2020年11月22日日曜日

わたしもその中にいる

わたしもその中にいる
2020年11月22日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉

マタイ
18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

読んでいただいた箇所は、皆さんよくご存知の御言葉であり、本当に励まされる聖書の約束ではないかと思います。私たちは、この御言葉を礼拝や祈り会、あるいは、兄妹姉妹との交わりにあてはめます。そして、極めてわずかな人数の集まりの中にも、主が共にいてくださる。だから、心をひとつにした祈りはかなえられるという励ましの約束として、読んでいます。しかし、この箇所を、聖書の文脈の中で考えるならば、もう少し限定した話になるのであります。今日は、そのことを初めに考えてみたいと思います。

まず、この御言葉の前後の箇所を読んでみたいと思います。

マタイ
18:15 また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
18:16 もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
18:17 それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。

この後に、先ほど、司会の兄弟に読んでいただいた箇所になります。

マタイ
18:18 まことに、あなたがたに告げます。何でもあなたがたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたがたが地上で解くなら、それは天においても解かれているのです。
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

そして、その後の文章はこのようになっています。

マタイ
18:21 そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
18:22 イエスは言われた。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います。」

つまり、前半の箇所では、教会の中で罪を犯した兄弟をどのように扱うかが、四つのステップに分けて書かれています。そして、後半では罪を犯した兄弟の赦しについて、書かれています。七度を七十倍するまでとは、悔い改めれば、際限なく赦すということでありましょう。そして、当然のことながら、この二つの文章の中間にある18節から20節は、前後の文章と密接な関係にあるはずであります。

さて、『地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており・・・・』とありますけれども、『つなぐ』、そして、『解く』とはどういう意味でありましょうか。18節の脚注には、『つなぐ』、および、『解く』は、それぞれ、『禁じる』、および、『許す』と書かれています。すなわち、『つなぐ』とは、縛るということであり、禁止する、有罪を宣言することです。また、『解く』とは、許可する、無罪を宣言することを意味しているようであります。

私たちが心を一つにして祈りながら、地上で行うことは、天においても、その通りなのだということでありましょう。つまり、地上で神の言葉に基づいて有罪を宣言するなら、その人は有罪である。一方、罪の赦しを宣言するなら、その人は天においても、罪の赦しが与えられています。なぜなら、私たちの祈りを天の父が聞いていてくださる。そして、私たちがくだした裁定を承認してくださるということと、理解することができます。結局、18節から20節は、この箇所の文脈の中で考えるならば、罪を犯した人に対して、その罪を指摘し、悔い改めを求める霊的な手順と方法が書かれていると言えます。

つなぐ、および、解くということが書かれている、もう一つの箇所を見てみたいと思います。

マタイ
16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。
16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。

主によって建てられる教会のことが、イエス様によって語られています。『この岩の上に』とありますが、ペテロの上に教会を建てるということではありません。イエス様ご自身の上に、イエス様が神の御子キリストであるという信仰の上に、教会が建てられるということであります。ペテロには確かに、福音宣教の扉を開けるという大きな役割が与えられました。しかし、教会はイエス様のものであり、主によって運営されるということであります。

そのようなイエス様の御体なる教会においては、天をつなぎ、天を開くような力が、祈りによって、私たちに与えられる――イエス様の御名による権威が、教会に与えられているということではないでしょうか。

マタイの福音書の18章に戻りたいと思いますが、罪を犯した兄弟を責めて、証人もつけて、なおかつ、教会に告げても、聞き入れようとしないなら、その人を交わりから外す必要があります。パウロは、そのことをこのように書き記しました。

第一コリント
5:11 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。
5:12 外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
5:13 外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。

非常に厳しい御言葉であります。けれども、大事なのは、何のために交わりから除くかということであります。教会をきよく保っていくためです。もう一つは、本人が真の意味で救われるためです。その兄弟が、自分のしていることがどんなことかを、交わりから除かれて、この世に置かれて気づくことによって、悔い改めて、神のあわれみを受けることができるようにするためです。

