2014年4月29日火曜日

主イエス様の心構え

主イエス様の心構え
2014年4月29日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ピリピ
2:1 こういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

今、歌いましたのは、必ず毎週、同じ歌になります。二百十二番ですね。三節に、「一つ」という言葉が七回も出てきます。結局、一つになることこそが、もっとも大切なのではないでしょうか。もう一回、同じ箇所から読みます。


ピリピ
2:2 私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

この言葉について、少しだけ一緒に考えたいと思います。二つの点に分けて考えましょうか。第一番目、主イエス様の心構えを得る道とは、いったいどういうものでしょうか。そして、第二番目、イエス様の心構えの特長とは、いったいどういうものなのでしょうか。

ご存知のように、ピリピ書という手紙は、世界中のイエス様を信じる者によって、大切にされている手紙であり、喜びの書簡と呼ばれているものです。『喜び』という言葉が何回も出てくるのです。

それと同時に、この喜びの根拠なるものについても、すなわち、イエス様のことばに尽くすことのできない大いなる愛についても、おもに二章に、書き記されています。旧約聖書の中で三百五十八回、新約聖書の中で百三十三回、『喜び』という言葉が出てきます。どうして旧約聖書の中にそんなに多く出てくるのか――おそらく、ダビデがこういうふうに導かれたからです。ですから、旧約聖書と新約聖書を合わせて、五百二十三回、「喜び」という言葉が出てきます。喜ぶことの大切さ、必要性、そして、可能性について書いてあります。

述べられているパウロの願い、パウロの祈りだけではなく、主の御心、そのものが書き記されています。すなわち、一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。

主なる神の永遠のご予定は、ローマ書、八章二十九節によると次のようなものです。「神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた」ということです。

【参考】ローマ
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

私たちは、確かに変わりやすい者ですけど、主の御計画は、決して、決して、変わらないものです。すなわち、救われた人々が、イエス様の御姿に変えられることこそが重要です。主なる神の切なる願いは、私たち一人ひとりが、主の側に立つ者となり、妥協せず、主を第一にする者となることです。

まず初めの質問は、イエス様の心構えを得る道とは、いったいどういうものでしょうかについて、ちょっとだけ考えてみたいと思いますが、パウロは三つのことについて述べています。すなわち、まことの一致を持つ必要性。そして、いかにしてこの一致が保たれるか。すなわち、謙遜によって、また成熟によってです。まことの一致について、三つの事柄が述べられています。同じ愛の心を持つこと、心を合わせること、志を一つにすることです。

ご存知のように、パウロはこの手紙を刑務所の中で書いたのです。おそらく、パウロは、この刑務所から出られなくなったかもしれない。すなわち、彼は、殉教の死を遂げたのです。まちがいなくパウロは、刑務所の中で悩んだり、苦しんだり、心配したでしょう。

しかし、はっきり言えることは、彼は自分のことをあまり大切にしたくなかった。自分のことを忘れ、信じる者の成長のために祈り続けたということです。刑務所を出られるように祈りなさいと、彼は頼んだのではない。私の喜びが満たされるようにお願いします。どうか一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてくださいと。

同じ愛の心を持ちなさい。すなわち、イエス様を通して、明らかになった主の愛を体験的に知ることができ、それから、この愛を伝える器となることです。エペソ書の中で似てる箇所があります。

エペソ
4:2 ・・・・愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

私たち信じる者、一人ひとりを通して、他の信者に祝福をもたらすように召されています。すなわち、私たちを通して、他のイエス様を信じる者が、イエス様とさらに深い交わりを持つことができるようになり、兄弟姉妹と主とがさらに近づき、妥協せず、喜びに満たされて、信仰生活を送ることができるようにと、主は信じる者、一人ひとりを用いようと望んでおられます。

主なる神が関心を持っておられる唯一のことは、イエス様に導かれ、イエス様に捕らえられている人々に関することです。主なる神が、人間、一人ひとりをどのように大切な者であるか、また、その一人ひとりを贖うためにどのような犠牲を払ったかということを考えて見るならば、一人ひとりを愛せざるを得ないのではないでしょうか。

これは、もちろん、自分の努力の結果ではなく、主の愛の現れです。よく知られているローマ書、5章の中で、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛、神ご自身の愛が私たちの心に注がれている。」いつか与えられるかもしれない・・・・のではない。もう与えられているとあります。主なる神は、我々に対して、最大の関心を払っておられます。だから、私たちの最大の関心事も、区別なしに、兄弟姉妹を心から受け入れるということでなければなりません。

