2020年6月7日日曜日

しばらく休みましょう

しばらく休みましょう
2020年6月7日、高知福音集会
高橋 義夫

マルコ
6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

きょうのタイトルは、「しばらく休みましょう」です。

お話のきっかけに・・・・

まず、ある教会であった笑い話のような出来事なんですけど、ひとつ紹介したいと思います。ある教会の牧師先生のブログに書いてありました。その教会に元気に教会に通い始めた熱心な若い姉妹がいたそうです。日は浅いけれども、教会の奉仕もよくしてくださって、牧師先生の良き助け手だったそうです。牧師先生の期待も大。また、いろいろと教会に提案もしてくれる。その姉妹が、夏の近づく前のある日、また話があると牧師室に来ました。夏も近いから、また、夏の集会とか、何かアイデアが浮かんだのかしらと牧師先生は、楽しみにお話を伺いました。すると、こんなふうに言ったそうなんです。


「先生、そろそろ夏休みですね。教会も、ぜひ、夏の間、夏休みにしましょうよ。夏は、みなさんいろいろ旅行の計画があったり、お盆に帰ったりで、礼拝も人数が減るかもしれませんし、みなさんも休憩が必要ですし、先生もお疲れでしょう。どうでしょう。教会も夏の間、夏休みにしたらいかがでしょう?」って提案されたそうなんです。で、この牧師先生は、すっかり、ずっこけてしまったそうです。ショックを受けたと書いておられました。

で、その牧師先生は、後で考えたら、教会の中にこそ本当の休みがあるとか、そう言うことを説明しないといけなかったんけど、その時は、びっくりして、「いやー、教会は、日曜日、ともかく休まないんですよ」って、ちょっと説得力に欠けるちぐはぐな説明しかできなかって、そんな自分がまた、ショックだったそうです。

マタイの11章28節に、すべて疲れた人は来なさいとあるように、集会、教会の中に、ほんとうの平安、休息があり、そこで、私たちはリフレッシュして癒やされる。その教会にほんとうの休息があると、自分は語ってきたつもりだったのに、とても素直に、「しんどいから、私たちも夏は休みましょう」と言われてしまった。笑い話かもしれないですけど、なかなか深いテーマを含んでいるなあと思いました。同時に、もっともほっとするべき福音が、歪んで、ほっとしない福音になっている可能性もあると思います。

今日は、ほんとうの休息って、何かなと言うことも含めて、ちょっと考えてみたいと思いました。さきほど読んでいただいた31節から・・・・、

マルコ
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。

旅からエキサイトして帰った弟子たち。そして、バプテスマのヨハネが殉教して、いよいよ自分たちのイエス様が活躍される時代だ。きっと弟子たちは、「こんなこともありました。こんな奇蹟も体験しました。」と、イエス様に、つぎつぎと興奮して語ったと思うのですけど、イエス様のお答えは、「しばらく休むがよい」でした。

ちょっと旅に出る前の箇所からみてみましょう。

マルコ
6:7 また、十二弟子を呼び、ふたりずつ遣わし始め、彼らに汚れた霊を追い出す権威をお与えになった。
6:8 また、彼らにこう命じられた。「旅のためには、杖一本のほかは、何も持って行ってはいけません。パンも、袋も、胴巻きに金も持って行ってはいけません。
6:9 くつは、はきなさい。しかし二枚の下着を着てはいけません。」
6:10 また、彼らに言われた。「どこででも一軒の家にはいったら、そこの土地から出て行くまでは、その家にとどまっていなさい。
6:11 もし、あなたがたを受け入れない場所、また、あなたがたに聞こうとしない人々なら、そこから出て行くときに、そこの人々に対する証言として、足の裏のちりを払い落としなさい。」
6:12 こうして十二人が出て行き、悔い改めを説き広め、
6:13 悪霊を多く追い出し、大ぜいの病人に油を塗っていやした。

きっとたいへんな旅だったと思います。弟子たちの伝道旅行は、本当に、ほんとうに杖一本のほか何も持ってはいけないって厳しい旅でした。本当に、明日どうなるかは、神様まかせの旅。弟子たちの伝道旅行って、すごいなあと思います。食料も旅の費用もなし。下着も二枚はだめ。

私は、心配性なので、そんな旅できないなあと思います。一泊の喜びの集いへの旅行でも、車で行くときは、荷物たくさん積めるので、どんどん荷物が増える。うちの車、また、荷物が特別、たくさん載るんです。頭が痛くなったらどうしよう。お腹こわしたら、どうしましょう。よく、家に置いてある配置薬の箱、そのまま積んでいく。寒かったらどうしましょうって、秋でもジャンバーを積んでしまう。杖一本。神様の養いまかせの旅なんて、信仰の薄い心配性の私にはできないなあと思います。

