2020年11月15日日曜日

実験より出ずる信仰

実験より出ずる信仰
2012年11月15日、吉祥寺福音集会
岡本 雅文

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

本日は、人間にとって、人にとって、どうしても必要なことについて、兄妹姉妹がよく知っておられる基本的な福音に、ご一緒に思いを馳せてみたいと思っています。ヨハネの3章の16節、有名なこのみ言葉は次のように告げています。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

人間にとって、すなわち、私たちにとって、どうしても必要なことは、真の神、御子イエスキリストを信じ、受け入れることであります。この箇所から、神様は、全ての人が救われてほしいと、願っておられることがわかります。『ひとりとして滅びることなく』と書かれているからであります。また、ヘブル書、1章では、神はこの福音を、よき知らせをどのように私たちに伝えてこられたかが告げられています。

ヘブル
1:1 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。

それでは、真の神を信じることさえできれば、それが私たちのゴールでありましょうか。聖書は、そう言っていません。神を信じ、受け入れることが、どうしても必要であるということの意味は、そうしなければ、信じなければ、永遠のいのちに至る道から外れてしまい、永遠に失われたものになってしまうからでありますます。

ですから、どうしてもイエス様を、愛するお一人お一人に受け入れていただきたいと、救われた私たちは願っています。信じてからが本番だからであります。聖書が告げる神を信じる者は、永遠の命を与えられて、新たな恵みの歩みが始まります。そして、神のビジョンが成就するために、神と共同で働く神の協力者になると、第一コリントに書かれています。

第一コリント
3:9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

救われた私たちは、神の協力者であると書かれています。神の協力者であり、あなた方は神の畑、神の建物です。神を信じ、受け入れ、神を愛するようになった私たちが、神と共同して実現しようとしている神のビジョンとは、イエス・キリスト、イエス様を長子として、長男として、救いにあずかった私たちを兄弟、また、姉妹とした神の家族を作り上げることではないかと思います。

このことは、私たちがすでに聖書から学んできたことではないでしょうか。よくご存知のローマ書8章28節から30節の短い3節の中に、神の家族の構想が示されています。別の言葉で言えば、神の国の青写真とその祝福の種類と、その広がりが示されています。この御言葉の中で、私たちが遭遇する全てのことへの、神の答えを知ることができます。よくご存知であると思いますけれども、お読みいたします。『神を愛する人々へ』・・・・これが、問いかけです。

ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画(・・・・目的・・・・)に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

そして、29節は、『なぜなら』と書かれています。

8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。

考えられないみ言葉ではないでしょうか。この恵みに満ちた約束を実際に与えられたいと、心から願います。

三十五年ほど前、私自身が救われて、間もない時に出会った一人のキリスト者の文章を、今もよく思い起こすことがあります。その文章のはじめに、最初に拝読していただいたガラテヤ書の2章の20節が引用されておりました。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・・

そして、続いてこう書かれていました。

『これは――このみ言葉でしょうか――これは、信仰であるよりも、むしろ実験である。実験より出ずる信仰である。この信仰は、聖霊の働きによって、神の賜物として、信者の心に起こるものである。故に、どのような差別もなく、全て神を選び給うものの心に起こるものである。信仰であるがゆえに命である。』

短い文章でありましたけども、三十五年間、幾度も幾度もも、この『実験』という言葉が、頭から離れませんでした。その時以来、『信仰』という言葉を見ると、いつも『実験』という言葉が思い浮かんでまいりました。

約三十五年間の私自身の実験結果も、彼と――この文章を書いた彼と――同じものでありました。御言葉を信じる信仰は、聖霊の働きによって、神の賜物として、信者の――私自身の――心にも起こったという事実であります。

さらに、もう少し詳しく言いますと、ローマ書8章の26節のパウロの体験が、現実に今、自分の内側でも、繰り広げられているという体験であります。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

先ほどお読みした、ローマ書、8章の30節の御言葉は、私たちを、さらに召し、さらに義と認め、さらに栄光を与えになったと、過去形で書かれています。私たちに約束された祝福が、すでに成就している。すでに神が働かれておられる。天では完了しているということを示しています。

そして、この恵みが与えられるものは、主イエス・キリストを愛する人々であるという条件がついているということであります。ローマ書8章28節の冒頭の呼びかけでわかります。『愛する人々へ。』

私たちは、この条件を言葉で聞いてはいますが、実際にどのように知っているのでありましょうか。マルコの10章の15節をお読みいたします。

マルコ
10:15 まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。

馴染み深い、み言葉ではないかと思います。「子供のように。」普通の言葉ですけれども、大人のままでは、神の国に入ることはできませんと、言われてるようであります。確かに聖書は、子供であればいいとは言われていません。しかし、子供のようにへりくだるもの、何も知らないことを知っている者、そのような子供の良い特徴を、神の国に入る条件として、告げておられます。

そして、もし私たちが、子供のように主なる神を愛するものでなければ、『わたしはあなたを全然知らない』という恐ろしい事実が、この御言葉に隠されているのではないかと思わされます。しかし、もし、私たちが子供のように主なる神を愛しているなら、御言葉が私たちの内側で力となるという経験をいたします。

