2014年4月15日火曜日

目標をめざす旅人

目標をめざす旅人
2014年4月15日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ヘブル
11:8 信仰によって、アブラハムは、相続財産として受け取るべき地に出て行けとの召しを受けたとき、これに従い、どこに行くのかを知らないで、出て行きました。
11:9 信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに相続するイサクやヤコブとともに天幕生活をしました。
11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。
11:17 信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。
11:18 神はアブラハムに対して、「イサクから出る者があなたの子孫と呼ばれる。」と言われたのですが、
11:19 彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることもできる、と考えました。それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です。

何年か前に、東京の港区にあるドイツ大使館に行きまして、ちょっと驚いたんです。大きな字で、何を書いてあったかと言いますと、「人間はみな外人です。」飛行機に乗って、二時間で上海に行くと、みんな外人になる。


今日のテーマは、「目標をめざす旅人」としたいと思います。三つの点について、見てみたいと思いますが、それは次のようなものです。第一番目、旧約時代における神の民、とくに、アブラハムとダビデという二人の代表者について考えてみたいと思います。第二番目、新約聖書における、まことの救いにあずかった人々について。とくにヘブル書の著者、そして、ペテロについてです。そして、第三番目、真面目な忠告について、一緒に考えてみたいと思います。

まず、第一番目、旅の途中にある、旧約聖書における神の民についてです。イスラエルの民は、常に旅の途中にある民でした。すなわち、故郷を離れた寄留者だったのです。約束されたカナンの地ですらも、寄留者の土地として、カナンの地に住んでおりました。

出エジプト記
6:4 またわたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。

そこで、とくに二人の代表的な人物を中心に、この間の消息を見てみることにしましょう。けど、みことばは、この二人だけでなく、すべての信じる者を含めて、次のように言っております。ヘブル人への手紙の十一章。このヘブル書、十一章なしに、旧約聖書を読んでも、ちょっといろいろなことがピンとこない。わかりません。

ヘブル
11:10 彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。その都を設計し建設されたのは神です。
11:11 信仰によって、サラも、すでにその年を過ぎた身であるのに、子を宿す力を与えられました。彼女は約束してくださった方を真実な方と考えたからです。
11:12 そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天に星のように、また海べの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。
11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。

アブラハムという男は、信仰の父と呼ばれた者となっただけではなく、もっと考えられないほどすばらしいことを聖書は言っています。アブラハムは、『神の友』だったと聖書は言っています。創世記十二章を見ると、次のようにアブラハムについて、書き記されています。

創世記
12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
12:4 アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。

どこに行くべきか、その時はわからなかった。けど、従いました。そして、ヘブル書の十一章の中で、詳しく書き記されています。前に読みました箇所ですね。ヘブル書の中で書かれています。すなわち、アブラハムは、言われたとおりにしたということです。結果として、主は近くにおられる、主は忠実に約束を守るお方であるということを経験したのであります。

そのことについて、イエス様ご自身が説明してくださいました。

ヨハネ
8:56 あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです。

紀元前二千年に、アブラハムはすでに啓示によって、上からの光によって、イエス様による救いという神の大いなる御業を知っておりました。この啓示を見てアブラハムは、本当に喜び、次のように告白することができたのです。「私は、地上では旅人であり、寄留者である」ということです。けども、アブラハムだけではなく、ダビデも結局、同じ心構えを持つ者でした。ダビデは、神の御心にかなった人と呼ばれましたし、彼は、アブラハムよりも千年後に生きた人でした。

第一歴代誌
29:10 ダビデは全集団の目の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたはとこしえからとこしえまでほむべきかな。
29:11 主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。
29:12 富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてが偉大にされ、力づけられるのです。
29:13 今、私たちの神、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。
29:14 まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。
29:15 私たちは、すべての父祖たちのように、あなたの前では異国人であり、居留している者です。地上での私たちの日々は影のようなもので、望みもありません。