第一コリント
5:4 あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、
5:5 このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

皆さんもご存知のルカ15章にある放蕩息子の父は、財産の分け前を要求した息子が、自分に反抗していることを知っていました。彼は放蕩の限りを尽くすのですが、父はそれを許されました。それは、彼が自分の蒔いた種を刈り取らなければ、父の愛を知ることができなかったからです。このように、教会がある兄弟を交わりから外すことは、自分の犯した罪の結果を自分の目で見るためであり、教会は彼が回復するのを見守らなければなりません。

私たちは二つの罪を、この場合は犯す可能性があるのではないでしょうか。一つは、罪を犯しているのに、そのままにさせていることです。もう一つは、交わりから出された人の回復のために祈らないということではないでしょうか。その人の悔い改めと回復のために必要であります。

けれども、私たちは放蕩息子の父のように、大きな愛を持って、人を赦すことはなどできない者であります。限りなく赦すことができるお方は、イエス様お一人だけであります。私たちはだから、祈り続ける必要があるのでありましょう。

ヨハネ
20:22 そして、こう言われると、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
20:23 あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」

罪を犯した人に対して、その罪を指摘し、悔い改めを求めるものが、ふたりでも三人でも、心をひとつにして祈り、また、イエス様の御名によって集まるところには、イエス様ご自身もその中にいる、言葉を換えて言うならば、聖霊の導きの中にいるということが述べられているのではないでしょうか。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

ここまで、私たちは、今日の御言葉を、言わゆる文脈の中で考えてきました。文脈の中で考えるとは、文章の前後関係から筋道、脈絡を考えることです。更には、聖書が書かれた時代背景を踏まえて、聖書が意味したことを考えることであり、大切なことでありましょう。

私は、三十七年ほど前に集会に導かれましたが、その時、集会のメッセージよりも、当時、テレビ伝道をしていた福音派の牧師の簡潔で明瞭なメッセージに、たいへん心を惹かれました。その兄弟は、今も活躍されていますが、その学びは聖書に忠実にのっとったものであり、かつ、いわゆるヘブル的なと言いますか、ヘブル的な観点からなされているようであります。彼は、いつも文脈に沿って聖書を読むことの大切さを語っています。私も、大いに影響を受けて、いつも何が正しい聖書解釈なのかを考える者であります。

そして、彼は、今日、取り上げた箇所については、二、三人と集まれば教会ということを述べているのではない。あくまで、罪を犯した人に対して、その罪を指摘し、悔い改めを求める、霊的な手順と方法が書かれていると言ったのであります。私は、このことについて、長いこと、釈然としない思いを抱いていました。しかし、次第に、文脈にとらわれすぎることは、律法的であり、かえって御心ではないのではないかと思うようになりました。また、何が正しい解釈で、何が正しくないかということも、軽々に判断することはできない、論じることはしない方がいいと思うようになりました。

聖書の御言葉は、確かにある特定の場面で語られたのは事実であります。けれども、御言葉はそれ自体で、今も生きて働くものであると信じるようになったからであります。

ヨハネの福音書の一章一節、みなさんもよくご存知の御言葉であります。

ヨハネ
1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

1:14 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

ヨハネは、御言葉は、主イエス様そのものであると証ししました。そうであるならば、今、現在、御言葉を読む私たちに直接、語りかける主イエス様の御声として、聖書を読むべきではないかと、そのように思わされました。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

きわめてよく知られた御言葉であります。この聖句には、深い御心が表現されています。しかし、聖書に初めて触れた人がまず心を動かされるのは、28節であります。全体の意味を知る前に、まずイエス様のところへ来て、荷をおろすことができる、休むことができる。そのことによって、多くの人が心を動かされ、救いに導かれるのではないでしょうか。大切なことは、この御言葉の意味、解釈ではなく、御言葉そのままが生きて働いているということではないでしょうか。

