2020年11月30日月曜日

イエスの救い(四)進歩への道「計算すること」

イエスの救い(四)進歩への道「計算すること」
主は生きておられる、55号、2020年
ゴットホルド・ベック

ダビデは詩篇で次のように告白しています。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。(詩篇32・1~2)

ヨハネは「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます」(1ヨハネ1・7)と書き記しています。

この二つのみことばを読む時、主イエス様の血潮がどれほど尊いものか、しみじみとわかります。私たちは主イエス様の血潮の尊さを、さらによく知り、もっと感謝したいものです。

本日は、ローマ人への手紙6章1~11節を基にして、進歩への道「計算すること」についてご一緒に考えてみたいと思います。

その本題に入る前に、これまでに学んできたことを少し振り返ってみましょう。

イエス様の流された血潮と十字架の価値

まず、主イエス様の流された血潮の価値について三つのことを学びました。それは第一に、主なる神と人との間を隔てている罪という名の壁は、もうすでに取り除かれ、人は神との交わりができるようになったことです。第二に、この血潮の価値をよく知るならば、私たちの良心の呵責は消えてなくなります。第三に、私たちが血潮の価値を深く知るならば、悪魔の訴えは、効き目がなくなるということを学んできました。

次に、私たちの古い人に対するイエス様の十字架の価値を見ました。

どんなクリスチャンでも、遅かれ早かれ、自分は霊的にもっと成長しなければならないのにそれができない、どうしたらよいのだろうという壁にぶつかります。「勝利の生活」を送りたいけれど、どうしてもできません。自らの内にある罪の性質を、繰り返し知らされるけれど、どうしてもそれから解放されません。

このように私たちは、主イエス様の血潮によって罪赦され、義とされることよりも、さらに進んで聖められることのほうが、どんなに難しいものであるかということを学んできました。

また、救われ、義とされるために、私たちは自分の努力をしなかったのと同様に、聖められるためにも、自分の努力は無駄であるということを学んできました。ですから、私たちは自らの力で罪を乗り越えようと努力するのではなく、自分たちの罪の源が何であるかを知って、神様が備えてくださった解放の道へと進まなければならないわけです。

進歩への道 第一段階 「知ること」

「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。」(ローマ6・6)というみことばが示すように、もうすでに解放の備えは主によって整っています。もし私たちが内面的、霊的にさらに前進したいと思うなら、どうしてもこの事実を知らなければなりません。そこで私たちは「知ること」として三つのことを学びました。

第一番目、知らなければならないことは何か。それは、私たちが主イエス様とともに十字架につけられたことが、歴史的な事実であるということ。第二番目、この歴史的事実をどのようにして知るべきか。それは、単なる知識ではなく、啓示によって知らなければならないということ。第三番目、なぜこの事実を知ることがそれほど大切なのか。それは、イエス・キリストとともに私たちが十字架につけられたのが歴史的事実であり、それを啓示によって知るなら、私たちの問題の根本までが解決されるからです。以上が前回までに学んだことでした。

では、私たちが憧れている勝利の生活に入るには、どうしたら良いのでしょう。

進歩への道― 第二段階 「計算すること」

これから、今回の本題である第二段階に研究を進めましょう。ローマ人への手紙6章1節に次のように書かれています。

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ローマ6・11)

ここに「思いなさい」と書いてありますが、もっと的確に言うなら「認めなさい」、「計算しなさい」と表現したほうがよいと思います。これはあなたに対する神様のご命令です。いったい何を命令されているのでしょうか。何を「思いなさい」、「計算しなさい」と言われているのでしょうか。みことばをよく読んでみましょう。

実は、ローマ人への手紙6章6節と11節はあわせて読むべき性質のものです。6節、11節にはこう書かれています。

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。...このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ローマ6・6、11)

知って、そして思いなさい。つまり知ったら、認めて、計算するのが順序として正しいことです。私たちの古い人がキリストとともにすでに、十字架にかかって死んでしまったことを知ったならば、その次にすることは、それを認めて計算することです。この計算も、啓示によって示された神の事実の上に立ってしなければ、何の役にも立ちません。もしそうでないなら、私たちの信仰は根拠のない、むなしいものになってしまいます。

