2014年4月17日木曜日

主の前に静まれ(2014年春日部)

主の前に静まれ
2014年4月16日、春日部家庭集会
ゴットホルド・ベック

イザヤ
40:25 「それなのに、わたしを、だれになぞらえ、だれと比べようとするのか。」と聖なる方は仰せられる。
40:26 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。
40:27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

41:1 島々よ。わたしの前で静まれ。諸国の民よ。新しい力を得よ。近寄って、今、語れ。われわれは、こぞって、さばきの座に近づこう。

この41章の1節に、『わたしの前で静まれ』と書かれています。もちろん、主の提案ではなく、はっきりとした命令です。似ている言葉はもちろん、たくさんあります。エレミア哀歌の中で、『主の救いを黙って待つのは良い』とも、書かれています。詩篇の作者であるダビデは、


詩篇
62:1 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。

結局、主の前で静まることの必要性、また、大切さについて書き記されています。ただ、静まれ。待ち望め。主にすべてをゆだねなさい。主の呼びかけとはそういうものなのではないでしょうか。

吉祥寺のリンデのお店の反対側、もちろん、いろいろなお店がありますけど、ある店、喫茶店なんですけども、名前は、『静けさ』という名前なんです。いい名前。けども、店の看板には、『静けさ』ではなくて、ドイツ語で、『Ruhe』と書いてあります。どうして、日本語ではなくて、ドイツ語で書いているのか、分かりません。けども、現代人にとって、もっとも大切な、必要なのは、静まることなのではないでしょうか。もちろん、主の前に静まることです。このイザヤ書の40章の一番、最後の節を見ると、そこには、疲れとか、無力さ、あるいは、たゆむことなどが記されているのであります。もしも私たちが、本当に正直に、偽ることなく、主の前に出るならば、私たちは自分も疲れて、無能力で、たゆむ者であることを、告白せざるをえないのではないのでしょうか。

このことは、次の3つのことによって証明されているのではないでしょうか。すなわち、その第一は、聖書、神のみことばである聖書が、そのことをはっきり言っています。だから、そうなのです。私たちが認めても、認めなくても関係はない。第二の証明は、他の信じる者たちを見ることによっても分かる。そして、第3は、自分の経験によっても教えられているのではないでしょうか。

主のことばは、『主の民の中にも、結局、主の救いに与るようになった人々の中にも、疲れている者、無力な者がいる』と、あります。私たちは、確かにしばしば、疲れ、疲労困憊し、力も勇気も失ってしまう状態に陥る可能性があります。30節を見ると、多くの信者の特徴は、疲れ、たゆみ、つまづき、倒れることであることが分かります。そして、それこそが敗北の原因であると、みことばははっきり言っているのです。私たちは、自分自身のことや、他人のことを見ると、そこに無力さが支配していることを見ることができ、しかも、主の大いなる力よりも、人間の無力さの方が目に映るのではないでしょうか。

そういったことは誰も認めたくないことでしょうけど、それは、厳粛な事実であり、問題は、私たちがそれを考えたり、認めたりするか、しないか、なのではない。本当なんです。不動の事実です。私たちが、率直に反省するならば、実際に、多くの人が疲れ、無力で、たゆんでいることを認めざるをえないのではないでしょうか。わずかな信じる者だけが、『鷲のように翼をかって上ることができる』ということばを、自分のものとしているのです。この鷲のような翼をかって上ることこそが、あらゆる勝利の秘訣です。

次に、ひとつの問いについて、考えてみましょうか。すなわち、我々の敗北の原因は何でしょうか。なぜ、我々も疲れ、たゆむのでしょうか。その原因の第一は、私たちを、本当に満たしてくれるものの源泉を知らないからです。第二番目の原因は、提供されているものを受け取ることを怠っていることです。知らないことは、どうでもいいことではない。無知とは何か恐ろしいもの、悲劇的なもの、許すべからざるものを意味しているのではないでしょうか。ホセア書の中に次のような言葉があります。非常に厳しい言葉です。

ホセア
4:6 わたしの民は知識がないので滅ぼされる。あなたが知識を退けたので、わたしはあなたを退けて、わたしの祭司としない。あなたは神のおしえを忘れたので、わたしもまた、あなたの子らを忘れよう。

