2014年4月16日水曜日

血潮の絶大的な価値(2014年春日部)

血潮の絶大的な価値
2014年4月16日、春日部家庭集会(夜の部)
ゴットホルド・ベック

エペソ
1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

コロサイ
1:14 この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。

ヘブル
9:14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

前に、一緒に歌った歌の中で、『十字架の血潮で、罪、咎を洗われ、滅び行くこの身を、救われた喜び♪』という言葉がありました。

聖書の中心テーマのひとつは、いったい、何なのでしょうか。『血を注ぎだすことがなければ、罪の許しはない』ということばです。何回も出てくる、大切なことばです。血を注ぎだすことがなければ、罪の許しはない。

アメリカの初めての大統領は、ジョージ・ワシントンだったのです。彼は、1732年に生まれ、そして、1799年に亡くなったのです。まだ若かったですね。67歳だったのです。ちょっと、のどが痛くなって、けども、急に亡くなったのです。言えることは、彼のせいと言うよりも、医者のせいだった。医者のミスだったのです。健康な体でも、このような手当てを受けたら、必ず誰でも、死ぬのです。医者が何をやったかと言いますと、病気を治すために、大統領から何リットルもの血を取ってしまったのです。それによって、病気が治る、助かると思ってしまったのです。今では、あり得ない。けど、当時、このような治療が、平気で行なわれました。その後ももちろん、長い間、続けられたのです。今日、そのような手当ては、殺人とみなされるでしょう。必ず、刑務所です。

けど、ワシントンの時代にも、本当は許されないことでした。どうしてであるかと言いますと、大統領が亡くなった時、ベッドのそばには、聖書、神のみことばである聖書が置かれていたのです。そして、聖書の中に、こういうことばがあります。

レビ
17:11 肉のいのちは血の中にあるからである。

17:14 すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。

これは別に、孤立したことばではありません。聖書は、おそらく――血液学の教科書を除いて――、他のどんな本よりも、血とその重要性について、多くを語っています。ワシントンの時代には、血液の知識は、確かになかったでしょう。けど、聖書を信じることはできたはずです。無知と迷信のために、そして、何千年来、伝えられてきた単純明快な神のみことばを、少しも信じようとしなかったために、犠牲となった命の数は、数え切れないほどです。

その時、『聖書はなんと言っているか』と、考えたならば違う。もちろん、今日、人間は問題を持っていれば、だいたい、自分の考えていること、他の人の考えていることを聞こうとするかもしれない。けど、これは危ない。聖書はなんと言っているかと、考えるべきです。

肉体の死より、もちろん、霊魂の死のほうが、もっと悲劇的で、救いようのないものです。聖書では、内面的な生活や、主なる神との永遠の関係とに絡んで、血の大切さを説いています。この場合、重要なのは、我々の血ではなく、別の血です。言うまでもなく、我々のために流された主イエス様の血です。

確かに、多くの人々には、信じがたいことでしょう。けど、本当なのです。血は、聖書の主題です。聖書には、初めから終わりまで、何百回も血のことが述べられています。すなわち、今、話したように、血を流すことなしに、罪の赦しはあり得ない。さらに、「イエス・キリストの血が、すべての罪から私たちを清める」と、書かれています。

「罪の報いは死である」とあります。ここで問題になることは、これは、単なる宗教的な迷信か、科学的な事実かということです。もし、事実としたら、それは、全宇宙でもっとも大切な事実と言えましょう。すなわち、人間の永遠の運命は、その事実を受け入れるか、拒むかのどちらかです。神のみことばである聖書は、我々に理論や単なる教えを伝えようとしているのではない。事実、そのものを伝えようとしています。

聖書の中で、もっとも大切な事実は、主イエス様の成された救いです。だから、「主イエス様の流された血」ということばこそ、聖書の中心、そのものです。イエス様の弟子であるペテロは、この事実について、次のように書き記したのであります。

第一ペテロ
1:18 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

主イエス様の血は、尊いものであるから、流された血は、大いに愛されていることを意味しています。考えられないほど、愛されている証拠、そのものです。イエス様の流された血とは、単なる教えと言うよりも、唯一の救いの道です。イエス様の弟子であるヨハネは、次のように書いたのであります。

第一ヨハネ
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

イエス様の血は、すべての罪からきよめる。これこそが、喜びの訪れ、そのもの、良いニュース、そのものなのではないでしょうか。

イスラム教では、何と言っているかといいますと、神は子供を持っていない。けども、神の御子であるイエス様がなければ救いの道がない。なぜならば、主は、「わたしは、道そのものであり、真理そのものであり、いのちそのものです」と、自分自身を啓示してくださったのです。いわゆる、統一教会の原理講論の中で、「血」ということばは、一回も出てきません。その意味は、統一教会の提供している救いとは、にせものです。なぜなら、人間の代わりに、罪のない者が死ななければ、罪の赦しはあり得ないのです。