『私の足のともしび、私の道の光です』と書かれた詩篇の御言葉が、現実に私たちの歩む道を指し示し、そしてまた、この御言葉が私たちを支え、そして、相談相手となってくださる。このような詩篇の作者が経験した奇跡に出遭います。

【参考】詩篇
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

また、もし私たちが、子供のようにイエス様を愛しているなら、み言葉の奇跡を毎日、食べて、神が全てのことを働かせて益としてくださると言う目に見えない約束を既に叶えられた事実として、モーセのように、ヘブル書の11章に書かれているモーセのように、見えないものを見えるが如くに、私たちは歩むことができるようになると約束しておられます。これが聖書の約束ではないでしょうか。このように聖書を読むと、聖書の隅々から、ひとつの道が導き出されます。このような神の国に住むことに、本当に心から憧れています。

救われた者の幸せは、主から与えられる一つ一つのみ言葉を、自分の生活の中で実験して、さらに召され、さらに義と認められ、さらに栄光を与えられたと、主をほめたたえる喜びにあるのではないでしょうか。

私自身は、多くの仕事で実験を担当いたしました。理論と実験、その中に大きな隔たりがあり、困難があり、そして、真理であるその理論を、どのように自分のものにしていくかということが、私たちの生活の中で、ひとつひとつの出来事の中で、聖書の御言葉と同じように与えられています。

二千年前の兄弟姉妹達は、イエス様の十字架の死による絶望的な悲しみの中で、主イエス様が復活された、その驚きと、また、喜びに出会いました。そして、その少数の兄妹姉妹たちの群れ、集会に、イエス様は、神のビジョンを成就するための神の協力者となるように、ひとつのみ言葉を残して、天に帰って行かれました。

マタイ
28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。・・・・

聖書には、「行って」という言葉が、度々、出てまいります。聖書全篇から、私たちが、私自身が与えられることは、まずイエス様のところに行って、そして、それから一人一人に与えられたところに行きなさいと、この一つの「行って」という言葉は、二つの意味を秘めていると、いつも教えられます。

彼らに与えられた命令、私たちに与えられた命令は、このようなものでした。「それゆえ、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」神のビジョンとは、先ほどお読みしたローマ書の8章29節に書かれています。

ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、(・・・・私たちを・・・・)御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で(・・・・私たちの中で・・・・)長子となられるためです。

この御言葉は、すぐ前の28節の、「全てのことを働かせて益とされる」根拠です。「なぜなら」と言われているからであります。神の家族の建設、これが神のビジョンではないでしょうか。

すでに始められているイエス・キリストを長子とする神の家族の約束の実現という大きな実験に、神の協力者として、私たちは今、どのように協力しているのでしょうか。この神のビジョンと、私たちの生きる目的は、どのようにつながっているのでありましょうか。

二千年前の兄妹姉妹たちは、その後、約束通り与えられた聖霊の導きを信じて、大胆に行動いたしました。兄妹姉妹たちの真実な交わりの中で、多くの人々が導かれました。私たちの多くの者は、その喜びの味を知っています。

真実な交わりとは、イエス様が喜んでくださる、主の御心だけに忠実に従う心が備えられた者たちの交わりと言えるのではないでしょうか。旧約聖書の詩篇に、次のような御言葉があります。これが聖書の告げる交わりであり、神の国の属性とでも言うものではないかと思います。

詩篇
85:10 恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。
85:11 まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。

『天で行われることが、地でもなされますように』という祈りに、答えてくださる神の国が、私たちに与えられています。神のビジョンに対する私たちの群れの実験結果は、どのようなものでありましょうか。また、この群れに属する私たち一人一人の実験結果は、どのようなものでありましょうか。

現在、私たちは疫病を与えられています。霊的な目でこの現実を受け入れると、このことの全てのことを働かせて益としてくださる神が、許されたことに違いありません。そう考えると、この疫病の霊的な意味の一つは、主なる神が、私たちの群れ全体に、そして、全ての兄妹姉妹一人一人に目を注いでおられる・・・・そのように思い起こされます。あらゆることを通して、私たちにメッセージを送り、そして、わたしに帰るようにと、わたしに目を注ぐよようにと、聞く耳をそばだてるようにと、この主に望みと期待をもって信頼するように告げておられると、導かれるのであります。

同様に、私たちのこの数年間の実験結果が、いかに思わしくない結果に見えようとも、全てのことを働かせて益としてくださるためであったと、心からの感謝と期待に満たされます。私たちは、あらゆることを通して、一歩ずつ一歩ずつ神の国に近づいたことを、感謝して喜ぶべきではないでしょうか。私たちが愛する主は、苦しみの時にゆとりを与えてくださる方ですと、詩篇の4篇1節に書かれています。

【参考】詩篇
4:1 私が呼ぶとき、答えてください。私の義なる神。あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。私をあわれみ、私の祈りを聞いてください。