これは、本当に重大なことばです。ここに書かれていることについて、内容的にその順番をおって、考えてみることにしましょうか。

まず、第一に、未信者ではなく、主の民、結局、救われた人々に属する信者が知識を退けた。すなわち、上からの光を退けたと、記されています。その結果、『知識がない』という状態に、必然的に陥ってしまいます。そして、それだけでなく、主は、そのような信者を退けてしまう。意味は、用いられなくなってしまうと言うことです。その意味は、もちろん、永遠のいのちに預からないとか、永遠の滅びに至るとかということではない。ただ、主の祭司になることができない。結局、用いられる器になりえないということです。そのような信者は、主の教えを忘れてしまうと、みことばは言っています。自分の思っていることは正しいと思う人は、本当に気の毒です。メクラにされています。同じことをイエス様は、当時の聖書学者たち、パリサイ人たちに向かって言われました。すなわち、『そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らない(からです)。』

マタイ
22:29 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。」

知らないこと、すなわち、無知であることは、どうでもいいことではない。非常に恐ろしい結果をもたらすことが分かる。すなわち、その結果は、思い違いをして、間違った方向へ行ってしまう。的はずれの人生を歩むことを意味しているのです。前に読んでもらいましたイザヤ書40章28節、29節に同じことを見ることができます。すなわち、『あなたは知らないのか、聞いていないのか』と、主は無知を責めておられます。私たちはいったい、何を知るべきでしょうか。

私たちは、我々を満たしてくれるものの源を、すなわち、主御自身を知るべき、主に頼るべきです。すなわち、それは、永遠の神、地の果てまで創造された方、力と活気を持つ御方に頼ることです。我々の神は、もちろん、はじめのない、終わりのない、永遠なる御方です。その主は、今、話したように、はじめのない、終わりもない、永遠なるお方であり、昨日も今日も、いつまでも変わらないお方です。とこしえに変わらない御方です。

そして、また、我々の主は、万物の造り主であられます。その方は、過去において、目に見えるもの、目に見えないものをすべて、材料なしで造られただけではなく、今もなお、新たなるものをお造りになっておられる、生きておられるお方です。我々の主は、ローマ書4章17節によると、ないものをあるもののようにお呼びになる御方です。詩篇の作者であるダビデも同じようなことを書いたのです。

詩篇
33:9 まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。

主がおおせられ、命じられると、無から有が出現し、死んでいた者が生き返ることが実現されます。そして、その主は、力と活気を持っておられる御方であると聖書は言っています。我々の側は、どうかと言いますと、ただ無力さ、疲れなどが満ちております。けど、主の側は、どうかといいますと、そこには、全知全能の力があるということです。そして、その永遠なる神、造り主なる主、全知全能なる神は、我々の敗北を勝利に、勝利へと変えてくださると言うすばらしい約束をなさっておられます。力と強さの尽きざる豊かさが、我々に提供されています。

そして、私たちはこの提供されたものを、受け取らなければなりません。すなわち、私たちは、主と結びつくことによって、超人間的な力を体験することができる者の源と結びつきうることです。したがって、私たちは、今や我々の敗北の第二番目の原因を考察することになるわけです。第一番目の原因は、今、話したように、私たちを満たしてくれるものの源を、知らないことでした。知るべきであるのに。

それに対して、第二番目の原因は、主によって提供されたものを、受け取ることを怠ることです。これもまた、恐るべきこと、悲劇的なことです。(イザヤ書40章)29節を見ると、我々の主は、我々にとって、必要なものを、すなわち、力と強さを、我々に与え、提供することを約束してくださっていると分かります。主は与えてくださる。そして、私たちは、それをいただく、受け取る、自分のものにする必要があります。これこそ、主の提供に対する答えであるべきです。問題は、受け取るとは、何を意味しているのでしょうか。どのようにしたならば、それを自分のものにすることができるのでしょうか。どうすれば、提供されたものが、我々のものとなるのでしょうか。

答えは、(イザヤ書40章)31節に見出すことができますね。すなわち、主を待ち望むこと。ではいったい、主を待ち望むとは、どういうことでしょうかね。それは、祈ったり、礼拝したり、集会を訪ねたり、聖書を読んだりすることを意味するのでしょうか。もちろん、それらのことも当然、含まれるわけです。しかし、ここで一番大切なことは、この(イザヤ書)41章1節にあるように、『神の前で静まること』です。これは今日(こんにち)、一番、大切なことなのではないでしょうか。主の前に静まることです。ダビデ王様も、それのことを知り、知っていただけではなくて、実行しました。詩篇62篇を見ると、彼の告白、証しが書き記されています。

詩篇
62:5 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
62:6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。
62:7 私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
62:8 民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。

