2014年4月8日火曜日

まことの礼拝とは何か

まことの礼拝とは何か
2014年4月8日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
4:24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」

マタイ
14:24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
14:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。
14:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
14:29 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
14:30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
14:32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。

このヨハネ伝、四章二十三節、二十四節を見ると、真の礼拝者という表現が出てきます。本物があれば、偽物もある。本物がなければ、誰も偽物を作ろうとしない。真の礼拝者もいるし、表面的に礼拝する人もいる。けど、真の礼拝者たちは、探し求めておられます。


イエス様は、『今がその時です。』明後日ではない。黙示録の中で――将来についての箇所です――黙示録四章から、ずっと将来のことについて書いてありますけど、黙示録五章十二節からを読むと解かります。これこそ、まことの礼拝です。

黙示録
5:12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

ふさわしいお方とは、十字架の上で犠牲になられたイエス様しかない。

黙示録
5:13 また私は、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、およびその中にある生き物がこう言うのを聞いた。「御座にすわる方と、小羊とに、賛美と誉れと栄光と力が永遠にあるように。」
5:14 また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。

悪魔も礼拝の大切さを知っているだけではなくて、何があっても、大切にされたい、礼拝されたい、そういう気持ちなのではないでしょうか。

マタイ
4:8 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
4:9 言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」
4:10 イエスは言われた。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ。』と書いてある。」

もし、悪魔が礼拝されれば、もうおしまい。そうすれば、今日、霊とまことをもって礼拝する人は一人もいない。

旧約聖書のもっとも大切な人物の一人は、言うまでもなく、ダビデです。彼は、決して、完全ではなかったのですけど、御心にかなう人だったと、聖書は何回も言っているのです。いったいどうして?礼拝する人だったからです。サムエル下の二十二章を見ると、彼の告白、証しが載せられています。

第二サムエル
22:47 主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべき(・・・・礼拝すべき・・・・)かな。わが救いの岩なる神。

すばらしい告白です。まことの礼拝とは、結局、こういう心がまえを持つことなのではないでしょうか。私にとってもっとも大切なダビデの告白のひとつは、歴代誌上の二十九章なんですね。非常にすばらしい告白です。我々も毎日、こういうふうに祈ることができれば、ありがたいと思います。

第一歴代誌
29:10 「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな
29:11 主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。(・・・・自分のものではない。・・・・)天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき(・・・・礼拝すべき・・・・)方です。
29:12 富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
29:13 今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。

彼は、この態度をとったから、『御心にかなう人』と呼ばれるようになりました。主を礼拝することこそが、我々にとっても、もっとも大切なのではないでしょうか。けれども、本当の礼拝とは何でしょうかね。イエス様を知り、イエス様の前にひれ伏し、また、『自分の理解しがたい悩みは、主の道である、主の許したものである』と認めた人は、必ずまことの礼拝に導かれます。イエス様は、霊とまこととをもって礼拝するまことの礼拝者を訪ねて、求めておられます。本当は、我々の全生涯は、主に対する本当の礼拝、そのものであるべきなのではないでしょうか。

イエス様の弟子たちは、主を礼拝するようになったとありますね。読んでもらいましたマタイ伝十四章に戻りますと、書かれていますね。

マタイ
14:24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。
14:25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
14:26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
14:27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。

「わたしだ。恐れることはない。」イエス様は、今日もそういうふうに呼びかけておられます。偶然ではない、運命でもない。わたしです。

イエス様の弟子たちは、嵐の真っ最中、海の真ん中に出ていて、荒れ狂う波をいかんともすることができないでいました。そこへもってきて、変な姿が現れましたが、弟子たちはなおさら、大変だ!と恐れおののきました。どうしてであるかと言いますと、イエス様だったら、もう安心したでしょうけど、幽霊だと思い込んでしまいました。けど、幽霊ではなくてイエス様だったんです。「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」イエス様が、ご自身を啓示してくださったから、弟子たちはイエス様を知るようになったのです。そして、イエス様を知ることこそが、主の礼拝に対する源なのではないでしょうか。

