2020年8月2日日曜日

イエスの救い(三)進歩への道「知ること」

イエスの救い(三)進歩への道「知ること」
主は生きておられる、54号、2020年
ゴットホルド・ベック

今回は、ルカの福音書3章3節からお節、そしてローマ人への手紙6章1節から1節を学び「進歩への道、すなわち知ること」について考えてみたいと思います。

主なる神様のご目的は、私たちが主イエス様の似姿に変えられていくことです。これが私たちの内に実現する時に、私たちはパウロと同じように、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2・2)と、言えるようになります。

ところで問題は、いかにしてそのようになるかということです。

これまで私たちは、どうしても知らなければならない基本的な二つの事柄について学んで来ました。「人間の罪と主イエス様の血潮の価値」、そして「私たちの古い人に対する主イエス様の十字架の価値」です。この事実がなければ、私たちは揺るがないしっかりとした土台の上に立つことはできません。この恵みの事実こそ、私たちの信仰生活の土台なのです。


新約聖書を見ると、主イエス様の血潮と十字架の間には、明らかに違いのあることがわかります。ローマ人への手紙の1章1節から5章1節までには、「私たちがなしたことは何か」、「罪を犯した」。「罪を消すためには何があるのか」、「主イエス様の血潮がある」。そして、その結果は、赦しであると書き記されています。それは次の二つのみことばを見るとすぐにわかります。

神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。(ローマ3・3)

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(ローマ5・9)

そして、ローマ人への手紙5章2節から8章の終わりまでには、「私たちは何者か」、「罪人である」。「その解決の手段は何か」、「十字架である」。そしてその結果は、解放であるということが書かれています。ローマ人への手紙6章6節を見るとわかります。

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。(ローマ6・6)

これまで見てきたように、イエス様の「血潮」と「十字架」は分けられていますが、主イエス様の救いの御わざはひとつでした。つまり主イエス様の救いには、この両面があるということです。そして、私たちはこの両面をそれぞれに体験して、自分のものとしなければならないのです。

主である神様のご目的は何でしょうか。すでに何回も繰り返し述べてきたことですが、もう一度申し上げましょう。私たちが御子イエス様の似姿に変えられていくことが、神の御心であり、ご目的です。このために、主イエス様の血が流されました。私たちの赦しのために、そして赦された私たちが主の似姿に変えられていくために、主イエス様の血潮は流され、私たちと共に、主が十字架で死なれました。これは私たちが知らなければならない揺るがない事実です。


私たちはこれらのことを学んできましたが、実際にはどうでしょうか。私たちは現実に主イエス様の似姿に変えられて行っているでしょうか。実際に約束の勝利の生活を営んでいるでしょうか。もしそうでないとしたら、どうすれば、そのようになれるのでしょうか。

この問いに対する答えを、ローマ人への手紙6章から8章を学んでみつけましょう。その答えは次の四つの側面を持っています。

第一に知ることです。6章3節に「あなたがたは知らないのですか。」、6、9節に「私たちは知っています。」と「知る」という表現が3回も出てきます。

第二に計算することです。6章1節に「思いなさい」と書かれています。(ここの「思いなさい」はギリシャ語で「計算する」という意味があります)

第三は捧げることです。6章2、8節に誰に捧げるべきかが書かれています。

第四は御霊によって歩むことです。おもに8章4節に御霊に従って歩むのは何のためか書かれています。

私たちは、これらの四つのことを実際に体験しなければなりません。この四つを体験しないうちは、罪を犯しては、赦していただき、また罪を犯し、また...と言うふうに、信心深い顔をして回転木馬に乗っているような状態になってしまいます。

どうすれば内面的、霊的に進歩し、前進することができるのでしょうか。また勝利の生活を送り続けることができるのでしょうか。さらに、どうしたら私たちの内に、主イエス様の似姿がかたち造られていくのでしょうか。

まず、「知ること」によってです。ここからは「知ること」について、三つの質問に分けて考えてみましょう。一つ目は、私たちは何を知らなければならないのか。二つ目は、私たちはどのようにして知るべきか。三つ目は、私たちはなぜ知らなければならないのか、です。では、この三つの点についてご一緒に見てみたいと思います。

知ること

その1 どうしても知らなければならないこととは何か

その答えは、私たちが主イエス様とともに十字架につけられたのが、「歴史的な事実」であるということです。

ローマ人への手紙6章1節から1節までは、この歴史的事実をはっきりと述べています。イエス様が死なれる時、私たちもイエス様の内にあってイエス様とともに死にましたから、イエス様の死は私たちの身代わりの死となりました。この事実を心の目で見たことのない人は、霊的に進歩しません。