どうして、ダビデはこれを告白することができたか。もちろん、何回も何回も体験的に知るようになったからです。主の前に静まると心配ない。

箴言
8:34 幸いなことよ。日々わたしの戸口のかたわらで見張り、わたしの戸口の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。

聞こうと望む者は、聞く耳を持つようになります。主の前に静まらないキリスト者は、主の語ることを聞くことができないし、また、主の語ることを聞かない者は、当然ですけども、主に従うこともできません。その不従順の結果は、主の祝福に与らないことです。主を待ち望むと言うことは、全てを主に明け渡すこと、徹頭徹尾、主により頼むこと、主のみ言葉に従うこと、そして、主と主の導きに本当に信頼することを意味しているのです。そして、また、主により頼むこと、主を信頼することは、自分自身を意識的に信頼しないこと、また、あらゆる人間的な、いわゆる助けに、より頼まないことを意味しているのです。

そのような態度の結果は、どのようなものなのでしょうか。そして、主を待ち望む者は、どのようなことを体験することができるのでしょうか。言い換えれば、主の前に静まる者は、何を経験するのでしょうか。そして、そのことは、目に見えるもの、すべてのものから目を離し、ただ主にのみ、意識して、より頼むこと、ただ主のみこころにのみ、お従いする備えのあることを意味しているのです。

主の前に静まる人々は、次のことがらを経験します。すべて、この(イザヤ書40章)31節に書き記されています。

第一番目、我々の弱さの代わりに、主ご自身の力が現れると、まず、書かれています。すなわち、めちゃくちゃな努力の代わりに、主の創造的な力が現れます。何という違いなのでしょうか。我々は、なぜ敗北ばかりしているのか、ということを考えたことがあるのでしょうか。それは、私たちが、結局、自分の力により頼むからであり、そのことが、主の働きを妨げ、我々の行いが、主の御手をしばってしまうような結果をもたらすのです。自分の不完全さを知っている者は、その意味で、幸いです。その人は、主の御前に静まり、主の力と強さを豊かに経験することが、許されているからです。

それではいったい、主は我々に、どのような強さを、力を提供しているのでしょうか。ダビデは、主は肉体的な力を与えられる、主に頼ると元気なると、経験して、証ししました。詩篇の16編8節、彼は次のように告白したのであります。皆さん、暗記している言葉ではないかと思います。

詩篇
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。

16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

昔のドイツのアドルフ・ヒトラーは、宣伝文句としてよく言いました、『喜ぶことによって力が出る。』良く、いろいろな看板に出てきたのです。彼は、おそらく、これこそが聖書の言葉だと、考えられなかったのではないでしょうか。ネヘミヤ記の8章10節に、『主を喜ぶことは、あなたがたの力です』(口語訳)とあります。もちろん、そのとおりです。主の御前に静まる者は、肉体的な力と強さを与えられ、活気を与えられます。けども、それだけではなく、主は、魂の力も与えてくださるおかたです。主御自身が、我々の知恵の源であり、私たちが自分の能力に基づかず、主にのみ、より頼む時、主は我々が考え、感じ、欲することを、必ず導いてくださいます。このことを、パウロは、次のことばで表現しました。

ローマ
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

結局、他のものと違う心を持ちなさい。パウロは同じく、エペソにいる兄弟姉妹にまた、書いたのです。

エペソ
4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、
4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

新しい人とは、もちろん、イエス様のことです。そして、パウロは、愛弟子であるテモテにまた、書いたのです。

第2テモテ
1:7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。

それから、主は、道徳的、また、霊的な強さをも、与えたいと望んでおられます。しばしば、罠が待ち受けているこの地上では、私たちは、この強さがどうしても必要です。だからパウロは、テモテに書いたのです。

第2テモテ
2:1 わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。

そのままではダメ。主に頼ることによって、強くなりなさい。また、有名なエペソ書6章の中で、『主にあって、その大能の力によって強められなさい』と、あります。我々の主は、霊的な力、すなわち、主の霊の力を与えてくださいます。イエス様は、弟子たちにこの力を約束してくださいました。

ルカ
24:49 わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。

後で、五旬節のとき、弟子たちはこの力を持つようになります。

使徒行伝
1:8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

もう一箇所読みます。これも、すばらしい主の呼びかけであり、また、約束です。

イザヤ
30:15 神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」しかし、あなたがたは、これを望まなかった。
30:16 あなたがたは言った。「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」それなら、あなたがたは逃げてみよ。「私たちは早馬に乗って。」それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。

