2014年5月4日日曜日

救われた目的(2014年)

救われた目的(2014年)
2014年5月4日、御代田福音集会
ゴットホルド・ベック

エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

今、(岡本)雅文兄弟は、『30年前にイエス様に出会ったけど、あまり成長していない。』これこそ、成長した証拠ではないでしょうか。私も、69年前に、イエス様に会って、イエス様を信じ、救われたのですけど、大した者ではない。イエス様はどうして捨てないのか、いくら考えても分かりません。恵み深い、比類なきお方です。

今日は少しだけ、救われた目的について、持つべき目的について、一緒に考えてみたいと思います。我々の人生において最も大切なことは、救い主を持つことです。救い主について、知識を得ることではなく、救いを自分のものにすることです。結局、イエス様を体験的に知ることです。そして、救いの神を知るようになった人々の証しとは、次のようなものでしょう。3000年前にダビデは、詩篇118編14節に書かれています。


詩篇
118:14 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。

すばらしい告白です。だいたい、2600年前にイザヤという預言者は同じように証ししました。

イザヤ
12:2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

イエス様を生んだマリアは、次のように言ったのです。

ルカ
1:46 ・・・わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。

救いの神を知ることによって、はじめて、私たちはこの地上において、本当の意味での満たされた生活を送ることができます。満たされた人生を送るためには、永遠のいのち、主なる神との平和、罪の赦し、したがって、イエス様が、私を心配し、導き、そして、守っていてくださるという確信が、生活の土台とならなければなりません。

そして、私たちが死んだ後は、永遠にイエス様と交わり、栄光を共にすることになるという確信こそ、最高の宝物です。いつまでも、主と共になるという事実について考えると、主を礼拝せざるを得ません。

このような人間の永遠の栄光と言うものは、新しく生まれ変わることによって初めて、可能となるものですから、そのことこそ、我々の人生において、大切なことがらに他なりません。けど、聖書は、新しく生まれ変わったばかりの者は、幼子のようなものであると言っています。

第1ペテロ
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

ここで、乳飲み子はいつまでも、乳飲み子の状態に留まっているのではなく、成長しなければならないと言うことは、言わなくても明らかなことです。また、パウロは、コリントにいる人々に書いたのです。

第1コリント
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。・・・実は、今でもまだ無理なのです。

パウロは、コリントにいるイエス様を信じるようになった者たちに対して、乳飲み子にミルクを飲ませるようなことだけしかすることができなかった。ミルクは確かに消化のために最もよい食料である。けども、それは救いの基礎を形成するものに他なりません。コリントにいる人々とは、たとえば、エペソにいる兄弟姉妹、あるいは、コロサイにいる兄弟姉妹に対してパウロが書き送ったような性質の高等な真理を理解することはできなかったのです。

このようにパウロは、多くの信者に対して、ちょうど母がその子供を育てるように振る舞ったのです。しかし、パウロの目的は、いつまでも乳飲み子の世話をするのではなく、信じる者が全き人となることでした。

エペソ
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

イエス様を持つことは、確かに素晴らしいことです。しかし、それだけでは決して十分ではありません。むしろ、イエス様が我々を御手の中に置くことによって、我々の主として、我々のすべてを支配なさることが大切です。イエス様を知ることは恵みです。しかし、イエス様のために用いられる器となるために、イエス様を、我々を支配なさる主として、よりよく、体験的に知ることが大切です。したがって、私たち信じる者は、すべての生活が、絶えず、イエス様のために営まれているように、主に従っていかなければなりません。

私たちは本当に、信じる者の生活の目的と使命について、正しく理解しなければならないのではないでしょうか。別の言葉で表現すれば、私たちは永遠の勝利の冠を得るために、生きてゆくことは大切なことであると言えるのです。新約聖書の中では、この地上における普通の、いわゆる競争と、我々信者の霊的、信仰的な戦いと対比されています。従って、競争、あるいは、戦いは、我々の信仰を励ますためのものとして、考えられていると言うことが分かります。

そこで、私たちはまず初めに、その当時のギリシャ、ローマで行われたスポーツについて、簡単に考えてみたいと思います。その当時、ギリシャ人はただ単に精神的な訓練だけではなく、肉体的な訓練をも重要なものと考えていたのです。健全なる精神は健全なる肉体に宿ると言うように、一般に考えられていました。そのために、その当時のギリシャ人は、男も女も、七歳になると、激しい運動をやらされたのです。

小さい時から、そのような訓練を受けたために、大人になった時には、非常に美しく健康な体がかたち造られたのでした。それが、その当時の、彫刻などを見ればよくわかります。美と徳とは切り離すことのできないものであるというのが、その当時のギリシャ人の共通した考え方でした。したがって、美しい心と、健全な身体とが、理想とされたのです。ギリシャ語以外の言葉では、良い物と美しい物とは区別され、別の表現でもって現れるが、ギリシャ語では、それらの言葉が同じ語源から作られています。

このようにギリシャでは、善と美とが理想とされたが、これに対して、ローマでは、正義と力とが理想とされていました。それにもかかわらず、それぞれの違った理想は、共にスポーツによって達成されると考えられたのです。ところが、ギリシャやローマのスポーツは、常に偶像礼拝と結びついていたのです。

たとえば、オリンピック競技は、ゼウスの神の名誉のために行われました。別の競技は、コリントの近くで行われたために海の神、ポセイドンを褒め称えるために開かれたのです。また、ある競技は、太陽の神、アポロを記念するために行われたのであります。オリンピアでは、中心にゼウスの祭壇が築かれており、すべての競技が終った後で、その祭壇の前に、華やかな行進が繰り広げられたのです。ローマでは、スポーツを始める前に、神々の偶像が車に乗せられて、競技場を回ることが習わしとされました。

