2014年5月18日日曜日

主を恐れること(2014年、富山)

主を恐れること

2014年5月18日、富山よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

詩篇
33:8 全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。

33:18 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。

103:13 父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。

128:4 見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。

今、読んで来てくださった箇所を見ても分かります。もっとも大切なことは、主を知ることだけではなくて、主を恐れることなのではないでしょうか。主が恐いからではない。聖なるお方であるからです。『主を恐れればオーケー』と、言えるのではないでしょうか。ですから、今朝の題名は、流れる祝福の秘訣とは何でしょうか、すなわち、今、話したように、『主を恐れること』です。


マラキ
3:16 そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。
3:17 「彼らは、わたしのものとなる。――万軍の主は仰せられる。――わたしが事を行なう日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。
3:18 あなたがたは再び、正しい人と悪者、神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。」

ローマ
3:18 彼らの目の前には、神に対する恐れがない。

神に対する恐れがなければもう、おしまい。希望がない。もちろん、平安もないし、喜びもあり得ません。主を恐れることこそが考えられないほど大切です。今、読んで来てくださった箇所は全部、ダビデ王様の言っていることです。全地よ・・・・、富山に集まった人々だけではないよ。

詩篇
33:8 全地よ。主を恐れよ。世界に住む者よ。みな、主の前におののけ。

結局、主の祝福を受ける道だからです。本当に主を恐れなければもう、アウトです。希望もない。

詩篇
128:4 見よ。主を恐れる人は、確かに、このように祝福を受ける。

前に、ひとりの教会の牧師がいて、本当に尊敬すべき兄弟だったのですけど、彼は、人を絶対に褒めなかった。一人として。ある時、人を褒めたのです、「見て、向こうの姉妹、あそこの兄弟は、主を恐れている。」これこそが、考えられないほど、大切なのではないでしょうか。

今日は、加藤兄姉もおみえですけど、ある時、お母さんから電話があったのです。非常に喜んでいる声だった。何と言ったかといいますと、「息子がどろぼうした、捕まえられた、けど、主を恐れるようになった。」だから、母親は大いに喜んだ。結局、主を恐れることの大切を分かったからです。

主を恐れればオーケー。祝福が流れるに違いない。結局、主の祝福がなければ、人生はみじめなものになってしまいます。はっきり言えることは、すなわち、イエス様のない人生は、全く無価値です。なぜならば、主のみが永遠に残るものを与えることができるからです。今、読んでもらいました詩篇の128篇で、幸い、また、幸福、そして、しあわせ、それから、『実を結ぶ』という表現が出てきますが、全てが父なる神の祝福の結果です。

私たちは、自分だけにより頼むと、みじめになることは、決まっています。だからこそ、主の助け、また、主の祝福を求める必要があり、そのために、主に目を向けざるを得ない。主の祝福こそが、すべてに勝って大切であるから、いかなる事情においても、この主の祝福を得たいと願うべきなのではないでしょうか。

昔のヤコブという男は、ずるい男でした。自分、自分、自分のことしか考えなかった。平気でうそをついたし、父親をだましてしまったし、けど、ある時から分かった。それから、心から叫んだのです、『私はあなたを去らせません、私を祝福してくださらなければ。』結局、主の祝福がなければ、もう全部、まったく、意味のないものになってしまいます。主の祝福を受ける人々とは、いったい、どういう人々なのでしょうか。答えは主を恐れる人々です。主を恐れることこそが、もちろん、大切です。主は大変だから、恐いからではないよ。やはり、聖い恐れを持つことです。主を恐れるとはいったい、何なのでしょうか。すなわち、主を恐れるおそれを持つことです。

詩篇の111篇の10節、ひと文章だけですけど、大切な事実について書かれています。

詩篇
111:10 主を恐れることは、知恵の初め。

本当の意味で、主を恐れた人々の証しに耳を貸しましょう。信仰の父と呼ばれ、主の友と呼ばれたアブラハムの証しはよいものです。「私は、ちり灰にすぎません。」ちり灰を集めても金持ちにはなれない。意味のないことだよ。けども、彼はそう言っただけではなく、本当にそう思った。ちり灰にすぎない、捨てられても当然ではないの。彼は、このへりくだった態度を取ったからこそ、祝福されました。

ヨブという男も、当時、主の判断によると、「私は、自らを恨み、ちり灰の中で悔います」と言うようになりました。アサフという詩篇の作者は、「私は、愚かで悟りがなく、あなたに対しては獣のようであった」と、告白しています。有名な王様であるダビデは、「私は、主に罪を犯した」と、叫んだのです。イザヤという預言者は、もちろん、立派な人格者でした。主に用いられた器でした。彼は、「災いなるかな、私は滅びるばかりだ。私は汚れた唇の者だ」と、告白したのであります。

ペテロも、同じような心がまえになったのです。変な祈りを捧げたのです。聞かれ得ない祈りもある。彼の祈りは、どういう祈りであったかと言いますと、「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です。」はい、分かった、さようなら!と、主は言わなかったのです。彼を弟子としてくださったし、大いに用いられたのです。