パウロは、この上からの力を経験しました。だからこそ、悩みながら、苦しみながら、喜ぶことができ、感謝することができたのです。有名な箇所です。

第2コリント
12:7 また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

主を待ち望む者、主の前に静まる者、意識して主により頼みたいと思う者は、いったい何を経験するのでしょうか。今、話したように、我々の弱さのかわりに、主の力が、現れます。

それから、高められた生活にあずかる者となります。前に読みました箇所の(イザヤ書40章)31節でしたか。彼らは、『鷲のように翼をかって上ることができる』と約束されています。有名な音楽家であるヨハン・セバスチャン・バッハは、『我、喜びて十字架を担わん』というカンタータの中で、次のように証ししました、『その時、私は主にあって、力を得、鷲のように激しく、この地上から飛び立ち、うむことなく飛び回るだろう。』この高められた生活、すなわち、鷲のように激しく、この地上から飛び立つ生活は、信じる者の特権です。鷲という鳥は、鳥のなかでもただひとつ、一番、高く飛ぶことができる鳥であって、その鷲の飛ぶ様子は、あまりにも高すぎるために、望遠鏡なしには見ることができないほどのものです。そして、これこそ信じる者が、本当に属する場所であり、すべてのものに勝って、高い座です。だから、パウロはピリピへの手紙の中で書いたのです。

ピリピ
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。

『いつかなるであろう』ではない。現在形。あります。我々の国籍は今、天にある。

エペソ
2:6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

これも、過去形になっているのです。私たちは、主イエス様とともに高く引き上げられているか、さもなければ、地上のことばかりを考えるかの、どちらかです。ここで、『地上のことばかりを考える』とは、地上のことによって縛られ、がんじがらめに束縛され、地上の重荷を負わされていることを意味しているのです。多くの信者は、羽の破れた鳥のように、飛ぶことを考えず、せいぜい地面の上を歩き回ることくらいしかできない。また、信じる者の中には、光を嫌い、光の中を歩もうとはせず、モグラのような者になってしまっている人もいます。もしそうであれば、その人は、このすばらしい経験を、少しも持つことができません。主にあって、力を得ることもできません。けど、我々は、鷲のように、翼をもって飛び立つべきであると、聖書は何回も何回も言っているのです。

旧約聖書の中に、私たちは、その良い例を見ることができます。ある時、12人の族長たちが、約束されたカナンという地を調べるために遣わされたのです。その内の10人は、何を報告したかと言いますと、『私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。』民数紀の13章33節です。けども、二人だけ、ヨシュアとカレブという二人は、鷲のように翼をもって、飛び立った人々です。彼らの告白はすばらしいものです。

民数紀
13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

10人が見たことと、残りの2人が見たこととは、もちろん、全く同じものでした。10人は、自分たちの人間的な思いで考え、行動したのに対して、2人は、ただ、主のみを仰ぎ、主にのみ、より頼むことによって、高く引き上げられ、『主にとって、不可能なことはない』ということを、確信したのです。主は、我々をも、いなごのような状態から、引き出そうとしておられます。ですから、聖書は言っています。

コロサイ
3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。

すなわち、これこそ、主を待ち望むこと、主の前に静まることを意味しています。もう一回、言いましょうか。我々の弱さのかわりに、主の力が現れ、そして、高められた生活にあずかる者となり、もうひとつ、簡単に、主の奇跡的な行いが、明らかになるということです。

『走ってもたゆまず』と、書いているんですね。走ってもたゆまないということは、決して、当たり前でもないし、普通の状態ではありません。普通は、100メートル、200メートル、400メートル、800メートル、走った後では、もう疲れ果ててしまうのです。けれども、主を待ち望む者は、主の前に静まる者は、徹頭徹尾、主により頼む者は、走ってもたゆまないということを、体験できるのです。

そして、超自然的、超人間的な力は約束されています。なぜなら、超人間的な課題が我々を待っているからです。奇跡を行う主と結びついている人は、ある意味において、もはや普通ではない。その人は、走ってもたゆまないからです。パウロは、この超人間的な力を経験しました。だから告白したのであります。

2コリント
4:8 私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。

17:9 迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。
17:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

このパウロの言っていることばの内容は、決して、普通の事柄ではない。普通は、四方八方から苦しめられると、人間は窮してしまいます。途方にくれたり、迫害されて、倒されたりする者は、普通は哀れな者です。けど、主と結びついている者は、鷲のように翼をもって飛び立つことができ、走ってもたゆまず、前進できるのです。主の前に静まり、本当に主を待ち望む者は、うらやましがられるはずです。なぜなら、超人間的な力が、その人を満たすからです。イエス様は大きな声で叫んだことがあります。

