2014年5月8日木曜日

主イエス様の流された血

主イエス様の流された血
2014年5月8日、市川家庭集会
ゴットホルド・ベック


第1ヨハネ
1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。


毎日、いわゆるニュースを見ると認めざるを得ない。すなわち、良いニュースはあまりない。ニュースを見て、うれしくなる、楽しくなる、賛美したくなるようなニュースはあまりないのではないでしょうか。けど、今、読んでもらいました箇所こそが、良いニュースなのではないでしょうか。『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』過去の罪、現在の罪、将来の罪から清められるとは、考えられない良いニュースなのではないでしょうか。

ある人が、次のように手紙でもって書いたのです。『私は、なかなか悔い改めができなくなって、聖霊を悲しませている弱い者です。』言うまでもなく、そういう気持ちを持つことは大切でありましょうけど、けど、さらに前進しなければならない。主はまことの礼拝者を求めておられます。すなわち、感謝にあふれ、心から主を崇拝せざるを得ない人々を求めておられます。イエス様を信じる者は多いでしょうけど、まことの礼拝者は少ないのではないでしょうか。


普通の教会では、礼拝とは、牧師の説教こそが中心です。私たちは、毎日曜日、聖書の話しだけではなく、礼拝もありますが、けど、それは、本当の礼拝なのでしょうか。礼拝とは、確かに祈り会ではありません。日曜日の礼拝のとき、自分のために、あるいは、他の人々のために祈ることはあまり適切ではない。イエス様の十字架、イエス様の流された血潮こそが中心であるべきです。なぜなら、イエス様の代わりの死について考えると、誰でも小さくなり、悔い改めに導かれ、そして、真心から賛美することができ、主を崇拝せざるを得ません。

ご存知でしょうが、アメリカの初めての大統領は、立派な人格者でした。ジョージ・ワシントンだったのです。1732年に生まれ、そして1799年に亡くなったんです。短い人生でした。67歳で亡くなったのです。どうして亡くなったかといいますと、医者のミスだったと言わざるを得ない。ある朝、喉が痛くなったんです。医者へ行くと、医者が何をしたかといいますと――ちょっと想像できない――結局、彼から血を取ったんです。何リットルも。健康な体でも、このような手当てを受けたら、必ず死ぬ。医者は、病気を治すために大統領から、いっぱいの血を取ってしまった。結果として死んだのです。今では、もちろん、あり得ない。けど、当時はこのような治療が平気で行なわれました。これは、間違っていないと思われたのです。今日、そのような手当ては殺人とみなされるようになります。必ず、刑務所です。



けど、本当はワシントンの時代にも本当は許されなかったのです。どうしてでしょう?大統領が亡くなった時、ベッドのそばには、聖書が、神のみことばである聖書が置かれていました。そして、聖書の中で、血についていっぱい、書いてあります。

レビ
17:11 肉のいのちは血の中にあるからである。


いのちは血の中にある。血がなければいのちはない。

レビ
17:14 すべての肉のいのちは、その血が、そのいのちそのものである。


聖書は、はっきりこう言っているのです。これは、別に誇張したことばではありません。聖書は、おそらく、血液学の教科書を除いて他のどんな本よりも、血とその大切さ、重要性について、多くを語っています。ワシントンの時代には、血液の知識はなかったかもしれない。しかし、聖書を信じることはできたはずです。無知と迷信のために、そして、何千年来、伝えられてきた単純明快な神のみことばを、少しも信じようとしなかったために、犠牲となった命の数は、とても数えられないほどです。

血と言うことばは、聖書の中で非常に大切に使われている言葉です。聖書は内面的な生活や、主なる神との永遠の関係とに絡んで、血の大切さ、血の重要性を説いています。この場合、重要なのはもちろん、我々の血ではなく、別の血です。すなわち、我々のために流されたイエス様の血です。

確かに多くの人には、信じがたいことでしょうけど、本当です。血は聖書の主題そのものであるといえます。聖書には、初めから終わりまで、何百回も血のことが述べられています。すなわち、『血を流すことなしに、罪の赦しはあり得ない』と言う箇所は何回も書かれています。『血を流すことがなければ、罪の赦しはない。』まことの救いはない。けど、『イエス様の血が、すべての罪から私たちを清める』と、あります。

