2025年8月3日、秋田福音集会
翻訳虫
ヨハネ
13:12 イエスは、彼らの足を洗い終わり、上着を着けて、再び席に着いて、彼らに言われた。「わたしがあなたがたに何をしたか、わかりますか。」
弟子たちとの晩餐が始まろうとするとき、イエス様は立ち上がり、上着を脱いで手ぬぐいを腰に付けました。これは、イエス様が十字架にかけられる前日の出来事であります。弟子たちは、何をされるのかと不思議に思ったでしょう。イエス様はたらいに水をくみ、おもむろに弟子たちの足を洗い始めました。
誰もがご存じの有名な出来事であります。本日は、この足洗いの場面を学びながら、イエス様が地上で過ごす最後の夜にとられたこの行動の意味について考えてみたいと思います。
はじめに、この時、主と弟子たちのあいだに交わされた会話を追いながら、この出来事を振り返ってみます。
足洗いの夜
当時のイスラエルでは、砂埃の道を歩いてきたお客が到着すると、家の主人は、足を洗うための水を用意しました。普通は、お客がこの水で自分の足を洗いましたが、裕福な家では奴隷がお客の足を洗ったということです。これは奴隷の仕事の中でさえ、もっとも卑しいとされていたものでした。
ヨハネ
13:1 さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。
イエスさまは、これが、地上での生活を共にした弟子たちとすごす最後の夜であることをご存じでした。そこで取られたこの足洗いという行動は、弟子たちに最後の愛を示すものでした。
ヨハネ
13:3 イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
13:5 それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。
父なる神の御子として地上に来られたイエス様が、弟子たちに対する愛を示すために、もっとも低いところまで身をゆだねることをいとわなかったのであります。
ヨハネ
13:6 こうして、イエスはシモン・ペテロのところに来られた。ペテロはイエスに言った。「主よ。あなたが、私の足を洗ってくださるのですか。」
主が足を洗われたのは、言うまでもなく、体についたほこりを落とすためではなく、霊的なきよめを象徴するものであります。しかし、ペテロはこの時点でそのことを理解していませんでした。ペテロには、主がご自身を卑しめているとしか思えなかったのであります。
ヨハネ
13:8 ペテロはイエスに言った。「決して私の足をお洗いにならないでください。」イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」
イエス様が足を洗うのは、罪のきよめの象徴であります。ペテロが主の洗いを拒むなら、それはイエスのきよめを拒絶することを意味します。そうなると、二人では師でも弟子でもないということになります。
ペテロはようやく、この足洗いが体についた外面的な汚れを落とすことでないことを理解し始めました。
ヨハネ
13:9 シモン・ペテロは言った。「主よ。わたしの足だけでなく、手も頭も洗ってください。」
主が霊的な意味で人間をきよめようとしていることに気づいて感激したペテロは、極端に走って、イエス様に全身からこの汚れを落としていただくよう求めてしまいます。
ヨハネ
13:10 イエスは彼に言われた。「水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。全身きよいのです。」
人間の罪には二つの種類があり、またその罪のきよめも、それぞれに異なるものであります。
ひとつは全ての人間がアダムから受けついて生来、持っている罪であり、もうひとつは、主を信じていながら、私たちが日々、生活の中で犯す罪であります。
イエス様は、ペテロたちを『水浴した者』と呼ばれました、全身を洗ったものとは、イエス様を信じたもののことであります。イエス様を信じて、信仰を告白した時、その人が生まれたときから持っていた罪は洗い落されました。これは、洗礼が象徴するひとつ目の罪のきよめであります。
『水浴した者は、足以外は洗う必要がありません。』主を神の子として受け入れたとき、弟子たちは、救いという全身のきよめを経験していました。このとき、彼らが生まれながらに持っていた罪は消え去ったのであり、霊的な意味で全身を再びきよめる必要はなかったのです。
しかし、主を信じて全身をきよめられたものであっても、日々の生活の中で犯す罪からは逃れられません。洗礼の後も人間は罪を犯し続けます。足はその罪で汚されているので、人生全体を通して、常に洗い流され、キリストによって許され続ける必要があります。弟子たちが必要だったのは、この日々のきよめでした。
砂だらけの道を歩いてきた弟子たちの足は、砂埃で汚れていました。これは、信じた者が日々、犯す罪を象徴するものではないかと思います。信仰を持った私たちも、人を嫌ったり、この世ののものに心を奪われて、主だけにより頼むことを忘れてしまったり、毎日の生活の中でも、罪を犯さずにはいられないものであります。
