2014年5月14日水曜日

へりくだるとは?(2014年春日部)

へりくだるとは?
2014年5月14日、春日部家庭集会(夜)
ゴットホルド・ベック

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。
3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

人間はみな、変えられなければなりません。即ち、人間はあらゆる束縛から、あらゆる孤独から、あらゆるみじめさから、解放されなければなりません。けど、人間はいくら努力しても、相変わらずみじめで、寂しくて、束縛されています。人間を変えるために、イエス様はこの世に来てくださいました。よく、引用される箇所です。


第二コリント
8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

聖書の中でよく複数形が使われています。皆のためだからですけど、たまには、複数形ではなくて、単数形で読んでもいいかもしれない。今の箇所、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、私のために貧しくなられました。それは、私が、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』富む者となるために必要なことはなんでしょうか。すなわち、へりくだることです。自分の貧しさ、自分のみじめさを認めることです。聖書全体の言わんとしていることは、そういうものなのではないでしょう。ですから、旧約聖書からもう一箇所読みます。主の呼びかけです。

イザヤ
57:15 ・・・わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

『へりくだる』ということは、たとえて言うならば、イエス様の前における憐れな乞食のような者であり、心砕かれた者です。そして、また、イエス様の光によって、自分のみじめさ、自分のむなしさを知った人です。また、自分には主のみこころにかなったものがひとつもないことを、本当に知ることです。例えば、有名なルカ伝18章13節に出てくる収税人こそ、本当の意味でへりくだった男でした。彼は、『神さま、こんな罪人の私をあわれんでください』と、祈りました。

パウロは、わたしは後ろのものを忘れ、目標を目指して、必死に走っているのです。彼は、どうしてそんなに用いられたものになったのでしょうか。ひとことで言いますと、へりくだったからです。彼は、例えば、コリント第一の手紙の15章の中で、いわゆる使徒たちについて、いろいろなことを書いたのです。使徒たちとは、特別に選ばれた人々であり、器(うつわ)として用いられたものなのです。

第一コリント
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

結局、彼は過去のことを忘れられなかった。だから、いくら祝福されても、傲慢になりえなかった。『私は使徒と呼ばれる価値のない者です。』エペソ書で、彼は今度、使徒たちではなくて、主イエス様を信じるものたちについて、書いたのです。

エペソ
3:8 すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え(るためです。)

ここで、私は使徒と呼ばれる価値のない者だけではなくて、私は、聖徒たち、結局、イエス様を信じるようになった人々のうちで、「一番小さな者である」と、彼は書いたのです。それだけではなく、もう一箇所、テモテ第一の手紙を見ると、彼は次のように証しし、告白したのであります。

第一テモテ
1:15 キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

『一番ひどいのは私です』と。昔の預言者たちは、主の使いとして、主のお考え、主のみこころを明らかにする者でした。一人の預言者、イザヤは、次のように語ったのであります。

イザヤ
61:1 神である主の霊が、わたしの上にある。主はわたしに油をそそぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた。

66:2 わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

また、ダビデという王様も経験したから、次のように証ししました。ダビデについて考えると、だいたい、皆、詩篇23篇を思うようになりますし、プラス・アルファ51篇です。

詩篇
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

ダビデは書いたのです。どうして書いたのか。体験的に知るようになったからです。

主を知らない人は、誇って、自分勝手な道を歩もうとします。主を知らない人々は、聖書から見ると、乞食よりも貧しい者です。従って、心貧しき者となることこそが、最も大切なのではないでしょうか。すなわち、イエス様の霊によって自分の本当の姿を知り、怖れおののいて、自分からは何も期待することのできない人となることは、考えられないほど大切です。

