2024年7月28日日曜日

神がおられる

神がおられる
2024年7月28日、秋田福音集会
岡本雅文兄

へブル
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

先日、ご病気でご自分では集会に行くことのできない、もうすでに四十年来の尊敬する信仰の先輩であり、友でもある兄弟のお宅を訪問いたしました。そこで初めてお会いした年配の兄弟との交わりが与えられました。

訪問した集会の先輩とその方とは、学生時代から六十年続いている信仰の友ということでした。その日、大いに語り合いました。帰り際に、日本ではなぜ聖書、すなわち、イエス様を信じる人が少ないのでしょうかとその兄弟に尋ねました。別のの教会の責任を取っておられる方のようですね。彼は、進化論が原因ですと、はっきりと答えられました。

遠い昔、私自身がとらわれていた問題でした。自分ではすでに決着がついていたと考えていた、そういう問題でした。自分のうちではすでに解決しており、問題というよりも、むしろ神がおられるという確信の根拠の一つになっていました。しかし、日本の人々にとって、進化論は常識となっているためこのテーマの聖書の見解に対する人々の反応は、芳しいものではありませんでした。いろいろなところでお話ししましたけれども、いい印象は持たれなかったようであります。

その日、その兄弟の確信に満ちた返答をお聞きして、私自身に与えられた恵みを、再び思い起こしました。進化論を追求した結果が、どのように自分にとって恵みとなったかを、聖書を信じていない人にではなく、まず兄弟姉妹にお伝えする必要があるのではないかと思わされました。なぜなら、私自身が、造り主がおられることについての確信の根拠の一つは、進化論からの解放によるところが大きかったからであります。

ですから、神がおられるという確信の根拠が、兄弟姉妹のうちにも増し加えられることは、信仰を持っている私たちにとっても、さらに益になると考えるからであります。

はじめに申し上げておきたいのは、進化論に関わる正当な研究成果と聖書の記述の違いを議論するのが本日の目的ではありません。もっと本質的なことを考えてみたいと思います。奇蹟ともいえる作品である私たちを造られた神としか呼びようのない方がおられるという動かしがたい事実について、ご一緒に味わい、そして、恵みを与えられたいと思っています。

その恵みをもう少し具体的に言うと、現実に何十年ものあいだ、地上を歩き回って、生き続けている私たち自身が神の作品であるということであります。別の表現で言うと自然現象として偶然に発生したのではないということでもあります。そして、意志を持った絶対的な存在がなければ、決して私自身が存在するはずがないという一点に集中して考えてみたいと思っています。その結果、神がおられることをさらに確信して喜んで、主イエス様に従いたいからであります。

聖書、すなわち、神が告げて二つのことについて、最初の御言葉は示しています。その日の交わりの後に、先ほどの年配の兄弟との交わりの後に思い起こしたみ言葉は新約聖書のローマ書の一章の19、20節でありました。私が三十代前半に、進化論から解放された時に、神の前に頭(こうべ)をたれたみ言葉でもあります。

ローマ
1:19 なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。
1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

冒頭に読んでいただいたヘブル書の11章の六節の御言葉は、神に喜ばれるための条件として、ふたつのことを告げています。まず一つは、神、すなわち、造り主がおられることと、次に、神を求めるものには報いてくださる方であることであります。本日は、とくに第一の条件を中心に考えてみたいと思います。

第二の条件、神を求めるものには報いてくださるという第二の条件はみ言葉だけにとどめておきたいと思います。それは時間の関係もありますけれども、第一の条件である神がおられることを信じることは、第二の条件の神を求めるための大きな前提の一つであるとも考えられるからであります。

まず、はじめに私がなぜ進化論を受け入れることができないのか?そのように導かれたのか、言い換えれば、進化の理論では、私自身の体は、この世に現れるはずがないと言えるのか?また、その事実は何かということについてお話ししたいと思います。

先ほどのローマ書の一章の20節の御言葉が示すように、私という、自分自身という被造物によって知られ、はっきりと認められる根拠は、いくつかありますけれども、私自身が最もはっきりと認めた事実の一つは、私たちが現実に生きている広大な宇宙の中で、特別に奇蹟的に環境が整えられたこの地球上で起こされた事実であります。その地球の中で各種の生物が見事に、それは奇蹟的に調和した生活を営んでいるという、よく知られた多くの人が認めている事実であります。

さらに、その中でも私たち自身の体全体が、いかに奇蹟的に調和した機能を持っているかについても、兄弟姉妹がたは知っておられるでしょう。

私たちの体を構成する目や耳や心臓を始めとするあの内臓などすべての器官が与えられた目的、すなわち、生命の維持を果たすために、昼夜を問わず、あらゆる条件のもとで連続して機能する機構が、各一つ一つの器官に構築されています。私たちの小さなこの体の中に驚くべき奇蹟が組み込まれた、まさに、神業としか言いようない緻密な作品として作り上げられています。

