2014年4月6日日曜日

本当の喜び

本当の喜び
2014年4月6日、大阪・神戸よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

第1ヨハネ
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
3:3 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

うれしいね。主は生きておられるから、何があっても、主は支配しておられる。多くの人間が考えている『運命』は、存在していない。主が支配しておられます。愚かな我々は、もちろん、よく、どうして、なぜ、と考えます。知る必要はない。けど、ゆだねることができるから、ありがたいのではないでしょうか。


今日は、『本物の幸せ』について考えたいと思います。『本物』があれば、『偽物』もある。偽物とは、人間の考えていること。病気にならなければ、ずっと健康だったら、幸せと思う人もいる。本当でしょうかね?考えられない(ほど)多くの人々が、病気になってから、心の目でまことの救いを自分のものにすることができたのではないでしょうか?

ヨハネは、他の弟子たちは皆、イエス様のゆえに、殺されてしまった。ヨハネだけ、残された。どうして?大切な仕事が残っていたから。彼はまだ、三つの手紙を書かなくてはならなかったし、そして、黙示録も書いたのです。このヨハネは、今、読んだように書いたのですね。もう一回、読みましょうか。聖書の中で複数形となっているのですね。私たち、私たち、私たちとなっているんですけど、たまには、聖書を直して、複数形ではなくて、単数形で読んでみてもいいかもしれない。単数形で読んでみると、次のようなことになりますね。

『私が神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私は神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私を知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち。私は、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私はキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私はキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。』

ヨハネは、当時の信じる者にこういうふうに書いたのです。私たちは解かっています。原文を見ると、確信する、すなわち、望んでいるのではない。確信できる。この確信こそが、信じる者の幸せなのではないでしょうか。ここで三つのことが書かれていますね。第1番目、私たちは、今、すでに神の子供です。2番目、私たちは、キリストに似た者となり、そして、3番目、私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになる。

現在について、一つの事実が述べられています。すなわち、私たちは今、すでに神の子供です。そして、将来について、二つの事実が述べられていますね。すなわち、ひとつは、私たちは、キリストに似た者となり、もうひとつは、私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになる。現在について、一つの事実、そして、将来について二つの事実が述べられていますから、現在よりも、将来は大切であると、はっきり書き記されています。今、述べた事実について、少しだけ、一緒に考えてみたいと思います。

信じる者の幸せの根拠は、今、話したように、第1番目に、私たちは、今すでに神の子供ですと。すなわち、神の子供となることこそが一番、大切です。唯一の生けるまことの神は、天地を、万物を、無からお造りになられたお方です。そして、この主なる神は、我々の救い主なる主イエス様を通して、救いの道を開いてくださいました。私たち、信じる者は、自分の過去を振り返ってみると必ず、次のように言わざるを得ない。

すなわち、私は主なる神を知らなかったし、もちろん、怖れなかったし、崇めようとも思わなかったのです。真理を信じるよりも、真理に逆らった者でした。けど、主なる神の働きの結果として、次のことを知るようになりました。つまり、私は、主なる神の前に罪があり、過ちがあり、わがままがある。神の怒りのもとにいる。神から遠ざかっているのであるから、望みのない者ですと。

そして、神なき人生の無意味さ、また、空しさを認識するようになり、また、いかなる努力も、自分の罪の問題を解決することができないと認識しました。そして、上からの光に照らされた者として、破産を宣告し、自分の債務、また、我がままを、イエス様に告白する恵みにあずかるようになりました。

結果として、私たちは、イエス様の流された血潮によって私たちは贖われ、主なる神の子供とされたことを確信するようになったのです。我々の信仰生活の初めとは何でしょう。私たちは、十字架につけられたイエス様を、心の目で見たのです。そして、聖書は次のように言っています。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

信じるとは、十字架につけられたイエス様を、自分のために死なれたお方として見ることです。十字架につけられたイエス様は、我々の罪のために、ちょうど避雷針のように、我々の罪の上にくだるべき聖なる神の怒りを受けてくださり、尊い贖いの代価を支払ってくださり、借用証書を無効にしてくださいました。十字架につけられたイエス様を、心の目で見て、イエス様のなされた救いの御業のために感謝をする者は、永遠のいのちを持つことができる。イザヤ書45章22節、一文章だけですけど、すばらしい箇所です。

イザヤ
45:22 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。

十字架にかけられたイエス様こそ、私たちが仰ぎ見なければならないお方です。仰ぎ見ることとは、すなわち、素直に信じ、受け入れることです。ヨハネ伝1章12節に、この方を受け入れた人々、理解した人々ではない。

ヨハネ
1:12 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

信じる者は、『私たちは今すでに神の子供です』と、喜びを持って、告白することができます。生けるまことの唯一の神の子供となることは、考えられない宝物であり、最大の喜びです。全能なるお方は、私たちを神の子供にしてくださいました。主なる神は、イエス様のゆえに、あなた方の父となってくださいました。私たちは、もはや決して一人ぼっちではない。偉大なる主が、いつも共にいてくださるのです。

