2020年11月8日日曜日

神の選びと祝福

神の選びと祝福
2020年11月8日、市川福音集会
黒田 禮吉

ローマ
9:11 その子どもたちは、まだ生まれてもおらず、善も悪も行なわないうちに、神の選びの計画の確かさが、行ないにはよらず、召してくださる方によるようにと、
9:12 「兄は弟に仕える。」と彼女に告げられたのです。
9:13 「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。」と書いてあるとおりです。
9:14 それでは、どういうことになりますか。神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありません。
9:15 神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。
9:16 したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。


今日、兄弟に読んでいただいた箇所は、いったいどういうことなのかと、みなさんもお思いになる箇所のひとつではないかと思うんですね。子供たちが生まれる以前から、神の選びによって、兄は弟に仕えると告げられたとあります。そして、神である主ご自身が、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」とあります。このような神の選びの根拠とは、いったい何なのでしょうか。人間的な考えでは、理解できません。パウロは続けて、神に不正があるのですか。絶対にそんなことはありませんと語りました。

今日は、このヤコブを通して示される、神の選びと祝福について、ご一緒に考えてみたいと思います。

イサクの子であるエサウとヤコブは、双子の兄弟であります。弟のヤコブという名前は、かかとに由来し、『かかとを掴む』の意味を持っています。それは、出生の時に、兄のかかとを掴んで出てきたからであります。このようにヤコブは、誕生の時から、兄を出し抜こうとする、極めて才知に長けた人物であり、ある意味でずる賢く、策略家でありました。

アブラハムの長子として祝福を受けたイサクの家族の中で、どうしてヤコブが祝福を受け、エサウは排除されたのでしょうか。イサクはエサウを、妻のリベカはヤコブを、それぞれ偏愛しました。このように、主にある家族に大きな不一致があったということ、そのことがまず第一に、問題であったのではないかと思います。そして、ある日、エサウが狩りに行って野から戻ってきた時、弟ヤコブは兄の空腹につけ込んで、レンズ豆の煮物と引き換えに、エサウをから長子の権利を得ました。この辺り、よくご存知の話だろうと思います。

時が経って、イサクが年老いて、目が見えなくなった時、彼はエサウを祝福しようとします。しかし、そのことを知ったリベカは、ヤコブに子ヤギの毛皮を着せて、毛深いエサウのふりをさせ、イサクの祝福をまんまと盗み取ります。

創世記の27章を開いていただきたいと思います。この時、ヤコブは父イサクに平然と、何回も嘘をつくのであります。

創世記
27:18 ヤコブは父のところに行き、「お父さん。」と言った。イサクは、「おお、わが子よ。だれだね、おまえは。」と尋ねた。
27:19 ヤコブは父に、「私は長男のエサウです。私はあなたが言われたとおりにしました。さあ、起きてすわり、私の獲物を召し上がってください。ご自身で私を祝福してくださるために。」と答えた。
27:20 イサクは、その子に言った。「どうして、こんなに早く見つけることができたのかね。わが子よ。」すると彼は答えた。「あなたの神、主が私のために、そうさせてくださったのです。」
27:21 そこでイサクはヤコブに言った。「近くに寄ってくれ。わが子よ。私は、おまえがほんとうにわが子エサウであるかどうか、おまえにさわってみたい。」
27:22 ヤコブが父イサクに近寄ると、イサクは彼にさわり、そして言った。「声はヤコブの声だが、手はエサウの手だ。」
27:23 ヤコブの手が、兄エサウの手のように毛深かったので、イサクには見分けがつかなかった。それでイサクは彼を祝福しようとしたが、
27:24 「ほんとうにおまえは、わが子エサウだね。」と尋ねた。すると答えた。「私です。」
27:25 そこでイサクは言った。「私のところに持って来なさい。私自身がおまえを祝福するために、わが子の獲物を食べたいものだ。」そこでヤコブが持って来ると、イサクはそれを食べた。またぶどう酒を持って来ると、それも飲んだ。
27:26 父イサクはヤコブに、「わが子よ。近寄って私に口づけしてくれ。」と言ったので、
27:27 ヤコブは近づいて、彼に口づけした。イサクは、ヤコブの着物のかおりをかぎ、彼を祝福して言った。「ああ、わが子のかおり。主が祝福された野のかおりのようだ。


このようにして、イサクがヤコブを祝福し終わり、ヤコブが父の前から出て行くかいないかのうちに、兄エサウが猟から帰ってきました。そして、父からの祝福を得ようとしましたが、エサウに与えられる祝福は、もはや残されていませんでした。イサクが、エサウだと思って祝福したことが、ヤコブを祝福しました。神の選びの計画は、人の計らいによっては、変えることができないのであります。

