2014年4月2日水曜日

弟子と盲人の違い

弟子と盲人の違い
2014年4月1日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。
18:35 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。
18:36 群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ねた。
18:37 ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、
18:38 彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言った。
18:39 彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
18:40 イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた。

18:41 彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか。」と尋ねられると、彼は、「主よ。目が見えるようになることです。」と言った。
18:42 イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われると、
18:43 彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。これを見て民はみな神を賛美した。

今、お読みになった箇所は、二つに分けられるのではないかと思います。すなわち、三十一節から三十四節までを見ると、弟子たちについて書いてあります。ちょっと、気の毒な弟子たちでした。どうして?何も解からなかったから。

弟子たちには、これらのことが何一つ解からなかったと、三十四節に書かれています。その後の三十五節から、最後の四十三節までは、よく解かった盲人について書かれています。この盲人とは、もちろん、イエス様こそが、約束された救い主であり、期待していた救い主であることを確信したから、ダビデの子と叫んだのです。「あなたの信仰が、あなたを直した」と、イエス様は盲人に言うことができたのです。

マルコ
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」
10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人のこじきが、道ばたにすわっていた。
10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。

必ず聞かれる祈りです。

マルコ
10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい。」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている。」と言った。
10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

ちょっとだけ、この弟子たちについてよりも、この盲人について、一緒に考えてみたいと思います。三つに分けられるのではないかと思います。すなわち、(一)イエス様がいなかった時のバルテマイ。二番目、イエス様のそばにいたバルテマイ。そして、三番目、イエス様に従ったバルテマイについてです。

まず、イエス様がいなかった時のバルテマイについて、ちょっと考えてみたいと思います。我々にとって、いちばん大きな苦しみとは何なのでしょうか。言うまでもなく、イエス様と共にいることのない状態なのではないでしょうか。バルテマイにとっても、イエス様に出会わなかったことは、いちばん大きな問題でした。彼にとって、イエス様が共におられないことは、癒しと救いの希望がないことを意味していました。そして、癒しと救いの希望のないことは、喜びと平安のない恐るべき人生を意味しているのではないでしょうか。

ここに出て来るバルテマイの動作を表す動詞を見ると、彼について、よく知ることができますね。四十六節、道端に座っていて、こじきをしていた。四十七節、彼はイエスだと言った。そして、彼は、叫びだした。四十八節、彼はますます激しく叫び続けた。五十節、彼は、上着を脱ぎ捨てた。そして、五十二節、彼は見えるようになり、イエスに従っていったとあります。

これらの動詞を見ると、彼の人生の歩みが、要約して解かるのではないでしょうか。初めは、盲人のこじきであったバルテマイが、最後は見えるようになって、イエス様に従っていったのです。これは何という違い、何というコントラストなのでしょうか。イエス様との出会いによって、彼の人生そのものは喜び、平安、そして、目的を持つようになりました。どのようにして、そのようになったのでしょうかね。

まず、第一に、彼はイエス様のことを聞きました。疑いもなく、彼はイエス様のことについて、もっと多くのことを聞きたかったことでしょう。いろいろなうわさを通して、彼はイエス様が比類なきお方であり、不可能なことは何ひとつない。彼をも癒そうと思えば、癒すことができるという確信を持つようになりました。彼の心には、イエス様は救い主、約束された救い主であられる、約束されたメサイヤであるという確信がありました。約束された救い主について、メシアが盲人の目を開くことができると預言されたのです。

イザヤ
42:6 主は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする。
42:7 こうして、盲人の目を開き、囚人を牢獄から、やみの中に住む者を獄屋から連れ出す。

第二に、パルテマイは、イエス様を百パーセント信頼し、心から信じたのです。人々は、イエス様のことを、だいたいナザレのイエスであると語り合っていましたが、バルテマイがイエス様に出会った時、ナザレのイエスとは言わなかったのです。何を言ったかと言いますと、「ダビデの子、イエスよ!」と叫んだのです。つまり、ダビデの子とは、約束された救い主という意味です。彼は、イエス様に向かって、ラボニ、すなわち、「主よ」と言いましたが、同じく主を表す、ラビよりも、はるかに尊敬の念を込めた意味である、すなわち、ラボニという言葉を使ったのです。

そして、第三に、彼はただ単にイエス様の噂を聞いたり、信頼を寄せたりするだけではなく、どうしてもイエス様を体験的に知りたいという、やむにやまれぬ気持ちが強かったのです。それですから彼は叫び、かつ、ますます激しく叫び続けたのです。