パウロは次に、刑務所の中で信じる者を思い――二番目ですね――「心を合わせてもらいたい」と書きしるしたのです。同じ目的を目指して走ろうではないか。演奏会の始まる前に、それぞれの楽器の演奏者は、音程をひとつに合わせます。

それと全く同じように私たちは、この心を一つにして、同じ思いを持たなければ、主の栄光を現すことができません。信じる者の集いとは、どういうものであるべきなのでしょうか?ダビデは、次のように書いたのです。「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、何という幸せ、何という楽しさであろう」(詩篇133:1)とあります。

イエス様のからだなる教会は、分裂したものであってはならない。かえって、それぞれの器官は、お互いに配慮しあうべきです。御霊の一致と愛の一致があるところにのみ、共なる賛美と主の御名が崇められることが成就されます。この一つになること、一致することは、おもにダビデが強調したのではないでしょうか。詩篇34篇3節、二回も、「ともに、共に」という表現が出てきますね。

詩篇
34:3 私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。

『心と声を合わせてください』と。これはパウロの願いであり、また、これこそが主なる神の命令であり、祝福の秘訣です。一緒になって奉仕したり、共に働いたりすることはできますけど、心の一致がなければ、無意味なのではないでしょうか。役に立たないものであり、なぜならば、一致のあるところのみ祝福があるからです。新たなる祝福を得ようと思えば、他の信者と心を一つに合わせて、主を仰ぎ見ましょう。

使徒行伝の一章を見ると、次のように書かれています。当時の初代教会の兄弟姉妹についてです。

使徒行伝
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。

意見の違いによって兄弟姉妹は、互いに分裂してはなりません。信じる者であれば誰でも、愛を持って、互いに受け入れなければならないと、聖書は、はっきり言っているのです。枝葉の問題よりも大切な問題があります。

キリスト者の交わりの目的は、枝葉の問題に関して、議論することではなく、共に心を一つにして、主を礼拝することです。これはまた、救いの目的でもあり、我々の救われた目的です。まことの一致は何を意味しているのでしょうかね。同じ愛の心を持つこと、心を合わせることであり、そして、志(こころざし)をひとつにすることです。

志を一つにすることは、いったい何を意味してるのでしょうか。すなわち、イエス様の内に見られる心構えを持つことです。つまり、イエス様のように、人を見なさい。イエス様のように、この目に見える世界を見なさい。イエス様の持っておられる要求を持ちなさいということです。

パウロは、当時の信じる者の中に、二種類があったと書いてあります。

ピリピ
2:20 テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。
2:21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

これは未信者のためではなくて、信じる者、救われた人々に書かれた言葉です。彼らは疑いもなく、イエス様を救い主として受け入れていますし、心から信じていますし、しかし、イエス様のことよりも、自分自身のことを求めている。ぜひ覚えていただきたいことは、自分自身を無にして、主の栄光を追い求めるということによってのみ、志をひとつにすることができるということです。

イエス様は、たとえば、ペテロに「あなたは、ヨハネのようになりなさい」とは言わなかったし、ヨハネに向かっても、「あなたは、ヤコブのようになりなさい」と仰いませんでした。同時にイエス様は、マリヤに向かって、「マルタのようになりなさい」とは仰らないで、マルタに向かって、「マリヤのようになりなさい」とは言いませんでした。

コーラスの中には、いろいろなパートがあります。主は、賛美が一本調子ではなく、互いに調和を保ちながら、美しいハーモニーを奏でることを望んでおられます。信仰の弱い人も強い人も、また、能力のある人も、無い人も、主への賛美のために、一つ心になるべきです。

イエス様は、正しい認識に欠ける信者たち、また、欺瞞の中にいる信者たちに、思いやりを示してくださり、彼らを愛して、ご自分のいのちを、このような人々に対して、捧げてくださいました。この心構えを、私たちも持つべきです。

今まで私たちは、心の一致を持つことの必要性について考えてまいりましたが、今度は、謙遜について少し考えてみたいと思います。

ピリピ
2:3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

心の一致の土台なるものは、心の謙遜です。謙遜のない一致は、偽りものであり、にせものにすぎません。自己中心や強制からすることによって、分裂が生じてきます。自分自身のことを求めることの反対は謙遜です。イエス様は、自分自身を喜ばせなかった、ただ一人のお方です。

