2014年5月1日木曜日

「永遠の愛」に導かれたお母様(葬儀メッセージ)

「永遠の愛」に導かれたお母様
2014年5月1日、葬儀(吉祥寺)
ゴットホルド・ベック

第一コリント
9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

H姉妹のご逝去はご家族の皆様にとっては大きなショックであったのではないかと思います。死が突然やって来ることを私たちはお母さんの死を通して考えなければなりません。でも、「備えあれば憂いなし」と言います。


確かに私たちの前からお母さんの、今は亡骸はありますけれど、日常(的に)会話するお母さんは私たちの前から奪われたわけですが、そのことだけを目に留めると、本当にショックと同時に心は動揺するばかりであります。しかし、先ほど兄弟が、司会の兄弟、また祈りの兄弟が、祈られましたように、一旦目をお母様が召された天の御国、そしてイエス様ご自身に目を転ずることを通して全く違った見方、というよりもその本当の真実の姿を私たちは知ることができるのであります。

私もお母様とはそれほど深い会話をしたわけではありません。けれどもお母様が集会に集われて、そして礼拝にともに参加した間柄です。そしてお母様が召されてからお母様自身の聖書を通して、私はお母様の新しい姿というのを存分に知ることができたのです。先ほど「備えあれば憂いなし」と申しましたが、お母様はご自身の死に対してはっきりとした聖書、すなわち、いのちの書である神のことばで備えておられたことを私は知りました。自分の息を引き取るあとのことをはっきりと書いておられます。

先ほど兄弟が紹介されましたように70歳の時にイエス様を受け入れて、そして80歳の時に、いつ死んでもいいようにその証を書きとめられたのであります。70歳と言うのは、私は今71歳ですから全く同年齢、その時にお母様はイエス様を信じられました。そのことはお嬢様でいらっしゃる長女のM子姉妹から祈られ、そして福音を聞かれた結果であります。お母様が洗礼を受けられた時にM子姉妹は次のみことばを読まれました。エレミヤ書31章3節です。

主は遠くから、私に現われた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」

お母様は永遠の愛をもって愛してくださる方、誠実を尽くし続けてくださる神様、イエス様の愛を心の中心に受けとめられました。そして聖書が示す、「死は終わりではない、死んでも生きる道」をご自身の霊で感じておられたのではないでしょうか。聖書に対する書き込み、あるいは様々な傍線の箇所、また集会に出席した時のノートを見せていただいたのですが、メッセンジャーが語られるメッセージ、それは御霊なる神様が人を用いて語られるものでありますけれど、素直にそのとおり記されているのです。

私たちは人の話を聞く時に、本当に素直でしょうか。お母様は70歳を越えて、ご主人とともに集会に出席したその時に、年下の者が話すことをそのまま素直に書きとめておられるのです。書き込みがない場合にも聖書のメッセージをその聖書の中に鉤括弧で記しておかれるのです。私はそれを見て、今日の葬儀は何も必要ないな、と思ったのです。お母様の記されたその聖書のことばを朗読するだけでもう十分私たちの心は満たされるという思いがしました。

なぜならば御霊なる神様ご自身にお母様は心の深いところでやはり支えられていたのです。家族の中ではM子さん、Iさんの知らないお母さん、いや良く知っておられたのでしょうけれど、やはり(人の)霊のことは(神の)霊を通してしかわかりません。たとえ親であろうとも生けるまことの神様に対する心の思いというのは、本当に主ご自身しかわからないのです。けれどもお母様はそのような聖書を私たちに残して下さいました。

それはお母様に誠実を尽くし続けられたのが、「永遠の愛」をもっておられる神様で(あるからで)す。お母様のお名前は本当に(ある意味で)珍しい、姓と名の組み合わせですが、この「永遠の愛」を受け継ぐにふさわしいお名前ではないでしょうか。どのように生きられたか、死んで終わりではない、永遠の生に連なる生き方をイエス様をとおして受けとめられていたのであります。だから今日の葬儀はイエス様にあって召されるということがどんなにすばらしいことか聖書をとおして考えさせていただければ幸いであります。H子お母さんが一番喜んでくださることはそのことであります。