もし、啓示によって事実を知るなら、計算するというのは私たちにとって当然のこととなります。

その1 事実を啓示によって見る

11節は、6節の事実なしには何の役にも立ちません。私たちは、いつも悪魔から攻撃される自分の弱い点をよく知っています。攻撃が始まると、私たちはどうするでしょうか。「私は死んでいる、死んでいるはずだ」と一生懸命、考え始めます。しかし努力して、何とかしようとすればするほど、古い人が元気づいてくるのに気がつきます。それはどうしてでしょうか。

私たちが、第一段階にまだ足を踏み入れていないからです。主イエス様とともに、もうすでに十字架につけられてしまっているということを、啓示によって「心の目」で見ていないからです。

主イエス様が亡くなられた時、私たちもともに死にました。それは、私たちがイエス様の内に置かれていたからです。確かにイエス様は亡くなられました。それと同じように確かに私たちの古い人も、イエス様とともに死んでしまったのです。あなたは、この事実を啓示によって見たでしょうか。それともただ頭の中で知っているに過ぎないでしょうか。もし、主があなたの目をこの永遠の事実に開いてくださるなら、あなたはただ、主とともに死んだことを喜び、心から賛美することができるようになるでしょう。

このように、勘定できるようになる秘訣はどこにあるのでしょうか。事実を啓示されることです。次のペテロの例もそのことを教えています。

シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。(マタイ16・16~17)

啓示によって、ペテロはイエス様がキリストであると知るようになったのです。

パウロもエペソの信者たちに次のように書きました。

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ1.17~19)

ここでも啓示の御霊が与えられるように、また兄弟姉妹たちの心の目がはっきり見えるように、ということが書き記されています。

私たちが主イエス様とひとつにされたことは、単なる教えではなく事実です。この事実を、啓示によって見る必要があります。これは決して曖昧な出来事ではありません。あるとき私たちは、イエス様が私たちのために死んでくださったという事実を知って、それを心の目で見て、非常に深い体験をしました。いま、私たちが「イエス様とともに死んだ」ということを心の目で見るなら、それにも劣らない深い体験をすることになるでしょう。この二つの体験は、私たちの生活の土台となるべきものです。

私たちの古い人は、主とともに十字架につけられたから死んでいるのです。神様が、私たちのためにもうすでに、キリストの内になしてくださったことを見ましたから、それを勘定に入れるのです。これが本当の計算です。今から死のうとして計算するのではなく、もうすでに死んでしまったから、そのことを計算するのです。

その2 啓示された事実を認め、計算すること

「思いなさい」というのは、何を意味しているのでしょうか。それは普通に計算し、会計の帳簿を付けるようなものです。

例えば、人間はいろいろな仕事をしますが、正確な答えが出せるのは何といっても数学に関係のある仕事です。絵描きは絵を描くことができます。しかし完全な絵を描くことはできません。歴史家は、調べた資料が百パーセント真実かどうかわかりませんから、完全に正確な仕事をするのは無理です。地図を作成する人も、まったく正確に書くことは不可能です。複数の人で同じことを見聞きしても、それを表現するとなると、そこにおのおのの違いが出てきます。人間は不正確なものです。しかし計算し、会計の帳簿を付けることは、それとは違います。1+1=2です。これは東京でも、ニューヨークでも、モスクワでも同じです。

みことばはいったいなぜ、ローマ人への手紙6章11節で「自分は罪に対しては、死んだ者であることを思いなさい。」と言っているのでしょうか。それは、もうすでに主とともに死んでしまっているのだから、それを認め、勘定に入れるべきだと言っているのです。

例えば、もしあなたが金銭出納帳をつけるときに、五万円所有しているなら何と書き入れるでしょうか。もちろん五万円と書き込むでしょう。事実五万円持っているからそう書き込むのです。この事実に基づいて、それから計算します。

買い物に行っても、自分は五万円持っているということをいつも考慮に入れておきます。同じように、主なる神は、あなたはもうすでに罪については死んだ者であることを、勘定に入れなさいと言っておられます。それは事実ですから、そうしなさいとおっしゃるのです。これは神の命令です。あなたは五万円を持っていますから、帳面にそのように書き入れました。同じように、もうすでに罪について死んでいるのですから、そのように計算しましょう。

主が亡くなられた時、私たちもともに死にました。ですからもうすでに、罪については死んでしまっていることを計算し、信じ、締め切らなければなりません。

このことを心から認めるには、どうしたらよいのでしょうか。それは、私たちの内にあってではなく、主にあってのみ可能です。主イエス様を見上げ、イエス様のなしてくださった十字架のみわざを思いなさい。それが計算の秘訣です。