私たちは、聖書の事実を、頭の中に蓄えている知識として知るだけでは、もちろん、充分ではない。生活の中に、どうしても、その知識が満たされていかなければ、日々を生活することができない。それほどに、体験的に知らなければなりません。このような、生活の中に生きていく知識を、我々は必要とします。言うまでもなく、この知識は、頭の知識とは遠くかけ離れた知識であって、我々の人格から切り離して考えることのできないほど、深く染み込んでいる知識です。

私たちは今、末の世の暗黒の時代に生きていますけど、私たちが日々を生活するには、岩のように硬い、しっかりとした土台を必要としています。この土台は、今、話したように、この生活の中に染み込んだ知識、神のみことばである聖書に書かれている主の永遠に変わらない事実でなければいけない。

主なる神のご計画とは、いったい何なのでしょうか。イエス様は、次のように言われました。

ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て(・・・結局、私を見て・・・)信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

良い行いをして、一生懸命、努力する者ではない。私を信じる者は、永遠のいのちを持っている。パウロは、ガラテヤと言う地方に住んでいる救われた人々に、次のように書いたのであります。

ガラテヤ
4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

主なる神のご目的は、人間がみな救われて、そして、神の子供とせられた者がみな、イエス様の御姿に似せられていくことです。一人ひとりは、自分の強い点、自分の弱い点を知っています。自分のいちばん弱い点も、皆、知っているでしょう。そして、私たちは、イエス様の御心にかなう生活をしようと思っても、大変です。その結末は、敗北に終わってしまうのではないでしょうか。どうしてでしょう?本当の土台を持っていなかったせいでしょうか。聖書の知識を持っていなかったせいでしょうか。確かに、人間はみな、多くの悩みや苦しみがあるけど、それに対する主の備えは、ご自分の一人子である主イエス様です。

よく言われています。『Christ is the answer.』イエス様こそ、あらゆる問題に対する唯一の答えである。『それは知っている』と、多くの人々は言うでしょう。けど、もし、それを本当の意味で知っているならば、いったい、どうして、なぜ、自分の力で、勝利の生活を送ろうとしているのでしょうか。

イエス様だけが、勝利の生活を送らしめることができるお方です。パウロは、自分の信仰生活において、「勝ち得て余りある」と証ししました。ローマ書8章の最後の数節は、非常によく知られています。

ローマ
8:37 私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

パウロは、勝利の秘密を握っていました。それは、ガラテヤ書にある通り、「最早、われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。」この勝利の秘訣を、パウロは知っていたのであります。このガラテヤ書の2章20節は、本当に信じるものにとって、もっとも大切な箇所のひとつなのではないでしょうか。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

私たちは、自分自身で勝利の生活を送ることはできません。我々の内に住んでおられるイエス様だけが、私たちをして、勝利のおくらしめてくださるのです。ですから、私たちの内に、イエス様の御姿が形造られてくるということが、考えられないほど大切です。

多くの人は、悩んで、そして、考えます、「主は、どうして私を、このようなお取り扱いの中に、お入れになるのでしょうか。私には、どうして、こんなに悩みがあり、苦しみがあるのでしょうか。」それは、自分自身が死んで無くなり、自分の内にイエス様が生きておられるという、まことの知識に達するように、主ご自身が導いておられるのです。

私たちは確かに、いろいろな願いを持っていますが、主はそれに応えます時に、間違いなく、イエス様を私たちにお示しになります。その他のどのような方法も、お取りになりません。

パウロはまた、次のように書いたのです。すべての人についてです。

ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

確かに聖書の中で、人間の犯す罪について、多くのことが言われています。罪の働きは、三つかな?ひとつは、主なる神に対して、隔ての壁ができた。罪とは、主から離れている状態です。それから、自分に対して、良心の呵責が重荷となりました。もうひとつ、悪魔に対して、訴えの根拠になってしまったのです。

確かに、今、話したように、主なる神に対して、隔ての壁ができた。すなわち、最初の人であるアダムが、主なる神に対して不従順であったため、主なる神と人間とのあいだに隔たりが出来てしまった。すなわち、不義が、罪が、神と人とのあいだを、隔ててしまったのです。