さて、ヤコブとは、神から離れて、自分自身の才覚で策略を弄しつつ、この世を生き抜いてきた私たちの姿そのものではないでしょうか。私たちは、ヤコブのように、積極的にはしてなかったとしても、結果的には、彼と同じことをしたものではないでしょうか。しかし、不思議なことに、神はそのヤコブを愛されたのです。ここに、神の選びの不可思議があります。私たちは、神には不正がない、えこひいきがないと信じてはいても、ヤコブが選ばれたことに、何か釈然としない思いが残るのではないでしょうか。

イザヤ
45:9 ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。
45:10 ああ。自分の父に「なぜ、子どもを生むのか。」と言い、母に「なぜ、産みの苦しみをするのか。」と言う者。
45:11 イスラエルの聖なる方、これを形造った方、主はこう仰せられる。「これから起こる事を、わたしに尋ねようとするのか。わたしの子らについて、わたしの手で造ったものについて、わたしに命じるのか。
45:12 このわたしが地を造り、その上に人間を創造した。わたしはわたしの手で天を引き延べ、その万象に命じた。」


私たちに、何か釈然としないものが残ったとしても、イザヤ書の御言葉の通り、神である主は、『わたしの手で作ったものについて、わたしに命じるのか』と、仰せられるのであります。

旧約聖書の最後のマラキ書というところを見ていただきたいと思います。この箇所は、ローマ書9章13節の根拠となっている聖書の箇所ではないかと思います。

マラキ
1:2 「わたしはあなたがたを愛している。」と主は仰せられる。あなたがたは言う。「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか。」と。「エサウはヤコブの兄ではなかったか。――主の御告げ。――わたしはヤコブを愛した。」
1:3 わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の継いだ地を荒野のジャッカルのものとした。」


神は本当に、『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』と言われました。しかし、少し注意すべきことは、この『憎む』という表現には誤解があります。必ずしも、感情的に憎み、忌み嫌うことではなく、ルカ14章と同じ表現だと言われます。

ルカ
14:26 わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。
14:27 自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。


イエス様がおっしゃったことですけども、父、母、妻、子などを感情的に憎むということが、弟子になる条件ではありません。それならば、律法に反することであります。イエス様が仰せられたことの真意は、父、母、妻よりも、主を第一とするという優先順位の問題であります。ですから、神が、『わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ』というのは、神の選びの順序であります。

エペソ
2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。


私たち一人ひとりが救われたのも、考えてみれば不思議なことであり、そこには、神の選びがあるのであります。私たちは、救われた時、自分の意志だけで主のみもとに来ることができたでしょうか。自分の意志だけで、みもとに来て、理解した、悟ったと言うのであれば、それは、信仰ではありません。信仰とは、神の意志、招きに対する、私たち、人の側の積極的な応答です。この時、もっとも重要なポイントは従順です。従うということであります。そして、救いを受けることができたのは、私たちの行いによるのではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によるのであります。神の前で、何かの善行とか、修行をして、ある一定の神の要求されるレベルに到達したから、救いの認証を受けた――そういうことではありません。人は、誰も自分の行いによっては、義とされ得ません。ただイエス様を信じるとき、救いは無代価で与えられます。全ては、上から与えられた恵み、哀れみであり、神の選びであります。

陶器師のはなしを、もう一箇所、読みたいと思います。

エレミヤ
18:2 「立って、陶器師の家に下れ。そこで、あなたに、わたしのことばを聞かせよう。」
18:3 私が陶器師の家に下って行くと、ちょうど、彼はろくろで仕事をしているところだった。
18:4 陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた。
18:5 それから、私に次のような主のことばがあった。
18:6 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。――主の御告げ。――見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。


ヤコブを祝福されたのは、神ご自身でありました。同様に、イスラエルの民は、主によって祝福を約束された民でした。イスラエルの民の数が多かったわけでもなく、特別に優秀であったわけでもありません。理由はわかりませんが、しかし、祝福されたイスラエルの民は、ご存知のように、神に背いて、敵対するものとなってしまいました。そして、代わってイスラエル以外の異邦人、つまり、私たちが祝福の中に入れられるようになりました。

ローマ
11:17 もしも、枝の中のあるものが折られて、野生種のオリーブであるあなたがその枝に混じってつがれ、そしてオリーブの根の豊かな養分をともに受けているのだとしたら、
11:18 あなたはその枝に対して誇ってはいけません。誇ったとしても、あなたが根をささえているのではなく、根があなたをささえているのです。
11:19 枝が折られたのは、私がつぎ合わされるためだ、とあなたは言うでしょう。
11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
11:21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
11:22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。


少しややこしい話なんですが、ここには二本のオリーブの木が出てきます。ひとつは栽培種のオリーブの木で、もうひとつは野生種のオリーブの木です。栽培種のオリーブの木は、食べることのできる実を結びますが、野生種は実を結びません。パウロは、イスラエルが主の取り扱いによる栽培種のオリーブの木であるとしています。そして、主との契約の中で、神のいのちという実を結ばせるようになりました。それに対して、異邦人は野生種のオリーブの木の枝です。そのままでは、実を結ばない木の枝であります。つまり、神から遠く離れた民族であり、神の契約とは、何ら関係のないものでした。

