2014年5月11日日曜日

主の御心とは何か

主の御心とは何か
2014年5月11日、札幌よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

第1テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

今年の札幌のよろこびの集いのパンフレットに今、読んでもらいました箇所が、書き記されたのです。『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがた、札幌に集まった人々に、望んでおられることです。』そうか、そうしましょう・・・と思っても、なかなか、うまく行きません。けども、今回の集いの目的も、結局、何でもできる主イエス様を紹介するためのものです。人間は何をすべきか、どういう態度を取るべきか、よりも、イエス様から目を離さないでいなさい。これこそが勝利の秘訣なのではないでしょうか。


イエス様は比類なきお方です。いくら考えても想像できない、すばらしいお方です。したがって、イエス様のない人生は、まったく無意味です。価値のないものです。イエス様のみが本物を、永遠のいのちを与えるお方であり、真の満足を与えるお方であり、すべての問題を解決できる力を持つお方であるからです。

今回もこの集いは、もちろん、喜びの集いです。なぜなら、イエス様が導いてくださるお方だからです。おそらく、今回、集まった大部分の方々は告白できると思う。イエス様に出会ってからやはり、見方が変わりました。目的を持つようになりました。前向きに生活できるようになったのではないでしょうyか。その意味で、今回の集いも、結局、イエス様の忠実さを褒め称えるお祝いのようなものです。

イエス様は、生きておられます。イエス様にとって、人間一人ひとりが大切なんですって。それも、ピンと来ない。どうしてか、なぜか、分からない。けど、本当なんです。そして、このイエス様の御心とは何でしょうか。今、読んでもらいました箇所ですね。

第1テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

人生とは、人間の幸せのためであるべきです。もちろん、人間は皆、共通して幸せになりたいと思っている。なぜならば、もし、幸せになれなければ、全てはおもしろくない、意味のないものになってしまうからです。『これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられる』と、書いてあります。主は、何を望んでおられるのでしょうか?もちろん、言わゆる宗教を持つこと、キリスト教という宗教に入ることではありません。特別な教えを信じ込むことでもありません。自分の知恵、自分の力に頼って、より良い人間になることでもありません。主の要求、主の命令とはなんでしょうか。今、読んだ箇所を見ると、三種類なのではないでしょうか。

第一番目、『いつも喜んでいなさい。』たまに、一日おきに、ではない。いつも。

旧約聖書の中で358回、新約聖書の中で133回、あわせて491回、喜ぶことの大切さ、必要性について述べられています。もちろん、一番、大切な言葉は、『キリストにあって』ということばです。すなわち、この誰からも奪われることのない喜びの秘訣とは、イエス様なのです。イエス様を知り、生き生きとした交わりを持つことによって、あらゆる人間的な思い、例えば、孤独、傲慢、自分中心の利己主義、無味乾燥な悲哀感、そして、絶望などあらゆる悩みが解消してしまうのです。そして、他方においては本当の喜び、平安、満足が与えられます。イエス様は、我々にまことの救い、すなわち、罪の赦しを与えるために、この世に来てくださり、救いの代価として、自分の命を捨ててくださったのです。聖書がそう言っているから、私たちはそれを信じていますけど、それはイエス様にとって何を意味しているのか。おそらく、生きている間には、分かりません。考えられない恵みであり、愛、そのものです。このイエス様を知ること、体験的に知ることとは、永遠のいのちを持つことです。

イエス様との交わりの中にこそ、本当の喜び、絶えざる喜びの源(みなもと)があります。イエス様こそ、いのち、希望、喜び、平安の泉、そのものであるからです。結局、イエス様によって、すべての悲しみは、喜びに変わります。イエス様によって、仕事の重荷が喜びに変わります。イエス様によって、疲れ果てた者が、間違いなく、新しい力を得るようになります。ですから、聖書のもっとも大切な呼びかけとは、イエスから目を離さないでいなさい。イエス様によって、あらゆる人間的な努力の空しさ、また、あせりが、全き平安と安らぎの静けさに変わるのです。

本当の喜びの泉は、もちろん、物ではない。イエス様、ご自身です。イエス様が、この地上に来られた時、御使いが言ったのです、『恐れることはありません、今、わたしは、この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。』