もう少し、この信仰の計算について詳しく考えてみましょう。

ローマ人への手紙の前半は、多く信仰について書かれています。罪の赦し、義とされること、神との平和などは、みな信仰によって自分のものとすることができます。これに対し、ローマ人への手紙の後半には、「信じなさい」ということばよりも、「思いなさい」ということばが多く使われています。しかし、実際には、信仰も計算することも同じことです。

信仰とは何でしょう。信仰とは、神のなされたみわざを受け取ることです。信仰は、いつも過去に行われた事実の上に立つものです。信仰のゴールを考える時には、未来を望み見ますが、信仰の大部分は過去にあった事実に基づいています。ローマ人への手紙の後半に多く出てくる「思う」べき内容は、すべて過去の事実に基づいています。ですから、すでに起こった事実を「思いなさい」という言葉を使っているのです。

マルコの福音書1章4節では、主イエス様が「計算する」と同じ意味のことを、言っておられます。

だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。(マルコ11・24)

主イエス様にあって、もう「すでに受けた」と信じましょう。信仰は、主はもうすでに与えられたと言っています。あなたは心から喜びを持って、私はすでにイエス様とともに十字架につけられたと賛美することができるでしょうか。そうできるなら、信仰の計算ができているのです。

ローマ人への手紙3章は、主イエス様が私たちの罪を背負い、私たちの身代わりとなり、私たちを義とし、赦してくださるために亡くなられたことを教えています。ローマ人への手紙6章は、そのイエス様の死が、私たちを罪の性質から解放するためでもあったことを教えています。この始めの3章の事実を啓示によって知った時、主を信じ、罪の赦しをいただきました。主は、この3章(第一段階)にとどまっていないで、第二段階の、罪からの解放も信じ勘定に入れなさいと言っておられます。

その3 神の事実を体験にする信仰

ここまで「計算すること」について学んできましたが、続いて試みと失敗に対するただ一つの答え、つまり信仰について、少しだけご一緒に考えてみたいと思います。

私たちが、ローマ人への手紙3章と6章が教えている二つのことを計算し、ほんとうに信じたのに、何かの試みがやってきて失敗したとします。その時は、どうしたらよいのでしょうか。ローマ人への手紙6章11節は、架空のもので、実際のものではなかったではないかと、疑問に思うかも知れません。

しかし、決してそうではありません。悪魔が一番ねらっているのは、私たちに神の動かすことのできない、永遠の事実を疑わせることです。悪魔は私たちの心に、「お前の内の古い人は、死んでいないじゃないか」とささやきかけることによって、みことばに疑いを起こさせることに成功します。

これに対する私たちの対策はどうでしょうか。その時、私たちは目で見、手で触れ、感じることができ、わかることができる肉的な物質的な事柄を信じますか。それとも、「霊的」なものを信じるのでしょうか。

聖書は、私たちが地上にいる限り、私たちの罪の性質は消し去られない、罪を犯す可能性はいつでも持っている、ということを告げています。ですから、私たちは絶えず、知る知らないに関わらずもっている罪を赦していただくために、イエス様の血が必要です。そのことを知らなければならないのです。

罪の性質は、いつも私たちの内に潜んでいます。しかし私たちは信仰により、日々、この力から解放され、罪の奴隷に甘んじることなく、自らの肢体を義の武器として神に捧げなければならないと思うのです。ヨハネの手紙第一3章9節に次のように書いてあります。

だれでも神から生まれた者は、罪のうちを歩みません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪のうちを歩むことができないのです。(1ヨハネ3・9)

これによると、古い人、罪の性質からの解放は事実です。もちろんヨハネはここで、信者は罪を犯すことができない、とは言っていません。キリスト者であるがゆえに、その内に宿っているイエス・キリストが罪を犯すことができない、ということを言っているのです。ですから、私たち信者の内には、二つの性質があります。一つは、罪を犯すことのできない主イエス様のご性質であり、もうひとつは古い人、生まれながらの罪の性質です。したがって、私たちは、自分がどの事実の上に立っているのか、どんな事実に基づいて計算するか、どんな事実によって生きるかが問題となるわけです。

つまり、私たちの内には古い罪の性質がある、という事実に基づいて生活するのか、または聖なる主イエス様が私たちの内に住んでおられる、という事実に基づいて信仰生活を送るのか、それが問題です。この末の世にあって、どんなに信仰が大切であるか、もっと深く心に刻み込みたいものです。もう一度、信仰とは何か考えてみましょう。