けれども、神の一方的な憐れみによって、異邦人である私たちはオリーブの木に接木されました。そして、実を結ぶものへと変えられたのであります。ですから、パウロは、『誇ってはいけない』と言っています。この異邦人のクリスチャンが抱く過ちについて、高ぶりについて、警告をしています。神は、イスラエルが不信仰になったので、裁きを行われます。ご存知のように、イスラエルの民は祖国を失い、離散の民となりました。けれども、私たち異邦人も、イスラエルよりももっと容易く、神に裁かれうるのです。信仰に立っていない限り、すぐにでも裁かれてしまいます。

エペソ
2:11 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、
2:12 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
2:13 しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。
2:14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、
2:15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。

2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。
2:20 あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です


歴史を通して、いわゆるキリスト教会は、メシアであるイエス様を生み出したユダヤ民族に敬意を払うのではなく、逆に迫害してきました。なぜなら、彼らは、救い主であるイエス様を殺したからであります。一方、ユダヤ人にとって、十字架というのは、虐殺と流血の象徴であります。それは、キリスト教会が、イスラエルは、もはや失格者であり、自分たちの教会こそが中心なのだと思い始め、迫害してきたからではないでしょうか。

ローマ
11:25 兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、
11:26 こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。


イスラエルがかたくなになっているのは、ずっとではありません。『異邦人の完成のなる時まで』とあります。つまり、神はあらかじめ救いに導かれるように、定められた異邦人が全て救われる時までです。その時が来ると、今度は神は、イスラエルを皆、救われるのであります。

さて、私たち異邦人は、神の恵みを当たり前のように受けとめてしまいがちであります。神の慈しみに、止まることを忘れてしまいます。そして、あたかも、自分の行いで救いを得ることができたように、考えてしまうものであります。しかし、私たちはテーブルの下にいて、パンくずをもらっている子犬に過ぎないことを忘れてはなりません。その部分の聖書をお読みしたいと思います。

マタイ
15:24 しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の滅びた羊以外のところには遣わされていません。」と言われた。
15:25 しかし、その女は来て、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください。」と言った。
15:26 すると、イエスは答えて、「子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」と言われた。
15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
15:28 そのとき、イエスは彼女に答えて言われた。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時から直った。


食卓から落ちるパンくずをいただく。これが、私たち異邦人の救いであります。私たちも、カナン人の女のような信仰を持つことによって、イスラエルに与えられた祝福のおこぼれに預かっているのです。祝福を受けるのは、当たり前のことではありません。神が、異邦人に憐れみをおかけになったので、私たちは救われ、信じるものとなることができたのであります。

考えてみますと、ヤコブは――今日、学びましたヤコブは――確かにずる賢い男でしたが、神の祝福がありました。聖書では、例えば、罪を犯し、失敗し続けたダビデも、何回も判断を誤ったアブラハムも、弱いイサクも同様で、これら全員の上に、神の祝福がありました。なぜだか、どうしてだか、わかりません。神は、しかし、間違ったことをされないお方であります。言えることは、神の選びは、神の哀れみによって決定されるということでありましょう。私たちが救われたのも同じであります。救いは、完全に神にあり、私たちの何かの要素によるのではありません。私たちには、何ら誇りとするものはないんです。

信ずることのできない人は、聖書の記事を捕らえて、なぜ、神はエサウを憎まれるのか、不公平ではないかと、声高に問うでしょう。しかし、主に信頼する私たちは、御言葉によって、神の選びの計画の確かさが、行いによらず、召してくださる方によると知りました。人間の判断による、良いとか、悪いとか、正しいとか、正しくないとかいうことでは、決して、ありません。ただ、主によると、パウロはその事実を心から受け取ったように、私たちも浅はかな知識や知恵に頼らず、御言葉をそのまま受け取って、主の祝福にあずかることができれば、本当に幸いだと思います。

最後に、御言葉を一箇所、読んで終わりにしたいと思います。

第一ペテロ
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。


私たち、日本人は、異邦人中の異邦人であります。しかし、神の選びによって、あり得ないことが起こりました。また、ベック兄を通して集会に導かれ、信じるものへと変えられました。そして、霊的には、私たちは紛れもなく、約束されたアブラハム、イサク、ヤコブにあって、神に選ばれ、神の哀れみといつくしみにあずかる者なのであります。

ヤコブである私たちは、神に選ばれて、現在、神のいつくしみ、あわれみを得ています。ですから、この与えられた祝福を宣べ伝える者として歩む必要があるのではないでしょうか。

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