2020年8月30日日曜日

主のものとされる

主のものとされる
2020年8月30日、吉祥寺福音集会
藤田 匡

ローマ
4:1 それでは、肉による私たちの先祖アブラハムのばあいは、どうでしょうか。
4:2 もしアブラハムが行ないによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。
4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義と見なされた。」とあります。

ここで、アブラハムについて書かれております。ここに示されておりますように、アブラハムはイスラエル民族の父祖であります。彼から、主のものとされる国民が起こされることになるわけであります。主は後に、ご自身を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と、アブラハムの名前を挙げて、ご自身を現されました。そして、このローマ書の箇所では、これと同時に、アブラハムの信仰が、主によって義とみなされた、と書かれております。アブラハムは、信仰の父とも呼ばれております。アブラハムは、主への全き信頼に導かれた人物でありました。アブラハムは、信仰によって義と認められる者たち、すなわち、主のみからだなる教会の、模範とされる人物でもあります。このアブラハムの歩みについて、今日は見させていただきたいと思います。

主が、アブラハム、当時の名で、アブラムに与えられた約束は次のようなものでした。

創世記
12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

聖書の中で、主がこの約束を長い期間をかけて、成就されるのを見ることができます。アブラハムは、生涯をかけてこの約束を主から受け取りました。そして、主は、その過程を通して、アブラハムを一つ一つ、この世のものから分離されました。アブラハムが主のみへの全き信頼に達して、主が彼のすべてとなるまで、主は決して、アブラハムを離さず、見捨てず、彼の上に臨み続けられました。アブラハムは多くのお取り扱いを主から受け、大きく造り変えられた人物であります。

アブラハムは多くの困難を通らされました。そして、その中で、自分自身を役に立たないものとして手放すこと、自己否定、いわば、自分の思いに対する死に導かれました。これは、主イエス様の十字架の働きに他ならないわけであります。アブラハムは、十字架の死を実際のものとして、体験的に自分の内に受け取りました。主イエス様の十字架が時代を超えて、確かにアブラハムの内に働いているのを見ることができます。

そして、アブラハムが主イエス様の十字架の死につぎあわされると、そのたびに、主の祝福が豊かに増し加わりました。主イエス様は、十字架の死を全うされ、勝利を収められ、そして、よみがえられました。これが、アブラハムの内でも現実となりました。主との交わりが深められ、その中で彼はさらに大きく満たされていきました。アブラハムは、多くのものを手放すよう導かれ、そして、その代わりに主ご自身によって満たされる者へと変えられました。ここに、主イエス様の十字架のよみがえりのいのちが、アブラハムの内に次第に力を増して働いているのを見ることができます。彼の内で彼の自我、古い人が死に渡され、それに代わって、主が支配権をとられ、主が彼を満たされ、主ご自身が新しいいのちをもって計り知れない力をもって働かれるのを見ることができます。

最初の主の約束に戻ります。創世記12:1で、主はまず、「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」と語られました。ここで、主は、アブラハムを住み慣れた生まれ故郷、父の家から出るように、これを手放すように仰せられました。アブラハムは、持っているものにではなく、主により頼むよう求められたのです。

創世記
12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。・・・・
12:5 アブラムは妻のサライと、おいのロトと、彼らが得たすべての財産と、カランで加えられた人々を伴い、カナンの地に行こうとして出発した。こうして彼らはカナンの地にはいった。

このようにして、アブラハムは約束の地カナンに入りました。彼は、故郷での生活を手放し、主に従いました。しかし、同時に、彼は自分自身の思いも持ちつつこれを行っております。主は、イスラエルの民の父祖として、アブラハムを選び、アブラハムが父の家から離れて、主への全きより頼みに歩み、主との個人的な交わりを持ち、主からの約束を受け取ることを望んでおられました。しかし、アブラハムは彼の父の家から完全には離れませんでした。すなわち、甥のロトをともなっておりました。また、この時、アブラハムにとって主からの約束の地カナンはあまり重い意味を持っていなかったようです。

創世記
12:10 さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。
12:11 彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。・・・・
12:13 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。

このように、ききんが起こされました。そして、この問題に直面したとき、アブラハムは約束の地を離れてしまいました。カナンの地は主ご自身が彼を導かれたところでありました。そして、このききんも主ご自身によって起こされたことでありました。しかし、このとき、彼は主よりも、むしろこの世の力、エジプトに頼りました。また、身を守るため、妻を妹である、といってエジプトの王パロをだましました。アブラハムは、主から大きな約束を頂いておりました。しかし、困難に行き当たると彼自身の策略によって対処しようとしました。アブラハムは信仰の父と呼ばれた人物であります。しかし、彼自身はこのように弱い者でした。そして、このとき、主は、アブラハム自身の働きをとどめられました。

