2014年4月20日日曜日

よみがえりの主イエス

よみがえりの主イエス
2014年4月20日、松山よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

もう一箇所、読ませていただきます。コリント第一の手紙の15章、多分、世界中でイエス様の復活を憶える人々がこの箇所を読むのではないかと思います。

コリント人への手紙第一
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

こう言うふうにパウロはコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。『私は価値のない者です。』それだけではなく、『キリストは私にも、現われてくださいました。』よみがえられた主イエス様との出会いこそが、もっとも大切であり、必要です。

ある時、ひとりの吉祥寺の姉妹に頼まれたんです。父親は、イエス様を信じる奥さんを亡くしたから非常にさみしい。けども、私、むすめである私の話しを聞こうとしない。けども、この父親はイエス様に出会わなければ悲劇的です。(ベックさんを)紹介いたします。彼女は(ベックさんを)紹介してすぐに姿を消したんです。娘の前では、父親はなかなか心を開かないとわかったからです。この父親は、頭がよくて裁判官です。そして、今の箇所を紹介したとき、彼はびっくりしたんです。お父さん、あなたは裁判官でしょう?裁判のとき、何が大切ですかね?裁判官であるあなたの気持ちですか。あなたの考えですか?あるいは、自分の目で見て、自分の耳で聞いた人々、証人のことばですか?彼は、笑ったんです。裁判官の気持ちは、関係ない。大切なのは、証人です。それから、今の箇所を見せたんです。五百人以上の人が復活なさったイエス様に会いました。彼はもう、言葉がなかった。

普通の裁判だったら、今、話したように証人は一人、二人で十分です。五百人以上だったら、もう話にならない。もちろん、彼は素直に彼はイエス様を信じ、受け入れたんです。(彼は)先に召された。我々は気の毒だね。残されているから。

イエス様は生きておられます。我々の誇りとするところはそれしかないね。私たちは、もちろん、パウロが言ったように、価値のない者です、けども、イエス様は犠牲になって代わりに、死なれました。パウロはどうしてイエス様を知るようになったのでしょうか?

理屈で攻められたから、納得させられたからイエス様を知るようになったのではない。また、脅かされて、強制されたからでもない。よみがえりの主にお会いしたからです。これによって、彼の人生そのものは変えられました。この復活なさったイエス様に出会った三人の人々について、考えて見たいと思います。まず、第一番目、ペテロです。第二番目、トマスであり、三番目、ヤコブです。

ペテロは復活なさったイエス様との出会いによって、何を得たかと言いますと、新しい信頼なのではないでしょうか。イエス様のよみがえりは、彼にとってすべてのすべてになりました。もし、イエス様がよみがえられなかったならば、ペテロはどうなったのか、分かりません。もう生きたくない気持ちになったのは当然です。もしかしたら自殺してしまったかもしれない。

ペテロは、イエス様を公然と否認しました。『私はイエスを知らない。何のことか全く分からない』と、イエス様を裏切ってしまいました。彼はとくに、イエス様のそば、近くにおり、3年半、毎日、イエス様の愛を感じることができた。そして、『私は決してイエスを捨てない』と誓ったんです。けど、イエス様を否んでしまいました。

否んだイエス様は、十字架の上で、言われたとおり、亡くなられました。地上でペテロを助ける者はひとりもいない。よみがえりの主イエス様だけが、彼を救うことができたのであります。イエス様が死んだままだったら、もうおしまい。

マルコ
16:6 青年は言った。『驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
16:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」

よみがえられたイエス様は、遣いを送り、ご自分のよみがえりを弟子たちに告げましたが、とくにペテロの名前をあげて、『イエスはよみがえった。今から弟子たちとペテロの所へ行ってこう伝えなさい』と、言っています。

ペテロはイエス様を否んだまま、イエス様に死なれたので、まったく打ちのめされていました。もし、『弟子たちとペテロ』と、ペテロの名前を特別につけて、名指しで呼ばれなければ、ペテロはもう立ち上がれなかったでしょう。

他の弟子たちは、『たぶんペテロは主を裏切ったから、もう我々の群れには縁のない者だ』と、ペテロを軽蔑していたかもしれない。ペテロがイエス様を否んでから、他の弟子たちはペテロを指導者として仰ぐことをやめていたのではないでしょうか。

ペテロは信頼を失ってしまいました。このペテロに対する疑いを解くために、『弟子たちとペテロ』と、ペテロの名前をとくにイエス様は、付け加えられたに違いない。

私たちは、ペテロと同じではないでしょうか。ペテロは我々のあいだで、例外ではなく、当たり前のことのようになってはいないでしょうか。もし、私たちが、よみがえりの前の土台に立っているなら、何か多くの試みがやってくると、簡単にイエス様を否んでしまわなければならないでしょう。

私たちは、偽りやすい自らを信頼することは絶対にできません。前に決心し、誓っても、自分の決心はいつしか崩れ、裏切るといった結果になってしまいます。

ペテロは指導者となるべく、主から召しを受けました。けど、今は、ペテロとは、主を否み、イエス様の弟子であるかどうかさえ、疑われています。イエス様のよみがえりは、ペテロをどん底から救い出しました。ペテロは、元のペテロになりました。他の仲間の目にも、ペテロは見事な立ち直りを見せたのです。