イエス様は、これら二種類の罪に関する霊的な真理を、この回答の中に込められた上で、次のように言われました。
ヨハネ
13:14 ・・・・主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。
イエス様が来られたのは、仕えられるためではなく、仕えるためでした。主が、ご自身を低くされたように、弟子も自分を低くし、謙遜になって、互いが犯す罪を洗い合わなければならないという教えであります。
ヨハネ
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。
主は、この足洗いが、ご自身が地上を去った後も、使徒たちが人々に示すべき謙虚さの模範であることを明確にされました。パウロは、信徒たちが、主のこの模範を引き継いで、へりくだって生きるように述べています。
ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
主は、この地上で過ごす最後の夜、おごり、高ぶり、地位、虚栄心、優越感を捨てて、助けを必要とする人たちのために成すべきことを行うよう弟子たちに命じました。それを実践して見せるために、主は数時間後に釘で刺される両手で弟子たちの汚れた足を洗われました。
ピリピ
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
『イエスのうちにも見られる』と書いたパウロの心の中には、弟子たちから聞いた、この最後の夜の足洗いの場面が浮かんでいたのかもしれません。
弟子たちは十字架の後で、福音を広めるために世界に出ていくことになります。主は、弟子たちが教会の指導的な立場に立った時も支配や権威によってではなく、謙遜さと奉仕によって人を導くようにという教えを最後に残されたのではないでしょうか。
足を洗うことの意味
この場面で起こったことを順に追ってみてきましたが、ここからは、このイエス様の足洗いが、主イエス様、弟子たち、そして、今を生きている私たち信仰者にとって、どのような意味を持っていたのかを考えてみたいと思います。
(1)主イエス様
主イエス様にとって、この足洗いは、自分を下に置き、自分を捨てて人に仕えなさいという御心を弟子たちに伝える行いでもありました。
事実、イエス様が、数時間後には捕らえられるというこの時になっても、弟子たちは、御国では誰がもっとも偉いかを言い争っているようなありさまでした。
ルカ
22:24 また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという論議も起こった。
22:25 すると、イエスは彼らに言われた。「・・・・
22:26 ・・・・あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」
足を洗うというイエス様の行為は弟子たちの心から利己的な野心を取り去り、プライド、虚栄心を捨てなさいと言う教訓を伝えるものでした。
ルカ
23:11 あなたがたのうちの一番偉大な者は、あなたがたに仕える人でなければなりません。
人の足を洗うには、まず相手の前に身を低くし、膝をつくことが必要であります。一般にはこれは従順と隷属の表れですが、主が取られたこの体勢には、やさしさと寛大と謙遜が表れています。これは崇高な行為であり、伝道活動の本質であることを、主はここで改めて伝えようとされました。
主は終生、自分を低くし、他者を第一にするという生き方を貫かれました。
マタイ
23:12 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
主はこの世で過ごす最後の夜に、この教えを実践して見せたのではないでしょうか。
(2)弟子たち
次に、弟子たちはこの出来事から何を受け取ったかを考えてみたいと思います。先ほどの足洗いの場面に戻ってみます
ヨハネ
13:2 夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていた。
この時すでに、ユダは主を売り渡すことに決めていました。足洗いの場面の最後に近いところで主は続けています。
ヨハネ
13:11 イエスはご自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みながきよいのではない。」と言われたのである。
主は、ユダが自分を裏切ることをご存じでした。ユダが退席したのは、この後、晩餐の途中のことです。
ヨハネ
13:30 ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。
足を洗われたタイミングが非常に大きな意味を持っていると思います。もしも主が、ユダが去った後で、『さあ、裏切り者がいなくなった。皆さんの足を洗います』と言っていたら、この行動の意味は全く違うものになったでしょう。
