2020年10月3日土曜日

神の福音

神の福音
2020年10月4日、吉祥寺集会
古田 公人

ローマ
1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
1:2 ――この福音は、神がその預言者たちを通して、聖書において前から約束されたもので、
1:3 御子に関することです。御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ、
1:4 聖い御霊によれば、死者の中からの復活により、大能によって公に神の御子として示された方、私たちの主イエス・キリストです。

読んでくださいましたように、使徒パウロは、ローマ人への手紙を、『神の福音』という言葉をもって始めています。今日は、神の福音が意味する内容について、ご一緒に考えたいと思います。二節から四節には、福音は旧約聖書で約束されたことであって、ダビデの子孫として生まれ、死者の中から復活された御子、主イエス・キリストに関することと記されています。ローマ人への手紙、全体の要約だと言ってもいいのかもしれません。

そして、このことから、神の福音は、三つの事実から成り立っていると分かります。ひとつはまず、全体として、預言者たちを通して、主なる神が約束されたこと。そして、二つ目は――二つ目と三つ目は具体的なことですけど――御子が人のかたちをとって、この世に来てくださったことと、死者の中から復活されたという事実です。これら三つの事実は、イエス様にあってひとつです。順に、見て参りたいと思います。

まず、神の福音は、主なる神の約束によるものであるということです。もちろん、旧約聖書は、全体が主なる神のイエス様についての約束ですから、そういえばそうなんですけど、とくにイエス様が人となってこの世に来てくださったご目的は、新しい契約にあったと言えると思います。ですから、新しい契約にかかわるみ言葉を二つだけ取り上げてみたいと思います。ひとつは、エレミヤ書31章です。

エレミヤ
31:31 見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。――主の御告げ。――
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。――主の御告げ。――わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

造り主なる神様を神として怖れることなく、また、み心に従おうともしない、いわば、家出をした息子のような、そのようなもののために、わたしは新しい契約を結ぶと言ってくださっています。新しい契約は、わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないから、皆、わたしを知って、わたしの民となり、わたしは彼らの神となると言ってくださる、想像もできないような恵みの御言葉でした。この御言葉は、誰にとっても喜びの知らせであったわけではないと思います。ただ、自分は律法を守ることがとてもできないと思う人や、あるいは、良心の呵責に苦しむ人にとっては、かけがえのない約束であったと思います。まさしく、福音でした。そして、このお約束は、イエス様の十字架の死とよみがえりによって、すでに成就しています。

新しい約束に関するもう一箇所は、エゼキエル書の34章です。

エゼキエル
34:22 わたしはわたしの群れを救い、彼らが二度とえじきとならないようにし、羊と羊との間をさばく。
34:23 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
34:24 主であるわたしが彼らの神となり、わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。主であるわたしがこう告げる。
34:25 わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獣をこの国から取り除く。彼らは安心して荒野に住み、森の中で眠る。
34:26 わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。

主なる神は、ご自身で民を救い、養い、悪いものを滅ぼし、『わたしが彼らの神となり、平和の契約を結ぶ』と仰せになります。そのために、一人のしもべ、ダビデを起こすと、約束してくださいました。この御言葉は、御子が人となって来られる約束であるとともに、平和の契約の約束です。この約束に基づいて、御子はしもべとして、肉においては、ダビデの子孫として、この世に来てくださり、永遠の滅びから、人間を救い出し、主となってくださいました。

確かに、御子は人となって来てくださり、死んで、よみがえられ、新しい契約をもたらしてくださっています。旧約聖書の約束は、そこに成就しています。

ここまで、福音は主なる神の約束に基づくものだということを、新しい契約という観点から見てまいりました。次は、神の契約に基づいて、御子が、人のかたちをとって来てくださったということについて――皆さん、もう既にご存知ですけど――あらためて、見てみたいと思います。このことは、すでにエゼキエル書の34章でも預言されていた通りです。

マタイ
1:18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

神の御子は、マリアの胎に宿られ、人としてお生まれになりました。御子が、人間のかたちをとって、この世に来てくださったと知らせられます。

マルコ
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

イエス様はこのように、『わたしは贖いの代価として十字架にかかるために来た』と仰せになりました。この御言葉は、イザヤ書53章の約束の成就を意味しています。

イザヤ
53:3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53:7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53:8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行なわず、その口に欺きはなかったが。
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。

まるで、福音書を読んでいるような感じがします。悲しみの人は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。彼への懲らしめが私たちに魂の平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒されました。イエス様の十字架の御業は、このように予告されていました。ここには、なだめの供え物として、また、罪の身代わりとしての悲しみの人の死が約束されています。

神の御子は、悲しみの人として、この約束を成就してくださいました。主イエス様の十字架の死によって、私たちの罪は罰せられ、赦しがもたらされています。イエス様を信じる者は、誰であっても、義と認められ、主なる神との和解にあずかり、永遠のいのちを受けます。とくに、思わさられることは、イエス様は肉の体を持っておられたということです。

人間の弱さ、みじめさ、悩み、苦しみを体験してくださり、理解してくださいます。ですから、イエス様は、『すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます』と、呼びかけてくださっています。私たちは、そのままで、今のままで、安心して、イエス様のところへ行くことができます。

これまで、神の福音は、神様、主なる神の約束の成就であり、具体的には、神の御子が人となって来てくださったということを見てまいりました。パウロが、神の福音としてあげた三つ目の事実は、死者の中から復活されたということでした。このこともまた、旧約聖書に約束されています。

マラキ
3:6 主であるわたしは変わることがない。

一行ですけど、主は変わることのないお方です。生まれることもなく、死ぬこともなく、永遠の昔から、永遠の未来まで、変わることなく生きておられます。ですから、たとえ御子が、死ぬために人となってこの世に来てくださり、人として死なれたとしても、死で終わることがなく、よみがえられるお方です。イエス様も、おっしゃいました。