マタイ
14:33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝ん(だ。)

結局、礼拝したとあります。もう一箇所、読みましょうか。今度は、マナセという王様についての箇所です。

第二歴代誌
33:10 主はマナセとその民に語られたが、彼らは聞こうともしなかった。

聞く耳がなければおしまい。結果として、聞こうとしなかったから、主はアッシリヤの王の配下にある将軍たちを、彼らのところに連れて来られた。主のせいだったね。

第二歴代誌
33:11 ・・・・彼らはマナセを鉤で捕え、青銅の足かせにつないで、バビロンへ(・・・・外国まで・・・・)引いて行った。
33:12 しかし、悩みを身に受けたとき(・・・・その時、初めてですね・・・・)、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、
33:13 神に祈ったので、神は彼の願いを聞き入れ、その切なる求めを聞いて、彼をエルサレムの彼の王国に戻された。こうして、マナセは、主こそ神であることを知った。

この神を、もちろん、礼拝したに違いない。マナセは、いったい、いかにして、主を知ることができたのでしょうか。いろいろな苦しみを通してです。彼は、敵によって、鉤で捕らえられ、青銅の足かせにつながれて、バビロンへ、結局、敵の国へ、引いて行かれました。悩みを通して、理解しがたい導きを通して、彼の心の目が開かれました。そして、彼は、主こそ神であると、体験的に知るようになりました。

私たちは、いったい、どういうふうに、まことの礼拝者となることができるのでしょうかね。主なる神が、我々の天のお父様であり、また、私たちは、この偉大なる主の子供であるという知識を持つことで十分です。私たちは、主をすべてを支配しておられるお方として、知る必要があります。主を知ることは、自分は徹頭徹尾、主のものである。自分の持っている物、すべては主のものであるということを意味しているのです。主を、主として知るようになった者だけが、霊とまことをもって、礼拝することができます。イエス様の弟子たちが、波の上で主の御声を聞いた時、すなわち、主がご自身を啓示してくださったとき、彼らは、それが主であると知るようになり、主を、もちろん、拝むようになりました。

マナセ王は、それが主の導きであると知ったとき、それが主であることを知りました。主を知り、主の前にひれ伏し、また自分の理解しがたい悩みは、主のせいだ、主の道である・・・・と認めた人は、まことの礼拝に導かれます。

今日、なお、主は我々の近くにおられ、霊とまことをもって礼拝する、まことの礼拝者をたずね、求めておられます。けれども、礼拝とは何でしょうかね。言えることは、主の道、また、主の導きに全き心からなる賛意を表することです。すべてのことを、主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己を委ねることこそが、まことの礼拝であると言えます。

主のなさること、主の導きは主の道です。主は、ご自身のなさること、また、ご自身の導き、経験によって私たちが、主に目を開き、その結果、私たちが自発的に心から主を礼拝せざるを得なくなるように、主は働いておられます。主に心から礼拝を捧げうる人のみ、主の道を歩み行くことができます。主の道を知り、主の道を喜ぶ、これがいちばん、大切な我々の課題なのではないでしょうか。そうなったなら、私たちは、なぜ、どうしてと、主に言うことができなくなります。何故でしょう・・・・と言う人は、主を見上げない人であり、したがって、まことの礼拝を捧げることができない者です。モーセについて、聖書は次のように言っています。

出エジプト記
34:5 主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。
34:6 主は彼の前を通り過ぎるとき、宣言された。「主、主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、
34:7 恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者、罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に。」
34:8 モーセは急いで地にひざまずき、伏し拝んで、
34:9 お願いした。「ああ、主よ。もし私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか主が私たちの中にいて、進んでくださいますように。確かに、この民は、うなじのこわい民ですが、どうか私たちの咎と罪を赦し、私たちをご自身のものとしてくださいますように。」

