2014年4月3日木曜日

主イエスの祝福

主イエスの祝福
2014年4月3日、秦野家庭集会
ゴットホルド・ベック

133:1 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。
133:2 それは頭の上にそそがれたとうとい油のようだ。それはひげに、アロンのひげに流れてその衣のえりにまで流れしたたる。
133:3 それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。

人間にとってもっとも、必要、大切なのは祝福されることではないでしょうか。

御代田のうちで、2メートル以上の長さかな?うちの娘、リンデが書いた言葉があるんです。何が書いてあるかと言いますと、『主よ、私を祝福してください。そうしなければ、あなたをさらせません。』昔のヤコブの祈りです。ですから御代田に行くと、そうね、2メートル以上の長さで、リンデは書いたのです。結局、もっとも大切なのは、主の祝福を得ることではないでしょうか。

ここで詩篇の作者であるダビデは、『なんというしあわせ、なんという楽しさ』という言葉を使ったのです。

もう一箇所、読みます。これもダビデの祈りであり、心からの願いでした。祝福される秘訣なのではないでしょうか?

詩篇
115:1 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

ダビデはそういうふうに思い、心から願ったからしあわせでした。

イエス様のない人生は確かに無価値です。無意味です。イエス様のみが永遠のいのちをお与えになるお方でありう、本当の満足を与えられるお方です。また、すべての問題を解決できるお方です。

主イエスの福福こそが、ここで、とこしえのいのちの祝福という表現が使われています。これこそが大切です。『とこしえのいのち』とは、すなわち、ものではない。イエス様ご自身です。このイエス様とは、何と言ったかと言いますと、『わたしは、いのちそのものです。』聖書は、次のように言っています。イエス様を持つ者は永遠のいのちを持っており、このイエス様を持たない人は、永遠のいのちを持っていない。イエス様は、昨日も今日も、いつまでも、同じです。変わらないお方です。

永遠のいのちであられるイエス様の祝福を得ることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。本当に私たちが必要とするただひとつのものは、とこしえのいのちの祝福なのではないかと思います。なぜならば、私たちは主の祝福を受けるとき初めて、心満たされ、喜びを持って、平安を持って、生き生きとした希望をもって毎日、過ごすことができるからです。結局、前向きに生活することができるのです。現代人にとって、いちばん大切なのは前向きに生活することです。

おそらく、今までの歴史を見ても、前向きに生活することは、何とかできた。今の世界の様子を見るとたいへんです。働こうと思っても、働く場がないと、どこの国へ行っても、悩んでいる人はいっぱいいます。今まで、そういう時代はなかったのです。それだけではなくて、よくなる可能性は、まずない。

人間は、誰でも幸せになりたいと望んでいます。けど、残念なのは、多くの人は幸せになりたいと思っても、本当に幸せになることはできないと思いこんでしまっています。本当の幸せの根拠とは、何でしょうか。それは、とこしえのいのちの祝福を得た結果です。ですから、ひとつの問いについて、手短に一緒に考えてみたいと思います。すなわち、このとこしえのいのちの祝福を得る道とは、いったい何でしょうかね?三つです。第一番目、まことの神を知ることです。二番目、真のいのちを持つことによってです。三番目、主の栄光を求めることによってです。

まず、一番目ですね。とこしえのいのちの祝福を得るために私たちは、まことの神を知る必要があります。まことの神とはいったい、誰なのでしょうか。

ダビデは詩篇の115篇を通してはっきりと答えています。すなわち、まことの神とは、「天と地を造られた方である」と15節に書いてあります。そして、3節に、「私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる」とあります。ひとことで言いますと、まことの神は、「生きておられるお方」です。したがって、他のいわゆる神々は、生きていないものであり、人間の思想であり、人間の作った産物です。人間によって作られた神々は、聖書の中でいつも、偶像――偽物と呼ばれています。そして、ダビデはこの詩篇115篇の中で、このまことの神と偽物である偶像を比較しています。まことの神に出会った人は、主を知り、心の拠り所を持つ者であり、また、彼らは喜んで、「神は私たちの神です」と言うことができます。ダビデは、イスラエルの人々も――3節に書いてありますように――、「私たちの神」と証しすることができたのです。まことの神に出会っていない人々は、もちろん、神を知らず、したがって、決して、「神は私のものである」と言えません。ですからダビデは、4節に、「彼らの偶像」と言ったのです。