ヨハネというイエス様の弟子は、復活なさったイエス様に出会いました。天に引き上げられたイエス様を、知るようになった。聖書は簡単に言っています。『聖い主を見た時、その足元に倒れて、死人のようになった』とあります。万物の創り主なる神を恐れる人こそ、幸いであり、幸せであり、また、幸福です。すべて主を恐れ、主の道を歩む者は、へり下って、心砕かれた人々です。そして、また、主の光によって、自分の惨めさ、罪深さ、空しさを知るようになった人々こそが、祝福を受けます。そういう人々こそが、探し求められているのではないでしょうか。

イザヤ
66:2 ―主の御告げ。―わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

そういう人々を、主は、探し求めておられます。この世で求められているのは、どういう人々でしょうか。もちろん、頭のいい人々です。優秀な人々です。魅力のある人々であり、金を持つ人々、権力を持つ人々が、今の世界では、大切にされている者です。主が求めているのは、心砕かれ、みことばにおののき、主を恐れている人々です。

松本兄の同級生だったかな。村上誠兄は、弁護士なんです。その前、弁護士になる前は、大きな船のキャプテンだったのです。それをやめて、弁護士になったのです。滅多にないこと。ですから、船の事故が何かあれば、全国でいつも、彼は呼ばれているのです。彼の弁護士事務所に行ったことがあります。ちょっとおもしろい、大きなポスターが掲げられていました。「人間は騙されやすい」と、書かれていました。人間は騙されやすい。確かにそうなのではないでしょうか。そうでなければ、弁護士だって、仕事がなくなる。

けども、主なる神は騙されません。砕かれている心を持たない人は、祝福されません。みことばにおののかない人は、決して祝福されません。主を恐れない人は、何があっても祝福されえないと、聖書は、はっきり言っているのです。

ひとつの問いが、でてきます。すなわち、万物の創造主なる神、主を恐れるとはいったい、どういうことでしょうか。その条件とは、いったい、何なのでしょうか。こたえは三つでしょう。第一番目、主を知ること。主についての事を聞くことじゃなくて、主ご自信を知ることです。二番目、主を喜ばせたいと願うことです。三番目、主にすべてを捧げることです。

最も大切なのは、今、話したように、主を知ることです。そのために人間は、いろいろなことで悩みます。そのために主は、いろいろなおもしろくない困難や問題を与えてくださいます。主を知るために、私たちはまず、自分は主から離れている者であること、自分はわがままであること、すなわち、罪の中に失われていることを認めなければなりません。

主の判断は、すべての人は罪を犯したため、主の栄光を受けられなくなっている。義人はいない。一人もいない。それから、自分は、自分で自分を救うことができないことも、認めなければならない。いわゆる良い働きや、いわゆる良い生活をすることによって、問題は解決にならない。ただ一人のお方が、人間を救うことができる。すなわち、人間の代わりに救いの代価を払ったイエス様です。ペテロ第1の手紙を見ると、この事実がはっきり書き記されています。

第1ペテロ
3:18 キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。

イエス様の御許に導かれた人々こそが、主ご自身を知り、救いにあずかった者です。そういう人々だけが、主を恐れることができ、それによって、人間を恐れるおそれから解放されます。主を知ることは、罪より救われ、地獄より救われ、天国が保証されていることを意味しているのです。したがって、もっとも大切なのではないでしょうか。

信じるようになった人々には、自分の心の中に持っておられた満たされない心に気づかれ、自分は主から離れた者であり、そして、主からの罰を受けなければならないということに気づかれました。その時に、イエス様の十字架の福音について聞かれ、「自分の受けるべき刑罰を受けられて、代わりに死なれたイエス様を信じ、誰でも重荷を負っている者は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」という主の招きに従いました。

主を知ることとは、『自分のわがままは赦されている。私は義とされている。私は主との平和を持っている。主は私の救い主です。永遠のいのちを持っている』という事実を確信することです。

何十年前だったか忘れましたけど、よく、武蔵野文化会館を借りて、看板には、『音楽会』としたんですけど、本当は(音楽は)エサだけでした。いろいろな人々が証しをしました。あるとき、いわゆる先生たちだけ、幼稚園の先生、小学、中学、高校、大学の先生たちが、次々に、いかにしてイエス様に出会ったかを話してもらいました。別のときは、看護師さんたち、お医者さんばかりが、どういうふうにイエス様と出会ったかを証ししました。

ある時、もうすでに癌にかかった人たちに証ししてもらった。これこそ、やはり忘れられない。もう癌だ、長くないとわかった人々だけが証しをしました。その時、吉祥寺集会の一瀬かほる姉妹のお姉さんも証しをしました。長澤文枝姉妹でした。まだ、若くて、結婚して、子供が二人いて、32歳でした。彼女が証ししたとき、やはり、顔が輝いて、もう、うれしくて、うれしくて仕方がなかった。『癌だって、人間は癌のためには死なないよ。主の決まったときです。だからもう心配しません』と、喜んで証ししました。