創世記
12:18 そこでパロはアブラムを呼び寄せて言った。「あなたは私にいったい何ということをしたのか。なぜ彼女があなたの妻であることを、告げなかったのか。

13:1 それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。・・・・

13:3 彼はネゲブから旅を続けて、ベテルまで、すなわち、ベテルとアイの間で、以前天幕を張った所まで来た。
13:4 そこは彼が最初に築いた祭壇の場所である。その所でアブラムは、主の御名によって祈った。

このようにして、主はアブラハムを、もとの約束の地、カナンの地に連れ戻されました。そしてここで、アブラハムは、主に祈った、とあります。アブラハムは自分自身の力により歩もうとすることにより失敗を与えられました。彼は、自分の思い、主なしで何とかしようとする働きが実を結ばないことを知らされました。この世のものが彼を支えないことを見せられました。彼は十字架の働きを心の内に受けました。アブラハムは、主の下にとどまることの重みを知らされました。アブラハムの内で、主の約束が大きくなりました。彼は、主の御心を尋ね求める者とされました。

そして、次に起こされたことが書かれております。

創世記
13:5 アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
13:6 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。

13:8 そこで、アブラムはロトに言った。・・・・
13:9 全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、主の園のように、またエジプトの地のように、どこもよく潤っていた。
13:11 それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに移動した。こうして彼らは互いに別れた。

主は、次に、アブラハムをおいのロトから分離されました。最初の約束の時、主は、父の家から離れるよう、アブラハムに語られました。すなわち、まず、主との交わりを第一とすることを求められました。今、アブラハムは一人で主の前に置かれました。主はアブラハムとの個人的な交わりを求められました。ここでアブラハムは、これまで手放すことのできなかった父の家から離れ、主に従ったのです。

さらに、アブラハムは、このとき、主との交わりにより、土地を選ぶ権利を手放すように導かれました。ロトに、良いと思う土地を選ぶようにさせたのです。アブラハムは年長でありましたが、自分の権利や要求を主張しませんでした。アブラハムは、この世のものが彼を支えることはないことを受け取っておりました。アブラハムは、主が下さるもので満足するものとされておりました。主にお任せしました。彼の土地は、彼自身が彼の力で勝ち取るものではありませんでした。主から与えられるものでありました。

このように、アブラハムは、自分自身の多くの思いを取り去られました。これは、彼自身の欲するものに対する死を意味しておりました。アブラハムは心の内に十字架の死の働きを受けました。

そして、このようにされた後、主はアブラハムに再び語られました。

創世記
13:14 ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。
13:15 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。

主は、ここで改めて、カナンの地を相続の地としてアブラハムとその子孫に与える、という約束をアブラハムに告げられました。そして、15節にあるように「この地全部を、永久に」、とさらに強い言葉でこの約束を与えておられます。アブラハムが心の内に十字架の死の働きを受けるたびに、主の祝福は、彼の上に増し加わりました。アブラハムは主とのさらに深い交わりの内に導かれました。主に近い者とされました。主ご自身によって満たされました。彼の内に十字架のよみがえりのいのちが働きました。そして、このとき、アブラハムを通して、主ご自身の豊かさが計り知れない力をもってあふれ出ました。アブラハムから主ご自身の従順さ、柔和さが流れ出ているのを見ることができます。

主とアブラハムとの関係が扱われた後に、改めて、アブラハムとロトとのかかわりが与えられたことが書かれております。ロトのいるソドムが、周辺の国々によって攻め取られる、という事件が起こりました。

創世記
14:11 そこで、彼らはソドムとゴモラの全財産と食糧全部を奪って行った。
14:12 彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに住んでいた。

14:14 アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたしもべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。

14:16 そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それにまた、女たちや人々をも取り戻した。

以前、ロトは、アブラハムと別れるとき、自分から麗しい土地を選びました。ロトは自分の思いに従い、自分を満たす歩みを選んだのです。そして、アブラハムは彼にゆずりました。

しかし、今、ロトが敵のとりことされ、窮地におちいったのを見たとき、アブラハムはこのロトを責めることはしませんでした。彼はロトを助け出しました。アブラハムは主との交わりにより満たされておりました。アブラハムにとって、アブラハム自身の感情は重要ではなかったようです。このように、主は、アブラハムが自分の思いを手放すよう導かれたことをここに見ます。アブラハムはこの戦いを戦いました。そして、主は勝利を与えられました。

また、この時、助け出されたソドムの王は、アブラハムにソドムの財産を受けるよう申し出ました。これに対し、アブラハムは次のように答えております。

創世記
14:22 しかし、アブラムはソドムの王に言った。「私は天と地を造られた方、いと高き神、主に誓う。
14:23 糸一本でも、くつひも一本でも、あなたの所有物から私は何一つ取らない。それは、あなたが、『アブラムを富ませたのは私だ。』と言わないためだ。

