2020年7月5日日曜日

祈りのかたち

祈りのかたち
2020年7月5日、吉祥寺福音集会
古田 公人

マタイ
6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

おはようございます。こういう機会をいただきましたことを、本当に感謝いたします。


イエス様を信じる信仰とは、やはり生活なのではないかと思います。そして、そこには必ず、悪魔の攻撃がありますから、イエス様との親しい交わりを、私たちは必要としています。それが、祈りなのではないかなと思います。祈りに関する御言葉を三箇所ほど、まとめて読んでみたいと思います。

マタイ
7:7 求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
7:8 だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

ピリピ
4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

第一ヨハネ
5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

今の御言葉に明らかにされてますように、私たちはどのようなことでも、祈ることが許されていますが、祝福される祈りには、御心にかなうということが必要なのではないかと思います。

今日は、御心にかなう祈りについて、『祈りのかたち』という面から、イエス様の祈りと初代教会の祈りをもとに、ご一緒に考えたいと思います。

マタイ
14:14 イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。
14:15 夕方になったので、弟子たちはイエスのところに来て言った。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください。」
14:16 しかし、イエスは言われた。「彼らが出かけて行く必要はありません。あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
14:17 しかし、弟子たちはイエスに言った。「ここには、パンが五つと魚が二匹よりほかありません。」
14:18 すると、イエスは言われた。「それを、ここに持って来なさい。」
14:19 そしてイエスは、群衆に命じて草の上にすわらせ、五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて、それらを祝福し、パンを裂いてそれを弟子たちに与えられたので、弟子たちは群衆に配った。
14:20 人々はみな、食べて満腹した。そして、パン切れの余りを取り集めると、十二のかごにいっぱいあった。
14:21 食べた者は、女と子どもを除いて、男五千人ほどであった。
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
14:23 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。

寂しいところだったんですけど、男だけでも五千人、全体にすれば、少なくとも一万人近い人がいたのではないかと思います。皆、イエス様を求めてやってきました。群衆の中には、多くの病人がいたようですけれども、その人たちは苦しいところをおして、遠くまでやってきています。彼らは真剣でした。イエス様は、真剣な祈りに答えて、病気を治してくださっています。

イエス様は深くあわれまれて、病人も治されましたけど、言うまでもなく、それは悪霊との戦いであったと思います。心からイエス様に信頼していた病人には、悪霊はどうすることもできなかったでしょう。けれども、本当の意味でイエス様を信頼していない、そういう病人の場合は、悪霊はイエス様に、激しく抵抗したに違いないと思います。イエス様は、五つのパンと二匹の魚を裂いて、人々が満足するまで、お与えになりました。何が起こったでしょうか。

ヨハネ
6:26 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。」

パンを食べた多くの人は、霊の目が閉ざされたままであったということがわかります。悪魔が背後で、人々の目を、霊の目を開かせまいと働いていたということを、やはり、知るべきではないかと思います。イエス様の地上での一日一日は、このようにして悪魔との戦いでした。

人々を解散させた後で、イエス様は祈るために、一人で山に登っておられます。お疲れだったと思います。そして、このとき、イエス様はきっと、何も考えないで山に登られたはずはないと思います。悪魔との戦いの後では、一歩一歩、父なる神との交わりのうちに歩まれたに違いありません。私たちは、御子であるイエス様の祈りがどのようなものであったかを知ることはできません。人間の祈りとは全く違ったのではないかと思いますけど、この日、イエス様は父なる神のふところに戻られたということだけは、はっきりと言えるのではないかと思います。

イエス様はまた、別の機会には、祈りながら、夜を過ごしておられます。長い時間をかけて祈られた祈りは、やはり単なる祈りというよりも、父なる神との全く妨げのない交わりであった――そのことは、明らかであったのではないかと思います。イエス様の祈りは、いつもそういうふうに、父なる神との妨げのない交わりであったと、受け止めることができるのではないかと思います。

しかし、そうではない場合もありました。

マタイ
17:1 それから六日たって、イエスは、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた。
17:2 そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
17:3 しかも、モーセとエリヤが現われてイエスと話し合っているではないか。
17:4 すると、ペテロが口出ししてイエスに言った。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
17:5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。
17:6 弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。
17:7 すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。
17:8 それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。
17:9 彼らが山を降りるとき、イエスは彼らに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見た幻をだれにも話してはならない。」と命じられた。

イエス様は、いつもは一人で祈られましたけど、この日は、ペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られました。全く例外的なことであったようですけど、それだけに、イエス様は目的を持っておられたことがわかります。それは、祈っておられるあいだに、イエス様の御姿が変わり、栄光の主の御姿になられたということからも明らかであります。モーセは律法を代表し、エリアは預言者を代表しています。旧約聖書全巻が、この二人によって代表されているということではないかと思います。

イエス様は人の子が死人の中からよみがえるまでは、このことを誰にも話してはならないと、弟子たちに仰せになりました。この御言葉から、イエス様はご自分が今からなさろうとされている十字架の死とよみがえり、まさしく、そのことが旧約聖書の成就であることを、後になってから、弟子たちが思い至るようにと、導かれたのではないかと考えられます。

もう一箇所、ゲッセマネの祈りを見てみたいと思います。

マタイ
26:36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
26:37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
26:38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

イエス様は、三人の弟子を連れて、ゲッセマネの園の奥の方へ行かれましたけど、祈る時は、少し離れたところで、ひれ伏しておられました。イエス様の祈りは、三度、繰り返されたと、福音書に記されています。

イエス様がひれ伏して祈られたということは、ご自分の考えや想いを捨てて、御心だけを求めて祈られたことを意味します。主導権を主に明け渡した僕(しもべ)の姿であったということができるのではないかと思います。