問題になることは、これは単なる宗教的な迷信か、科学的な事実かということです。もし、十字架の事実としたら、それは全宇宙で最も重要な事実でありましょう。我々の永遠の運命は、その事実を受け入れるか、拒むかであります。神のみことばである聖書は、我々に、理論や単なる教えを伝えようとしているのではありません。事実そのものを伝えようとしています。神のみことばである聖書の中で最も大切な事実は、イエス様の成してくださった救いです。だから、「御子の血」ということばこそ、聖書の中心です。

第1ペテロ
1:18 ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
1:19 傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。


イエス様の血は、尊いものであるから、流された血は、大いに愛されていることを意味しています。考えられないほど愛されている証拠、そのものです。イエス様の流された血とは、単なる教えよりも、唯一の救いの道です。前に読みましたヨハネ第一の手紙1章7節に、はっきり書いてあります、『御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』

いろいろな宗教、間違った教えがあります。イスラム教の教えは、神は子供を持っていない、といいます。しかし、御子がなければ救いの道がない。なぜならば、イエス様は「わたしは、道そのものであり、真理そのものであり、いのちそのものです」と、自分自身を啓示してくださったのです。前に流行っていたんですけど、統一教会のいわゆる原理講論の中で、「血」ということばは、一回も出てきません。意味は、統一教会の提供している救いは、にせものです。なぜなら、人間の代わりに罪のない者が死ななければ、罪の赦しはあり得ないからです。

私たちは、聖書の事実を頭の中に蓄えている知識として知るだけでは、充分ではないでしょう。生活の中に、どうしてもその知識が満たされていかなければ、日々を生活することができない。それほどに、体験的に知らなければいけません。主なる神のご計画は、いったい何なのでしょうか。もちろん、イエス様の流された血の力を体験的に知ることです。

ヨハネ
6:40 事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。


ここで、わたしの父のみこころは、良い行ないをして、一生懸命、努力する者なのではない。永遠のいのちを得ることこそがもっとも大切です。永遠のいのちとは、いうまでもなく、もらう物ではなくて、イエス様ご自身です。『私はいのちそのものである』とあります。パウロはガラテヤと言う地方に住んでいる兄弟姉妹に、次のように書いています。

ガラテヤ
4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。


主なる神のご目的は、人間がみな救われて、そして、神の子とせらるる者がみなイエス様の御姿に似せられていくことです。一人ひとりは、自分の強い点、また、自分の弱い点を知っています。自分の一番、弱い点も、めいめい知っているでしょう。そして、私たちは、イエス様の御心にかなう勝利の生活を願い、それがために祈りましたけど、その結末は敗北に終わったことがあるかもしれない。

どうしてでしょう。まことの土台を持っていなかったせいでしょうか。聖書の知識を持っていなかったせいでしょうか。確かに人間はみな、多くの悩みや苦しみがありますけど、それに対する父なる神の備えは、ご自身の一人子であるイエス様です。イエス様こそ、唯一の答えそのものです。

『それは私も知っている』と言われるかもしれないけど、もし、それを本当の意味で知っているならば、何故、相変わらず、自分の力で勝利の生活を送ろうと努力するのでしょうか。イエス様だけが、勝利の生活を送らしめることができます。パウロは、自分の信仰生活において、「勝ち得て余りある」ということができたのです。

ローマ
8:37 私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。


パウロは、勝利の秘密を握っていました。それは、ガラテヤ書にある通り、『われ最早、生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。(大正訳)』この勝利の秘訣こそが、パウロの喜びの種でした。ガラテヤ書2章20節ですね、信じるものにとって一番、大切な言葉じゃないかと思います。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。


『私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった主イエス』と言うことができる人は本当に幸せです。安心して、前向き生活することができるからです。私たちは、自分自身で自分で勝利の生活を送ることはできません。私たちの内に住んでおられるイエス様だけが、私たちをして、勝利の生活をおくらしめてくださるのです。だから、私たちの内にイエス様の御姿がかたち造られてくるということは、本当に大切なことであると言わねばならない。