そして、さらにその一つの目的、生命の維持の実現のために、統率された指示のもとにその情報、 その指令は瞬時に体中に届きます。各器官は一斉に連携を取って機能し始めます。その有様は、目も眩むほど、息をのむほどの奇蹟の中の奇蹟とも言える見事さでありましょう。関連するすべての器官や部分が、瞬時に調和して初めて私たちは生きています。

さらに、またその一部に欠陥が生じれば、その情報も体中を駆け巡り、今度は、その修復のために全力で機能し始めます。私たちが目指すまことの教会、ひとりの人格を見るようです。ローマ書の12章、四節、五節を読みいたします。

ローマ
12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、
12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

そしてもう一つ、エペソの四章の16節もお読みいたします。

エペソ
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

本当に私たちの体と同じそのようなことがよくその内容を知っておられない二千年前のパウロが、このように手紙に書きました。この事実は、一糸乱れぬこの連携プレーは、奇蹟の中の奇蹟というにふさわしいことを告げています。そのような奇蹟が絶対的な意志のある何者かによらず、自然現象として起こる可能性は限りなくゼロに近いと、医療に携わる人の多くも認めています。

それにもかかわらず、日本人のほとんどがある一つの言葉で、神はいないと煙に向かれている――そういう事実があるのであります。

その言葉とは、何十億年という長い時間が与えられれば突然変異によって進化は可能であるという魔法の言葉です。この言葉が適用可能にみえる現象は、確かにあるかもしれませんが、今日、今、考えている私たち自身の体については決して適用できません。

人間の各器官、各システムには考えられないほどの緻密な連携する機能があります。とくに、心臓や血液に関わる循環器系統の各器官が荷っている多くの機能の一つに欠陥が生じれば、数分間で致命的です。

また、その他の各器官も、たくさんの機能を持ったその一つが、結果、その一つの欠陥を放置すれば、短時間で致命的な打撃を受けます。すなわち、命を保つことはできないという明らかな事実があります。ですから、緊急の処置がこのような現代にあっても必要です。

この命を維持することに直接、関わっている人間の体の各器官、各システム、そして、それらを一糸乱れぬように統率する機能がすべて瞬時に、また、同時に完成していなければ致命的です。その中間的に進化の中で、どのような長い時間でそれができると仮定しても、それを認めたとしても。その途中の長い期間は、何一つとして生命は発生することができません。即、この世の命は消滅いたします。たった一つのそのようなものができなくても。

ですから、一気に、同時に今の私たちにあるすべてのものが完成品として生じなければなりません。この事実は、このような奇蹟が進化で起こったとする理論的な根拠が、全く考えられないことを示しています。たとえ、心臓やその他の臓器などの各器官が、今、先ほども申し上げましたように、何億年か、長い年月をかけて実現すると仮定しても、このことすら、夢のまた夢なのですけども、その間、進化の途中の血液を送ることができない段階の人間が生じることは決してありません。生きるために必要な完成しない機能のない物質は、生存できない――命がないからであります。

進化論の根拠として説明されている長い年月をかければ進化は可能であるという、進化を説明する根拠自身が、私たちの体に関して言えば、進化によっては、人間を地上に出現させることは不可能であるということを証明しています。

進化を説明する根拠自身が進化を拒否している。これは。不思議なことですけれども、あまりこの世では言われています。これは進化を信じていた私が、二十代半ばから三十代前半まで調べた結果の、本当を言えば誰でも考えられる進化論の決定的な弱点でありました。そのうち、すでに四十年の月日が経ちましたけれども、進化論者からこの件に関して、納得できる説明は聞いたことはありません。

そのようなわけで、本日、考えている人間の創造というこの領域に関して、進化論が主張する根拠は、すなわち、科学的根拠ではありません。それどころか、進化では、人は生まれないという根拠であります。事実に反する物語であると思うんですね。

ローマ
1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。

パウロは、ローマ人への手紙を書くにあたって、最初に、このような知性で考えることのできる、そのような恵みを語りました。信仰によって信じる前に、すでにどのような時代の、どのような国の人々にも分かるように、被造物を通してはっきりと認められると、このみ言葉を最初に一章で語りました。

このように被造物によって知られ、はっきりと認められると考えられる事実に対して、真実を探求しようと求める働きが、キリスト者以外の知識人にないことは、別の事実を示していると考えさせられます。神はいないという思いが、この世を支配しているからであると、聖書によって示されています。

詩編
10:4 悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない。」の一言に尽きる。

また新約聖書のよくご存知のエベソ書の二章と六章に次のようにあります。ここには悪霊によると告げられています。

エペソ
2:1 あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。

6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

私自身が、このように進化論を追及したのは、聖書を否定するためでした。そのためにもっとも確実な手段は進化論であると、その当時、信じて疑わなかったからであります。ですから、多くの日本人が、無神論という信仰に初めから染まっているということがよくわかります。