【参考】詩篇
115:4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。

本当にこの115篇はすばらしいダビデの告白です。もう一回、読みましょうか。

詩篇
115:1 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。
115:2 なぜ、国々は言うのか。「彼らの神は、いったいどこにいるのか。」と。
115:3 私たちの神は(・・・・生きておられるお方です・・・・)、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。

ダビデは、『私たちの神』ということができた。

115:4 彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。
115:5 口があっても語れず、目があっても見えない。
115:6 耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
115:7 手があってもさわれず、足があっても歩けない。のどがあっても声をたてることもできない。
115:8 これを造る者も、これに信頼する者もみな、これと同じである。

ダビデ王は、まことの神と偶像を比較されましたね。

詩篇
115:3 私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行なわれる。

まことの神は天に住まわれ、この神にとって不可能なことは、ひとつもありません。

確かに多くの偶像は、確かに、非常に芸術的に作られています。偶像は、あるときは男に似せて造られ、あるときは女のかたちに似たものとして作られ、あるときは動物にかたどって作られています。皆、人間の造ったものですけども、いずれの偶像も共通点を持っています。それは、偶像全てが語らず、また、答えないということです。これに対して生けるまことの神は、真心から求められるとき、必ず答えてくださいます。その意味で、偶像はオシであり、メクラであり、ツンボです。

旧約聖書からもう一箇所、読みましょうか。

申命記
4:27 主はあなたがたを国々の民の中に散らされる。しかし、ごくわずかな者たちが、主の追いやる国々の中に残される。 
4:28 あなたがたはそこで、人間の手で造った、見ることも、聞くこともせず、食べることも、かぐこともしない木や石の神々に仕える。

それに対して、生けるまことの神は、決して、オシではありません。御言葉である聖書を通して、主は、我々に語っていてくださるお方です。また、生けるまことの神は、メクラでもありません。まことの神は、どのような隠れているものでも、どんなに小さいものでも、すべて見通すことがおできになります。また、生けるまことの神は、ツンボでもありません。まことの神は、必死になって救いを求める者、また、心の貧しい者の叫びを必ず聞いてくださるのです。

エレミヤ記の10章、一文章だけですけど、次のように書いてあります。

エレミヤ
10:10 しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。

エレミヤはこのように告白して、主を紹介したのです。

偶像により頼むものは、おろかです。生きるまことの主なる神に信頼する者は、助けを経験します。主は助ける力、また、守る力を持っておられるのです。

ダビデは喜びをもって、確信をもって、次のように言うことができたのです。『私たちの神は、オシでもなく、メクラでもなく、ツンボでもありません。私たちの神は生きておられ、私たちの助け手であり、また、盾です。すなわち、我々の神は助ける力、また、守る力を持っておられます。』このまことの生ける神は、我々のわがまま、過ち、罪を赦してくださり、私たちのようなつまらない者を受け入れてくださり、我々に永遠のいのちを与えてくださるお方です。

とこしえのいのちの祝福を得るために、まことの神を知る必要があります。まことの神を知るため、頭を下げて、自分自身を低くして、正直に、『私は、まことの神から離れている者です。過ちを犯した者です。満たされていない者です。心の拠り所をもたない者です。どうか、隣れんでください』と、イエス様に向かって叫ぶと、前向きに生活することができます。イエス様はこのように、わたしのところに来る者うを、わたしは決して捨てないと、約束してくださったから、すぐに、あなたは赦してくださったことを感謝いたしますと信じ、また、祈ることができます。

とこしえのいのちの祝福を得る道とは何でしょうか。今、話したように、まず、まことの神を知ること、体験的に知ることによってです。二番目、真の一致を持つことによってです。

詩篇
133:1 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。

まことの一致について、三つのことがらが述べられています。第一番目、同じ愛の心を持つこと。二番目、心を合わせること。三番目、志を必要とすることです。パウロはピリピにいる人々に手紙を送ったのです。そして、祈りながら願ったんです。

ピリピ
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

ご存じのように、パウロはこの手紙を刑務所の中で書いたのです。パウロはこの刑務所から出られなくなったかもしれません。間違いなくパウロは刑務所の中で、悩んだり、苦しんだり、心配しました。けど、はっきり言えることは、彼は自分のことを忘れ、信者たちの成長のために祈り続けたということです。刑務所から出られるように祈りなさいと、彼が頼んだことはない。