イエス様は、「わたしは、心からへりくだった者です。わたしは、自分の意思を追求せず、わたしを遣わしたお方の御心だけを求めます」と、言えたのです。我々の最大の敵は、自分の自我です。自我は、神のために役に立ちません。それは死に値するものです。人を自分よりもすぐれた者であると思う精神が、イエス様の精神であり、すなわち、本当の謙遜です。

悪魔の精神は高ぶりであり、傲慢です。悪魔は、頭を下げたくないし、決して、「ごめんなさい」と言いません。多くの人々の特長は、誰もが自分自身だけのことを考えるということではないでしょうか。それですから、結婚生活、家庭生活、社会生活そのものが、もはや、うまく行かないのではないでしょうか。ですから、至るところ、恐ろしいほどの競争、妬み、憎しみがあります。

謙遜であるということは、決して、弱さのしるしではありません。もっとも強い武器です。「わたしは、心やさしくへりくだっている」と言われたイエス様に対して、悪魔はどうすることもできませんでした。もし、私たちが、自分は他の者よりもすぐれた者であると思い込み、その他の兄弟姉妹の助けを必要としないと考えると、必ず分裂が生じます。

ピリピ
2:4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

自己否定を伴わない生活は悲劇です。自分のために生きるとは、すなわち、不幸になる原因です。自分のために生きるとは、それは、自己満足であります。誰でもが、自分自身のために生き、自分が中心になりたいと思い、自分自身の願望を追及することは、もちろん、可能です。なぜならば、今、話したように、我々の最大の敵は、自分自身の自我であるからです。

自分のためではなく、十字架の上で犠牲になり、また、三日目に復活なさったイエス様のために生きることは、最高の特権であり幸せです。自分のことばかりを大切にする人は、的外れの生活をしますけれど、イエス様のために生きたいと望む者は、自由になります。幸せになり、そして、豊かな実を結ぶようになります。私たちは、イエス様の御姿に変えられなければならない。イエス様ご自身が、我々の内に形造られなければならないと、強調されています。

もう一つの点について、ちょっと考えたいと思います。そして、イエス様の心構えの特長とは、いったいどういうものでしょうか。一番目、自分を無にすること。二番目、自分を卑しくすること。三番目、死にまでも従うこと。四番目、人に仕えること。この四つの点について最後にちょっとだけ考えて終わりたいと思います。

まず、イエス様は、自分を無にしてくださいました。イエス様は、『神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられ』ました(ピリピ2:6-7)イエス様は、永遠なる神であられたのに、天におられたならば、何の不自由なく、恐るべき祝福のうちに住むことができたのに、自分を空しくしてくださいました。自分の持ち物、自分の知恵、また、力を全部、捨てました。

イエス様は、人の誉れも名誉も得ようとは、一時たりとも思われなかったのです。全く自分を空しくしておられました。ある人は、これは私の権利だと思い込んでしまい、戦うようになります。しかし、我々の権利とは、自分の権利を捨てる権利にすぎない。すなわち、自分を空しくすることです。

イエス様は、自分の喜びを求めることや、自分の名誉を求めることや、富を求めることとは、全く無関係でした。イエス様の切なる願いは、次のような事柄、すなわち、「父よ、あなたの御名が崇められますように」ということだけでした。イエス様は、「わたしは、自分の栄光を求めない。父の栄光を求める」と、はっきり告白したのであります。イエス様は、「わたしは、自分の意思ではなく、わたしを遣わされた父の意思によって歩む」と、告白することができたのです。それから、イエス様は、前に言いましたように、自分自身を卑しくしてくださったのです。

ピリピ
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

本当の意味での謙遜なるお方は、イエス様、お一人のみです。「わたしは、へりくだっている」と、イエス様は真心から言うことができたのです。すなわち、イエス様は、自分のことを完全に忘れました。自分自身を喜ばせようとはなさいませんでした。自分自身を喜ばせることは、自己満足です。人は、簡単な楽な道を望みます。人は、問題に入りたくない。人は、自分の利益を追求する者なのではないでしょうか。

イエス様は、自分自身を喜ばせなかった、ただ一人のお方です。悪魔は、傲慢のかたまりです。けど、イエス様は、自分を卑しくしてくださいました。そして、主なる神の御心は何であるかと言いますと、イエス様の内にみられる心構えでいなさいと。ペテロも、同じ事実について書いたのです。

