2020年9月19日土曜日

ご奉仕の心得

ご奉仕の心得
2020年9月19日、御代田喜びの集い
古田 公人

ローマ
1:6 あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です。――このパウロから、
1:7 ローマにいるすべての、神に愛されている人々、召された聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安があなたがたの上にありますように。
1:8 まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
1:9 私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、
1:10 いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
1:12 というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。
1:13 兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。
1:14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
1:15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

パウロは、いろいろと教会のことで、あるいは、伝道のことで働き続けてまいりましたけれども、働きが、だいたい一段落ついた段階で、ローマの教会にこの手紙を書いたようであります。今日は、このところから、ご奉仕の心得として必要な四つのことについて、ご一緒に考えたいと思います。

一番目は、祈ることであります。言うまでもなく、ご奉仕にあたって、もっとも大切なことは、祈ることではないかと思います。今、読んでくださったところの八節から十一節を、もう一度、読み返してみたいと思います。

ローマ
1:8 まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。
1:9 私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、
1:10 いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
1:12 というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。

パウロは、『あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている』ことを感謝していますと記しています。ローマの教会は、パウロが建てた教会ではなかったのですけれども、パウロはそのようなこととは関係なく、主がローマの教会を祝福しておられることを感謝しています。この感謝というかたちでパウロは、主イエス様を仲立ちとして、ローマの教会と結びついていることを確信しています。

ローマ
1:9 私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、
1:10 いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。
1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。
1:12 というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。

重ねて読みますと、パウロの心が――ローマの兄妹姉妹たちに対するパウロの心が――伝わってくる思いが、一層いたします。祈りの度ごとに、ローマの兄弟たちのことを思い、ローマへ行きたいという願いを持っていると記しています。それは、御霊の賜物をローマの兄弟たちに分け与えるとともに、あなた方と共に励ましを受けたいからだと記しています。信者には、兄妹姉妹が絶対に必要であるということを、この御言葉は明らかにしています。

ローマの兄弟たちの成長にとっては、パウロの信仰、知識、経験が必要であり、パウロにとっては、ローマの兄弟たちの信仰と熱意が、パウロ自身の信仰と伝道生活の励ましになることを、パウロはここに記しているのではないかと思います。このようにして、ローマへ行く機会が与えられることを、彼は切に願っていました。

主を愛する奉仕者は、主イエス様の助けなしには、何もできないことを、経験的に知っていますから祈ります。また、主を怖れるものは、悪魔が働きを妨げることを経験していますから、奉仕の目的をはっきりと知って、主の守りをいただきたいと祈るのではないでしょうか。祈りのない働きは、肉の働きです。何十年も知り合っている相手であっても、祈りのない交わりは、肉の交わりです。しかし、祈りによってイエス様を紹介するときは、相手が知らなくても、イエス様が働いてくださいます。私たちも、どのような奉仕に関しても、主の守りと導きを求めて、祈りたいと思います。

ご奉仕の心として、二番目は、責任の自覚ということであります。十四節でパウロは、『私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています』と記しています。

ローマ
3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

文明人であると誰もが認めるギリシャ人も、神の民であると自負しているユダヤ人も、主なる神の目には、例外なく罪人であり、全ての人が救いを必要としています。ですから、パウロは、『私は全ての人に福音を伝える責務がある、負債がある』と記しています。もちろん、私たちも同じです。私たちもまた、同じ責務を負っています。主イエス様のために働く責務は、パウロ一人の問題ではありません。

第一コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。
12:28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。

こういうふうに記されています。イエス様は教会の頭(かしら)です。体なしでは、頭は何もできないのではないでしょうか。ですから、頭は体を必要としておられます。体には、様々な器官があるように、イエス様はご自身の計画を成し遂げるために、様々な働き人を任命なさいました。

エペソ
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

ここにもありますように、私たちは一人では、御心にかなう働きができないと、主は仰せられます。御体の器官として結び合わされ、組み合わせることによって、初めて、主に用いていただくことができます。救いは、恵みとして誰にでも与えられますけれども、救われたものは、主の御用に用いられることによって成長することができると、知らせられるのであります。