バルテマイの全生涯そのものは、助けを求める叫び、そのものだったのではないでしょうか。それは、ささやきではなく叫びでした。「私は、イエス様の御許に行かなくてはならない。そうしないと全部、空しい。苦しい。寂しい」と、解かったのです。四十八節を見ると、彼が激しく叫び続けるので、多くの人々が彼をしかって黙らせようとしたが、いくらたってもどうすることもできなかったと記されています。祈ることは大切ですけど、もっと大切なのは、祈り続けることなのではないでしょうか。このバルテマイは、叫び続け、祈り続けました。

五十節を見ると、彼は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってできるだけ早く、イエス様の御許に行こうと、一生懸命だったことが解かる。彼の悩みは、群衆を恐れる恐れよりも、はるかに大きく、かつ、深かったのです。必死にイエス様のところへ走ったのです。おそらく、上着を二つは持っていなかったでしょうけど、彼にとって、上着などのことは、別にどうでもよかったよ。彼は、いちばん大切なこと、すなわち、イエス様のところへ行こうと望んだのです。その時、人々は、「喜べ。立て。お前を呼んでおられる」と聞きました。

彼以外は、誰も呼ばれなかったのです。どうしてイエス様は、彼だけに興味を持たれたのでしょうか。それは、彼だけが、心からの助けを求めたからです。主はいつも、祈りの答えとして働いておられます。正直な心を持って、イエス様を呼び求める者に対して、必ず、イエス様は答えてくださいます。バルテマイは、イエス様の招きに従って御許にやって来ました。盲人は、イエス様のところに行く道を見いだすことができた。そして、そのことが彼の人生の転換点となりました。イエス様のところに来る者は、全く新しく造り変えられた者となります。

今まで、イエス様がいなかった時のバルテマイについて考えたのですけれど、今度、第二番目に、イエス様のそばに来た時の盲人バルテマイについて、ちょっと考えたいと思います。イエス様は、絶望した盲人に向かって、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられました。「わたしに何をして欲しいのか?」いかなる権威と崇高なる者が、このような問いを発することができるのでしょうか。

答えはすばらしいね。『もしできれば・・・・』ではないよ。彼は確信を持って、「主よ、見えるようになることです」と、盲人は、すかさず答えました。この答えの中には、決して、ゆるぐことのない確固不動たるものがあったのです。そのような態度には、必ず報いがあるものです。

その瞬間、彼は見えるようになり、イエス様がじっと見られる愛のまなざしを見ることができたのです。それから、彼の新しい世界が開かれたのです。その時、彼はその日にもらったお賽銭や、今まで持っていた杖や上着のことはすっかり忘れました。それから、彼のいるところは、街角ではなくて、イエス様のお傍であることを知りました。

そして、その時からできたことは、イエス様に従っていくことだけでした。もう離れがたい。イエス様の御許にいること、そして、イエス様に従って行くことは、命令されたことではなく、彼の心からの願いであり、彼の望み、そのものでした。イエス様との出会いを知るようになってから、彼の今まで持っていた悩み、そのものが消えてしまいました。イエス様の御許にいる時、すべてのことが満たされているということを、彼は身をもって体験したのです。

ドイツのひとつの歌を紹介したいのです。

「主イエス様、
私は今、本当の心の憩うところが、
あなた様ご自身の中にのみあることを見いだした。
多くの悩みの後に、全く平安を得ることができた。
私は、長い間、安らぎと幸せとを探し求めてきました。
しかし、それをあなたに求めることはしませんでした。
それなのに、あなたの愛が私の心を捕らえてくださり、
今や、私はあなたのものとなりました。
この世の快楽の泉は空しく、
誰も満ちたらせることはできない。
しかし、あなたのいのちの泉を飲む者は、
決して渇くことがない。

あなたは、わたしの目を開いてくださり、
それほどまでも、私を愛してくださる。
主イエスよ、
あなたはご自身のいのちを私に与えてくださり、
全てを新しく造り変えてくださった。
私の心は、感謝と喜びに満ち溢れ、
やがて父の家で、あなたと共に新しい歌を歌う時まで、
私はあなたを、昼も夜も賛美し続けます。

私を満ちたらせて下さる方は、
あなた以外に、この世にはいません。
私は、これほどまでに私を愛してくださる、
あなたの中にのみ、
あなたの喜びを見いだすことができる。」

そのように、かつてのバルテマイという盲人は、今、喜びいさんで主イエス様に従って行く者に変えられました。同じように言うことができる人は、本当に幸せなのではないでしょうか。