イエス様が語られた天の御国、神の国のたとえの中から、この方だけが、主イエス・キリストだけが、どのような時にもただ一人、変わらない方であることを、ご一緒に見て終わりにしたいと思います。

私たちは、同じ心、ひとつ心とよく言いますけれども、何もかもが同じという意味ではないでしょう。同じ心とは、イエス様だけに目を注ぐこと、そのことだけが同じであるということではないでしょうか。

一人一人、個性的な違った人間が、ひとつになることの奇蹟は、何と素晴らしいものでありましょうか。

マタイ
13:44 天の御国は(・・・・『神の国は』と言ってもいいでしょう・・・・)、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。

そして、続いてもう一つの例えが、45節、46節に続きます。

13:45 また、天の御国は、良い真珠を捜している商人のようなものです。
13:46 すばらしい値うちの真珠を一つ見つけた者は、行って持ち物を全部売り払ってそれを買ってしまいます。

書かれている文字は、よく似ていますけれども、全く違う御言葉です。そして、ここを読むたびに、順序が逆ではないかと、いつも思わされます。しかし、イエス様を知った者のその後に、全て準備がなされているということを、この順序を通しても覚えます。

マタイの13章44節――はじめの例え――では、私たちがどれほど愚かなものであっても、天の御国を見つけることができるように、私tらちが滅びうせないように、もっとも相応しい時に、自らを現わしてくださることを告げておられるようであります。私たちのよく知っているエレミヤ書の29章の11節からの御言葉を、今こそ、この例えのように実験する時ではないでしょうか。

エレミヤ
29:11 わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
29:12 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。
29:13 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。
29:14 わたしはあなたがたに見つけられる。

これは、結婚式に引用する御言葉ではありません。私たち自身の生活そのもの、人生そのものに適応する御言葉ではないでしょうか。現在、今、私たちに与えられている出来事は、目に見えるところがどうであろうと、決して、偶然や、あるいは、懲らしめるために与えられた災いではありません。平安を与える計画であると、はるか昔から告げられています。そして、私たちに、将来と希望を与えるためのものですと、書かれています。そして、『持ち物を全部、売り払って』と、イエス様が私たちに求めておられるのは、私たちの持ち物である自我、偏見、憎しみ、私的解釈、あらゆるこだわりなどから、全く自由になることではないでしょうか。

それは、この例えの人が見つけた宝、主イエス・キリストが支配されるこどもの国においてのみ成就する、神の奥義そのものではないかと思われます。そして、続く45節、46節の例えでは、このような時だからこそ、主ご自身が本当の意味で知る機会、実験する機会ではないかと思わされます。

私たち自身を、すばらしい値うちの真珠と心から思って、探しておられる方を、私たちは本当に信じて、毎日、呼び求めているのでありましょうか。

ルカの15章の4節から7節に書かれている、いなくなった一匹の羊を、すばらしい値うちの真珠のように、心から愛し、そして、見つけるまで探し歩いてくださる方を、本当に知っているのでありましょうか。私たちは、毎日、迷子になっています。主を求める者だけ、そのような者にだけに聞こえる声で、絶えず呼びかけながら、見つけられるように隠れておられる方を、私たちは知っているのでありましょうか。

【参考】ルカ
15:4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
15:5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、
15:6 帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。
15:7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

『あなたは高価で尊い』という呼び声が、本当に聞こえたことがあるのでありましょうか。そして、『持ち物を全部売り払って』と書かれているように、ご自身のいのちと引き換えに、私たち自身を、私自身を買い取ってくださったことを、どのような事実として受け取って、また、受け入れているのでありましょうか。

今、主イエス様は、集会の中に、毒麦を蒔くままにされました。私たち自身が、毒麦の働きを、知らず知らずに行なっているのかもしれません。それさえも分からないような愚かな者であります。

また、疫病をもって、私たちに初めの愛に帰れと、見上げる方向を指し示してくださいました。本日、ご一緒に考えてまいりましたように、自分の持ち物を全部、売り払って、主の支配そのものである主イエス様を頭とするひとつのからだ、一人の人格として、新たにスタートできるなら、私には生きがいがあると、パウロと同じように言うことができると思うのであります。

イエス様は、信じる者たちにこのような奇蹟を与えたいと願っておられます。こうして、ご一緒に聖書から、イエス様を思い起こしてまいりましたが、最後に、長い箇所ですけれども、ヨハネの17章の11節と21節から23節をお読みしたいと思います。

この箇所は昨日、兄弟方と祈りあった時、一人の兄弟が読んでくださった御言葉であります。二千年前の激動の中にあった兄弟姉妹に、イエス様が告げられた神のビジョンを成就するために、私たちがどのように協力するべきであるかを、主イエス様ご自身が、御心を示してくださっていると思わされたのであります。

福音をお伝えするために、第一になすべきこと、実験のテーマは、私たちが皆、ひとつになることと言われています。

ヨハネ
17:11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。

17:21 それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。
17:22 またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
17:23 わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。

どうも、ありがとうございました。

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