信じる者は、いったいどうして、創造主なる(神の)子供となったのでしょうか。唯一の答えは、主があわれんでくださったからです。新しく生まれ変わることによって、私たちは、神の子供となりました。そして、ちょうどこの世に生まれてきたことが一回限りのことであるのと同じように、新しく造り変えられるということも、一回だけの事柄です。

改心の種は、いうまでもなく、御言葉です。聖書に書かれている主のことばであり、また、御霊の働きです。けど、この世に生まれてきたことが、人生の始まりであるのと同じように、改心もひとつの始まりを意味しています。

赤ちゃんは、両親にとって、最初は喜びの種であるでしょう。けど、生まれてから全然、成長しなければ、よろこびではなくて、悲しみの種になってしまいます。改心しても、成長しなければなりません。改心は、新しく造り変えられることの始まりですが、この変化と成長は、全生涯を通じて、絶えず行なわなければならない。

初代教会の救われた人々は、喜びを持って、また、確信を持って、告白することができました。すなわち、『私たちは今、現在、もうすでに神の子供です』と。現在、どうして、大いに喜ぶことができるかと言いますと、自分の汚い過去が清算され、自分の過ち、また、我がままは、流された血によって洗い消されたからです。本当に考えられない恵みです。

将来について、すなわち、今からの成長について、次のように書かれています。第2番目の点になります、すなわち、私たちは、キリストに似た者となる。今、言いましたように、救われるために、すなわち、神の子供となるために、私たちはイエス様を自分の救い主として、見上げることです。ですから書かれています。『地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。』見よ。あなたの罪を取り除かれた、約束されている主イエス。イエス様は、次のように約束してくださいました。よく引用される箇所です。

ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て(・・・結局、私を見て・・・)信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。

すなわち、救われた人々について、ここで、私たちはキリストに似た者となるとも書かれています。どういうふうに、キリストに似た者となるのでしょうか。答えは、コリント第2の手紙3章18節です。

第2コリント
3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

イエス様と同じ姿に変えられる秘訣は、高く引き上げられたイエス様を仰ぎ見ることです。イエス様を仰ぎ見ると、知らないうちに、変えられるようになり、勝利が与えられ、大いに祝福されます。人間は、その人が見るものの姿に変えられるのではないでしょうか。詩篇の作者であるダビデは、次のように書いたのです。

詩篇
34:5 彼らが主を仰ぎ見ると、彼らは輝いた。

あなたの目が探し求めているものは、あなたの人生を反映するでしょう。あなたの目が向けられているものに、あなたはついて行き、その姿に変えられます。イエス様を仰ぎ見ない限り、私たちは目に見えるものだけを見ても、決して満足することはありません。イエス様を仰ぎ見なければ、私たちを導き支えてくれるものは、何一つありません。悪魔の誘惑の目的とはなんでしょうか。すなわち、知らず知らずのうちに、イエス様を見上げることから、自分自身だけを見つめるようになることなのではないでしょうか。

イエス様を見上げることをしないで、自分だけを見つめる者は、傲慢や憂鬱に人間を導きます。イエス様を見上げない限り、人間は本当にみじめな自己中心に陥ってしまいます。私たちは、主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿を変えられて行くと、初代教会の人々は確信し、体験的に知るようになりました。

我々は、いったいどこを見ているのでしょうか。いったい、私たちは、何に目を留めているのか。自分自身を見たり、他人を見たりすることは決して良くない。今、話したように、劣等感や卑屈な気持ちをもたらしたり、反対に優越感や傲慢な気持ちをもたらしたりするものです。そのような状態にある人を、イエス様は用いる、また、祝福することができない。むしろ、悪魔の道具にされてしまいます。自分自身を見たり、他人を見たり、周囲を見たりしないで、ただ、高く引き上げられたイエス様だけを見上げることが、主と同じ姿に変えられて行く秘訣です。

信じる者の幸せの土台は、また、確信とはなんでしょうか。今、話したように、まず、私たちは、今すでに神の子供です。それから、私たちは、キリストに似た者となる。そして、3番目、私たちはキリストのありのままの姿を見るようになる。

もう何十年前だったか、ちょっと忘れました。当時、毎日、少なくとも二回はテレビに出ていたアナウンサー、山川千秋さんは入院されました。奥様は集会に来ていました。そして、『一度に、主人に会ってもらえませんか。』駅まで彼女が迎えに来て、運転は非常に下手でした。なぜならば、泣いちゃったから。もう泣いて、泣いて、主人に出会っても、聞く耳がない。頭がいいから、もう何も聞こうとしないと。けども、瞬間、会った瞬間、分かった。良い男、正直な男。彼は、その日、へりくだって、イエス様の救いのために感謝するようになりました。後で、もちろん、何回も見舞いに行きましたし、ある時、意識不明になってしまった。けども、祈った後で涙が出たから、間違いなく聞いたに違いないと、分かりました。その時、奥様である穆子(きよこ)姉妹は、何回も何回も、「もう少し、もう少しでイエス様といっしょになるよ。もうすぐ、イエス様といっしょになるよ」と、ご主人を励ましたのであります。