ペテロは、主を否むという悲しむべき出来事を通して、自らの真相を知ることができました。主を否んでから、イエス様がよみがえられるまでの三日間は、なんという暗い日々だったでしょう。ペテロにとっては、この三日間は、まったく夜でした。けども、この真っ暗い闇を通される必要があったんです。もし、ペテロに、よみがえりの主が現れてくださらなかったなら、ペテロは絶望し、立ち上がることができなかったでしょう。

我々も、イエス様に用いられるためには、ペテロと同じような体験をしなければならないのではないでしょうか。私たちは、自我に満ちた生活をやめ、主なる神に生きる、よみがえりの土台に立たせられることができたら幸いです。

よみがえりの主はペテロに現れ、二人で何かをお話ししあったはずですが、その時イエス様はペテロに何をお語りになったか、聖書に記されていませんので分かりません。けども、ルカ伝の24章には次のように書かれています。

ルカ
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現わされた。」と言っていた。

この箇所によると、言えることは、イエス様は、シモン・ペテロと親しくお話になったことだけは、よく分かります。イエス様とペテロが何を話したか、別に知る必要はないし、知る由もありませんけども、私たちはペテロと同じように、主に対して不真実であり、不信頼に満ちた心の持ち主であることを、教えていただかなければならない。

それを教えられて初めて、後で見事に立ち直ったペテロと同じようになることができます。ペテロは、火を通された後、実にゆるがない、その名前のように岩のようなキリスト者になりました。ペテロは、多くの人々の信頼を受けるに足る信者になったのです。

よみがえりの主は、ペテロを新しくし、ペテロはイエス様に対する新しい信頼を持ち、また、多くの人々に信頼される人へと造り変えられました。今、私たちが差し迫って必要としているもののひとつは、その主に対する、新しいより頼みではないでしょうか。

それから、ペテロについてだけではなく、トマスについて考えても分かります。トマスは復活なさった主との出会によって何を得たかと言いますと、新しい信仰です。トマスという男は、もともと、疑問に満ちた、疑い深い性質の持ち主でした。

ヨハネ
20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

他の弟子たちは、イエス様、復活なさったイエス様に出会いました。復活のイエス様を知って喜び、これを仲間のトマスに伝えました。けど、彼は断固として信じようとしなかった。個人的な疑いは、イエス様に親しくお目にかかるまで、解けないでしょう。聖書を読んでいきますと、よみがえりの主イエス様は、疑い深いトマスのために、わざわざ、もう一度、現れてくださったことが分かります。何という恵み深い主でありましょうか。

『自分のこの指をイエス様の手と足とわき腹の傷にさしてみないうちは、イエス様のよみがえりを信じることができなかい』と、言っていたトマスは、目の前に現れたイエス様の御姿を拝した時、指を傷にあてるどころか、ただ、その場にひれ伏して、イエス様を拝したと聖書は言っています。

疑い深いトマスが、こんなに変えられたのは、驚くべきことです。結局、知らないうちに彼は、まことの礼拝者になりました。彼は疑惑に満ちた者でしたが、『新しい光が与えられたら、この疑惑は解けるのだが・・・・』と、絶えず光を求めていました。しかし、イエス様は、なぜもっと早く、トマスに現れてくださらなかったのでしょうか?それは、トマスのせいだった。トマスが悪かったのです。他の兄弟弟子たちと一緒にいなかったからです。もし、トマスが兄弟のところに帰ってこないで、そのまま自分の道を歩んだなら、イエス様に会うことができなかったばかりか、悲しい結果になったかもしれない。

イエス様は、救われた者の一人ひとりの頭であるばかりではなく、信じる者の群れ、すなわち、ご自分のからだなる教会の頭です。ですから、イエス様は、兄弟姉妹が、共に集まり、御名を賛美しているところに、ご自分を現される場合が多いのではないでしょうか。疑いは、そんなにひどく悪いことではないと思います。トマスは、正直な男でした。彼はイエス様のよみがえりを信じることができなかったから、自分を偽らずに、はっきり言いました。自分は信じられないと正直に告白したのです。

多くの人々は、信じられないのに、あたかも信じたかのように自分を偽っています。トマスは、これらの人たちより、も、よほどましなのではないでしょうか。私たちは、それぞれが問題を持っているでしょう。また、これからも持つでしょう。その中には、よみがえりの主が現れてくださらなければ、どうしても解決できない問題にぶつかることが必ずあると思います。

そのような時は、トマスのように、心から新しい光を求めましょう。そうすれば、必ずよみがえりの主が問題の解決を与えてくださいます。トマスは、新しい光を求めて、それを受ける備えをもっていました。トマスは、主を信じる仲間に入って、いっしょに先へ進むことを拒まなかったのです。

トマスは疑いながらも、交わりに加わっていました。そして、イエス様がトマスに現れる時、トマスはイエス様の前にひざまずきました。我々の過去を振り返ってみると、本当に主に対して不信仰な者であり、イエス様を悲しませた者であることが分かります。私たちが、今日、今、いちばん必要としているもののひとつは、よみがえりの主イエス様に、新しくお会いし、新しい信仰をいただくことではないでしょうか。