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。(ヘブル11・1)

この箇所だけが、信仰に対する説明として聖書に記されています。信仰とは「もうすでになされた事実」を確信し、自分のものとすることです。

私たちは日々の生活において、目で見、耳で聞くことによって事実を自分のものにすることができます。野には赤、青、黄、紫色など色とりどりのさまざまな花が咲いています。もし目を閉じたままでいるなら、その花は、私たちの楽しみには何の役にも立ちません。けれども目を開けると、色とりどりの花が見え、その色が私たちを楽しませてくれます。目の見えない方は、色の区別はわかりません。耳の聞こえない方は、音楽を理解することが難しいです。しかし私たちが、見たり、聞いたりしなくても、花に色があること、音楽に音があることは事実です。このように私たちは、目で見て、耳で聞くことによって、実際にあるものを認めて、自分たちのものとします。

今まで学んできた主イエス様が十字架につけられ死んだこと、血潮によって罪が赦されたことは、私たちの感覚でとらえることができません。信仰によってのみ、目には見えないこと、永遠に変わらない神の事実を自分のものとすることができるのです。パウロは次のように、すばらしい証しをしています。

私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。(2コリント4.18)

神の事実は信仰によって私たちの体験となります。多くの人は、ローマ人への手紙6章6節を読みますが、それがその人々の体験となりません。信じる人には事実となりますが、イエス様がせっかくなしてくださった事実も、疑う人や、頭で考える人には、事実となりません。

自分の古い人はイエス様とともに十字架につけられてしまった、ということが肝心です。事実は、人が信じても信じなくても、同じく事実です。私たちの罪の質は主イエス様とともに十字架につけられてしまった、ということは、私たちが信じなくても事実としてあくまで残ります。しかし、信じなければ私たちのためには何の役にも立ちません。「信仰」が、主とともに十字架につけられた事実を体験にまでしてくれます。

主イエス様の用いられた兄弟がある時病気になりました。五日間、高熱が出て眠れないほどでした。そのうち、「自分が癒された」という確信をその兄弟は得たのです。しかし外に現れている症状は違います。相変わらず熱は高く、脈は速く、頭は痛いという状態です。その時、悪魔のささやきが聞こえました。「神の約束は、どこに行ったのだ。お前の信仰、お前の祈りはどこにあるのだ」とささやきます。あやうくその言葉に同意しそうになりましたが、もう一度、祈ろうと決意を固め祈り続けようとしました。その時、「あなたのみことばは真理です。あなたのみことばは真理です」というみことばが与えられました。もし神のみことばが真理であるなら、見える所の病状は偽りであるはずです。その兄弟は、悪魔に、「いまある熱も痛みも嘘だ。みことばだけが真理であるはずだ」と言い返しました。五分ほどして寝込んでしまいました。目を覚ましてみると、病気は癒されていました。この兄弟が癒されたのは、癒されるのが主の御心であると確信したから癒されたのです。

病には癒されない場合もあります。しかし、主イエス様とともに私たちが十字架につけられたことは例外なく確かです。悪魔の訴えを退けるには、神のみことばを信じることが必要です。私たちはどんなに失敗しても、また悪魔がその失敗につけこんで訴えて来ても、神のみことばを信じていかなければなりません。

サタンは言葉だけでなく、誤ったしるしや感情や、経験を与え、私たちを神のみことばから離そうと努めます。悪魔は私たちの古い人は、決して死なずに生きている、ということを教えようと必死になっています。私たちは悪魔のだましの手口にのせられるか、あるいは、神のみことばを取るか、決心しなければなりません。私たちは、外に現れた状態よって行動するのでしょうか。それとも神のみことばによって、生きているのでしょうか。

私はベックと申します。これは私が認めている事実です。記憶をなくして、自分の名前を忘れることがあるかもしれません。しかしその名前を感じることができなくても、忘れてしまっても、私がベックであることは変わらない事実です。しかし自分で名前を変えて、「ケネディです」と誰にでも言うことにしてみます。これは、なかなか難しいことです。誰に会っても、私は「ベックです」と言わないように気をつけていなければなりません。しかし、うっかりしている時に、「ベックさん」と呼ばれたら、「はい」と答えてしまうことでしょう。事実はなかなか隠せません。ちょっとした時に現れてしまいます。私がベックであることは事実ですから、それを認めることは決して難しくはありませんし、この事実は、どんなことがあっても変わらない事実です。