変わらない喜びがなければ、人生は全く重苦しいものになってしまいます。変わらない喜びがなければ、人生は退屈なものになります。主のみことばである聖書を通して提供されているすばらしい喜びは、言うまでもなく、単なる楽しみ、享楽、快楽、あるいは、一時的な問題の解決よりも、ずっと大切なものです。聖書を通して、提供されているすばらしい喜びは、絶えざる幸せを心の底から感じさせるものであり、また、心配や不安を解消するものです。そして、全き平安に導き、完全に父なる神の御手の中に守られていることの確信を強めてくれるものです。

聖書は言っています、『マリヤは、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民を、その罪から救ってくださる方です』と。あらゆる人間がどうしても必要なものは、罪の赦しを得ることです。なぜならば、罪が赦されると、主なる神との交わりが、はじめて可能となるからです。そして、父なる神との交わりによってのみ、人間は満たされ、幸福され、幸わせになるのです。すなわち、誰からも奪われることのない喜びの根拠そのものは、罪の赦しです。罪は、人間とまことの神との間にある隔ての壁です。

けど、イエス様の犠牲によって、主イエス様との交わりが、可能になりました。主イエス様の身代わりの死によって、この人間と神との隔ての壁が取り去られたのです。身代わりとなる方がなければ、罪のない方が代わりに死ななければ、救いの道がない。罪の赦しはないと、聖書は、何回も、はっきりと言っています。

イエス様が十字架で死んでくださった時、主は我々の代わりに死にました。すなわち、イエス様の死は、罪に対する罰、また、裁きだったのです。イエス様の死によって、罪は罰せられたから、今になって、聖なる主は、我々の罪を赦すことができるようになりました。へりくだれば、告白すれば赦されるとあります。私のところに来るものを、私は決して捨てない、とイエス様は約束してくださったのです。

主なる神の約束を信じる者は、もう安全です。結果として、罪は赦され、神との平和と永遠のいのちを持っていることになります。そして、これこそが、まことの喜び、誰からも奪われることのない喜びの根拠です。変わらない喜びは、私たち自身の中にあるのでもなく、私たちが持っているもの、また、周囲のものの中にあるのでもありません。ただ、イエス様ご自身の中にあります。イエス様に結びついていることが許されているということこそ、本当の喜びを意味しています。すべての他の『喜び』は大したものではない。過ぎ行くものであり、永遠に続くものではありません。

ここで、はっきり、書いてあるね、『いつも喜んでいなさい。』これは、単なる提案ではなく、はっきりとした主の命令です。これこそ、主の思いであり、主の望んでおられることです。悲しみ、落胆、敗北感は禁じられています。主は、私たちがいつも喜ぶべきであると、はっきり言っているのです。この主の命令に対して、不従順な態度をとることは、罪です。

二番目、『絶えず祈りなさい。』祈ることこそが、人間にとってもっとも大切です。祈らない者は、みじめであり、あわれむべき存在です。祈らない者には、喜びがないし、実を結ばないし、主によって用いられ得ないのです。

いったいどうして、多くの人が、打ちのめされているのでしょうか?ほとんど祈らないか、ほんのわずかしか、祈らないからなのではないでしょうか。なぜ、多くの敗北を体験するのでしょうか。ほとんど祈らないか、祈ったとしても、ほんのわずかしか、祈らないからなのではないでしょうか。なぜ、わずかな人々しか、暗闇から主の光の中に導かれないのでしょうか。ほとんど祈らないか、あるいは、祈りが少なすぎるからなのではないでしょうか。

何でもできるお方は、以前と同じように、今もなお、全能なるお方です。以前と同じように、今もなお、人を救おうと願っておられます。すなわち、主の御手が短すぎて、助けることがおできにならないのではありません。すべての失敗の原因は、我々の不十分な祈りの生活に他なりません。祈りによって、私たちは、全能なる主の力を用いることができます。すなわち、私たちが祈る時、全能なる主が、奇跡を行ってくださるのです。残る実は、いつも真剣な祈りの結果です。