勝利を収めたアブラハムは、ここで大いに誇ることもできました。しかし、人からの栄誉は彼を動かすことはありませんでした。主はアブラハムを、この世の栄誉から分離されました。アブラハムを富ませるのは人ではありませんでした。アブラハムを計り知れない満たしをもって富ませるのは、22節にありますように、「天地を造られた方、いと高き神、主のみでありました。主との交わりにより、アブラハムは、大きく変えられました。アブラハムの内で彼自身は小さくされているのを見ることができます。彼は、さらに、主ご自身にのみ、より頼む者とされておりました。

そして、このようにされた後、主はさらにアブラハムに語られました。

創世記
15:1 これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」

このように、主の祝福が改めて、さらに大きく彼に臨みました。「あなたの受ける報いは非常に大きい。」と主はアブラハムにますます大きな力をもって語っておられます。

しかし、ここに、一つの問題が与えられました。主は、アブラハムに、あなたとあなたの子孫にこの土地を与える、と仰せられましが、アブラハムには子供がありませんでした。アブラハムは次にこのことで主からのお取り扱いを受けました。主からのことばが次のように書かれております。

創世記
15:4 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。・・・・ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。

そして、アブラハムは、この主のみことばと深く向き合うこととなりました。

最初、アブラハムはまた、再び、彼自身の方法でこのことに対処しようとしました。

創世記
16:1 アブラムの妻サライは、彼に子どもを産まなかった。彼女にはエジプト人の女奴隷がいて、その名をハガルといった。

16:3 アブラムの妻サライは、アブラムがカナンの土地に住んでから十年後に、彼女の女奴隷のエジプト人ハガルを連れて来て、夫アブラムに妻として与えた。

16:15 ハガルは、アブラムに男の子を産んだ。・・・・・・
16:16 ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった。

3節にありますように、アブラハムが約束の地、カナンに住んでからすでに十年もの歳月が経過しておりました。そしてアブラハムは80歳をも超える年齢となっておりました。アブラハムには主の約束が与えられておりましたが、目に見える現実には望みがありませんでした。主のお働きがなかなかなされないことを見ましたとき、アブラハムは動かずにはいられなくなりました。自分自身の働きによってこれを成し遂げようとしました。アブラハムは、ここでまた、この世の力、エジプトにたよりました。女奴隷のエジプト人ハガルによって子、イシュマエルを産んだのです。これは、後に多くの困難をもたらしました。イシュマエルの子孫はイスラエルに敵対するものとなったのです。

アブラハムは、主のみわざについて、自分が役割を果たすことができると考えておりました。しかし、アブラハムのこの思いも十字架で対処され、手放される必要がありました。主の御業は主ご自身によってなされなければなりませんでした。その後、13年間、主はアブラハムに語られませんでした。

創世記
17:1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現われ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
17:2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」

99歳となり、さらに弱められたアブラハムに、ここで、主は全能の神としてご自身を現わされております。そして、改めて彼との約束を主ご自身が成し遂げられることを告げられました。

創世記
17:18 そして、アブラハムは神に申し上げた。「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」
17:19 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。

アブラハムは「どうかイシュマエルが、あなたの御前で生きながらえますように。」と語っております。アブラハムは、まだ、イシュマエル、自分の力によるわざが主に受け入れられるものと考えておりました。しかし、主は、アブラハムがこれを手放すよう導かれました。主は、主が契約を立てられるのは、イシュマエルとではない、と語られました。主は、主の御業に肉の働きが入ることは許されませんでした。アブラハムが主を手助けし、主に与える、ということはあり得ませんでした。肉の働きは汚れ切っており、主の御前から退けられておりました。「血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。(コリントI 15:50)」とあります。主ご自身が御業をなされること、御業が主から出たものであることが重要でありました。主は、アブラハムに対し、徹底的に主に従順であることを求められました。主の民、また、信仰による主のみからだが起こされるために、主ご自身がアブラハムの上に御業をなされることが必要であったのです。

アブラハム自身は十字架の下に置かれる必要がありました。土の器とされる必要がありました。主イエス様は、まず十字架の死を通り、そしてよみがえられました。これと同じように、アブラハムの内でも、よみがえりのいのちの働きがなされるためには、まず十字架の死を通過する必要がありました。アブラハムが99歳となり、全く方法がなく、全く自己の力に望みを持てなくされたとき、主が働かれました。彼は主に全くゆだねる必要がありました。アブラハムは、ただ、主に栄光を帰すものとされました。

このころのアブラハムと主との交わりについて、記されております。

創世記
18:17 主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。

18:20 そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。

18:23 アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。

主は、御心をアブラハムに語られました。17節に「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。」とあります。アブラハムは、主との深い親しい交わりの中に置かれておりました。そして、23節で、アブラハムはロトが住むソドムとゴモラの人々のとりなしをしております。主のみこころと一つとされております。