主イエス様が、私たちの罪を一身に背負い、罪のかたまりとなって、十字架の上で死なれたということを知らなければ、私たちは義とされることはできません。それと同じように、もし、私たちが主と共に十字架につけられて死んだことを心の目で見なければ、前進することができません。罪だけでなく、私たち自身と共にイエス様は十字架におかかりになったのです。

あなたは、どのようにして罪の赦しを自分のものとしたのでしょうか。まず、主イエス様があなたの罪を一身に背負い、身代わりに十字架で死なれたことを認めました。そして、イエス様の血潮があなたの一つひとつの罪をすべて、完全に聖めることを知りました。このように主イエス様が罪の負債をすべて負い、十字架の上で死なれたことを知った時に、あなたはどうなさいましたか。

その時あなたは、「どうぞ、私のところに来てください。私の罪のために死んでください」と、祈ったでしょうか。そうではなく「主イエス様、あなたは私のために、もうすべてを成していてくださったことを感謝致します」と祈ったに違いありません。イエス様が、あなたのために、十字架の上ですべてのことを成就してくださったことは、もうすでに過去に行われた事実だからです。

それでは、罪からの「解放」のためには何をしたらよいのでしょうか。罪の赦しと同様に、祈って願う必要はありません。もうすでに救いの御わざ、つまり「罪の赦しと解放の御わざ」は事実として終わっています。ですから、その事実をしっかりと知って、ただ感謝すればよいのです。

主である神は、私たちをキリストの内に置いてくださいました。ですから、イエス様が十字架で死なれた時、私たちも共に死んだのです。これが事実ですから、「イエス様、私は悪人です。私を十字架につけてください」と、今更祈る必要はありません。あなたは、すでに罪が赦されていることを知った時、「私の罪を赦すために来てください」とは祈りませんでした。それと同じように、「イエス様、私の自我を十字架につけてください」と祈る必要はありません。

罪の赦しは血潮により、自我からの解放は十字架によって、もうすでに成されています。これは過去に行われた事実であります。あなたにできることは、主イエス様があなたのために十字架におかかりになったことを、あなたを死に導いてくださったことを感謝することだけです。

愛する兄弟姉妹よ。主に感謝し、この事実の光の中を歩みましょう。そのとき、詩篇1篇2節のみことばが、私たちのものとなります。「そこで、彼らはみことばを信じ、主への賛美を歌った。」と書いてあります。

「主イエス様が、十字架の上ですでに死なれたということを信じますか」と聞かれて「もちろん、信じています」と答えます。なぜそれを信じているのでしょうか。なぜならば、神のみことばである聖書にそれがはっきりと記されているからです。この神のみことばである聖書が、主は私たちの罪のために死なれただけではなく、私たちと共に死なれたことを告げています。

ローマ人への手紙5章8節には「キリストが私たちのために死んでくださった。」と書いてあります。私のため、あなたのためにキリストが死んでくださった。これは揺るがすことのできない事実です。

さらに、ローマ人への手紙6章6節には「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた。」、8節には「私たちがキリストとともに死んだ。」と書いてあります。これも動かすことのできない事実であります。なぜ私たちは、「キリストとともに十字架につけられた。」のでしょうか。また、私たちが十字架につけられた日付はいつでしょうか。昨日だったでしょうか。今日でしょうか。明日でしょうか。

神のみことばは、「私たちがキリストとともに死んだ。」と述べています。私たちが十字架につけられて死んだのは、イエス様があの二千年前に死なれたのと同時であり、歴史的な事実です。

あなたはイエス様が十字架で死なれたことを、なぜ、信じているのでしょうか。そのことを感じるからですか。いいえ。あなたは、今までにそれを感じたことはないと思います。あなたが信じているのは、神のことばである聖書にそう書いてあるからです。

ルカの福音書3章3節から4節にあるように、主イエス様とともに並んで二人の強盗が十字架につけられました。この事実を、あなたは感じることができません。でも信じています。神のみことばである聖書にそう書いてあるからです。

あなたはイエス様が十字架におかかりになり、死なれたこと、またイエス様とともに二人の強盗が十字架刑で死んだことを信じています。しかし、あなたも共に十字架につけられてしまったことを、信じているでしょうか。