ユダだけではありません。ペテロはその夜、イエスなど知らないと公然と否認することになります。他の弟子たちも、イエス様が逮捕されると皆、逃げ出してしまい、体を張ってイエス様を守ろうとしたものなど一人もいなかったのです。
主を裏切るもの、主を捨てるものも交じっていることを知りながら、敵と友の足を主は同じように洗った上で、こう言い残されました。
ヨハネ
13:7 イエスは答えて言われた。「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」
十字架の死の後、使徒たちは世界に出て行き、福音を広める活動を始めます。使徒たちは、人々からの迫害を受け、また、嘲笑や敵意の中で働くことになりました。
この人たちの救いのために、自分の生涯を捧げなければいけないのか!と、彼らが疑問を持ち、くじけそうになったとしても不思議ではありません。そんな時、使徒たちは、『イエス様はユダやペテロの足も洗っていたよな!』と、敵の前にも膝をついて、彼らの罪を洗い流した主の姿を思い出したのではないでしょうか。
自分を敬うもの、自分を認めてくれる者の救いのために仕えるというのは簡単なことかもしれません。しかし、主は、『自分を迫害する者のために祈りなさい』と言われました。主は、自分に敵対するものの前に膝をついて、罪を洗い流すご自身の姿を見せたうえで、『わたしはあなたがたに模範を示した』と言い残されました。
弟子たちの記憶の中の主の姿が使徒たちに大きな勇気を与えたのではないでしょうか。
(3)信仰者
最後に、今に生きる信仰者である私たちに対して、この主の足洗いは何を教えてくれるでしょうか?
神の国における真の偉大さとは、人の前に自分を低くして仕える謙遜さを持った人によって実現されることを主は繰り返し語られてきました。
マルコ
10:44 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。
地上で過ごすこの最後の夜にいたるまで、主は他者に仕える姿勢を示されています。これは、イエス様の全生涯を通して主張されたことの核心であったともいえます。
私たちの生活の中でも、自分より低い対場の人への接し方に、その人格の深さが表れることがあります。卑近な例ではありますが、私が社会に出たばかりのころ、立派な肩書を持った重役でありながら、格下の相手にも非常にていねいに応対し、何かしてもらうと、誰にでも頭を下げてお礼を言う人がいました。掃除のおばちゃんがごみを集めに来ると、その人が立ち上がって手伝ってあげているところも見たことがあります。
その頃、なんであんなに偉い人が、卑屈とも見える態度を取るのか、不思議でしたが、今、考えますと、このような場面こそ、本当の人格が現れるような気がしています。
主を信じた私たちは、まだ主を知らない人たち、家族や親戚、友人たちにあらゆる機会をとらえて福音をを広めるよう召されております。
その時も、人への思いやりを忘れて高慢な態度を取ったり、主の救いを受けている自分を上において、相手を見下すような気持ちを持つことがあれば、主を悲しませることになります。それは、主がこの最後の夜に伝えられたことと、明らかに逆行するからであります。
どのような相手に対しても、自分を下において、相手に仕える姿勢を持つようにと、主は繰り返し語られました。そして、このことばを最後に実践された後で、主はこう言い残されました。
ヨハネ
13:17 あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです。
へりくだりを持って、互いに奉仕するものこそ、神の祝福を受ける、すなわち、福音を伝える者として実を結ぶことができるという主の約束であります。
これは、私たちの生活の全ての場面に当てはまることではありますが、中でも、主を知らない人に福音を伝える伝道活動の中でこそ、この謙虚さはもっとも明確に示されるべきものであります。
御言葉を語るにしても上から目線で、試練の中にある兄弟姉妹の言葉には聞く耳も持たないという尊大な態度は、足を洗った主の願いを踏みにじるものであります。このことを常に心にとめておかないと、謙虚さをもって互いに奉仕する場であるべき集会も、形式的に自分の義務を果たすだけの場所、並べた御言葉を吐き捨てて去っていく心のない儀式的な場に変わってしまいます。
私たちは、まわりの兄弟姉妹の声を聴いて、どうすれば助けになれるだろうか、この人には何が必要だろうか、主はこの人に何をして欲しいと望んでおられるだろうかと、謙虚になって主に尋ねるべきではないでしょうか?
これこそ、主が、十字架に付けられる前の晩、足を洗うという行動を通して私たちに教えてくださったこと、謙虚さを持って互いに奉仕することであります。私たちも兄弟姉妹の前に、そして、他の人たちの前に主と同じ謙虚さを持てるように祈りたいと思います。

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