へりくだることとはなんでしょうか。自分が強く、偉大な富んだ者ではなく、本当にみじめで、あわれな存在にすぎないことを認めることです。このことを本当に知る人だけが、思うところのすべてを超えて、豊かにほどこすことのおできになるイエス様、すなわち、イエス様のみもとに行くことができるのではないでしょうか。おごり高ぶる者、本当に心砕かれていない者は、約束も望みもなく、呪いのもとに置かれます。主イエス様は我々のために、貧しくなられました。

確かに、私たちはイエス様の偉大さについていくら考えても全く分かりません。聖書は(言っています)、『イエス様によって、全宇宙が造られた、材料なし、無から。』イエス様は、永遠から生きておられるお方です。初めもない、終わりもない、永遠なるお方です。

けども、どうしようもない人間を救うために、イエス様は、三十三年間、この地上におられ、ご自身の自由意思で貧しくなられた。イエス様の貧しさとは、なんでしょうか。イエス様の貧しさとは、天のお父様、父なる神に対して、御自身がお選びになった依存です。イエス様は、父なる神から聞いたことだけを語り、父なる神が行ったことだけを、イエス様は行ったのです。ですから、イエス様は、何かを見たとき、聞いたとき、自分で考えたり、行動したことは一回もない。まず、祈ってからです。『お父さん、何を言ったらいいの、何をしたらいいの?今、癒してもいいですか?』イエス様は絶えず、この尋ねる態度をおとりになりました。ですから、イエス様は決して、ご自分で勝手になさることはしなかったのです。

結局、父なる神に全く拠り頼んで、いつも父のみこころに服従なさったのです。私の思いではなく、あなたの思いだけがなるように。この祈りこそ、まさに絶えざるイエス様の態度でした。私たちは、ただ、救われるために救われたのではなく、イエス様の御姿に変えられるために救われたと聖書は、はっきり言っているのです。そして、イエス様の御姿に変えられるためにまことの知識の与かる必要があります。けども、必要なまことの知識とは、なんでしょうか。まことの知識の内容とはいったい、どういうものなのでしょうか。二つのことが言えます。

まず、第一番目、私たちは、自分の生まれながらの罪の性質は決して直らない、ということを知らなければなりません。これを知っている人は、自分でやることはできない、主に拠り頼まなければ、何もやることができないということを知っています。私たちは、罪を赦されて、主から義と認められるためには、自分で何もすることができませんでした。ただ一方的なあわれみによって、義とされました。

まったく同じように、二番目ですけど、私たちがきよめられていくのも、自分の行ないではありません。このことも知らなければならない。このことを本当の知識として知っている人は、自らを、自ら、きよめようと努力することをやめ、ただ、復活なさった生きておられるイエス様に、自らをおゆだねするはずです。

しかし、問題は、いかにしてこのような知識に至るのでしょうかということです。それは、イエス様と同じ御姿に変えられていくことによってのみできるのです。けども、イエス様の霊は、イエス様と同じ御姿に我々を変えるみわざを、ただ、悩みによって、苦しむことによってのみ行います。悩みと戦いの真っ只中にあって初めて、イエス様と同じ御姿に変えられていくということです。

イエス様は、私たちを、人間的な目で見るならば、全く望みのない状態に導いてくださいます。どうしてなのでしょうか。それは、私たちが、我々の生まれながらの罪の性質は、絶対に良くならないものであるということを、本当の知識として知っているかどうか、また、私たちのきよきに至ることについて全く無力であるということを、まことの知識が、単なる教えであるか、また、我々のいのちとなっているか、これらを試しみるために、主は悩みのうちに我々を導いてくださいます。

主イエス様が、わたしたちを通して、集会全体を通して、現わされていかなければいけませんが、これこそ、主の思いであり、主のご計画です。そして、信じる者が悩み、苦しみ、押しつぶされているのは、主の導きの目的であり、主のご計画です。その苦しみによって、イエス様のみ姿がかたち造られて行きつつあります。イエス様に変えられることこそが、主の導きの目的であるから、すぐに祈りに応えて、悩みから解放されるということをされないのです。