アブラハムは、このような、主との高く深い交わりの内に置かれる祝福を与えられておりました。しかし、決して、アブラハム自身が強くなったのではありませんでした。アブラハム自身は、やはり依然として弱い者でした。アブラハムはさらに主からのお取り扱いを受けました。彼は、主から離れると、そのすぐ後に過去と同様の失敗をしております。

創世記
20:2 アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。

20:9 それから、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」

20:14 そこで、アビメレクは、羊の群れと牛の群れと男女の奴隷たちを取って来て、アブラハムに与え、またアブラハムの妻サラを彼に返した。

アブラハム自身から出るものは全く望みがないものでした。アブラハムは、多くの祝福を主から与えられた後で、アブラハム自身は十字架につけられるべき、どうしようもない無力なものであることを、主から示されました。彼から出るものと、主から出るものはかけ離れておりました。アブラハムは全く力ない者として、主にお任せすることしかできないものとして、主の前に立たせられました。彼はただ、「なされるのは主です」、としか言えないものとされました。

創世記
20:17 そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。

アブラハムは、自分が約束の子を与えられる前に、まず、アビメレクの家族のために祈らされることとなりました。これは、アブラハムにとって痛みを伴う祈りでありました。アブラハムはこれを受け取りました。そして、主はこの祈りを聞かれました。

アブラハムは、完全に主のご支配の下で、主のみによって、約束の御業がなされることを受け取らされました。彼の心の内にますます深く主の十字架が働かれました。そして、主のよみがえりのいのちのみわざが、主ご自身によってなされました。

創世記
21:1 主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。
21:2 サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。
21:3 アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。

このようにして、アブラハムは自分自身の内にあるものから、すなわち肉の力から分離される主のお取り扱いを受けました。そして、アブラハムに子イサクが与えられました。

そして、主はアブラハムにさらに深く大きな働きをなされました。

創世記
22:1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

主は、主ご自身がアブラハムに約束の子孫として与えられたイサクをいけにえとしてささげることを求められました。これはアブラハムにとって最愛の子を手放すことでありました。さらに、主ご自身がアブラハムの生涯を通して与えられた約束、主のものとされる民、にかかわることでありました。これはとても耐えられないようなことでした。
しかし、主から与えられたものであっても、過去に主から約束を与えられたという経験であっても、これら自体にしがみつき、拠り所とすることは許されませんでした。主以外のいかなるものも、主ご自身にとって代わることは許されなかったのです。アブラハムはまず、主ご自身とつながっている必要がありました。アブラハムと主から与えられたものとの関係も十字架によって扱われる必要がありました。

創世記
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。

アブラハムはこれを受け取りました。この厳しい状況の中でも、アブラハムは主ご自身との交わりの中にとどまっておりました。彼は、「礼拝をする」と言っております。アブラハムにとって、主は、罪を許してくださる方、救い、平安、喜びを下さる方、のみ、にはとどまらない、計り知れないほど大きいお方でした。すべてを支配され、人を死からいのちに移すことのお出来になるお方でした。主はすべてにおいてすべてであられるお方でした。アブラハムは、ただ主のなされることに心からの同意を示しました。これが、彼の礼拝でした。多くの痛みをとおして、多くの十字架の働きを内に受けて、アブラハムは心から主に仕える者に変えられておりました。

創世記
22:10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
22:11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
22:12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。

主は、イサクを戻されました。死からいのちに移されました。そして、主は改めてアブラハムに約束を告げられました。

創世記
22:16 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、
22:17 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。
22:18 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」

主は、「わたしは自分にかけて誓う。」とさらに力をもって仰せられました。このようにして、アブラハムの上に主はみわざを成し遂げられました。

これまで見てきましたように、アブラハムは主によって大きな、深いお取り扱いを受けました。多くの困難を通して大きく造り変えられました。主は個人的にアブラハムに関わり、アブラハムの内にみわざをなされました。アブラハムは、自分の行いや考えや志が全く汚れ切っており望みのないものであり、自分が主により頼むしかない者であることを見せられました。主の十字架の死を実際のこととして自分の内に徹底的に受けるように導かれました。主の十字架の死と一つとされました。そのとき、主のよみがえりのいのちの計り知れない力によって、大きなみわざがなされました。アブラハムは主のよみがえりと一つとされました。彼は主ご自身によって満たされ、主がすべてにおいてすべてのお方となられました。

私たちひとりひとりに対しても、主イエス様の十字架のみわざにより、主ご自身にあずかる道が開かれているのは、計り知れない恵みであります。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

コロサイ
3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

3:9 ・・・・あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、
3:10 新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。

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