それでも、弟子たちは、出発しました。そして、多くの祝福に出会いました。自分たちにもできるじゃないか。よし、これからどんどんしよう。で、そのエキサイトな伝道の旅から帰って来たとき、イエス様がおっしゃったのが、きょうの箇所です。

マルコ
6:31 さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい

休みなさいと、イエス様はおっしゃったんです。

結果的には群衆が押寄せて休めなかったんですけど、エキサイトして旅から帰って、『よし、また伝道に行こう!』と思ったかもしれない弟子たちに、イエス様は休みなさいとおっしゃいました。バプテスマのヨハネが殉教して、たいへんな時――もし、福音を伝えるなら、今こそ決起しなければと言う時――に、イエス様は、「あなただけで寂しいところに行って、しばらく休みなさい」とおっしゃいました。

時期的には、今、行動を起こさずに、いつ行動を起こすのか、今、決起せずいつ決起するのかと言う時だったようにも思います。けれども、イエス様は、人里、離れて休みなさいとおっしゃいました。私たちにも弟子たちのように、ときどき神様から静まって休むように言われますが、なかなか私たちは、静まって休むことができない愚か者であると思います。静まり方も、休み方も、知らないのかもしれません。

話が変わりますが、休息と言えば、前に、詩篇の中のセラという、記号がどうも、休止符ではないかというお話しをしました。よく、「セラは、休止符です」と断定した文章も見かけますけど、正確には、「セラ」は、なぞの言葉。詩篇の九篇を見てみると、「ヒガヨン・セラ」って言うのもあるんですね。

詩篇に七十一回。あとハバクク書にも出てくるんですけど、このセラは、音楽的な休止符ではないかと予想されています。あくまで予想の範囲なんですけど。歌い手さんがずっと詩篇を、竪琴とかにあわせて歌って、「セラ」まで来たら、歌い手さんは、歌うのをやめて、器楽の間奏になるのではとか言われています。

ヒガヨンは、竪琴の演奏で、グリッサンドではとも言われています。ギターの場合は、グリッサンドって、弦を指をスライドさせる。竪琴とかピアノの時は、ピラピラピラピラと、高音から低音まで連続して鳴らした。

空白の時間も、音楽の中でとても重要な役割を果たしていたと思います。

昔、高校生の時に、変な意味で思い出に残るコンサートがありました。高校二年生くらいでしょうか。亀田君と堀内君と言う友だちと三人で、厚生年金会館に葉書が当たって、チャイコフスキーの五番を聞きにいきました。チャイコフスキーは六番が、「悲愴」ってニックネームもついて有名で、五番はちょっとマイナーかもしれなくて。お金出した本当のクラシック・ファンではなくて、葉書が当たった、ただ券のファンなので、あんまりクラシック知らない私たちみたいなのもたくさん居て。

チャイコフスキーの五番の最終楽章って、十五分くらいあるんですが、みなさんぜひ、聞いてみてください。うちたち素人が聞いたら、四楽章のはじめから十分くらいで、絶対、ここで終わりやろうと思える箇所があるんですね。ティンパニーが鳴り響いて、ジャーンって鳴って、すべての楽器が無音になる時間が二秒くらいがあるんですね。そこから、♪チャーン、チャラチャーンって、また最後のコーダに入る。朝比奈隆さんの大阪フィルだったと思うんですけど、朝比奈さんの指揮って、比較的スロー・テンポだそうなんですけど、その私が高校生の時いったコンサートで、そのティンパニーが鳴り響いて終わりに思える箇所で、ひとりの大阪のおばちゃんが、『うわーーっ』て拍手しちゃったんですね。それにつられて、何人かも、『ブラボーっ』て拍手したら、そこから、♪チャーン、チャチャーンって。演奏している人もずっこけたと思う。

で、それだけで終わらなかった。その大阪のおばちゃん。照れ隠しなんでしょうか。暴走しちゃって、次に――なんか忘れたんですけど――もう一曲、交響曲があったんですけど、普通、一楽章と二楽章のあいだって、拍手しませんよね。一楽章ごとにやけくそに拍手されだして、きまずいコンサートでした。

名曲解説の本を開くと、まちがってもこの無音部分で拍手しないように書いてあります。

「チャイコフスキー5番、44楽章

第1主題,第2主題に基づく荒々しい熱っぽい展開の後,再現部となります。型どおり再現された後,金管楽器のファンファーレ,ティンパニの連打と続き,一旦全休止します(この部分で「曲が終わった」と間違って拍手するのは厳禁です)。これで壮大なクライマックスに入る準備が整いました。