パウロは、主の御用に働くことは、返さなければならない負債のようなものだと記しています。負債は当然、返すべきもので、全部、返したとしても、誰も感謝しないのではないでしょうか。褒めてもくれないでしょう。むしろ、困った時に貸してくださってありがとうございましたと、負債を返す者が感謝すべきものではないでしょうか。主の御用も同じだと、パウロは考えています。

ルカ
17:9 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。
17:10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。

これが、主のご奉仕に当たるものの心構えだと、イエス様は仰せになっています。

ご奉仕に携わる上で考えるべき三つ目の心得は、目的を知るということではないかと思います。ローマ人への手紙の一章に戻りたいと思いますけど、十五節にパウロはこう記しています。

ローマ
1:15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。

先ほども申しましたように、ローマの信者たちにイエス様を伝えたのは、誰であるかは分かりません。しかし、ローマの兄弟たちは、飢え渇きの心をもって御言葉を聞き、正直な心でイエス様のところへ行き、そして、救われました。罪が赦され、主なる神との和解にあずかり、永遠のいのちを受けたのです。

ですから、パウロも六節で、『あなたがたも、それらの人々の中にあって、イエス・キリストによって召された人々です』と記しています。また、八節で、『あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられている』とも書いています。そうであるにも関わらず、未信者でない人々に対して、十五節で、『私は、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです』と書いています。いったい、どういうことなのでしょうか?

ピリピ
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

死後の裁きを免れるためには、救われるだけで十分です。しかし、悪魔は絶えず、教会を攻撃しようとしています。正しい福音を知らないで、御心にかなう歩みをしていない信者がいると、悪魔はそうした信者を捕らえて、教会の中に混乱をもたらすために使い始めます。そして、多くの教会の成長が妨げられてまいりました。様々な悪魔の攻撃に惑わされることなく、信仰を守り通し、成長し、神の栄冠を得るためには、救われるだけでは十分ではないと知らせられます。正しい教えを、しっかりと心の内に保つ必要があります。

そういうわけでしょう。パウロは、ローマの兄弟たちに正しい福音を伝えようとしているのだと理解されます。

ローマ人への手紙は、ちょっと調べたところによりますと、ガラテア人への手紙や、ふたつのコリント人への手紙よりも、後で書かれたと考えられているそうであります。そうであるなら、パウロはローマ人への手紙を書く時までに、既に各地に伝道しており、それぞれの教会が抱える問題への対応に苦慮してきたことになります。初代教会では、高ぶり、不品行、妬み、悪口などが、信者の成長を妨げました。また、様々な誤った教えによって、教会に混乱が引き起こされています。コリント人への手紙やガラテヤ人への手紙を読めば、そのことが赤裸々に記されています。

もちろん、こうした混乱は、ある程度はやむを得なかったと思われます。なぜなら、ローマ人への手紙が書かれた時は、まだ新約聖書はありませんでしたし、福音書さえ、まだ書かれていませんでした。四つの福音書の中でいちばん早く書かれたと言われているマルコの福音書でさえも、ローマ人への手紙よりも十年ほど後になってできたものだそうであります。もちろん、主イエス様のことばと御業は、何らかのかたちで伝えられていたのでしょうけれども、それは、おもに、イエス様はキリストである、約束されていた救い主であるという知らせ方であったようであって、救いについては、人によって違う考えが持たれていたようであります。そのもっとも大きな問題は、救いに関する、パリサイ人からのキリスト者と、パウロ、あるいは、ステパノのような外国で育ったキリスト者のあいだの対立であったようであります。

使徒
15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない。」と教えていた。
15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

こういうふうに記されています。

第一テサロニケ
2:15 ユダヤ人は、主であられるイエスをも、預言者たちをも殺し、また私たちをも追い出し、神に喜ばれず、すべての人の敵となっています。
2:16 彼らは、私たちが異邦人の救いのために語るのを妨げ、このようにして、いつも自分の罪を満たしています。

こういうふうに記しています。ルサレムの教会には、パリサイ人から信者になった人々を中心に、ユダヤ人にならなければ救われないと考える人々がいて、地方の教会をかき回していたようであります。ですから、パウロは、きちんとした福音なしには、教会の正常な成長がないということを、よく知っていたのだと思います。ローマの教会にも様々な攻撃が及ぶことを予想していたに違いありません。