第一ペテロ
5:5 みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

聖書全体の言わんとしていることは、それでしょう。もう一箇所、コロサイ書3章12節です。

コロサイ
3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

パウロは、このように書いたのであります。なぜ、そんなに実りが少ないのでしょうか。なぜ、御霊はそんなにしばしば、悲しまれるのでしょうか。なぜならば、私たちが自分自身を喜ばせているからなのではないでしょうか。私たちは、何かの役割を演じたいと思っているのではないでしょうか。私たちは、自分自身に同情するからです。

もう一つ、イエス様について書かれているのは、イエス様は死にまでも従ったということです。これこそ、イエス様の心構えの特長でした。

従順は謙遜の結果です。イエス様は、自分自身を忘れ、誤解されたり、そしられたりすることを良しとされました。そればかりでなく、イエス様は、人間の罪に対する父なる神の怒りの裁きを、ご自分の上に引き受けることを良しとされました。イエス様は、のけ者にされ、呪われることも良しとしてくださったのです。これは、イエス様にとって何を意味したのか、全く考えられない犠牲でした。自分自身の名誉欲を満たしたいと思う者、また、自分自身の利益を追求する者は気の毒です。イエス様は、「わたしは、心からへりくだった者です。だからわたしは、自分の意思を追求せず、わたしを遣わされたお方の御心を求めます」と、正直に証しすることができたのです。自分の考えによって導かれる者は、本当に災いです。イエス様は、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。

もう一つのイエス様の心構えの特長とは――四番目ですけど――人に仕えることです。へりくだる者だけが、従順に従うことができ、従順に従う者だけが仕えることができます。イエス様は、次のように告白しました。マルコ伝十章、このマルコ伝の中のいちばん大切な一節でしょう。

マルコ
10:45 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

イエス様は、僕(しもべ)の形をとり、弟子の足を洗ってくださいましたが、それはまさに当時の奴隷の仕事にほかならなかったのです。しかも、イエス様は、それを喜んでしてくださいました。我々の生まれつきの性質の特長は、自分、自分だけのことを考える・・・・ということです。だからこそ。人は不幸になり、孤独になり、満たされていません。だからこそ。パウロは刑務所の中で、信じる者の成長のために心配し、また。祈りながら書き記したのです。「主イエスのうちに見られる心構えでいなさい」と。イエス様は、自分を無にしてくださり、死にまでも従順に従う者となり、救いの代価を払うことによって、犠牲になることによって、本当の意味で人に仕えたのです。

ピリピ
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

父なる神は、イエス様のいちばん高い御位(みくらい)をお授けになったのです。イエス様は今、天の御位に座しておられますが、けど、イエス様はただ一人でそこにおられることを願っていません。十字架に架かってくださったのは、信じる者の一人ひとりがイエス様の心構えを持ち、御座に着くことができるようになるためだったのです。その道が、どんなに恥と苦しみに満ちていても、御座に続く道は、主の望んでおられることです。主の目標を心の目で見た人は、自分自身を省みませんが、自我という足かせから解放されている。

イエス様のうちに見られる心構えでいなさいと、パウロはピリピにいる兄弟姉妹に書いたのです。私たちは、すべてを、すなわち、自分が持っている考え、自分が持っている意思、自分が持っている感情をすべて主に捧げ、また、自分が当然、良いと思われる権利もイエス様に捧げようではないでしょうか。その結果は、どういうものでしょう。パウロは、自分の体験として、次のように告白しました。すばらしい証しです。

ピリピ
3:8 私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。

イエス様のうちに見られる心構えでいなさい。すべての問題の原因は、我々の生まれつきの性格にあるのではない。我々の我がままな気持ちです。とくに、いつも自分を正当化しようという気持ち、傲慢な思い、自己追求などに問題の原因があるのではないでしょうか。確かに、イエス様のために生きたいと思う人は、犠牲を捧げるようになるでしょう。けど、そのために失うことはない。多くのものを得るようになります。

自分自身のことだけを考え、自分自身の楽しみを追求する者は、心からの満足を得ることができません。また、前進することもできません。イエス様をより良く知りたい、そしてイエス様に用いられたいと思う人は、したがって、幸いであり、祝福され、用いられるようになります。

自分の思い、感情、意欲などを大切にしないで、ただ、イエス様だけが、すべてのことにおいて最優先されるという備えができている人は、必ず祝福され、主の姿に似た者と変えられるようになります。自分のことばかりを大切にする人は、的外れな生活をします。けど、イエス様のために生きたいと望む者は、自由になり、幸せになり、また、間違いなく豊かな実を結ぶようになります。

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