これは、モーセの心からの願いでした。「主は、あわれみ深く、情け深い神、怒るのにおそく、恵みとまことに富み、恵みを千代も保ち、咎とそむきと罪を赦す者」と、書いてありますが、モーセは、この恵みのことばを聞いたとき、主を確かに、心から礼拝せざるを得なくなりました。けど、この恵みのことばと共に、モーセは、七節の後半のごとく、「罰すべき者は必ず罰して報いる者。父の咎は子に、子の子に、三代に、四代に」という厳しいことばを聞いたとき、モーセは主の前に、まず、己の罪を赦してください・・・・と謝る前に、主を礼拝いたしました。『モーセは急いで、地にひざまずき、伏し拝んだ』とあります。主の恵みのまことを聞いた時、主を礼拝することは、そんなに難しくない。簡単でしょう。けど、厳しいみことばの前にあっても、主を礼拝するということは、きわめて、簡単ではない。難しいことです。

礼拝とは、何でしょう。今、話したように、主の導きに全く、心からなる賛意を表することです。私たちは、しばしば、「主よ、御心をこのように与えてください。このように変えてください。この環境を変えてください」と、思い、願い、祈ります。それは、間違っているのではないけど、祈りでしょう。祈ることよりも大切なことがある。礼拝すること。

祈りは、結局、自分の願いの言い表しにすぎないでしょう。礼拝は、己のすべてを、何もかも、主にお委ねすることです。イエス様は、絶えずこの態度をお取りになりました。十字架につけられる前に、ゲッセマネの園で、イエス様は祈りました。何を祈ったかと言いますと、今度は、マタイ伝、二十六章を見ると次のように書かれています。すばらしい祈りです。

マタイ
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

この告白を見ると解かります。イエス様の祈りは、自分の願いの言い表しではなかった。自分の願いの言い表しというよりというも、本当の礼拝でした。すなわち、わたしの願うようにではなく、あなたの御心のようになさってください。

モーセに続いて、イスラエルの歴史のもっとも優れた王様は、言うまでもなく、ダビデでした。

第二サムエル
12:13 ダビデはナタン(・・・・当時の預言者であるナタン・・・・)に言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。
12:14 しかし、あなたはこのことによって、主の敵に大いに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」
12:15 こうしてナタンは自分の家へ戻った。主は、ウリヤの妻がダビデに産んだ子を打たれたので、その子は病気になった。
12:16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食をして、引きこもり、一晩中、地に伏していた。
12:17 彼の家の長老たちは彼のそばに立って、彼を地から起こそうとしたが、ダビデは起きようともせず、彼らといっしょに食事を取ろうともしなかった。
12:18 七日目に子どもは死んだが、ダビデの家来たちは、その子が死んだことをダビデに告げるのを恐れた。「王はあの子が生きている時、われわれが話しても、言うことを聞かなかった。どうしてあの子が死んだことを王に言えようか。王は何か悪い事をされるかもしれない。」と彼らが思ったからである。
12:19 しかしダビデは、家来たちがひそひそ話し合っているのを見て、子どもが死んだことを悟った。それでダビデは家来たちに言った。「子どもは死んだのか。」彼らは言った。「なくなられました。」
12:20 するとダビデは地から起き上がり、からだを洗って身に油を塗り、着物を着替えて、主の宮にはいり、礼拝をしてから、自分の家へ帰った。そして食事の用意をさせて、食事をとった。

聖書は、ダビデについて、『彼は、主の御心にかなう人だった』と言っています。どうしてでしょうかね。彼は、主を拝む、まことの礼拝者だったのではないでしょうか。彼の歌った歌である詩篇を読むと、ダビデは、もっとも深いどん底の苦しみにあっても、また、非常な絶望に陥っているときも、逃れ道がなく前途が真っ暗なときも、ひたすらに主を礼拝する礼拝者でした。