同じように、自分が主イエス様とともに十字架につけられてしまったことは、私たちがそれを感じても感じなくても、信じても信じなくても、またどんなことが起こっても、変わらない事実です。

なぜ、それをそんなに私は確かに知っているのでしょうか。なぜなら、「...ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです」(2コリント5・14)、と聖書が言っているからです。私たちの感覚や理性が認めなくても、事実は事実として残ります。

私たちが、この事実の上に堅く立っている限り、悪魔は指一本触れることはできません。サタンはいつも私たちの確信を揺るがそうとしてやって来ます。もし、私たちが神のみことばに対して疑問を持つようになったら、悪魔の勝利です。しかし神の事実を勘定し、信じている人々は悪魔の手に負えません。コリント人への手紙第二5章7節には「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」と書いてあります。あなたは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいるでしょうか。

次の例話をまだ覚えておられるかもしれませんが、「事実」と「信仰」と「経験」が高い幅の狭い塀の上を、一列になって歩いていました。「事実」が先頭になって歩いていました。この「事実」は、右も左も見ません。後ろも振り返りません。まっすぐ、ひたすら前を向いて歩いています。その次に「信仰」が歩いて来ます。「信仰」が前を行く「事実」を見つめて歩いていた時は、何も起こりませんでした。後ろからついてくる「経験」も、上手に歩いてきます。けれどもある時、この信仰くんは、後ろの経験くんを、気にしました。「経験の奴はいったいどうしているだろう?」と思って、くるりと後ろを振り向きました。その時、信仰くんの視界から、事実さんの姿が消えました。その途端に、信仰くんはバランスを失って塀から落ちてしまいました。経験くんも信仰くんと一緒に落ちてしまったということです。

悪魔が働きかける目的は何でしょう。信者が主イエス様から目を離し、自分の内を、またいろいろな現象を、目に見える現れを見つめるようにさせることです。信仰はしばしば神のみことばを反駁する、いろいろな出来事に遭遇します。この時に、私たちが自分の感覚を信じ悪魔のだましごとを受け取るか、または主なる神のみことばに反する全てのことをしりぞけて、神のみことばに堅く立つかが問題です。私たちの態度ひとつで、神のことばを否定しようとする材料がなくなるか、あるいは私たちの信仰がなくなるかが決まるのです。目に見えないものは永遠にとどまる、ということを深く考えましょう。もし私たちが主のなされた事実に目を向け続けるなら、一歩一歩、その事実が私たちのものとなってくるはずです。主イエス様が私たちの「義」であることが現実となり、主イエス様が私たちの「聖」であることが私たちの内に実際となり、また「よみがえりのいのち」が私たちのものとなってくるのです。パウロはガラテヤ人への手紙を書いたときにこのことを考えていました。

私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。(ガラテヤ49)

信仰によってのみ、永遠の客観的な神の事実が、私たちの主観的な体験になります。最後に、主イエス様の内にとどまり続けることの必要性について考えましょう。

その4 主イエスのうちにとどまり続ける

ヨハネが主の語られたことばを記しています。

わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。(ヨハネ15・4)

「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」。前に何度も言いましたが、聖書の中には「私たちの罪の性質が取り去られた」とは書いてありませんし、「私たちは自分自身にあって死んだ」とも書いてありません。私たちは、「キリストにあって」死に、「罪の性質の働き」は殺された、ということが書いてあります。

もう一回言いましょう。私たちはキリストにあって死に、罪の性質の働きは殺されたと聖書は言っています。もし私たちがこの事実を信じるなら、そしてキリストの内にとどまり続けるなら、これが私たちの体験となってくるはずです。

聖書は、力を尽くしてキリストの内に「入り込みなさい」、とは言っていません。もうすでに、私たちはキリストの内に置かれているからです。主イエス様のご命令は、「わたしの内に入れ」ということではなく、「わたしにとどまりなさい」ということです。私たちが、主イエス様の内に入れられたのは、主である神のみわざでした。私たちがなすべきことは、ただその内にとどまり続けることです。

主である神は、その救いと解放のみわざをキリストの内に行われたのであって、私たち個人の内に行われたのではありません。これを知ることが必要です。

この救いと解放のみわざを、神は「私たちのために」行われましたが、「私たちの内に」は行われませんでした。主なる神は、このみわざを全て御子、イエス様を通し「イエス様の内に」行われたのです。ですから、主の体験が、私たちの体験とならなければならないのです。