マタイ
12:39 しかし、イエスは答えて言われた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています。だが預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。
12:40 ヨナは三日三晩大魚の腹の中にいましたが、同様に、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」

ヨナのしるしは、わたしを指し示すものだと、お語りになりました。もう一箇所、イザヤ書の53章に戻りたいと思います。

イザヤ
53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。

悲しみの人は、『自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する』とあります。悲しみの人が、よみがえられて、天の高いところに昇られた後の姿を現しているのではないかなと思います。そもそも、主なる神は、永遠の昔から、永遠の未来まで、生きておられます。御子イエス・キリストも、死ぬことのないお方です。しかし、御子は父なる神の御心に従って、あえて人のかたちをとって、死ぬためにこの地上に来てくださいました。ですから、主なる神は、それで終わらせることをなさいませんでした。

ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ(・・・・『それゆえ』とあります!・・・・)、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

イエス様は、十字架の死にまでも従われました。ですから、神は、イエス様をよみがえらせ、天の高いところに座らせられただけではなくて、いっさいのものにまさる名をお与えになり、主となさったと記されています。

イエス様の十字架の死とよみがえりは、新しい創造が始まったことを意味しています。同時に、新しい契約がここに発効しました。イエス様の十字架の死とよみがえりによってイエス様を信じることとは、イエス様の死とよみがえりの中に含まれることを意味しています。ですから、古い人は死んで、イエス様のよみがえりのいのちにある新しい人として生きるのです。新しいのちにある歩みは、過去からの解放、全ての恐れからの解放であり、いのちと自由の約束です。その自由は、何をしてもよいけれども、どこへ行くのか分からないというような、この世の自由とは全く違う自由です。いっさいの重荷とまつわりつく罪から解放された自由であり、いつまでも主イエス様とともにいることが約束されています。イエス様は、マタイの5章でおっしゃいました。

マタイ
5:17 わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するため(です。)

そして、イエス様は十字架の上で、『完了した』と仰せになりました。ちょっと見てみたいと思います。ヨハネ19章、とても、大切なところではないかなと思います。

ヨハネ
19:28 この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く。」と言われた。
19:29 そこには酸いぶどう酒のいっぱいはいった入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。
19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

エペソ
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

神の御子は、人となってこの世に来てくださり、十字架にかかって死んで、よみがえってくださいました。旧約聖書は、完全に成就されています。イエス様は主キリストです。

今日は、神の福音について、ご一緒に考えてまいりました。準備しながら思ったことがありますので、それをお話しして、終わりたいと思います。

ひとつは、個人的なことですけど、私は1970年代と80年代の日本キリスト教団の教会に、会員として過ごしました。その頃は――今はどうか分かりませんが――キリスト教書店と言われるところには、人間としてのイエス様に関する本が並んでいました。集会に来るようになってから、キリスト教書店といわれる所に行かなくなったものですから、今の状況は分からないんですけど、当時は、多くの人々の関心は、人としてのイエス様にあったように思います。教会では、イースター以外の時に、イエス様の復活とその意義について、聞いた覚えはありません。

このことから考えて、教会と呼ばれるところであっても、神の福音は、必ずしも、十分に語られていないのではないかと推測します。

そして、思った二つ目のことは、最近のことなんですけど、ある兄弟が、人々の関心を集めている集団があると教えてくださいました。その集団は、ユダヤ人のキリスト者と関わりを持っているところで、いろんな人が関心を持っていはようだと言ってくださいました。それで、その方の文章をネットで読んでみました。いろんなことが書いてあったんですけど、目が止まったところが二つでした。ひとつは、『聖書の研究と理解によって、本当の霊的覚醒がもたらされる』とあったことなんです。集会の兄妹姉妹は、よく覚えておられることだと思いますけど、聖書は勉強するものではない、理解するものではないと、ベック兄は、何度もおっしゃいました。聖書は、神の言葉ですから、被造物である人間が研究するものでも、理解するものでもなく、ただ、いただくものです。受けるものです。

そして、もうひとつ書かれていたことは、『聖書は』――「聖書を理解するためには」ということだと思いますが――『聖書は、書かれた時代のユダヤの風俗、習慣、言語といった歴史的背景を知る必要がある』と記されていました。多分、人々は、こういうところに関心は惹かれるのではないかなと思いました。

でも、福音は、時代を超えた真理なのではないでしょうか。ユダヤの風俗、習慣、言語に興味を持つことは、間違ったことではないと思いますけど、信仰とはそうしたことの知識ではなくて、イエス様との交わりです。旧約聖書は、イエス様を証しし、神の福音の確かさを保証するものではあっても、福音そのものではないということは、はっきりしています。

ローマ
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

福音は、神の力です。人間の知識ではない。ですから、信仰の成長に必要なものは、神様が働いてくださることです。そのために必要なものは、砕かれた心、御霊の満たし、それに、霊的な交わりではないかなと思います。

二箇所、みことばを読んで終わりたいと思います。第一コリント2章、パウロの証しです。

第一コリント
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

もう一箇所は、ピリピ人への手紙、3章からです。パウロは、誇ることが、本当はいっぱいあったんです。知識もいっぱい持っていました。でも、こう書いています。

ピリピ
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

損と思うようになった。でも、それだけではない。その次の御言葉です。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

こう証ししています。『ちりあくた』というところは、口語訳聖書では、『ふん土』と記されていたことを思い出します。パウロは、ただ、イエス様だけだ、人として来てくださったイエス様の十字架の死とよみがえりに、すべてがあると語っているのではないかと思います。

どうもありがとうございました。

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