もう少し。私たちも毎日、そういうふうに考えるべきではないでしょうか。もう少しで私たちも、イエス様のありのままの姿を見ることができる。これは、考えられないほど、言葉では言い表せないほど、すばらしい事実です。私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになる。その時、私たちは想像もできず、説明することもできませんが、私たちは主に似た者となると聖書は言っています。もちろん私たちは、主の御姿に似た者とされることが、決して自分の手柄、努力の結果ではなく、主の恵みによるのであることを考えると、主を崇拝せざるを得ないのではないでしょうか。

私たちが、造り変えられるために、私たちがすることのできることとは、なんでしょうか。ただ意識的に自分自身から目をそらし、周囲の人々からも目をそらし、イエス様お一人だけを見上げること。そして、イエス様のみことばと、主の霊が我々の心に働くことができることを妨げないことです。

私たちはみな、次のように告白すべきなのではないでしょうか。多くの不十分さ、未熟さ、欠点、不完全さを持った惨めな、あわれな自分の姿を見て、日々、痛いほどに、その自分自身の姿を示される時、その自分が主の御姿に似た者とされるなどということは、どんなに考えても、考えられないことであり、自分の内には、そのような可能性がひとつもないと、言わざるを得ないのではないでしょうか。

けど聖書は、主のご計画と約束として、次のことをはっきり書いていますね。私たちは、主を見つめながら、主と同じ姿に変えられて行きます。2節をもう一回、読みます。私たちは・・・単数形で読んでもいいでしょうね。『私は、キリストに似た者となることがわかっています。なぜなら、その時、私はその時、キリストのありのままの姿を見るからです。』望んでる、希望しているのではない。わかっている。確信している。大切なことは、私たち自身の考えではありません。考えられるかどうかでもない。主のみことばは、そう語っておられますから、私たちは、それを安心して、信じることが許されています。

私たちは、イエス様と全く、同じ姿に変えられます。パウロも、有名なローマ書8章の中で、この事実について、次のように書いたのであります。

ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

私たちの人生においては、いろいろ、我々の重荷となるもの、我々の力を無力にするものがあります。その結果、私たちはすべてを投げ出して、あきらめてしまいたいと思うような気持ちになることも、あり得ることです。けど、主イエス様が我々の内に新しくかたち造られるべきであるという切なる願いを持って、主の前に立つ者は、引き続き導かれ、いかなる困難をも通り抜け、新しくかたち造られるようになります。

私たちは、キリストのありのままの姿を見るようになります。イエス様の再臨について考えると、おそらく誰でも、テサロニケ第1の手紙の4章を憶えるのではないでしょうか。いわゆる、『空中再臨』についての箇所です。

第1テサロニケ
4:13 眠った人々(・・・もうすでに死んだ人々・・・)のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません(・・・知ってもらいたい・・・)。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

近いうちに、いつまでも主とともになると考えると嬉しい。

前に一人の、人間的に見るならば気の毒な方がいました。名前は、寺門せつこと言う女性です。手足を使えませんでした。けども、良い日と悪い日がありました。良い日の時、指を1ミリくらい動かすことができたのです、精一杯で。そして、時々、動かせる指がコンピューターとつながって、それによって、彼女は自分の言いたいことを、結局、表すことができたのです。あるとき、見舞いに行ったとき、コンピューターに出ていたのは次の文章です。『痛みのかたまりです。だから、いつも祈っています。耳も聞こえないし、食べることもできず、ラッパの音を待つばかり。早く駆け足で迎えに来てください。再臨が近いものと、首を長くして待っております。』博士論文よりもいいな。そういう気持ちを持つ人は、幸せなのではないでしょうか。もちろん、彼女は希望を持って召されました。

この空中再臨について、もう一箇所ありますね。コリント第1の手紙の15章です。

第1コリント
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、・・・
15:52 ・・・一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

この再臨について、初代教会の兄弟姉妹は、よく話し合ったようです。『もうちょっと。』我々の国籍は天国です。ヨハネは、当時の信じる者を結局、励ますために書いたのです。

第1ヨハネ
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

何があっても、「私たちはいつまでも主とともにある」と考えると、やはり、見方が変わります。悩みながら、大いに喜ぶことができます。再臨を待ち望む者は、『イエス様のために生きたい、イエス様を喜ばせたい』と、切に望むものなのではないでしょうか。だから、パウロは、コロサイにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。もう一箇所、読んで終わりましょう。

コロサイ
3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

ヘブル書の著者は、当時の兄弟姉妹を励ますために、一文章で言ったのです。『イエスから目を離さないでいなさい。』聖書の中でもっとも大切な命令のひとつなのではないでしょうか。

ヘブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

イエスから目を離さないでいなさい。これは、我々にとっても、もっとも大切な戒めなのではないでしょうか。


おわり

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