人は息を引き取ります。しかし、イエス様を信じて死ぬ者は聖書には、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』(黙示録14:13)と、はっきり書かれています。息を引き取った瞬間。妹さんのIさんはその時に立ち会われてもっと自分が(お母さんの状態に)気がついていれば良かったのにと自分を責めておられるということを漏れ聞きしましたが、確かにお母様は病院を、いろんな病院を経由して私たちが信じられないような形で早く召されたのですが、お母様は、イエス様のもとに(息を引き取られた瞬間)、行っておられるのです。だから、お母さんのことは何も心配する必要はないのです。問題は遺された私たちの方です。なぜならばイエス様のところに行かれたお母様は、地上のすべての生活にまさって、素晴らしい生活、私たちが想像できないような、

黙示録
21:3 見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、
21:4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。

ここに、書いてありますように、そのような「目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」(天の御国に行かれたのです)。本当にこの地上で生きることは私つくづく思うのですが、つらい悲しいことが多くあります。けれどもイエス様にある死者、イエス様を信じている者は決して死が終わりじゃないのです。

人は死ねばどんな者もすぐ極楽浄土に行く(と考えるか)、あるいは極楽浄土に行くためにお坊さんがお経を読んで、そして一生懸命執り成されます。けれどもそのようなことは一切必要ないのです。また逆にそのようなことをしても私たちのいのちは天の御国に行くものではありません。(そのことは)逆に考えると、(死は)恐ろしいものです。だれもが天の御国に行くことができないのです。イエス様を信じ受け入れる者だけが天の御国に行けるのです。

「(このような考え方は)ものすごく独善性に満ちているのじゃないか、なぜそんなことが言えるのか、あなたは。」とおっしゃるかも知れません。けれども聖書はそのことをはっきり言っているのです。なぜなら聖書は人間の死の根本原因が「罪」であると言っているのです。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)といのちの書である聖書はこのように言っているのです。

人は、自分が気に入らないことがあったりすると腹を立てるものです。でも、いつもそんな時ばかりではありません。サラリーマンとして一生懸命に家族のために犠牲を払って生きて来、人様から何の後ろ指を指されることをした覚えもない(特に法律上の罪を犯したこともない)そんな自分に向かって薮から棒に「罪」と言われても、何だ、と多くの人は思われると思います。でも聖書が言っている、死の原因は罪であるということについて、真剣に考えて見る必要があります。

聖書が私たちに伝える罪は(育ててもらった)子どもが親に向かって、あなたは私の親でないと言うようなものです。親でなくてももし子どもがそのような態度を取るなら、人はとんでもない子どもだと言うに違いありません。しかし、実はこのどうしようもない子どもが私たちで、私たちにそんなことを言われてもじっと我慢している親が神様だとあてはめて考えればいいのではないでしょうか。

神様は天地創造の主です。私たちをそれぞれ母の胎内のうちに育まれた方です。そしてそれこそ太陽、水、空気とその他実に様々な恩恵を与えて、いらっしゃるお方です。私たちが静かに胸に手をあてて考えて見れば、びっくりするような愛のうちに私たちの命を支えておられるのです。まさしく「永遠の愛」をもってわたしはあなたを愛した、わたしはあなたに誠実を尽くし続けたと言われる神様です。

そのお方は、私たちにとって目に見えないお方です。私たちの心のうちには、でもどんな人間にも、霊、その神様に応答する霊が与えられているのです。その証拠に、恐らく先頃韓国の水没する船の中で多くの人が「神様!助けてください」と叫んだのではないでしょうか。何と悲惨なことかと私たちは思います。けれども「助けてください」という祈りは必ず聞かれるのです。問題は私たちが助けてくださる神様を認めない、神様に感謝しない、ちょうど子どもが親に育ててもらったのに、親を親として認めない。それが罪なのです。