この競技は非常に有名なもので、人々はいろいろなことをよく知っていたのです。従って、パウロもその競技については、よく知っていたのでありますが、それが偶像礼拝であるため、彼は決してそれに参加したことことも、見たこともなかったでしょう。そのようなわけで、確かに、このスポーツは偶像礼拝であったけれども、パウロは、ひとつの例として、この競技を使って説明したのです。

けれども、パウロは、決して妥協したのではなく、始めから終わりまで、真理を証ししたのです。イエス様を紹介しました。彼は、ギリシャ人の考え方やローマ人の考え方をよく知っており、それらの人々に分かりやすく説明するために、このような例を用いたにすぎません。パウロが、このようにひとつの例を用いて宣べ伝えた福音は、主イエス様が救い主であると言うことにほかならなかったのです。

イエス様こそ、罪の債務と、罪の力から解放される救い主です。この主イエス様を信じた人々は新しいいのちを得ることができ、あらゆる問題を解決することができ、そして、喜びと力とが与えられます。それのみならず、イエス様は、勝利の生涯、すなわち、栄光に満ちた永遠の目標と生き生きとして望みとを、私たちに与えようと望んでおられます。

ローマ
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

しかし、イエス様と結びついている時にだけ、この力が現れることを忘れてはなりません。聖霊がこの力を私たちに与えるように、とりなしておられます。しかし、大切なことは、私たちがすべてを意識してイエス様にゆだねることです。

イエス様を信じることは、すなわち、勝利の戦いを勝ち取ることを意味します。従って、私たちはこの力によって主なる神の目的である勝利の冠(かんむり)を得るために、走ることを急がなければなりません。このように、私たちにとって、イエス様から与えられた力を用いて、主の目的に向かって走る必要があります。したがって、救われた者の生涯は、赴くままの散歩ではなく、まさに、勝利の冠を得るための戦いに他なりません。

私たちは、自分自身の力によって戦うのではなく、主の恵みと憐れみによって与えられた上からの力によって戦わなければなりません。新約聖書の中には、ギリシャ、ローマ時代の競技のことが描かれていますが、いったいこれは、何のために書かれているのでしょうか。

我々にとっては、救われた者であるということだけでは決して十分ではありません。それは単に、はじめの第一歩にしか過ぎない。むしろ、永遠の戦いの目標が重要なものです。そのために、私たちは今以上に、もっとイエス様に信頼し、イエス様にすべてをゆだねなければなりません。私たちは真剣に、そして、喜びに満ちて、主に従っていくべきものであります。

私たちは、今以上に、もっとイエス様に信頼し、イエス様にすべてをゆだねなければなりません。私たちは真剣に、そして、喜びに満ちて、主に従っていくべきです。私たちは、主の証し人として用いられなければなりません。したがって私たちは、主の御目的を目指して走り、イエス様において上に召してくださる主の勝利を得ようと努めるべきです。

すべてのこの世のものは過ぎゆき、儚(はかな)いものです。ただ、永遠になるものだけが、いつまでも存在するのです。そのために、永遠なるものを目指して、私たちは一生懸命にならなければなりません。従って、私たちは、このような信仰の戦いをするとき、私たちが持っている霊的なエネルギーを全部、出し切って、主のために生きなかればならないのではないでしょうか。

我々が目指して走るべき目的、目標は、本当に素晴らしい栄光に満ちています。私たちが、忠実な主のしもべとして最後まで奉仕するならば、それによって得られる報いは考えられないほど大きい。生きておられるイエス様は、私たち、信者に霊の力を十分に備えてくださいます。

イエス様は、我々に大胆な証しをする勇気と、信仰の確信と、確実なる勝利とを与えてくださいます。パウロが言ったように、信者の生涯とは、いわば、『組み討ち』のようなものである、つまり、悪霊に対する戦いであります。

エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

別の言葉で言えば、競技場で走る競争です。

ピリピ
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

パウロの告白、すばらしい証しですね。私たちは、この世のいろいろな力に対して、霊の戦いをしなければなりません。ある場合には、救いの兜をかぶり、御霊の剣を持って、白兵戦を行い、また、ある場合には、火の矢が飛ぶ遠隔地の戦争を行わなければなりません。

エペソ
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

そこでは、うち砕かれた悪魔の要塞が問題となります。

第2コリント
10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
10:5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
10:6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。

私たち、主の恵みによって救われた者は、その意味で、戦士であると言えます。だからパウロは愛弟子であるテモテに書いたのです。

第2テモテ
2:3 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。

『苦しみをともにして。』イエス様のために、ご奉仕することは、すなわち、聖なる戦いです。イエス様のしもべとして、証し人として、堅く立とうと思う者は、この戦いの意味を、自ずから感じ取るはずです。私たちが、イエス様とともに行こうとする時には、多くの人々から攻撃を受けることが明らかです。なぜならば、それがイエス様を受け入れない者、すなわち、生れながらの人間の性質だからです。彼らは、皆、口をそろえて、反対します。けども、我々のイエス様は勝利者です。

バプテスマのヨハネは、その意味で勝利者でした。彼は自分のことを忘れたのです。彼は、イエス様を指して、言ったのです。

ヨハネ
3:30 あの方は(・・・あのイエスは・・・)盛んになり私は衰えなければなりません。

パウロも意味として、同じことを言ったのです。有名なガラテヤ書2章20節ですね。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

こういうふうに証しすることができる人は本当に幸せなのではないでしょうか。


おわり

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