二人の強盗はそれぞれ違う十字架につけられました。またイエス様と時間を異にして死にました。しかしあなたは、イエス様と同じ十字架にかかり、同じ時間に死んだのです。どうしたらこの事実を知ることができるのでしょうか。

主イエス様ご自身がそう言われたから、知ることができるのです。この知識は、私たちの感情とは何のかかわりもありません。私たちが感じようと感じまいと歴史的な事実なのです。主イエス様が十字架の上で亡くなられ、二人の強盗が十字架で死んだことも事実です。同じように私たちも、主と共に十字架の上で死んだ。これも動かすことのできない事実です。

私たちは死んだのです。運命のサイコロは、もうすでに振られたのです。そして、ローマ人への手紙6章7節には、すでに「死んでしまった者は、罪から解放されているのです。」と書いてあります。これこそが、信者にとっての福音ではありませんか。

私たちが十字架にかかるということは、私たちがどんなに意志を働かせても、もがいて努力しても自分の体験となるものではありません。これは、すでにもう成された御わざを、信仰によって自分のものとする以外に方法がありません。

あなたはどのようにして救われたのでしょうか。どのようにして信者になったのでしょうか。聖書を読むことによってでしょうか。それとも祈りによって、教会に来ることによって、または献金することによって救われたのでしょうか。決してそうではありません。あなたはある時、もうすでに主イエス様が、あなたのために成していてくださった御わざを発見し、その救いの御わざを心に受け入れ感謝しました。その時、あなたの心の内に喜びと平安と望みが湧いてきたのです。

兄弟姉妹よ。次のことを覚えていただきたいのです。救いと主の聖さに至ること、つまり「赦しと解放」は、同じ土台の上にあります。あなたは、罪を赦されたのと同じように、罪から解放されることができるのです。神の用いられる解放の方法は、人間の用いるそれとはまったく異なります。

人間は、罪を自分の努力で抑えつけ、その上を乗り越えて行くことにより罪から解放されようとしますが、神は、古い人を捨て去ってしまうという方法をとります。多くの信者は自分の弱さを悲しんでいます。もっと強ければ良いのにと考えますが、失敗します。さらに一生懸命努力して、自分の力で解放されなければと考える結果、罪の力を深く身に覚えます。また、罪の力に対する自分の無力さをしみじみ味わいます。その失敗の体験は、しばしば私たちを誤った方向へと向かわせます。

私たちが往々にしてその時に願い求めるのは力です。何とかして、罪に打ち勝つ力を得なければならないと考えます。もっと強くなりさえすれば、この性格的に弱い点が強くなりさえすれば、と考えて悲しくなってしまいます。しかし、そのように己をあわれむのは、神のとられる解放の道ではありません。

主なる神の私たちを解放する方法は、私たちを次第に強くすることではありません。日増しに私たちを弱くすることです。主なる神は、私たちに罪の力からの解放を成し遂げてくださいます。それは、私たちの古い人を強めることによってではなく、私たちの古い人の働きを殺すことによって成し遂げてくださるのです。これを知る人は、もはや自分の力で努力することをしないでしょう。

その2 どのようにして知るべきか

続いて二番目の問い、私たちはこの歴史的事実を、どのようにして知らなければならないのでしょうか。答えは、啓示によってです。

キリスト者の第一歩は、啓示による知識で始まるはずのものです。この啓示による知識は、他のいろいろな真理についての教え、頭の知識とはまったく違った性質のものです。私たちの心の目が開かれて、キリストの内にあって私たちが何をいただいているのか、それがわかった時に、この啓示による知識を自分のものとしたことになります。これは御霊がなしてくださることです。

あなたは、なぜ自分の罪が赦されたことを知っているのですか。その知識はどこから来たのでしょうか。教会で誰かが教えてくれたのでしょうか。いいえ、そうではありません。この知識は、主イエス様ご自身が啓示によって、上から与えてくださったのです。もちろん聖書の中に、罪の赦しの事柄が書かれているのを読むことはできます。しかし、読んだ人自身の知識として信仰に結びつくのは、栄光の父ご自身、主である神が、知恵と啓示との霊をその人にたまわった時です。その時はじめて、この歴史的事実があなたのものとなるのです。聖書に書かれている神のみことばは、このようにして、あなたにとって生きたことばとなる必要があります。