ピリピ
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

これがパウロの切なる願いでした。同じ愛の心を持ちなさい。すなわち、イエス様を通して明らかになった主なる神の愛を体験的に知ることです。それから、主の愛を伝える器となることです。

エペソ
4:2 ・・・・愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

我々、信者一人ひとりを通して、他の信者に祝福をもたらすように召されています。すなわち、我々を通して、他の主を信じる者が、イエス様とさらに深い交わりを持つようになり、兄弟姉妹と主とがさらに近づき、妥協せずに、喜びに満たされて、信仰生活を送ることができるようにと、主は信じる者を用いようと望んでおられます。

主なる神が感心を持っている唯一のことは、イエス様を信じる信者に関することです。主なる神が人間一人ひとりをどのように大切なものであると思っておられるか、また、その一人ひとりを贖うために、どのような大きな犠牲を払ってくださったかと言うことを考えてみるならば、一人ひとりを愛さざるを得ない。これは、もちろん、自分の努力の結果ではない。主ご自身の愛の表れです。

だから、パウロは、よく知られている箇所ですけど、ローマ書5章に、次のように書いたのです。

ローマ
5:5 ・・・・私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

主なる神は、兄弟姉妹に対して、最大の関心を払っておられます。だから、我々の最大の関心事も、区別なしに、兄弟姉妹を心から受け入れると言うことでなければならない。

パウロは、今、話したように、刑務所の中で信者たちを思い、『同じ愛の心を持ちなさい』だけではなく、次に、『心を合わせてもらいたい』と、書き記したのです。同じ目的を目指して走ろうではないか。

演奏会の始まる前に、それぞれの楽器の演奏者は音程をひとつに合わせます。それと同じように、我々は心をひとつにして、同じ思いを持たなければ、神の栄光を現すことができません。信じる者の集いは、霊による一致と愛に満たされたものでなければならない。この詩篇の133篇の1節は、本当に大切な箇所ですね。

詩篇
133:1 見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。

イエス様の体なる教会は、分裂したものであってはならない。かえって。それぞれの器官がお互いに配慮しあうべきです。御霊の一致と愛の一致があるところにのみ、ともなる賛美と、主の御名が崇められることが成就されます。詩篇の34篇の3節、ダビデは二回も、『ともに』、『共に』という表現を使ったんですね。

詩篇
34:3 私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。

心と声を合わせてください。これがパウロの願いであり、また、これこそが主なる神の命令であり、祝福の秘訣です。一緒になって奉仕したり、ともに働いたりすることはできますが、けど、心の一致がなければ、あまり役に立たないものとあり、なぜなら、心の一致のあるところにのみ、祝福があるからです。

新たなる祝福を得ようと思えば、他の信者たちと心をあわせて、主を仰ぎ見なさいと言えます。初代教会の兄弟姉妹について、書かれています。使徒行伝の1章14節を見ると、やはり、『ともに、みな』という表現が出てきます。

使徒行伝
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

意見の違いによって兄弟姉妹は、互いに分裂してはなりません。信者であれば誰でも、愛をもって、互いに受け入れ合わなければなりません。枝葉の問題よりも大切な問題があります。キリスト者の交わりの目的は、枝葉の問題に関して議論することではなく、共に心をひとつにして、主を礼拝することです。これはまた、救いの目的でもあり、我々の救われた目的こそ、それであります。

まことの一致とは、何を意味しているのでしょうか。今、話したように、まず、同じ愛の心を持つことであり、次ぐに、心を合わせることであり、もうひとつ、三番目ですけど、志をひとつにすることです。志をひとつにすることとは、いったい何を意味しているのでしょうか。すなわち、イエス様のように人を見なさい。イエス様のように、この目に見える世界を見なさい。イエス様の持っておられる要求を持ちなさいということです。

パウロは、当時の信者たちの中に、二種類があったと書きました。

ピリピ
2:20 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。
2:21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

彼らは、疑いもなく、イエス様を救い主として受け入れていますし、心から信じていますが、けど、イエス様のことよりも、自分自身のことを求めた。ぜひ、覚えるべきこととは、自分自身を無にして、主の栄光を追い求めるということによってのみ、志をひとつにすることができるということです。

