的な背景や神学的な見解にもふれましたけれども、そして、教えられることはいくらか、ありましたけれども、まず第一に、私に主が命じておられる、私の隣人を愛すること、このことは、あのエルサレムから、エリコに下る道で、また、あの宿屋で私が受けた始めの愛を思い起こし、感謝することであるという思いは、今に至るまで、変わることがありません。

律法学者とイエス様の問答は、律法学者の不純な心から発せられたものでしたけれども、しかし、その不純な心を使ってさえも、全てのことを働かせて益としてくださいました。ローマ書、八章の二十八節に書かれているみ言葉どおり、また、御心どおりでありました。このような理由で、この箇所は、幾度でも何度でも、主の御心を兄弟姉妹と分かち合いたい、個人的に与えられた体験を、互いに語りあいたいという、私にとって、特別な箇所のひとつになりました。

本日は、この良きサマリヤ人のたとえが導く、私たちの旅を、もう少し先まで、進んで行こうと思います。この例えの最後に、イエス様は、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。その後、イエス様は、この問答の結末を説明することなく、あの先輩の兄弟が突然、メッセージを終えられたように、説明することなく、弟子たちを次の村へと導いて行かれました。イエス様の心は、聞くだけではなく、私たち自身で体験してほしいということではないかと思うんです。次の村とは、おそらく、エルサレムに近いベタニヤでありました。

イエス様は、このベタニヤに弟子たちを連れて行って、そして、『行って同じようにしなさい』という御言葉の心を、マルタとマリアという二人の姉妹たちによって、弟子たちに、また、私の記憶に残るように教えてくださいました。ベタニヤに行って同じようにしなさい。このように次のルカの10章の38節、39節は語っているのではないかと思います。

ルカ
10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。

マリアが行ったところは、主の足元でありました。これが、強盗に襲われて、半殺しにされた人が、マリアが行くところでありました。憐れみをかけてくれた隣人、良きサマリヤ人、すなわち、イエス様のところです。あなたも行って同じようにしなさい。こう今日も聖書から聞こえてまいります。

弟子たちが連れて行かれたベタニヤで、彼らはもう一つの事を見聞きいたしました。その続きです。

ルカ
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

イエス様は、マルタにやさしく語りかけました。彼女にも、マリアと同じように、大きな恵みを知ってもらいたかった、そのことに違いありません。マルタ、マルタという短い呼びかけの中に、イエス様の彼女に対する、また、私たちに対する愛が、また、憐れみが溢れています。今日も、イエス様は私たちに、マルタ、マルタと呼びかけておられます。あなたもここに来てやすみなさい。重荷を下ろしなさい。良い方を選びなさい。あなたの隣人になったわたしのところに来なさいと、この箇所からも聞こえてまいります。

イエス様は、マルタを通してさらに、私たちにもみ心を告げておられると導かれるのであります。

ルカの十章のこれらの記事は、ヨハネの十一章、ヨハネの福音書に引き継がれました。おそらく、マルタが、イエス様に、『マルタ、マルタ』と呼びかけられて、しばらく経った時のことでありましょう。再びイエス様が、ベタニヤに来られました。マルタとマリアの兄弟、ラザロが死んだ時だったのです。

ヨハネ
11:20 マルタは、イエスが来られたと聞いて迎えに行った。マリヤは家ですわっていた。

この日も、マルタは動き、マリアはすわっていました。しかし、この日、ここには、あの日のマルタの慌ただしさはありませんでした。マルタは、イエス様と二人で、静かな交わりが、この日、与えられました。私たちが望みを抱いている永遠のいのちについて、イエス様から直接、聞いたのは、この日のこのマルタでありました。同じヨハネの十一章の二十五節から二十七節に、私たちがよく知っている言葉が出てまいります。

ヨハネ
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

そして、彼女は、マリアにも、主イエス様との喜びの交わりを引き継ぐために帰って行きました。

ヨハネ
11:28 こう言ってから、帰って行って、姉妹マリヤを呼び、「先生が見えています。あなたを呼んでおられます。」とそっと言った。

この箇所を読むと、マルタの振る舞いを通して、イエス様が無言で語っておられるのが分かります。変えられたマルタの心に胸が熱くなります。以前のマルタではありませんでした。

その後、イエス様が十字架につけられる最後の週がやってまいりました。次のヨハネの十二章ですね。イエス様は地上での最後の時に、また、ベタニアに来られました。そして、弟子たちも連れて行かれました。マルタとマリアも、そこにおりました。ここでは、マルタはただ、二節に書いてあるように、『そしてマルタは給仕していた』とだけ、紹介されています。

この一連の旅を通して、私たちが目で見る、そのイエス様の導き、そして、イエス様を信じるものの幸いを見るように思います。主の御心の中に隠されたマルタに、聖書は美しい光を当てていると思わされてなりません。そして、マルタが給仕をしていた。一方、マリアは高価なナルドの香油をイエス様の足に塗って、彼女の髪の毛で、イエス様の足を拭ったと、書かれています。今までと全く反対に、マリアが動き、マルタはひっそりと隠れて、集いの準備をしています。主によって、ふさわしく整えられた僕(しもべ)たちの姿が伝えられています。

ある時期は動き、そして、ある時期は静まり、この二人の群れは、本当に主の御心、そのものではないかと思わされてなりません。

本日、ご一緒にマルタとイエス様との交わりの場を中心に見てまいりましたけれども、私はマルタの振る舞いの変化、内側の変化に心を打たれます。ルカの十章では、『いろいろな事を心配して気を使っています』と、イエス様に言われたマルタでした。しかし、ヨハネの十一章のラザロが死んだ時は、悲しみのただ中にあって、主イエス様と妹に、心から配慮する、心砕かれたマルタを見ることができます。そして、最後のヨハネの十二章では、イエス様の最後の時が近づいたときの集いで、裏方として、影のように給仕に徹しているマルタのうちに、主を信じる者に与えられる幸いな奇跡を見るのであります。

最後に、マルタが導かれたであろうイエス様のみ言葉をお読みして、最後にしたいと思います。私たちも、このような奇跡の中に共に住む群れへと導かれたいと、心から願っています。

ルカ
11:28 ・・・・イエスは言われた。「いや、幸いなのは、神のことばを聞いてそれを守る人たちです。」

マルタは、『あなたも行って同じようにしなさい』というイエス様のみ言葉を受け入れて、その通りに、同じように、イエス様のところに行って、憩いを得たのであります。こうして一人の隠れた姉妹が、キリストの愛を今も伝えているのであります。

0 件のコメント:

コメントを投稿