主の導きは、いつも我々の願いと同じとは限りません。ダビデの場合がそうでした。この主なる神の御心にかなうダビデに、「あなたに生まれる子は必ず死ぬ」という恐るべきことばが臨みました。ダビデは、自分の子を愛し、主に請い求め、断食し、地に伏して、ひたすらに祈り、求めました。けど、『その子は死んだ』と、聖書は言っています。多くの人は、かかる立場に置かれると、どうして、なぜと言うでしょう。ダビデは、主の宮に入り、礼拝したとあります。

最後に、もう一人の礼拝した男について考えましょうか。ヨブという男です。

ヨブ
1:13 ある日、彼の息子、娘たちが、一番上の兄の家で食事をしたり、ぶどう酒を飲んだりしていたとき、
1:14 使いがヨブのところに来て言った。「牛が耕し、そのそばで、ろばが草を食べていましたが、
1:15 シェバ人が襲いかかり、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:16 この者がまだ話している間に、他のひとりが来て言った。「神の火が天から下り、羊と若い者たちを焼き尽くしました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:17 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「カルデヤ人が三組になって、らくだを襲い、これを奪い、若い者たちを剣の刃で打ち殺しました。私ひとりだけがのがれて、お知らせするのです。」
1:18 この者がまだ話している間に、また他のひとりが来て言った。「あなたのご子息や娘さんたちは一番上のお兄さんの家で、食事をしたりぶどう酒を飲んだりしておられました。
1:19 そこへ荒野のほうから大風が吹いて来て、家の四隅を打ち、それがお若い方々の上に倒れたので、みなさまは死なれました。私ひとりだけがのがれて、あなたにお知らせするのです。
1:20 このとき、ヨブは立ち上がり、その上着を引き裂き、頭をそり、地にひれ伏して礼拝し、
1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
1:22 ヨブはこのようになっても罪を犯さず、神に愚痴をこぼさなかった。

ヨブのそれまで持っていた財産の全部が取り去られ、愛する十人の子供も全部、死にました。多くの人が、あの主に仕える人が、どうしてこんな苦しみに会うのでしょうかと、いぶかしく思ったに違いない。けど、ヨブはどうでしょう。「ヨブは礼拝した」と、書いてあります。「主の御名はほむべきかな」と、彼は告白しました。すばらしい証しなのではないでしょうか。

私たちは、主の道に従うことを学ばなければいけない。けど、これはただ礼拝によってのみできる事柄なのではないでしょうか。

何千年か前に、ヨブは証ししましたね。「私は知っている。私を贖う方は生きておられます」と。このヨブは、今、話したように短期間の内に、彼の全財産、富も宝も、また、子供たちも、自分の健康も失ったのです。けれども、彼は、不平や不満を言わず、主の完全な愛をも疑いませんでした。たとえ彼が、神の導きを理解することができなかったとしても、彼は、主を次の言葉でもって礼拝しました。「私の造り主である神は、夜(・・・・真っ暗な時・・・・)には褒め歌を歌える。主は与え、主が取られたのだ。主の御名はほむべきかな。私は知っている。私を贖う方は、生きておられます」と。

前に話したようにダビデは、確かに罪を犯してしまった。けど、ヨブは、主の前に全き人だったと、聖書は言っています。それにもかかわらず、二人とも、己(おのれ)を全て主の御心に委ねたではありませんか。どうしてでしょう、なぜでしょうかと尋ねても、答えることができません。なぜか全然、理解できなくても、ただただ、心から主を褒め称え、礼拝することこそが大切であると解かったのです。

主よ。あなたは常に完全なお方です。全きことを成されます。あなたの導きも完全です。理解することができませんが、あなたを心から崇めます。この態度を取ることができれば、本当に幸いです。礼拝とは、すべてのことを主の御心のままにお委ねすることです。主の道に己を委ねることです。

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