イザヤ
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。

したがって、主なる神は、『全人類はことごとく罪の下にある』と言っています。ローマ書の中で、非常によく読まれていますね。

ローマ
3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」

これこそが、主の人間に対する判断です。罪によって、主なる神に対して、隔ての壁が出来てしまったのです。けど、それだけではない。

自分に対して、良心の呵責が重荷となったのです。罪を犯し、神とのあいだに隔たりが出来たために、人間には良心の呵責が生じました。主なる神の霊、聖霊なる神が、人の心に働くと、全人類はことごとく、罪の下にあることを悟り、自分は罪を犯したと認めるのです。いわゆる放蕩息子の告白は、次のようなものでした。

ルカ
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」

罪の働きは、今、話したように、主なる神に対して、隔ての壁ができた。それから、自分に対して、良心の呵責が重荷となった。

もうひとつ、悪魔に対する訴えの根拠となってしまったのです。私たちは、良心の呵責を持っておりますが、悪魔はそれにつけ込み、人間に、「お前は罪を犯した。ダメな者だよ。」悪魔は、訴える者として黙示録に書かれています。悪魔は、結局、人間をダメにしよう、惑わそうと思っています。そして、告発者と呼ばれています。

黙示録
12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」

もちろん、これは将来のことなのです。今、現在、もちろん、悪魔は我々を訴えているものです。前に言いましたように、主なる神も、人間も、悪魔も罪の事実を確かに認めています。ですから、三つの事柄すなわち、主なる神に対する罪、良心の呵責、そして、悪魔の訴えを解決することが大切です。

しかし、いったい、どうしたらこの三つの問題を解決することができるのでしょうか。先に言いましたように、人間のあらゆる困難、苦しみに対する主なる神の答えは、いつも一つ、すなわち、ご自身の御子であられるイエス様ということです。この三つの問題も、もうすでに、イエス様によって、イエス様の十字架の犠牲によって、解決済みなのです。

すなわち、主なる神と人とのあいだを隔てている罪という名の壁は、イエス様の血潮によって、もうすでに取り除かれたのです。主なる神と人間との交わりができるようになりました。それから、イエス様の十字架の血をよく知るならば、私たちの良心の呵責は消えてなくなります。また、私たちが、イエス様の血潮の価値を深く知るならば、悪魔の訴えは効き目がなくなります。

このように、イエス様が十字架で流された血の力は、無限に価値あるものです。主なる神に対して、我々の良心の呵責に対し、また、悪魔の訴えに対して、十二分の効果を持っております。

私たちが、霊的に進歩し、成長を遂げたいと思うならば、どうしてもイエス様の血潮の限りない力を知る必要があります。イエス様が、十字架にお架かりになり、その時、流された血の絶大な価値を知らなければならない。この知識なしに、イエス様にお従いすることはできないのではないでしょうか。

イエス様の流された血の三つの働きは、今、話したように、壁の廃棄――主なる神との交わりが可能となった。二番目、罪の赦しが提供されています。結果として、喜びと平安に満たされるようになります。そして、三番目、十字架の犠牲こそが、悪魔に対する勝利を意味しています。

壁の廃棄、主なる神との交わりが可能となった。これこそが我々の喜び、また、希望の秘訣、そのものです。イエス様の流された血はまず、主なる神ご自身のために流されたという事実について考えるべきではないでしょうか。確かにイエス様の血は、我々の贖(あがな)いのために流されたにちがいない。私たちの罪が許されて、主なる神に近づくために流されました。私たちが、主なる神に裁かれないようになるためには、どうしても、罪の赦しと贖いが大切です。

罪の赦しは宗教、または、理論、あるいは、教え、道徳的に良い行ないによっては、やってこない。ただ、イエス様の流された血によってのみ、罪の赦しが与えられます。けれども、イエス様の血は、まず、主なる神のために流されたのであり、我々、人間のためではない。

もし、私たちがイエス様の血の価値を知ろうとするならば、私たちは、先ず、主なる神ご自身が、イエス様の血をどのように考えておられるか、知らなければならないのではないでしょうか。もし、私たちが、主なる神がイエス様の血をどのように考えておられるかを理解していないならば、イエス様の血潮は、我々にどんな意味があるかも、もちろん、わからないでしょう。御霊が、主なる神は、御子の血をどのようにお思いになっておられるかを、我々に教えてくださる時、はじめて、私たちは、イエス様の血の尊さを知ることができるのです。ですから、聖書の中のもっとも大切な事実は、血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない。けど、イエス様の血が流されたから、私たちは喜んで、『赦された!永久的に受け入れられた』と、告白することができます。

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