それから、ヤコブについて、考えましょうか。彼は、よみがえりの主に出会うことによって、何を得たでしょうか?新しい義を持つようになりました。

コリント第一の手紙15章7節、『その後、ヤコブに現われた』と、書いてあります。このヤコブは、肉体的にイエス様の弟でした。

後に、このヤコブは、『義人ヤコブ』と言われるようになり、エルサレムの教会の監督になった男です。ヤコブ書を読むと、ヤコブは、正しさ、義を強く、主張しています。けど、このヤコブが長年、心に持っていた悩みは、本当の義を自分は持っていないで、自分の持っている義は、おきての義、自分の義だけだということでした。彼は生まれ落ちるなり、神の御子であるイエス様を兄として、いっしょに暮らしていながら、イエス様を批判し、最後には、イエス様を拒んでしまいました。

たぶん彼は、イエス様が罪人たちといっしょに食事をし、人間が作った掟を守らず、安息日を守らずにいたことから、パリサイ人たちと同じように、イエス様を拒んだにちがいない。

ヨハネ
7:5 兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。

ヤコブは、イエス様の生きている間、イエス様を信じませんでした。信じようとしなかったのです。この主イエス様を受け入れなかったヤコブが、ついにイエス様を受け入れる時がやってきた。イエス様は今、十字架の上で苦しんでおられます。苦しみの中からイエス様は、弟子ヨハネに向かって、『ヨハネよ。見よ、これはあなたの母である』と言って、ご自分の肉体の母、マリヤを弟子のヨハネに託されました。続いて、お母さんのマリヤに向かい、『女よ。これは汝の子です』と言って、ヨハネに生涯の面倒をみてもらうように、話されました。

イエス様はなぜ、ご自分の母を、自分の弟であるヤコブに託さないで、ヨハネに託したのでしょうか?たぶん、ヤコブは、始めからイエス様を信じていたお母さんのマリヤと仲が合わず、離れていたからでしょう。自分を産んでくれた実の母を、自分に任せられず、他人の手に委ねなければならないとは、なんというひどい、悲しいことでしょう。これは、己を正しいとする罪の結果です。

自分を義とする結果は、いつも悲劇的そのものです。当たり前のこの世の人々でさえ、信仰のゆえに自分の母を見捨てるなどということはしないでしょう。けど、自分を義としたヤコブは、母を見捨てました。ヤコブはこのように、己を正しいとする人間でした。

パウロは、コリント第一の手紙15章に、よみがえりの主イエスが、誰と誰と誰に現れたか、順序を追って書いていますが、ヤコブの名前は、後のほうに書かれています。イエス様は、己を正しいとするヤコブより、先に罪人や収税人に現れたのです。けども、ヤコブの身についに奇蹟が起こりました。ヤコブは、自分を正しいとすることは、何の役にも立たない、むしろ、妨げとなることを悟り、イエス様の前に砕かれて、新しい義をいただいたのです。多くの人々は、己を義とすることによって、めくらになり、かつてのヤコブのように、悲惨な状態に陥っています。

復活なさったよみがえりの主イエス様だけが、自分を義とするところから、ヤコブを解放することができたのです。我々も、よみがえりの主であるイエス様に新しくお会いすることによってのみ、ヤコブと同じように、義人と呼ばれることができます。

最後に、パウロは、イエス様が自分に現れてくださったことを書いたのですね。

第一コリント
15:8そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。

パウロはよみがえりの主イエス様にお会いして、新しい愛、新しい信頼、新しい信仰、新しい義を受けたのです。私たちもパウロのように、『そして最後に、よみがえりの主は私に現れたのです』と、喜びをもって言えることができれば、本当に幸いです。よみがえりの主にお会いしたら、私たちの生活は、根底から変えられます。イエス様は私に、よみがえりのいのち、また、よみがえりの力を与えるために、死より復活なさいました。

イエス様が与えてくださるよみがえりの力を受ける時、そこから、新しい愛と信頼と信仰と義が湧き出るからです。私たちは、コリントの兄弟姉妹がそうであったように、理論ではなく、実際に、イエス様の御前にひざまずき、砕かれ、主の備えられるよみがえりの力を受け取りたいものなのではないでしょうか。イエス様が、もし実際によみがえったのなら、イエス様のよみがえりのいのち、また、イエス様のよみがえりの力は、我々のためにも備えられ、隠されているからです。

このよみがえりのいのちは、我々の生まれながらのいのちと全く性質を異にするものです。このいのちは、ペテロ、トマス、ヤコブ、パウロの内に宿ったいのちであるばかりでなく、我々の内にも宿っておられるキリストのよみがえりのいのちです。

まとめてみると復活なさったイエス様は、我々にも、ペテロのように新しい信頼、トマスのように新しい信仰、そして、ヤコブのように新しい義を授けられた。私たちが心から、パウロのように、『よみがえりの主は、最後にこの私に現れた』と告白することができ、よろこぶことができれば、本当に幸いだと思います。

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