私ははじめ、進化論の立場で聖書に対抗し始めました。そして、進化論がすべて誤っているのではないこともよく知っています。しかし、進化論思想の根本にもっとも恐ろしい、神はいないという思いに多くの人を誘導するそのような道具に使われている、そのようなことを感じてなりません。

なぜなら、知性があると思われる人々が、これほど神の存在を明らかにする事実があるにもかかわらず、わざわざ、結果的に自分の将来を否定する神はいないという闇に向かう信念――あるいは、信仰と言っていいかもしれません――闇に向かう信念にしがみつくのは、本当に不思議です。

聖書が告げる通り、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として、今も不従順の子らの中に働いている悪霊の力が働いていると思わされるのであります。少なくとも私自身の成り立ちは、神によって一瞬にして作られたとはっきりと信じる恵みに導かれたことは、私にとって大きな恵みです。

悩みや大きな問題が与えられても神がおられる、イエス様がおられるという一言が、どれほど支えになったかわかりません。そして、小さい時から心の奥底に影のようにつきまとっていた死の向こう側にある不気味さも、神がおられる、すなわち、イエス様がおられるという確信が増す度合いの程度に、不気味さはどんどん小さくなっていきました。

ですから、一切の不安から守られるためにも、冒頭のヘブル書の十一章の六節前半が、信仰者に向けて告げられているのではないかと思うのであります。それは、誰にでも、信仰を持っていない人にとっても、理解することが可能なそのような神の表現、神の恵み、そのものです。

自分の将来に対する確信に、益となるからです。それは、信仰者にとっては、もっともっと大切な確信、イエス・キリストがおられる、神がおられないはずがないという確信によって、私たちは将来を本当に喜んで、期待して迎えることができます。

神に近づくもの、すなわち、神に喜ばれる者は、神、イエス様がおられることを信じなければならないのですとヘブル書の主者は告げました。

三日前、ある婚礼に招かれました。金曜日の夕方です。この婚礼に招待されてから数カ月のあいだ、カナの婚礼から、一つの恵みを深く味わう幸いが与えられました。

神に求めた母、マリアの得た恵み、報いは、今まで私自身が考えていた彼女の恵み以上の実に異なる恵みであったっていうことを覚えるようになりました。よくご存知のいわゆる二章の三節から五節をお読みいたします。

ヨハネ
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

マリアは、イエス様を身ごもった時から神がおられることを信じていました。これは、後で読んでいただければわかります。ルカの一章、37節、38節に書いてあります。

【参考】ルカ
1:37 神にとって不可能なことは一つもありません。」
1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

そして、イエス様が成長し、公に福音を続けられたカナの婚礼の日に至りました。初めての福音を伝えられた時でありました。マリアは、イエス様のうちに神がおられることを信じ、そして、その日の婚礼に欠けていた喜びのぶどう酒を求めました。その結果、普通のただの自ら良いぶどう酒ができる初めの印にあずかりました。

この奇蹟を、はじめのしるしと書かれている通り、この後、彼女は生涯、繰り返して、イエス様から良いぶどう酒を飲み続けました。一つの奇蹟で終わることではなく、初めのしるしでした。何度も何度も飲み続けました。

本日のへブル書の11章の六節の後半の『神を求める』というみ言葉通り、マリアはイエス様を信頼して、神がおられるという信頼のもとに、主に願い、主に一切を託しました。そして、確かな報いを彼女は得たのであります。それは、その後、最初のしるしから始まる、その後のしるしも、ヨハネの19章の26、27節では、主のイエス様の十字架のもとでいただきました。

【参考】ヨハネ
19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。
19:27 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。

また、使徒の働きの1章の14節では、主の復活の後にも、十二弟子たちとともに、心を合わせ、祈りに専念したと書かれています。

【参考】使徒
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

そして、ついに約束通り、聖霊をいただく報いを受けたのであります。このマリヤが神に見つけられ、その後、最初のしるしを受けた、その後の将来は、パウロが受けた報いの将来と同じ恵みであったことがわかります。

既に旧約の神を信じて、知っていると信じていたパウロがダマスコへの途上でイエス様に見つけられた時――これは使徒の9章の五節に書かれていますけれども――、『あなたはどなたですか』と言いました。

【参考】使徒
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

その時から、パウロは本当の意味で神を求める者へと導かれました。イエス様のうちにおられる三位一体の神を求めるようにと導かれました。

パウロとマリアの一生は、次のような報いでした。それはパウロやマリアの報いも代弁しているのではないか、そして、私たちにも与えられる報いも代弁しているのではないかと思われます。新約聖書の第二コリントの一章の九節、十節をお読みして終わりにしたいと思います。

第二コリント
1:9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
1:10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。

ここまでにいたします。

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