(会場の)中ではそうだった。その後、外の廊下で会いました。まったく違う顔でした。中では輝いている顔で、外では、会ったときはもう悲しくて、悲しくて仕方がない。『何かあったの?』と、訊いたとき、『今の私のはなしを聞いたとき、イエス様は喜んだの?』それだけが、彼女には心配だったのです。こういうふうに心配するなら、もう間違いはない。

死の前にも、また、会いました。夜の10時半ごろ、どなたかが死にそうになれば、どこの病院でも、夜中でも入られます。いろんな5、6人の兄弟姉妹といっしょで、やはり、彼女は、輝いた顔で、『もうちょっとで天国で、イエス様に会うようになる』と証ししてくださった。妹は、驚いてしまって、「お姉ちゃんは強い」としか言えなかったのです。もちろん、お姉ちゃんは強くはなかったよ。家族を残すことはたいへんだよ。けども、イエス様とは結局、そういうお方なんです。救われることとは大切ですけども、十分ではない。結局、彼女のように、イエス様を喜ばせたいという切なる願いを持つことも、やはり、大切です。

自分の努力ではなくて、うちにおられるイエス様こそ、勝利と祝福の秘訣、実を結ぶことの秘訣、そのものです。ご存知のように、いろいろな生き方があります。たとえば、自分自身を喜ばせる生き方があります。あるいは、他の人を喜ばせる生き方もある。けど、それによって、心はもちろん、満たされません。主を喜ばせる生き方こそが、要求されています。

多くの人々の特徴は、確かに、自分、自分、自分のことだけを考えているということではないでしょうか。だからこそ、問題になります。結婚生活も、家庭生活も、社会生活もあまり、うまくいかない。結果は、恐ろしいほどの競争、妬み、憎しみなのではないでしょうか。イエス様とは、確かに変わったお方でした。聖書はなんといっているかといいますと、イエス様は、自分自身を喜ばせようとはなさいませんでした。

自分自身を喜ばせるとは、いったい、なんなのでしょうか。自己満足です。イエス様は自分のことについて、一度も考えたことがない。お父さんの御心だけがなるように。今、何を話したらいいの?あの人を今、癒してもいいの、とイエス様はいつも、訊いたのです。われわれと違うね。私たちはいつ助けを求めるかといいますと、失敗してから。イエス様は、動く前にまず、祈ったのです。だから、すべてうまくいきました。

なぜ、実りが少ないのでしょうか。なぜなら、自分を喜ばせているからなのではないでしょうか。自分自身に同情するからなのではないでしょうか。

人間を喜ばせようとする人は、知らないうちに人間の奴隷になります。内面的に不自由になり、たいへん、神経を使ったりします。それによって、不幸になり、失望します。一言で言いますと、主を恐れることのないものは、心の支えを持たず、自分のことばかり考え、そして、他の人を省みることをせず、どうしようもない、もはや、抑えることのできない者になってしまいます。

ドイツのひとりの詩人は、次のように歌いました、『人間が私を批判したり、誉めたり、大切にしたり、誤解してもかまいません。主よ、あなたに喜んでいただけることこそ、私にとっては、すべてのすべてです。』こういう心がまえを持てば、祝福されます。この態度をとる者は、人間の判断から解放され、隣人に対する行動は正しいものとなり、自分自身のために生きるのではなく、他の人々のために生きたいと思うようになります。主に喜ばれたいという切なる願いの結果とは、結局、こういうものです。

主を恐れるとはいったい何なのでしょうか。そのための条件とは何でしょうか。今、2つのことを言いましたね。第1番目、主を知ること、主を個人的に知ることです。第2番目、主を喜ばせたいと願うことです。

最後に、第3番目、主にすべてを捧げることも、要求されています。すべてを捧げること、最もよいものを捧げることこそ、主を恐れる結果です。

創世記
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

たいへんな命令です。

創世記
22:5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもとはあそこに行き、礼拝をして、あなたがたのところに戻って来る。」と言った。

私たちはあそこへいって、子供を殺してから、私は一人で戻る・・・・ではない。私たちは、礼拝をしてから戻る。

創世記
22:12 今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。

主が、アブラハムに、「あなたの愛されているひとり子であるイサクを、いけにえとして捧げなさい」と言われた時、アブラハムは、「主よ、どうして、なぜ、どうして、息子を殺さなくてはいけないの。もしイサクが死んだなら、あなたの約束は反古になり、何の価値もなくなるのではないの」と、アブラハム言って、つぶやくことを断じてしませんでした。どうしてでしょうか。彼は、はっきり、大切なことをわかりました。すなわち、主はまことの礼拝者を求めておられるからです。礼拝することとは、捧げることです。そして、捧げることとは、この12節によると、『主を恐れる結果である』とあります。主の祝福を受ける人々とは、主を恐れる人々です。

だから、詩篇の作者は、「幸いなことよ、すべて主を恐れる者は。」主が、恐ろしいから、恐いからではなくて、聖なるお方であるからです。主は、愛することしかできないお方であるからです。この事実について考えると、安心して、喜ぶことができ、前向きに生活をすることができます。


おわり

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