イエス様は、ペテロに、「あなたは、ヨハネのようになりなさい」と言わなかったし、また、ヨハネに向かって、「あなたは、ペテロのようになりなさい」と、もちろん、仰いませんでした。同様に、イエス様は、マリヤに向かって、「マルタのようになりなさい」と言わなかったし、マルタに向かって、「マリヤのようになりなさい」と言わなかったのです。

コーラスの中には、いろいろなパーツがあります。主なる神は、賛美が一本調子ではなくて、互いに調和を保ちながら、美しいハーモニーを奏でることを望んでおられると、使徒たちの書いた手紙を見るとはっきり言うことができるのです。信仰の弱い人も、強い人も、また、能力のある人も、無い人も、主への賛美のために、ひとつ心になるべきです。

イエス様は、正しい認識に欠ける信者たち、また、疑惑の中にいる信者たちに、思いやりを示してくださり、彼らを愛して、ご自分のいのちを、このような人々に対して捧げてくださいました。この心がまえを、我々も持つべきです。

今まで、我々は、心の一致を持つことの必要性について、考えてまいりましたが、今度は、最後の点について考えたいと思います。すなわち、とこしえのいのちの祝福を得る道とは何でしょうか。今、話したように、まことの神を知ることによってです。二番目、真の一致を持つことによってです。もうひとつ、最後に、三番目になりますけども、主なる神の栄光を求めることによってです。

もう一回、115篇の1節を読みましょうか。これは、ダビデの切なる願いでした。

詩篇
115:1 私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください。

115:18 ・・・・私たちは、今よりとこしえまで、主をほめたたえよう。ハレルヤ。

生まれつきの人間は、主の栄光を求めようとしません。自分自身のことだけしか考えていないから。従って、主なる神の栄光を求めるようになることとは、まさに、主の御霊の働きの結果であると言えます。御霊の働きについて、イエス様は次のように言われました。「御霊はわたしの栄光を現わします。」

御霊が、イエス様の栄光を明らかにされると、人間は、結果としてひれ伏して、主を礼拝せざるを得なくなります。すなわち、ダビデのように、この1節に書かれているように、「私たちにではなく、主よ、私たちにではなく、あなたの恵みとまことのために、栄光を、ただあなたの御名にのみ帰してください」と、切に願うようになります。

ただ、主にだけ、栄光が帰されますように。これは、当時の王であるダビデの願いであり、また、切なる祈りでした。

我々人間の危険は、いつも自分自身が中心になりたいと思う気持ちです。ただ、自分の名誉だけを求める者は、主の栄光を奪い取ってしまう者であり、その結果、必ず、自らに不幸を招く者です。その反対に、ただ主の栄光だけを求め続けると、人生は本当に満たされたものとなるにちがいない。

主の栄光を求めながら祈る者は、必ず主からの答えを与えられます。主の答えは、決して崩れることのない喜びであり、また、決して絶えることのない平安です。

主の栄光を熱心に求めることが、我々の信仰生活の特徴であるべきです。バプテスマのヨハネは、イエス様は、「イエス様は盛んになり、私は衰えなければならない」と、告白しました。だからこそ、彼は大いに祝福され、喜びに満たされたのです。自分自身のことが大切ではなく、また、自分の身の上に何が起こるかということも、別に大切ではない。ただ主の栄光が現れることを求めることこそが大切なのではないでしょうか。

満たされた人生の秘訣は、ただ、主の栄光だけがあがめられるようにという切なる願いです。けども、主の祝福は、もちろん、人間の考えている健康とか、富とかそういうものでなくて、ただイエス様ご自身です。一言で表現するならば、我々は主の内にすべてを持っているのです。イエス様の内に、汲み尽くすことのできない富が、我々のために開かれています。

パウロは、ローマ書の8章に、この事実について書いたのです。

ローマ
8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすベのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

我々が必要とするただひとつのものは、主の祝福です。私たちは、主の祝福をいただくとき、すべてのものを持っているのです。主の祝福が、我々の上に、とどまることができないとき、私たちは本当に哀れな者になってしまいます。すべての点において、主は、祝福したいと望んでおられます。一瞬一瞬、主は祝福したいと望んでおられます。しかも、今日から将来に至るまで、主は、我々を祝福したいと、心から願っておられます。

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