テトス
1:9 教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。

パウロは、ローマの兄弟たちに、福音を詳しく、また、正しく伝える必要を知り、この手紙を書くことを決意したと考えられます。

ローマ人への手紙は、大きく見ると五つのことが記されています。ひとつは救われる必要性。二番目は、救われるためには何が必要か。三番目に、救いとは何を意味するのか。四番目に、救われた後の歩み。そして、五番目に、神の約束と救い。こういうふうに、救いを中心にローマ人への手紙は記されています。いわば、十字架の救いについての揺るぎないテキストを、パウロはここに適当に書き送ったのではないかと思います。

そして、ご奉仕のための心得として四番目に、確信をもって働くということが、挙げられるのではないかと思います。

ローマ
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

パウロは、『私は福音を恥とは思いません』と記しています。わざわざ、書いているんです。私は、これはパウロ自身の反省に基づくものではないかと推測いたします。なぜなら、使徒の働きにこう記されているからであります。

使徒
17:22 そこでパウロは、アレオパゴスの真中に立って言った。「アテネの人たち。あらゆる点から見て、私はあなたがたを宗教心にあつい方々だと見ております。
17:23 私が道を通りながら、あなたがたの拝むものをよく見ているうちに、『知られない神に。』と刻まれた祭壇があるのを見つけました。そこで、あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう。
17:24 この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
17:25 また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
17:26 神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
17:27 これは、神を求めさせるためであって、もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。
17:28 私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。あなたがたのある詩人たちも、『私たちもまたその子孫である。』と言ったとおりです。
17:29 そのように私たちは神の子孫ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。
17:30 神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。
17:31 なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。そして、その方を死者の中からよみがえらせることによって、このことの確証をすべての人にお与えになったのです。」
17:32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、ほかの者たちは、「このことについては、またいつか聞くことにしよう。」と言った。
17:33 こうして、パウロは彼らの中から出て行った。

長々とお読みしましたけれども、パウロが言っていることは、もちろん、間違いのないことです。私たちもよく、未信者にこういうことを言うのではないかと思います。でも、この時のアテネのパウロのメッセージは、他の場所とは全く違うんです。他の場所では、パウロはみことばのとおりに、イエス様が、人のかたちを取ってきてくださったイエス様が十字架にかかって死なれ、よみがえられた――パウロは、そのことだけを、もっぱら語っています。

アテネで、どうしてこういう風になったのかと考えてみますと、パウロは、哲学者たちに話すようにと勧められて、話しています。哲学者たちを前にしたパウロは、いつものように、ストレートに話すことを躊躇(ちゅうちょ)したのではないかと思います。いつもとは違う、回りくどい話をしてから、イエス様のよみがえりを話したのですけれども、それも、どうもあまりはっきりしないかたちのようであったようです。人々は、聞く耳を持ちませんです。そして、珍しくと言っていいと思うんですけど、アテネでは、教会が建てられなかったのであります。一言で言えば、アテネの伝道は、パウロにとって、苦い思い出になったのではないかと思います。

この経験が、『私は福音を恥とはしない』、人間的な判断には従わないという、発言の背後にあるのではなかったのでしょうか。

ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

大切なことは、このことではないでしょうか。イエス・キリストは主であると告白して、主なる神が褒め称えられるために、パウロはご奉仕をしています。福音を語る人がそれを恥じるなら、どうしてそれを聞いた人が、イエス様を主であると告白することができるでしょうか。私は福音を恥とは思わないという、このパウロの言葉は、私たちにとって、とても大切な戒めであるのではないかと思います。

福音は救いを得させる神の力ですと、パウロは書き記しました。信仰によって、ただ信仰だけで、救いにあずかることができます。なぜなら、恵みだからです。しかし、用いられるためには、祈り、責任の自覚、目的を知ること、そして、確信を持つことが必要であることを、パウロは、この手紙を通して、私たちに語ってくれているのではないかと思います。

御体の器官とされた兄妹姉妹が、例外なくいただいている恵みを、無駄にすることなく、主に用いていただきたいと思うものであります。

ローマ人への手紙の一章からもう一度、お読みして、終わりたいと思います。

ローマ
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

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