今、話したように、イエス様によって全宇宙が創造されました。けど、イエス様はたたかれ、鞭打たれ、唾(つばき)せられ、侮られました。もし、イエス様がそうしようと思われたなら、それらの人たちは、イエス様の一言でこの地上から抹殺されたはずです。たちどころに滅んでしまったはずです。しかし、イエス様は耐え忍んで、すべてを負われ、自ら悩みをよしとされ、両手、両足に釘を打たれ、十字架の上で、『お前は人を救ったのに、自分を救うことができないものか』と罵られました。もし、しようと思えば、イエス様のために、十二の天の軍勢が控えていましたから、イエス様の一言で、イエス様を救うためにやって来たでしょう。けど、イエス様はそうされませんでした。

イエス様は、柔和にして、心へりくだったお方です。私たちは、このような主と同じ姿に変えられていくべきです。イエス様は、透き通った人格の持ち主でした。極みまで、ご真実な方であり、いわゆる偽善を知らなかった方です。また、二心(ふたごごろ)を持たなかった主でした。向こうに行ってこのように言い、こっちに行って都合のよいことを言うような方ではなかったのです。私たちは、この主イエス様の御姿に変えられなければなりません。

イエス様は、はっきりとした目的を持っていたお方でした。イエス様は祈りの方でした。また、勇気の方でした。柔和にして心へりくだった方でした。平安、平和、喜びの方でした。この御姿に私たちも変えられていきたいものなのではないでしょうか。これに至る道は、主の歩まれた道でした。悩みの多く、誤解に満ちた道、またそれは、あざけりに満ちた道です。私たちが、静かに、イエス様によって吟味していただくことが必要なのではないでしょうか。主が我々に語ってくださり、妨げとなっているものを全て明らかに示してくだるように。

ダビデは祈ったことがあります。

詩篇
139:23 ・・・私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。
139:24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。

すばらしい祈りです。私たちの道を尋ね調べ、主のみもとに立ち返ろうと、エレミヤ哀歌にも書いてあります。主は、立ち返るべきであると言っておられますが、どうしてでしょうか。それは、私たちが間違った方向に進んでしまったからです。私たちが戻らなければならないからです。それは、私たちが主から離れてしまったからです。このことを認識することは、非常に謙遜なことです。そして、認められた債務を告白することは、大切であり、必要なことです。

聖書を見ると、この態度を取った人の実例はいっぱいあります。

一人は、サムソンという男でした。このサムソンという男は、主に選ばれた民に属していただけではなく、もちろん、主を信じた、主に従おうと思った男でした。そして、長い間、結局、祝福され、用いられました。けども、旧約聖書の士師記16章を読むとわかります。彼は、自分の抑えがたい情熱によって、気がつかないうちに、神の霊が彼から去ってしまったのです。主と関係を持ちたくないイスラエルの敵は、サムソンをあざ笑いました。というのは、彼は、主の霊なしには、力のない者、望みのない者、助けのない者になってしまったからです。何という悲劇でありましょうか。

サムソンだけではなく、ダビデという王様についても、同じことを言わざる得ないのではないでしょうか。彼は、特別に選ばれた神の民に属していたものではない。選ばれた民の指導者でした。けど、サムエル下の11章を見ると、この王様であるダビデは、バテ・シェバという女性と姦淫を犯し、ナタンという預言者の奉仕によって、自分自身を主の光の中に見ることができ、次のように告白せざるをえなかったのです。『この姦淫をした男は私です。』これも、比類のない悲劇であると言わざるを得ません。

最も主に用いられた預言者であるエリヤについても、似たことが書かれています。彼は、もちろん、特別に選ばれ、遣わされた預言者でした。けど、彼はあるとき、落胆して、荒野に引きこもり、主に自分のいのちを奪ってほしいと真剣に祈りました。列王記上の19章を見るとわかります。すなわち、彼はまったく、ぺちゃんこになってしまった。そのことに対して、悪魔はどのように勝ち誇ったのでしょうか。