このダビデの証し、告白とはすばらしいものなのではないでしょうか。彼は、もちろん、すべてを治める王でした。けども、彼は、「とんでもない!私ではないよ。主だよ」と言い続けたのです。一節から十五節までを見ると、ダビデという王様は、彼の神に全く圧倒され、心を奪われて、主を褒め称えた人であったことが解かります。我々も、ダビデと同じように、主に圧倒されることを確認することができるのでしょうか。

ダビデは、この地上では、異国人であり、寄留者であって、だた主だけが本当の望みであり、喜びであることを体験的に知っていたのです。彼は、イスラエルの中でもっとも偉大なる王であり、十二部族を統治することのできた王であり、敵対する異邦の民を完全に打ち負かすことのできた王でした。しかし、彼は、偉大なる力、大いなる富にもかかわらず、常に寄留者でした。詩篇の三十九篇を見ると、彼の心構えが明らかになっているのではないでしょうか。

詩篇
39:12 私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留の者なのです。

アブラハムと同じように、ダビデもまた、イエス様の日をはるかに見ていたようです。使徒行伝、二章を見ると、ダビデについて、次のように書かれています。

使徒行伝
2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
2:26 それゆえ、私の心は楽しみ、私の舌は大いに喜んだ。さらに私の肉体も望みの中に安らう。
2:27 あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。』

2:31 それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです。

ダビデが――この箇所によっても解かります――すでにイエス様の復活のことを、前もって、知っていたことが解かります。旧約時代における主なる神の民は、信仰によって歩み、信仰によって死にました。すなわち、彼らは目に見えないものを見、この地上は仮のものであって、本当に満たされることがないと告白したのであります。

次に、新約時代におけるまことの教会について、ちょっとだけ、考えてみたいと思います。

ヘブル
13:14 私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。

イエス様に出会って、受け入れられた者は皆、永遠の都に旅する途上にある者であって、したがって、この地上では異国人であり、寄留者です。私たちは、永遠の都を切に望むべきです。この地上のものは、すべて過ぎ行くものであるため、私たちは、この世のものによって完全に満たされるということは、決してありません。

今度はちょっと、ペテロについて考えましょうか。ペテロは、次のように書いたのであります。

第一ペテロ
2:10 あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。
2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。
2:12 異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。

イエス様は、祈りの中で告白しました。イエス様のいちばん詳しく知られている祈りとは、ご存知のようにヨハネ伝17章に書かれています。。一文章だけですけど、お読みいたします

ヨハネ
17:16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。

イエス様は、こう祈りの中で告白してくださいました。その目標が、この世の過ぎ行くものであるような、そういう人々は災いです。この地上にあって本当に、気持ちよく感じている者も、気の毒なのではないでしょうか。

ドイツ人だったか、スイス人だったか、ちょっと忘れました。ユング・シュティリング、当時、非常に大切にされた、イエス様を信じる者でしたけれども、彼は次のように証ししました。「天にある故郷を待ち望む者は、幸いである。彼らは、必ず故郷に帰る。」

私たちが、この地上に永遠の都を持っていないゆえに、また、イエス様の尊い血潮によって買い取られ、この世には属しておらず、したがって、この地上にあっては、異国人であり、寄留者であるゆえに――第三番目になりますけれど――真面目な忠告が必要なのではないでしょうか。私たちは、我らのかしらなるイエス様と同じように、この世の者ではないゆえに、パウロとペテロが、次のように書き送ったのです。まずパウロです。

ローマ
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

パウロだけではなく、ペテロも同じように、当時の信じるものを励ましています。

第一ペテロ
2:11 愛する者たちよ。あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

なぜ、この真面目な忠告が必要なのでしょうか。三つの実例がその答えを与えてくれるのではないかと思います。その三つの例は、第一にロト、第二にサウル、そして、第三にデマスであります。

ロトという男も、アブラハムと同じように、主の声を聞いて、主に従って、自分の故郷を離れました。けど、彼の生涯は、決して良い証しとはなりませんでした。彼は、良い土地を選びました。自分のことしか考えなかったのです。彼の生涯の特長は、『物質欲』以外の何ものでもなかったのです。彼は、いつも、ただ自分のことばかりを考えておりました。後に彼は、非常に富んだ豊かな都であるソドムで、神に対して全く無関心な人々と一緒に生活するようになってしまいました。彼は確かに、ソドムの滅びから救われ、主を信じる者だったけど、召しにふさわしくない歩みをしてしまったのです。