もう一度、マタイ18章全体の流れを考えてみたいと思います。要約すれば、まず、弟子たちに、誰がいちばん偉いかという議論があり、イエス様もこれに対して、悔い改めて子供のようにならない限り、決して神の国には入れない。そして、子供のように、自分を低くするのが、いちばん偉いのだと教えられました。それから、今日も学びましたように罪の裁きと赦しが語られました。けれども、18章の主題全体、そして、つきつめれば、ここは子供のように小さくなってへりくだるということではないでしょうか。

さらに、今日の主題のマタイの18章の18節から20節では、何でも、どんなことでもと書かれています。ですから、はなしを罪の裁きと赦しに限定する必要もありません。もちろん、これは、聖書を勝手に解釈しているということではないと思います。むしろ、御言葉を字句どおり、そのまま受け取って、ふたりでも三人でも、主の御名のもとに集うところには、主もご臨在くださるのだという約束として受け取っていいのではないかと、思うようになりました。

ちょっと余談なんですが、私は実は、このメッセージを準備している時に、生々しい夢を見ました。夢の中で、メッセージを語っていましたが、途中で、原稿が見当たらなくなり、探してもどうしても見つかりません。時間がどんどん経過していく中で、苦肉の策として、詩篇の23篇を読んで終わりにしようと思いつきました。ところが、今度は、聖書が見当たりません。そこで、近くの兄弟にお願いをして、詩篇を読んでお祈りをお願いをしました。本当にハッとしたんですね。私は、メッセージを語ることは、そんなこと、到底できないと悟りました。そして、目が覚めました。いつも、小さくなるようにと教えられたような気がします。

新型コロナ・ウイルスによる感染拡大によって、私たちは、大勢で集まることが難しくなっています。しかし、二人でも三人でも集まれば、集えば、主がそこにいてくださるとの約束は、大きな慰めであり、希望であります。そして、主の御名により心をひとつにして祈る兄妹姉妹の最小単位は、言うまでもなく、夫婦であり、家族であります。

エペソ
5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。

パウロは、創世記の二章二十四節を引用して、『この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです』と述べています。キリストと教会が一体となるとき、サタンに対して、最強の力を持つのです。サタンである蛇が女を惑わして以来、サタンの子孫と女の子孫とのあいだには、敵意が置かれています。けれども、敵意を打ち砕かれる方、神であり、メシアであるイエス様がおられるのであります。

伝道者
4:9 ふたりはひとりよりもまさっている。ふたりが労苦すれば、良い報いがあるからだ。
4:10 どちらかが倒れるとき、ひとりがその仲間を起こす。倒れても起こす者のいないひとりぼっちの人はかわいそうだ。
4:11 また、ふたりがいっしょに寝ると暖かいが、ひとりでは、どうして暖かくなろう。
4:12 もしひとりなら、打ち負かされても、ふたりなら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。

この聖句も、一見、夫婦の関係を教えているように見えます。しかし、そこには深い事実が隠されています。もし、二人が、ひとつの糸によって結ばれるとき、すなわち、三つ撚りの糸になる時に、それは簡単には切れない最強の力となるのであります。二人を結びつけているのは、主です。そのことを、マタイの十八章では、『心を一つにし、主の御名によって集まる』と表現しているのではないでしょうか。

私たちは今、サタンの敵意のただ中に置かれています。コロナ・ウイルスもそうなのかもしれません。けれども、『二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです』と、そのように約束されています。

イエスの御名によって集められているとは、イエス様の支配と権威、働きの御性質の全てのために集まっている――その中に、イエス様がおられるという約束であります。主によって集められているところ、例えそれが二人であっても三人であっても、イエス様にある特別な力があらわされることを約束しているのではないでしょうか。

ヨハネの福音書を読んで終わりにしたいと思います。

ヨハネ
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。

15:7 あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

15:12 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。

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