主イエス様から離れては霊的な体験はありえません。神が全てのみわざを、御子イエス様にあってなし遂げられました。私たちは、キリストとともに十字架にかけられ、キリストとともによみがえらされ、キリストとともに天の座に着くものとされ、キリストによって満ち足りたものとされ、キリストにあって、霊のもろもろの祝福をもって、祝福されるようになったのです。全てのことを、私たちの内にではなく、キリストの内になし遂げられました。

もしあなたが、キリストがあなたのために行われたことを信じ、計算するなら、主がなされたことが、そのままあなたの体験となってくるのです。主イエス様の経験が、あなたの経験となります。しかし、もしあなたがこの神のなされたみわざを認め勘定に入れることをしないで、自分の内を見つめ、自分が経験できるよう追い求めるなら、聖書に書かれていることと反対のことを経験するようになってしまいます。つまり、古い人と罪の性質は少しも死なずに、非常に元気であることに気がつくに至るでしょう。

主イエス様の内にとどまり続けるというのは、どういうことでしょうか。

それは、どんなことがあっても、永遠に変わらない神の成就された神の事実の上に立つことを意味しています。キリストとともに死に、ともによみがえらされ、ともに天の座に着く者とされ、キリストにあって霊の祝福にあずかる者とされた、という事実の上に立つことを意味します。この神の事実、神のみわざは、目に見えません。ですから私たちは目に見えるものによらないで、すなわち外に現れた状態、自分の失敗、生まれながらの罪の性質には目を向けないで、私たちのためにキリストにあって行われた事実に目を留めて、それを認め、はっきりと計算して歩みたいものです。そうすれば、主イエス様のなされたことが私たちのものとなるのです。主なる神がキリストにあって行われたみわざは、私たちの信仰によって、私たちの生活に実現していきます。

私たちは、自らの古い人、罪の性質を殺そうと試みたり、またそれを隠したり、良く飾ろうと試みたりする必要はありません。よみがえりのいのちをもって生活し、だんだんに完全な者になろうと試みる必要は少しもありません。もしそうするならば、それは掟によって自分を縛り、絶望に陥ってしまうでしょう。私たちがどうしてもしなければならないことは、ゆだね、信頼することです。試みることと、ゆだねることの間には天国と地獄ほどの違いがあります。

あなたは主イエス様が死んだ時、キリストの内にありました。主がよみがえられた時、あなたは主の内に置かれていました。主イエス様が父なる神の右に着座された時に、あなたは主の内にあったのです。この事実を勘定に入れて計算するなら、イエス様の体験はあなたの体験となります。

主なる神はあなたをキリストの内に置いてくださいました。ですからイエス様の身に起こったことは、あなたの身にも起こったのです。頭になされたことは、肢体にもなされたわけです。

多くの信者たちは、新しい祝福、新しい経験を求め、また自分の内から溢れ流れ出る御霊に満たされた生活を追い求めています。これらを、心から願い求めていますが、これらはみな主イエス様のご人格から切り離すことのできないものであることを、忘れてはいけません。主イエス様に向けて、私たちの心の目が新しく開かれることによってのみ、まことの経験を自分のものとすることができるのです。それ以外の祝福も経験も、全ては一時的なものであり、やがて消え去ってしまうのです。まことの経験を得たいなら、イエス様にあってなされた事実を心の目で啓示によって見て、信じ、計算しなければ、自分のものとすることはできません。主なる神は全てのことを、御子主イエス様の内になされました。そして私たちを御子イエス様の内に置いてくださいました。ですから、私たちがそれを信じても信じなくても、イエス様が体験されたことは私たちも体験しているのです。不信仰によって、この尊い事実は何の役にも立たないものとなります。しかし信仰によって、イエス様の体験は私たちの体験となり、私たちは栄光から栄光へ、主と同じ姿に変えられていくことになるのです。

最後にもう一度、ローマ人への手紙6章6節、11節を引用して終わります。

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。...このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ローマ6・6、11)

(註)
ローマ人への手紙6章11節の「思いなさい」ということばに関して、他の聖書では以下のように翻訳されています。
新改訳2017では「認めなさい」、聖書協会共同訳では「考えなさい」、口語訳では「認むべきである」、NKJB(New King James Bible)では「reckon」(計算する、思う、推測する、みなす、考える)とあります。
また、原語のギリシャ語では「λογιζεοθε(あなたは数える)」という単語が使われていますが「λογιζομαι」の意味は計算する、勘定する、論拠を検討する、認める、考える、などです。(編集者より)

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