あるいはイザヤ書を読んでも分かります。イザヤという預言者は、自分自身を主の光の中に見るようになりました。彼は、それによって、自分の不潔さ、不純さに驚き、次のように叫ばざるをえなかったのです。「ああ、私はわざわいなるかな、私はもうだめだ」と、彼は自分の障害物を認識し、告白するようになったのです。

イエス様の弟子たちのことを考えても、同じことが言えるのではないでしょうか。最後の晩餐のとき、イエス様は言われました。『あなたがたの一人が、わたしを裏切ります。』すると、一人の例外もなく、全ての弟子たちは驚いて尋ねました、『主よ、それは私でしょうか』と。私たちも、「主よ、それは私でしょうか」と問うべきなのではないでしょうか。私はあなたを悲しませたのでしょうか。隠れたところにある障害物を私にお示しになってください。私の障害物を認める恵みをお与えになってください。

ペテロが、自分の恐るべき絶望的状態を認めるようになったことが、ルカ伝22章に詳しく書かれていますが、『彼は、外に出て激しく泣いた』と記されています。結局、もう、お終い。もう、許されないと、彼は思ったでしょう。

今、話したこれらの主のしもべたちは、皆、主に立ち返りました。光の中に来ることを、あえてしたからです。すべての偽善的な行為をやめたからです。サムソンのように、力のない、望みのない、助けのないあらゆる状態から脱出すべきです。ダビデのように、あらゆる偽善と姦淫から脱出すべきです。エリヤのように、あらゆる無気力さと失望、落胆から脱出すべきです。イザヤのように、あらゆるメクラの状態と不純から脱出すべきです。ペテロのように、あらゆる思い、高ぶりと傲慢から脱出すべきです。聖書の報告とは、素晴らしいものです。すなわち、サムソン、ダビデ、エリヤ、イザヤ、ペテロ、自分の罪過を認め、主に告白し、主のみもとに立ち返ったあと、全く回復されたということです。

今日(こんにち)、大きな問題となっているのは、十字架の大切さ、必要性を知らないことなのではないでしょうか。いかなる努力、いかなる熱心さ、いかなる聖書的信仰も、私たちが十字架、あるいは、十字架につけられることを恐れるとき、すべて不十分なものとなってしまいます。イエス様の苦しみにあずかることなしには、成長も、実を結ぶこともありえない。日々、打ち砕かれることなしには、我々の自我は主の働きの妨げとなります。

打ち砕かれたあとで初めて、主はお用いになります。こういう実例もいっぱいあります。例えば、ギデオンとともにいた三百人の兵士たちの持っていた土の器が砕かれたとき初めて、その中に入っていた松明が光を放ちました。イエス様は、まずご自身に持ってこられたパンを裂くことによって初めて、何千人もの人を満腹にすることができたのです。サウロが徹底的に砕かれる備えを持ったときに初めて、主は、彼を用いるようになりました。旧約時代のヤコブという男も、腰の骨を外されて、びっこを引いて歩くようになったと、聖書に記されていますが、彼もまた、砕かれたあとで初めて、祝福を受けるようになりました。

信じる者のうちにあるイエス様のいのちは、私たちが日々、主に自分の意思を意識的に従わせることによって、砕かれることによってのみ明らかになります。自己否定は自分の権利をささげることです。自分に拠り頼まないことです。「私の心ではなく、あなたのみこころをなしてください。」これが、主イエス様の生涯の変わらなかった態度でした。ですから、イエス様から恵みの流れが、いのちの泉が、人々に分け与えられていたのです。

我々の考え、感情、意思、すべて、主のご支配のもとに置かれるとき、はじめて、我々の内からも、いのちの泉が湧き出てくるはずです。イエス様、私は自らに絶望している。自ら何もすることができない。『どうか、私を通して、ご自身のみこころをなさしめてください』と言う心構えを持っていれば、祝福されます。


おわり

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