コーダは,少々取って付けたように始まりますが,有無を言わさぬ圧倒的な迫力を持った部分です。悠然たる伴奏音型の上に,待ってましたとばかりに弦楽器群が長調になった「運命の主題」を朗々と演奏します。」

音楽って、ですから、無音部分も、意味があるんでしょうね。神様は、わたしたちの人生の楽譜を書くときに、きっと休止符、無音の部分も必要とされて、書き加えられると思うのですが、その部分って、私たちには、ひょっとしたら、いちばん、そのさなかに居る時には、理解しがたい部分かもしれないなあと思います。

私たちの人生には、たいへんアクティブな時代もあると思うのですね。仕事に成功している時期かもしれません。まわりに、どんどん人が集まってくる時期、周りで家族で救いが起こされる時期かもしれません。そんなアクティブな時代って、単純な私たちにも、ああ、神様が働かれているなあって、理解できる時かもしれません。

けれども、同時に、神様は、人里離れたところで、ひとりで静まる時も、用意されるのではないかなあと思います。往々にして、それは、意図せずして、私たちに訪れるのではと思います。ある人にとっては、病気と言うことを通して、動けなくなるかしれません。心の病いかもしれません。また、仕事の失敗かもしれません。活発な女性が育児によって家の中でひとり静かに過ごす時かもしれません。

そんな時、私たちは、どうして、そんなところを歩まされているんだろうって、理解に苦しむ時かもしれません。でも、私たちが、いちばんイエス様の近くに置かれるのは、その休止符の中にある時ではないかなあと思います。

この前、鬱(うつ)のお友だちから電話があって、「沈んで仕方がない。いったいどこで沈んだんだろう。どうしましょう・・・・」って電話がありました。で、私は、「いやー波がありますから沈んでたらいいんじゃないんでしょうか」って話して、話が続かなくなって、マナミが横でそれを聞いて、私に相談するのが間違ってるって言うんですけど。

どこで沈んだのでしょうとおっしゃるので、大江健三郎さんの話しをしました。大江健三郎さんの本に書いてあったんですけど、家のどぶの溝に新しい木のふたを自分で作っていて、ちゃんと計算したつもりが、数センチ足りなかった。それから、二年間の落ち込む時期に入った。沈むきっかけなんてないような、しょうもないもので、沈むときは沈むと言うことを健三郎さんは言いたかったと思います。

前にも話しましたが、私も、自分が崩れていって、鬱気味になって、睡眠障害になったりしていった時に、きっと、あの時、神様が休みなさいとおっしゃってたんだろうなあと思います。今では、なつかしいですけど、温水プールの会員になって、泳ぎに行ったり。それから、通信教育付きの油絵の具セットを買って、油絵を公園に書きに行ったり。

あれは、神様が休止符を私の楽譜に書いてるのに気がつかないで、歩んでいて、神様がストップをかけられたんだなあと思います。マタイ、11章の28節をゆっくり読んでみましょうか。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

たくさんの方が、証しの中で、マタイ11章28節をかかげられますが、元気で自分の力でばりばり歩んでる時には、この御言葉の本当の深さは、なかなか分からないと思います。けれども、神様が、私たちの人生の楽譜に休止符を置かれるときに、この御言葉の深さが私たちに、少しずつわかるようになるのでは・・・・と思います。

ベック兄が、昔、重荷を負って背負い慣れてる人の話をしてくださいました。ある時、電車に乗って来た方が大きなリックを背負って、荷物を降ろそうともしない。ちょっと、どうぞ、ここに降ろしてくださいと言ったら、「いいです、背負い慣れてるので」とおっしゃいました。それが、現代人の姿だとベック兄がおっしゃいました。逆に、背負っていないと不安。

自営業って、会社の制約からは解放されるんですけど、ある意味、働いていないと・・・・って言う強迫観念にとらわれる。ヒロタ兄は、そう言うところから完全に解放されていますけど、私なんかは、小物なので、いつもおろおろ。リズムがとりにくい。いま、うちは、創業からうん十年に入ったんですけど、リズムを掴むまで、むつかしかったです。

わたしたちの人生が楽譜としたら、神様は、最適のところに、休止符を用意していてくださる。そこに来たら言われた通り、静まる時が必要なのかなあと思います。神様の御声に気がつかないで、突っ走っている時に、神様は、強制的に休止符を置かれる時もあるように思いました。

詩篇
62:5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
62:6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。
62:7 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ

主の前に静まる兄弟姉妹の、体験はなんでしょうか。

神様から休止符を与えられて、わたしたちが知ることは、わたしたちが本当に何もできなかったこと、何もできない者であること、そして、私たちが、何もできないことを知った時に、はじめて、私たちの弱さの代わりに、主ご自身の力が現れるということを知るのではないかなと思います。

だまっていなさい。信頼しなさい。このふたつのことが詩篇で語られています。ある方がこんなことを言っていました。

「私たちはなぜ、敗北してばかりいるのかということを、考えたことがあるのでしょうか。それは私たちが、自分の力に拠り頼むからであり、そのことが主の働きを妨げ、私たちの行ないが、主の御手を縛ってしまうような結果をもたらすのです。自分の不完全さを知っている者は、本当に幸いです。その人は、主の御前に静まり、主の力と強さを豊かに経験することが許されています。」

「謝謝チャイニーズ。」中国のど田舎の旅の本を最近、読みまして、とてもおもしろかった。時間がとてもゆるく流れる。上海よりずっと南。ベトナム国境の東興(とんしん)から、北海(ベイハイ)、湛江(ジャンジャン)へと、バスで旅していく。で、朝の8時出発って、バス停留所に書いてあるあら、星野博美さんて言うんですけど、バスに乗って出発を待ってる。最初、バスの中で子供が遊んだりしていて、出る気配がない。

で、やっと運転手さんが来たと思ったら、いよいよ出発するんじゃなくて、バケツに水を入れて、ゆっくりと車を洗い出す。一時間遅れて、ほかの乗客が乗り始める。みんな地元の人は、一時間遅れて当たり前って知っていて、日本人の自分だけが時間通りきて、まだかまだかといらいらしていた。

この場合は、時間って言う自分の計画ですけど、私たちは、自分の計画通り、思い通りいかないことに対応するのが、とても苦手な方ではないかなと思います。

臨機応変の賜物って、私にはなくて、臨機応変に対応できる兄弟姉妹をうらやましく思います。車で、どこかに出かける時は、ネットで調べて、事前に駐車場は、どのあたりのコイン・パーキングに停めて・・・・って、私は事前に計画を立てる方です。で、行ってみて、そこが、いっぱいで停められなかったりしたら、私の計画がくるって、パニックってしまう方です。

私って、いつもこんなんだなあと思います。

神様は、私たちの思いからしたら、とんでもないところに休止符を置かれる。私たちには理解不能。いま話したような日常の小さな出来事の他に、大きな病気になったり、仕事がうまく動かなくなったりとか、私たちにとって、とんでもない休止符をうたれる時があります。

エレミヤ
29:11わたしは、あなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるものだ。

この箇所について、ある方がこうおっしゃっていて、とても心に残りました。

「私たちは、人生の試練に悩み苦しむ時、すぐさま考える幸いな道、平安と将来の希望を与える計画とは、一刻も早く人生の試練が解決すること、以前と同じ生活にできるだけ早く戻れることではないでしょうか。

主は、私たちが自分で勝手に平安と将来の希望を与える計画を思い描くことを戒めています。エレミヤは神様のみことばとして、バビロン捕囚から七十年後に、イスラエルに帰還することができると伝えたのです。

捕囚からの解放が70年後であっても、主は捕囚の地で、主を礼拝し祈り求めるイスラエルの民に、愛の御手をさし伸ばし続けてくださるのです。」

ほんとうに、愚かな私たちの思いは、一刻も早く試練や困難や、先の見えない状況が解決されて、以前と同じ生活に早く戻りたいっていう思いです。でも、苦難のとき、思い通りに行かない時、自分の計画の通りに行かない時にいちばん、イエス様は、私たちに近くあるのではないかなと思います。私たちの人生の楽譜に、ちょっと待てよと休止符を置いてくださっている。

前にも紹介したセラって言葉についての詩のようなものをちょっともう一度味わいたいと思います。

『セラ(詩篇)
A・O・モルスワス

詩編にたびたび出てくる「セラ」ということばは、音楽の記号の一つで、「休め」とか「ちょっと休止せよ」という意味です。(註、断定的ではありません)ところで集会生活もクリスチャンの生活も、どんなクリスチャンの生活にも、「休む」あるいは「ちょっと休止する」ことは起こります。それは病気を通して来るかも知れません。病気になると、家族からも、仕事からも、毎日の家事からも解放されるからです。こうして「セラ」が訪れたとき、驚いてはいけません。

偉大な作曲家である神が「セラ」の記号を書かれます。神は、私たちの生涯という詩篇を完成させるために、それがいつ、どこに必要であるかをご存知だからです。「セラ」のある所に来たら、たとえつらくとも、それを書かれたのは「作曲家」であることを覚えて下さい。