罪の赦しは、啓示によって自分のものとなることができました。罪の力からの解放も同じです。あなたが心の目をはっきりと開き、イエス・キリストの内に、自分がもうすでに死んでいることを発見するならば、罪の力からの驚くべき解放を体験することができるのです。

ローマ人への手紙6章6節には「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」とあります。みことばを暗記することもできるでしょう。でも、それだけでは十分ではありません。「我、キリストとともに十字架につけられたり」のみことばの事実を、啓示によって知らなければなりません。私たちはそれを、感じることも、理解することも、すぐに悟ることもできないかもしれません。しかしそれを知っています。頭ではっきりと理解できなくても、救われたこと、主イエス様と共に十字架につけられたことは、知らず知らずのうちに自分のものとなっています。それは啓示によって知ったからです。

もしあなたが、自分は主イエス様とともに十字架につけられた、という事実を啓示によって知るならば、その知識は、何ものによっても動かされない深い知識になります。

多くの勝利の生活を送っているキリスト者がいますが、その人々にいったいどうしたら、そうなれるのかと尋ねると、その答えはまちまちです。たいていの人は、自分の体験が正しいということだけを主張するために、自分の気に入ったみことばを言います。これは悲しむべきことと言わなければなりません。その人が通った特別な経験や、特別な教えは、そんなに大切ではありません。その人が経験によって、主イエス様を、また主イエス様がなされた御わざを心の目で見たかどうかが大切なのです。

もしその人の体験や証しが、主イエス様から離れていて、イエス様とあまり関係がないようなら、役に立たないということです。パウロは、ローマ人への手紙6章6節でこの点を強調して、私たちは「キリストとともに十字架につけられた」と語っています。

中国で福音宣教した信仰の偉人、あのハドソン・テーラーの信仰の戦いをご存知でしょうか。かつて彼は、自分の内から主イエス様の溢れるいのちが流れ出るような生活を心から求めていました。しかし、どうしたらイエス様の中に飛び込むことができるのか、その術を知りませんでした。懸命に努力しましたが、無駄でした。

ところが突然、解放の日がやって来ました。ある時、聖霊によって彼の心の目が開かれ、自分はすでにイエス・キリストの内にあって主と共に死に、主と共に葬られ、主と共によみがえり、主と共に天に座らせていただいている(エペソ2・6)ということを知ったのでした。

主である神は、ハドソン・テーラーにこれらのことを、みことばをもってお語りになられました。その結果、神が自分などの知らないすべてのことをご存知のお方であることを悟り、神のみことばによって、しっかりと自分で信仰の計算をして、踏み出そうと決めました。この時から、彼は驚くべき信仰の生活に入ることができたのです。

主がぶどうの木であり、自分はその枝である。自分はぶどうの木の一部分である。これは以前からそうだったのであり、今そうなったのではないということを知ったのです。「私を、ぶどうの木の枝にしてください」と願うのは愚かしいことだ、とわかったのです。

例えば部屋の中にすでにいる人が、一生懸命その部屋に入りたいと思って努力するのは馬鹿げたことで、考えられません。これと同じように、もし啓示により心の目が開かれ、私たちはもうすでに主イエス様の内にあるということを知るならば、イエス様の内に入ろうともがくことはなくなるはずです。

啓示によってみことばを知れば知るほど、私たちは自分のために祈ることが少なくなり、主に感謝することが多くなるでしょう。なぜ、私たちはそんなに自分のことについて祈るのでしょうか。もうすでに主が成してくださっていることに、心の目が開かれていないからです。

次のような例もあります。ひとりの信者が、自分の霊的な状態を顧みて非常に悩んでいます。この人は、ほかの信者の勝利に満ちた立派な生活を見て、自分はあのようではない、自分は信者じゃないのではないかとさえ考えこんでいます。そこへ、二人の信者がやってきます。その人に同情して二時間以上も、「あなたはイエス様から離れては何事もなすことができないのですよ。イエス様から離れては何も得ることができないし、何も経験することができないのですよ」と、一生懸命に話しをしますがダメでした。悩める信者は二人に言います。「私はもっともっと、祈らなければならない」。すると二人が、「イエス様はもうすでに、あなたにすべてのものを備え与えてくださっているのですよ。今さら祈り求めることはないのではないですか」と言いました。すると悩めるクリスチャンは、「イエス様は、まだ私にすべてを与えてくださってはいません。もしイエス様が私にすべてを与えてくださっているならば、こんなにすぐ怒ったり、相変わらずこんなに弱い性格のはずがありません。私は、もっともっと祈らなければならないのです」と。二人は「それでは、あなたは祈り求めたら、祈ったことを全部もらえますか?」と聞きました。「残念ながら、今まで何もいただけませんでした」と悩める信者は告白せざるを得ませんでした。すると二人が「私たちは救われるために何も努力しませんでした。それと同じように、自分が聖さに至るためにも、努力を必要としません」と言いました。