ヨハネ
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

14:12 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。

イエス様はこう、昇天なさる前に約束してくださいました。私たちの中から、本当に生ける水が流れ出ているのでしょうか。私たちは、イエス様が言われたわざよりも、さらにいっそう、大いなる、大きなわざを成しているのでしょうか。ひとつのすばらしい約束が記されています。今の質問の答えにもなります。

ヨシュア
23:10 あなたがたのひとりだけで千人を追うことができる。あなたがたの神、主ご自身が、あなたがたに約束したとおり、あなたがたのために戦われるからである。

私たちは、新たに意識して、主の前に静まろうではないでしょうか。そのことによって、今、話したように、我々の弱さのかわりに、主の力が現れる。我々は、高められた生活に与かる者となり、そして、私たちを通して、主の奇跡的な行いが、あきらかになります。

最後にもうひとつ、圧倒的な勝利の日常生活を体験することができるようになります。歩いても疲れない。ここでは、『走っても疲れない』ではなくて、『歩いても疲れない』と書かれていることに、注意しましょうか。『歩く』ということは、我々の日常生活の行いを現しています。多くの場合、普通に歩くことよりも、走ることの方が易しいことがあります。実際生活の中で、主とともに歩むということは、もっとも難しい試練でもあります。

死を見ないで、そのままで、天国に引き上げられた男がいました。エノクという男は、聖書は、創世記22章25節に、『エノクは神とともに歩んだ』とあります。もっと説明されているのは、ヘブル書の11章であります。

ヘブル
11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。信仰がなくては、すなわち、主の前に静まることなくしては、主に喜ばれることはできません。エノクと同じようなことを経験した預言者がいました。エリヤ。彼も、死を見ずして、天に移されたと、書いてあります。彼の日常生活の特徴は、主の前に、意識して立つことでした。

第1列王記
17:1 私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。

主は生きておられる。

17:3 「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
17:4 そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
17:5 それで、彼は行って、主のことばのとおりにした。

ここで大切なことは、主が言われたそこの所で、主が養われるということです。主が遣わされたその所で、主が養ってくださる。そして、エリヤは主に忠実に従ったため、彼は、圧倒的な勝利の生活を経験することができたのです。エノクやエリヤだけではなくて、ダビデもまた、同じことを、経験しました。彼は、この地上のすべてのものから、目を離し、ただ主にのみ従っていくことを、決心しました。

詩篇
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。

1611 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

信じる者の中にも、敗北が、恥とすべきことが、たくさんあります。どうして?いったい、何が原因なのでしょうか。なぜ、私たちは、疲れ、たゆみ、そしてつまづき倒れるのでしょうか。今、話したように、原因の第一は、我々を満たすものの源を知らないことです。無知です。そして、原因の第二は、提供されたものを、受け入れることを怠ってしまうことです。なぜ、しばしば、私たちは失望、落胆し、問題の前に、途方にくれ、自分の惨めさや、失敗に気づくのでしょうか。そのような状態の時に、私たちは、詩篇の作者が感じたことを理解することができるでしょう。

詩篇
55:6 そこで私は言いました。「ああ、私に鳩のように翼があったなら。そうしたら、飛び去って、休むものを。
55:7 ああ、私は遠くの方へのがれ去り、荒野の中に宿りたい。
55:8 あらしとはやてを避けて、私ののがれ場に急ぎたい。」

詩篇の作者であるダビデは、最初は遠くへ逃げるために、翼が欲しがりましたけど、そのような、逃げるための翼を、決して主はお与えにならない。その後でダビデは、問題を解決する鍵が与えられたために、次のように言うことができたのです。

詩篇
55:22 あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。

今や彼は、逃げるための翼ではなくて、高く飛び立つための羽を与えられたのです。自分の重荷を主にゆだねた者は、決して、ゆるがされることはない。悩みや苦しみ、そして立ちはだかる困難の山は、我々が、主の前に静まるため、私たちが本当に主を待ち望むために、必要なものです。主の前に静まる者、主を待ち望む者は、次のことを経験することができます。

すなわち、主が、重荷を取り去ってくださり、問題を解決してくださるので、私たちは自由な者となり、鷲のように翼を持って、飛び立つことができるのです。

詩篇
40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。

この主に頼るものは、必ず、主は生きておられる、必要なものを間違いなく与えてくださると、新たに体験することができます。イエス様から目を離さないことこそが、我々にとっても必要です。すなわち、あきらめなくてもいいし、心配しなくてもいいし、主は生きておられます。


おわり

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