そして、イエス様の祈りの言葉は、『わたしの願うようにではなく、あなたの御心のように』というものでした。悪魔との戦いのクライマックスとも言える、この場で祈られたイエス様の姿は、今も申しましたように、僕としての姿であったということです。こうして、イエス様は弟子たちに、あるべき祈りの姿勢をお伝えになったのではないでしょうか。もちろん、それが主目的ではなかったでしょうけど、三人を連れて行かれたというところに、そのことはあったのではないかと思います。

マタイ
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

奥まった部屋にはいり、戸をしめて、一人で祈りなさいとおっしゃいました。これは何を意味するのでしょうか。きっと、イエス様が一人で山で祈られた、同じような状況をあなたの生活の中で、あなたは準備して祈りなさいという御心であったのではないかと思います。イエス様が父なる神に、神の懐で、折られたように、あなたも主に全き信頼をもって、イエス様との交わりの中に入りなさいと、仰せになっているのではないかと思います。

この時、イエス様は、『隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい』と仰せになりました。これは、不思議な御言葉だと思います。なぜなら、真の神様は、天にも地にも満ちておられるからであります。ですから、隠れたところで見ておられる父とは、私たちの心の隠されたところも知っておられるという、そういう意味が込められているのではないかと思います。その言葉でもって、主は私たちにも、妨げのない交わりを求めておられるということが、分かるような気が致します。

ここまでは、個人的な祈りについて考えてまいりました。これから少し、兄妹姉妹との共にある祈りについて、考えたいと思います。初代教会の兄妹姉妹は、ともに心を合わせて祈っています。使徒行伝にあるところをいくつか見ていきたいと思います。

使徒行伝
1:13 彼らは町にはいると、泊まっている屋上の間に上がった。この人々は、ペテロとヨハネとヤコブとアンデレ、ピリポとトマス、バルトロマイとマタイ、アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンとヤコブの子ユダであった。
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

この人たちはひとつ所に集まって、一緒になって、心を合わせて、祈りに専念していました。彼らは皆、聖霊のバプテスマを待ち望んでいる人たちでした。イエス様は、このように一緒になって、心を合わせて祈っている人々を選んで、聖霊をくだし、初めての、最初の教会をお作りになったと知ることができます。

使徒行伝
12:4 ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
12:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。

教会は、悪魔の攻撃に対して、一つになって、心を合わせ、熱心に祈り続けていたと分かります。

使徒行伝
16:25 真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。

悪魔は、パウロとシラスを牢に閉じ込めましたけど、二人は恐れることなく、牢獄の中で、二人だけで祈りつつ、賛美の歌を歌っていました。そのようにして、悪魔に勝利をしています。ですけど、二人だけではなくて、もちろん、多くの兄妹姉妹が、パウロとシラスのために祈っていたに違いないと思います。

使徒行伝
20:29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
20:30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。

20:32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

パウロの別れの言葉です。

20:36 こう言い終わって、パウロはひざまずき、みなの者とともに祈った。

エペソの教会の長老たちとの交わりの場で、皆は教会が悪魔の攻撃から守られ、御言葉によって成長することを願って、共に祈っています。

いくつか、何箇所か見てまいりましたけど、このような祈りの姿から、真(まこと)の教会というものは、心をひとつにして、主の栄光をを求めて祈る、そういう兄妹姉妹の群れであると言ってもいいのではないかと思います。

しかし、二十章にもあるように悪魔は食い尽くすべきものを探し求めて、いつも兄妹姉妹のあいだを歩き回っています。イエス様から目を離すなら、すぐに悪魔が食らいついてきます。そのようにして、人間の思いや考えといった、本来なら異質なものが、教会の中に入り込んでまいります。

教会のかしらは、イエス様お一人ですから、もし私たちが本当に、イエス様の教会にいて、目を覚ましていて、主の栄光が現されることを求めているなら、ひとつの教会の中に、相反する二つの祈りが現れるということは、絶対にありえないということが言えます。頭(かしら)が一人ですから、違う、全く相反する二つの祈りが現れることは、決してありません。もし、ひとつの教会の中に、相反する二つの祈りが存在するとすれば、どちらかの祈りは、悪魔によって惑わされているものであるか、あるいは、二つともが、イエス様の御心から離れたものである――そういう可能性を持っています。

マタイ
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

イエス様は、『あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる』と、約束してくださいました。もちろん、単なる一人ではないんです。二人プラス1ではないんです。頭としてイエス様が、『ふたりでも三人でも、わたしの名において集まるところにはいる』と約束してくださっています。

ひとつひとつの祈り会であってもいいですし、交わり会であってもいいですし、集会であってもいいと思います。その集いの頭はイエス様なんです。そして、頭がイエス様なら、それらの集いは、地上においては遠く離れたところであっても、イエス様にあってはひとつです。

仮に二、三人の小さな祈り会が、百あるとしても、それぞれの頭がイエス様であって、それぞれが主の栄光を求めて祈るなら、もちろん、課題が違います。あるところでは兄弟のために祈る、あるところでは未信者のために祈り、あるところでは、また別のことで祈るかもしれません。しかし、全ての祈りは一つの方向性を示すはずであります。そうでなければ、頭がイエス様ではないということになってまりります。そして、全ての祈りがひとつの方向性を示すとき、私たちは確かに、ここには主の御体があると言うことができるのではないでしょうか。私たちはそのようでありたいと、切に思うのであります。

最後にひとつだけ、み言葉を読んで終わります。

エペソ
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

言うまでもなく、このエペソ六章のこの御言葉は、暇つぶしのための祈りではありません。十一節にあるように、悪魔の策略に対抗するための祈りであります。私たちの祈りもまた、悪魔に対抗するものでありたいと思います。

【参考】エペソ
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

どうもありがとうございました。

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