「セラ」は音楽の一部です。私たちは「音」だけが音楽だと思うかも知れませんが、しばしば、「休み」は和音と同じくらいに効果的なのです。ですから、「休まなければならない」状態になったとき、これも音楽の一部であることを覚えれば慰められるでしょう。

「セラ」は、歌い続ける者にとってはなんの妨げにもなりません。もし私が「ちょっと休まなければならない」なら、その分、他の人の歌声が目立って、その詩篇はいっそう美しくなるでしょう。同じように、自分がなんらかの事情で働けないときは、他の人が集会と家庭の仕事を代わってくれるのですから、休みを与えられた私たちは喜んでいいのです。

「セラ」の部分に来たからといって、ぼんやりしていてはいけません。歌うのを休んでいる歌い手も、依然としてその楽団の一員です。ですから、休んでいる間も、音楽に合わせて拍子をとりながら、他の人との調和を保ち、その調和を楽しんでいます。

同じように、休みの時は、私たちに与えられた「休み」の時を数えながら静かに考える時であることを忘れないで下さい。

「セラ」によって休みを与えられた人は、こんどは無性に働きたくなります。病気で寝ている人や退職した人を見ると、それが良くわかります。しばらく休んだ人は、「やっぱり私の声も必要だ」と思って、また歌に参加するのです。

歌い手は、「セラ」の記号がどこにあるか、楽譜と指揮者に目を注いでいなければなりません。そうでないと、ちょうどよい時に休めないからです。愛する神の子よ。主が「休め」と命令なさったらただちに休んでください。私たちの生涯を導かれる指揮者は、新しいスタートのために、ご自分に目を注いでいる者に必ず合図を与えて下さいます。

主が指揮者であるのなら、休みを意味する「セラ」も、調和した音を出す「奉仕」も、ともに美しい音楽をかなでるに違いありません。』

わたしたちが、自分自身の不完全さを知る時が、神様の完全さを知る時で、神様の働きを見るんだなあと思います。

ゴスペルシンガーの山口博子さんは潰瘍性大腸炎という難病にかかり、十回以上の入退院を繰り返したそうです。人生に失望した彼女が、ラジオ番組を通して聖書に出会い、教会に行き、神を信じるクリスチャンになりました。その結果、ご自分の病気の中にも最善にはたらいてくださる神のご計画を信じ、次のような歌を作りました。

『時を忘れて

目を閉じなければ見えない世界がある
口を閉じなければ言えない言葉がある
耳を塞がなければ聞こえない声がある
歩み止めなければ会えない人がいる
少しぐらい遅れたとしても
大切なものを見つけたいから
道であり真理であり命である主に
尋ね求める時を忘れて』

イエス様のまなざしの中心には、いつも、いちばん弱く苦しんでいる人がいる。その人々を、イエス様は憐れみ、慈しんでくださる。

前にも話しましたが、人が集まると、それが、主にある教会や集会であっても、必ず、中心と周辺の逆転が起こってします。元気な人、発言力のある人、お肉の行動力のある人、お金のある人が、いつのまにか、中心になってしまう。その結果、意図せずに、本来、教会や集会の中心に置かれるべき傷んだ弱い魂が周辺に押しやられる。なかなか、私たちは、中心と周辺が逆転して、いちばんイエス様が大切にしようとされたものが周辺に押しやられ、自分も、いちばん大切なものを見失っていることに気がつかないんだなあと思います。

ですから、止まってみること、止まらされること。休んで静まることは、そのことに気がつく時にもなるんだとうなあと思います。

わたしは、イエス様に出会って随分になります。十八歳の時から教会にずっと通ってました。自分では、一生懸命、がんばっているつもりだったんですけど、いま、ふりかえって、たくさんのものが、何も見えていなかったんだなあと思います。

『目を閉じなければ見えない世界がある
口を閉じなければ言えない言葉がある
耳を塞がなければ聞こえない声がある
歩み止めなければ会えない人がいる』

ほんとうに、その通りだなあと思います。

大切なものって、肉の目で見えないし、数字にできない。逆から言えば、肉の目で見えて、また数字にできるものは、本当に大切なものではない。

自分自身の人生の楽譜に、神様の休止符を置かれるときに、福音の中には、本当の休息があるのに気がつくのかなあと思います。そのことに気がついたらほっと休らうことができ、また、その恵みを伝えることができる。

そして、どこでイエス様が、『走れ』と言われ、どこでイエス様が、『しばらく休むが良い』と言われるか、イエス様の方をずっと見ている者でありたいと思います。

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