次に、サウルという王様です。彼は、ダビデと同じように、、もちろん、主なる神に属していました。ダビデと同じように、王となった者でした。しかし、この二人は、根本的な点において、全く違っていたのです。サウルは、名誉を求め、人の前に良く見られたいと思っていたのです。彼は不従順であって、その最後は自殺でした。

第三に、デマスという男です。彼は、もちろん、主を信じた者であり、それだけではなく、パウロの同労者でした。主に仕えた者でした。本来、この世の者ではなく、この世にあっては寄留者であるべきにもかかわらず、再び、この世を愛し、この世が気持ちの良いものとなり、それに満足するようになってしまったのです。彼は、この世と調子を合わせてしまいました。

私たちも、この世にあっては、本来、寄留者でありますが、それにもかかわらず、常に、ロトやサウルやデマスのようになってしまう危険に瀕しているのではないでしょうか。ですからこそ、この真面目な忠告が、我々にとっても、どうしても必要なのではないでしょうか。この二つの忠告とは、本当に大切です。もう一回、読みます。

ローマ
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

第一ペテロ
2:11 ・・・・あなたがたにお勧めします。旅人であり寄留者であるあなたがたは、たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。

肉の欲を遠ざけなさい。それはいったいどういうことでしょうか。自分自身の欲、すなわち、エゴを死に、あけわたすことです。肉から生じているもの、自分の考え、自分の意思、自分の感情を否定することが、それに他ならない。これは、戦いを意味しています。それですから、パウロは、次のように言わざるを得なかったのです。「たましいに戦いをいどむ肉の欲を遠ざけなさい。」つまり、たましいに対する戦いです。言うまでもなく、たましいの働きとは、考えること、欲すること、そして、感じることです。別の言葉を使うならば、たましいと霊との分離が必要です。したがって、自分の考え、自分の意思、自分の感情を否定することができない者は、ロトやサウロ、あるいは、デマスと同じようにダメになってしまう危険に陥ってしまいます。

イエス様のペテロに言われたことばを、ちょっと、お読みいたします。

ルカ
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

悪魔の祈りが聞き届けられた。

ルカ
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

悪魔は、必死になって、我々を攻撃します。しかし、イエス様は完全なる勝利者であり、いつも夜昼、我々のために祈っておられ、我々のために生きておられるお方です。イエス様は、私たちの生涯が良き証しの生涯となり、それを通して、多くの人々が祝福されることを望んでおられます。だから、イエス様は、ペテロに、「兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われたのです。

私たちは、寄留者です。我々が切に求めるのは、永遠なる都です。『自分のことを全く忘れ、上にあるものを求めなさい。』また、『兄弟姉妹たちを力づけてやりなさい』と、主は、今日も呼びかけておられます。もちろん、福音書を読むと言えることとは、イエス様ご自身が寄留者でした。ルカ伝を見ると、イエス様は次にように証しし、告白しました。

ルカ
9:58 イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

自分の家を持っていなかったし、自分の部屋さえもなかった。乞食そのものでした。主に従うとは、確かに簡単ではない。しかし、喜びに満ちている道です。初代教会の兄弟姉妹は、次のように、正直に告白したのであります。

第二コリント
5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
5:2 私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。
5:3 それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。
5:4 確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。
5:5 私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。
5:6 そういうわけで、私たちはいつも心強いのです。ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。
5:7 確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。
5:8 私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。
5:9 そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。

パウロは、こういうふうに、コリントにいる兄弟姉妹に書いただけではなく、コロサイという町に住んでいる方々にも、全く同じようなことを書いたのです。彼らを励ますために書いたのです。

コロサイ
3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。
3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

また、イエス様の呼びかけとは、すばらしい呼びかけでした。

ヨハネ
14:1 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。

考えられないほどすばらしい約束です。もう一箇所、読んで終わります。

ユダ
1:24 あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、
1:25 すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

おわり

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