我々の人生の目標は、いったい何でしょうか。それは、知恵でも、名誉でも、力でもなく、永遠の実であるべきです。そしてこの実は、ただ、ぶどうの木であるイエス様と結びついている時にのみ、実を結ぶのです。主と結びついていなければ、そして、祈りの生活がなければ、後に残る実を結ぶことはできません。『絶えず祈りなさい。』これは、主の望んでおられることです。主の恵みによって、祈りの人になりましょう。そうしたら、私たち自身、変わります。家族も、知り合いの人々も、必ず変わります。

絶えず祈ることは、自分勝手な行ないをせずに、主により頼むことです。主により頼むこととは、大いなる特権です。私たちが、祈るか、祈らないかということは、我々にとって、どうでもいいことではありません。絶えず祈ることは、主のはっきりとした命令です。そして、主の命令に従わないことは、罪です。

三番目、『すべての事について、感謝しなさい。』もし、『たまに喜びなさい、日曜日ごとに喜べ』と、言われれば、なんとかなるのではないかと、誰でも思うでしょうけど、主は、『いつも』と、言っているのです。『いつも喜びなさい』と、命令されていす。もし、今、話したように、『時々祈りなさい、少なくても朝と晩』と言われれば、誰でもが、『そうでしょう』と、賛成します。けど、主は、『絶えず、祈りなさい』と、命令しておられます。そして、今度は、『あることについて感謝しなさい』と言われれば、『わかった、わかった。』と、誰でも賛成するでしょうけど、主は、『すべて』と言っているのですね。、『すべての事について、感謝しなさい』と、命令されています。

『すべてのことについて感謝しなさい。』すべてと書かれています。すべてのことを通して、私たちは、イエス様をより良く知るべきです。イエス様をより良く知ることとは、最も価値のあることであり、大切です。私たちは意識して、すべてのことについて感謝しようではないでしょうか。どうして、何故、何のために・・・と考えるべきではない。全部、主の御手から受け取れば、祝福になります。

絶えず祈ること、いつも喜ぶこと、すべての事について、感謝することとあります。私たちは、正直になれば、誰でも認めざるを得ない。無理よ。できません。けども、ご存知でしょう。聖書の中に、このような戒めはいっぱい、あります。守るためではない。破るため。壁にぶつからなければ、本気になって主に頼ろうとしないね。例えば、『あなたの敵を愛せよ。』はい、かしこまりました、そのようにしましょう。自分の敵を愛する人間はいないよ。無理だよ。敵を赦すことができれば、もう精一杯。愛せない。けども、自分の無力さが分かれば、本気になって、主の助けを求めるようになります。そして、主に頼ると、主は働いてくださる、祈りは必ず、聞かれるようになります。

イエス様は有名なヨハネ伝15章の中で、『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない』と、言われました。イエス様から離れて、誰からも奪われることのない喜びを知ることができないし、絶えず祈ることもできないし、そして、すべてのことについて、感謝することは、絶対にできません。ですから、ヨハネ伝15章の姿を見ると、イエス様ご自身が、まことのぶどうの木であり、そして、あなたがたはその枝であると、言われました。木の幹は、その枝に力を送って、枝が多くの実を結ぶことができます。ぶどうの幹は、力といのちが満ちています。

イエス様は約束してくださいました。『人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は、多くの実を結びます。』イエス様から離れたら、私たちは本当の意味で、信じることも、祈ることも、悔い改めることも、愛することも、感謝することもできません。少しもできません。それは、聖書の言っていることであり、イエス様のことばです。そして、イエス様は、何事でも大仰には言われません。

イエス様はできる。ですから、私たちは、新たに決心しなくてはいけないのではないでしょうか。私たちは、何でもできるお方に頼る、自分たちは惨めで、貧しい者であるから、全能なる主に頼ろう。イエス様に頼ること、主に寄りかかることは、結局、泉につらなることを意味しています。信仰生活を通して学ぶべきことは、ペテロの経験したことでしょう。イエス様は、彼に言われました。

ヨハネ
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。

これこそが、もちろん、ペテロの経験するようになったことです。全く主に寄りかかるということが、実を結ぶこと、また、祝福された信仰生活の秘訣そのものであります。


おわり

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