次に、最も大切なのは、イエス様について、ちょっと考えたいと思います。簡単に考えてみると、いつもそうであると同じように、ここでも中心人物とは、この癒されたバルテマイではない、イエス様です。イエス様が、中心人物です。

イエス様の動作を表す動詞を見ると、四十九節、イエスは立ち止まって、「彼を呼べ!」と命じられた。五十一節、イエスは、彼に向かって言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」五十二節、「主は、行け!」と言われた。

イエス様は、一人のあわれなこじきが叫ぶのを聞いて、立ち止まりました。その時、イエス様はご自身の生涯の中で、もっとも重要な道を歩んでおられたのです。エルサレム、十字架に行く道でした。その途中で、彼は、一人のこじきの叫びを聞いたのです。その時、イエス様は、「わたしは、もっとも大切なことをしなくてはならないから」と言って歩み去ることをしないで、そこに立ち止まったのです。それが、イエス様でなくて、もしも、皇帝や皇太子だったならば、こじきの叫ぶ声などには耳をかさず、通り過ぎてしまったことでしょう。けども、イエス様は、立ち止まられた。

この世は、すべてイエス様によって、イエス様のために造られ、すべての権威と力はイエス様にあり、王の王、主の主であられるイエス様です。そのお方が、一人のあわれな盲目のこじきのために立ち止まられたのです。主は、ただ単に立ち止まって、こじきの叫び声を聞いただけではない。全人格を持って、一人のこじきに立ち向かわれたのです。

イエス様は、このこじきの願いが何であるか、もちろん、よく解かったにもかかわらず、何を欲しいの・・・・とおききになりました。それは、結局、悩んだ人が祈り、それによって、その人の信仰が現れることを、待ち望んでおられたからです。主はいつも、信仰の答えとして、癒しと解放を明らかにしてくださるのです。

我々の主イエス様は光です。その他のものは暗闇であり、望みなきものです。とくにメクラは何も見ることができず、逃れ道を見いだすことはできません。我々の主イエス様は、道です。そして、、エクラは、道を見ることができません。メクラは、街角で物乞いをするように定められており、その他のことは何もできません。また、イエス様はいのちです。メクラは、生きる望みを持たず、もはや、明るい希望を持つことができません。この両者は、両極にあって、互いに相容れない関係にありました。それであるがゆえに、一つにならなければならなかったのです。

彼の住んでいたところはエリコという町でした。このエリコとは、旧約聖書を見ると解かります。呪われた町でした。バルテマイも何ら祝福されることがなかった。彼はボロボロで、汚れ果てており、喜びや希望を持っていなかったのです。失ってしまいました。彼は働くこともできず、生きる目的、人生の目標を持っていなかったのです。

なぜ、このような苦しみがあったのでしょう。なぜならば、イエス様が共におられなかったからです。先ほども申しましたように、その時、イエス様は死の犠牲を捧げるため、エルサレムに向かう途中でした。エルサレムと、そこにいる宗教家たちは、イエス様に対して、霊的に全くめくらでした。バルテマイはその反対でした。彼は、メクラでしたが、自分がンメクラであることを知っていました。それだからこそ、彼は、真剣に助けを求め、祈り、癒されたのです。イエス様を受け入れようとしなかった人々は、自分たちは見える!と、言い張ったのですけど、実際は、彼らはメクラでした。

ヨハネ
9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」
9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

実際は見えない者が、見えると思い込んでしまうことは、ちょっと考えられない。恐ろしいことです。けど、メクラであることを知って、心の目で真(まこと)の光を見る者は、何という恵みと祝福とが与えられることでしょうか。

私たちは、我々の人生にとって、いちばん大切なことを、要約すると、何であるということができるのでしょうか。ある人が、東大で勉強し、博士になり、やがて、名誉教授となって、文化勲章をもらうと、人々はたいしたものだ!と思うかもしれない。それは、確かに人生の歴史であるでしょう。けど、それがすべてとなって終わってしまうならば、本当にあわれむべきことなのではないでしょうか。

我々の人生は、ただイエス様との出会いによってのみ、本当の内容のあるものとなります。私たちは、皆、もうイエス様に出会ったのでしょうか。イエス様について聞いた時、何を祈ったのでしょうか。

もし祈らなかったならば、どうか、今日そのようにしてください。イエス様は、バルテマイの場合と同じように、必ず立ち止まって、あなたの祈りを聞かれます。イエス様について聞いた者は、心を静めて、静かに考え、イエス様に何とお答えしたらよいかを祈らなければなりません。誰でも彼でも、イエス様の御許に来て、目が見えるようになり、イエス様に従って行くことができるならば、本当に幸いです。

0 件のコメント:

コメントを投稿