「自分の人生だから自分の思うように生きていいじゃないか。何でそんなことを言うのだ。」と人は思うのです。罪というのは自分がいつも主人で、神様の前に頭を下げたくないという心です。そしてその心は偉そうなことを言っている私の心のうちに(つねに)あるんです。そして私だけでなく、ここにいらっしゃるすべての人が同じように神様が信じられないのです。神様に対する不信仰と言う罪をもって人は生まれて来ているんです。その結果が死だと言うのです。死は平等です。なぜならすべての人が罪人ですから。

でも、イエス様は、その、人が自分を認めようとしない罪、神様を認めようとしない罪が、結局、人が生きていく上でどんなに様々な不安や恐怖に陥れ、またその挙げ句、罪を持ったままで死んでしまえば、死後二度と生ける神様と交わることがない、それこそ「地獄の死」という苦しい目にあうかを一番良く知っておられるのです。

そして、父なる神様は、罪人が(悔い改めて)自分のところに帰れるように尊い御一人子であるイエス・キリストをこの地上に人として遣わしてくださったのです。この方はそのような私たちのわがままな罪を、自分の(父なる神から受ける)罰として十字架で全部負わせられたのです。それが2000年前のイエス様の十字架上での死(と三日後の復活の事実)です。

H子お母様はこのイエス様をご自分の救い主として信じられたのです。イエス様を信ずるとは自分のわがままな罪は全部イエス様が背負ってくださった、ありがとうございますという態度を持つことです。その態度を持つ人は罪の支払う報酬である「死」から完全に解き放たれるのです。もはや「死」はその信仰を持つ人を支配しないのです。そうでなく、神の下さる賜物である永遠のいのちをいただき、「いのち」が生き続け、そして死後も支配する生活です。

H子お母様は私たちの目には死んだように見えますが、それは肉体が死んだだけです。この確かな信仰を持たれたH子お母様の霊は神様の前で死んでいるのではありません。ここにいる誰よりも幸せなのです。それはもはや病気になることや様々な恐れを持つ状態から解放されているからです。

ルカ
20:38  神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。というのは、神に対しては、みなが生きているからです。

イエス様はこう言われましたが、H子お母様は神様の前に生きておられるます。

だから、私たちは死を忌まわしいものとして恐れる必要はないのです。また別離を悲しむ必要はないのです。神様の前に生きておられる方、誰よりも幸せでいらっしゃるH子お母様と天の御国で会える喜び、それを獲得すべきなのです。

けれども、お母様と天の御国で再会するためには、私たち自身が神様の前に生きている必要があります。先ほども申しましたけれど、神様の目から見て、人は生きているか死んでいるか、それを神様は見ておられるのです。それは、今生きていても神様を信じない者は、神様の目から見ると、失われた人、死んでいる人なのです。今何も言うことのできないH子お母様は死んでいるように見えますが、その霊はいずれ不死のからだを着せられるまで神様の前で私たちの来るのをイエス様と一緒に待機して待っていてくださる、誰よりも生き生きとして生きておられるのです。

お母様の死は決して終わりではありません。天の御国にいらっしゃる。そのことを私たちは確信したいと思います。お手元のソングシートの賛美の歌詞にありましたが、それはお母様の姿を歌ったものです。日々の歌223番の歌は、歌っています。

『水晶のように光る川のほとりで
また会いましょう。
神様の川はやさしくやさしく流れ、
みんながまた集まるその楽しさよ

この歌は聖書の黙示録のみことばが出典となっています。その黙示録のみことばを読んで終わりたいと思います。

黙示録
22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
22:4 神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。
22:5 もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。
22:6 御使いはまた私に、「これらのことばは、信ずべきものであり、真実なのです。」と言った。預言者たちのたましいの神である主は、その御使いを遣わし、すぐに起こるべき事を、そのしもべたちに示そうとされたのである。

「信仰」は信心ではありません。正面の掛け軸に書かれているみことば

ヨハネ
11:25 わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

「よみがえりです。いのちです。」と言われる方(イエス様)をお母様は信じて私たちよりも元気です。私たちの大好きなお母様と会うためにはどうしても(イエス様を信ずる)「信仰」が必要です。

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