そこへ三人目の兄弟が入って来て、そばにあった魔法瓶を悩める兄弟に見せて話しました。「君、もしこの魔法瓶が、どうか魔法瓶にしてくださいと祈ったらあなたはどう思いますか」。「それはあなた、馬鹿げていますよ。もうすでに魔法瓶なのですから」。「君、そうだろう。でもあなたも、今まで魔法瓶と同じように愚かしいことをやり続けて来たのですよ。主である神は、あなたを永遠の昔からキリストの内に置いてくださり、あなたは、キリストの内で死に至り、キリストとともによみがえらされ、今や新しい命、勝利の命に生きているのです。ですから、『主とともに十字架につけてください、勝利の生活を送らせてください』と祈り求める必要は、もうないのです。主は、古いあなたはすでに死んでいる、あなたは永遠の命を持っている、とおっしゃっておられます。あなたがすでにいただいたものをいくら祈り求めても、その祈りは愚かな祈りです。もはや必要ありません。...もう、すでに主が成していてくださるのです。ただ、この事実に心の目を留めることが必要なのです。あなたは、あなたの古い人が死ぬように、懸命に努力する必要はありません。また、死ぬまで辛抱して待つ必要もありません。あなたは、すでに死んでしまっているのですから。あなたは、ただ主の成されたことを心の目で見て、それに対して心からなる感謝の祈りを捧げさえすればよいのです。『神様、感謝いたします。あなたは私のような者を、キリストの内に置いてくださり、キリストとともにすべてのものをお与えくださいました。心から感謝致します』と言えばよいのです」。

こうして、三人目の兄弟が、勝利の生活の秘訣について話した時、主はあわれんでくださり、悩める兄弟に上からの光を与えてくださいました。そして彼は、御心にかなった生活ができるようになったということです。

その3 なぜこの事実を知らなければならないのか

最後の問いです。私たちは、なぜこの事実を啓示によって知らなければならないのでしょうか。答えは、私たちのあらゆる問題を根本的に解決へと導いていただくためには、どうしても十字架が必要だからです。この点について少し考えてみましょう。

今、日本の政府が、酒の害は市民生活を脅かす非常にひどいものであるから、「酒を飲んではいけない」という法律を設けたとします。そして警察官が、あらゆる場所や酒場に行って酒を没収したとします。これで果たして飲酒が止むでしょうか。いいえ。それだけでは十分ではありません。酒を造る工場を閉鎖してしまわなければ、何の役にも立ちません。

私たちは強情です。私たちの行ないは、いわば「酒」という製品です。イエス様は十字架の上で血潮を流され、罪をお赦しになりました。製品の取り締まりをなさったわけです。しかし主は、それだけでは満足なさいません。製品ばかりではなく、工場自体を無くしてしまいたいのです。罪人をどうにかしてしまわなければならないと思っておられるのです。

主イエス様の血潮は完全で十分でしたから、私たちは努力なしに罪の赦しを得ました。同じように、私たちは自分の力を用いなくても、罪の力から解放されます。主イエス様は、完全な救いを成し遂げられた時、製品つまり罪のことだけでなく、工場つまり罪人そのものについて、お考えになっておられました。

主イエス様の血潮は、各々の一つ一つの罪から私たちを聖めてくださいます。それとともに、初めの人アダムから受け継いだ罪の性質をも十字架にかけて死んでくださいました。どうかこの歴史的事実を、この神の事実を、啓示によって見ることができますように。そうすれば、すべての問題が氷が溶けるように、根本から解決します。最後にもう一度ローマ人への手紙6章をみましょう。

私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。(ローマ6・6)

ここに「私たちは知っています」とあります。本当に私たちは私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたことを知っているでしょうか。あなたはこのことを啓示によって知ったでしょうか。それとも、実はまだ知ってはいないのでしょうか。3節にはこう書いてあります。

あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。(ローマ6・3)

私たちがキリスト・イエスにつくバプテスマを受けたのは、その死にあずかったことを証しするものでした。

主イエス様が、私たちの心の目を開いてこの事実を見させてくださいますように。

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