多くの人々は、悩んで、そして考えています。主は、どうして私を、このようなお取り扱いの中にお入れになるのでしょうか。私には、どうしてこんなに悩みがあり、苦しみがあるのでしょうか。それは、自分自身が死んで、亡くなり、自分の内にイエス様が生きておられるという、まことの知識に達するように、主ご自身が導いておられるのです。偶然はありえない。人間の思っている運命もありえない。すべての背後にイエス様は、目的を持って導いてくださるのです。

私たちは確かに、いろいろな願いを持っておりますが、主はそれに応えます時に、間違いなくイエス様を我々にお示しになります。その他のどのような方法も、お取りになりません。イエス様の流された血の必要性、大切さ、尊さを考えると確かに、言葉がないけど、礼拝せざるを得ないのではないでしょうか。神のみことばである聖書は、我々の罪と、イエス様の血の価値をはっきりと述べています。これに関して、ローマ書から2、3の聖句を拾い出して見ましょうか。

ローマ
3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、
3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。
3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。
3:26 それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。
5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。

主なる神も、もちろん、人間も、悪魔も、罪の事実を認めています。人間の犯す罪、わがままの働きは3つではないでしょうか。

第1番目、主なる神に対して、隔ての壁ができた。ある人々は罪とは、悪い行いと考えています。ちょっと違う。罪とは、主から離れている状態です。この主と人間との壁が取り除かれなければ、主との交わりはありえない。確かにある人と主との間の壁はずいぶん、厚いかもしれない。300メートル25センチ。他の人々の場合は5ミリかもしれない。けど、主の目から見ると同じだよ。壁は壁です。最初の人であるアダムが、主なる神に対して不従順であったために、主と人間とのあいだに、ひとつの壁、隔てができてしまったのです。すなわち、不義が、罪が、神と人との間を隔てたのです。この箇所を見るとはっきりします。

イザヤ
59:2 あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。


したがって、主なる神は、全人類はことごとく罪の下にあると言っています。

もう一回、ローマ書に戻ります。よく知られている箇所です。パウロはこのローマ書を書いたとき、自分で何を書こうか、云々と思ったことがないようです。旧約聖書の箇所を引用しただけなんです。全部、旧約聖書から、詩篇からの引用です。

ローマ
3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」


この箇所も、結局、詩篇から引用された箇所です。罪によって、主なる神に対して、隔ての壁ができてしまったのです。

それだけではなく、2番目になります。自分に対して良心の呵責が、重荷となったのです。罪を犯し、神との間に隔たりができたために、人間は良心の呵責が生じました。主なる神の霊、聖霊なる神が人の心に働く時、全人類はことごとく、罪の下にあることを悟り、自分は罪を犯したと認めるのです。放蕩息子の告白は、次のようなものでした。

ルカ
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。」


罪の働きは、今、話したように3つですね。第1番目、主なる神に対して、隔ての壁ができた。2番目、自分に対して、良心の呵責が重荷となったのです。
そして、もうひとつ、3番目、悪魔に対して、訴えの根拠になってしまったのです。私たちは、良心の呵責を持っておりますが、悪魔はそれにつけ込み、人間に、「お前は罪を犯したダメな者です」と、言います。悪魔は、訴える者として黙示録に書かれています。

黙示録
12:10 そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現われた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」


このことばはまだ、実現されていない。将来こういうふうになります。けども、悪魔は確かに、未信者だけではなくて、『信じる者も訴えて』とあります。前に言いましたように、主なる神も、人間も、悪魔も罪の事実を認めています。だから3つの事柄、すなわち、主なる神に対する罪、良心の呵責、そして、悪魔の訴えを解決することが大切です。

ところが一体、どうしたらこの3つの問題を解決することができるのでしょうか。主なる神の答えは、いつも一つです。ご自身の御子であるイエス様ということです。

この3つの問題も、もうすでにイエス様によって、イエス様の十字架の犠牲によって、イエス様の流された血によって、解決済みなのです。すなわち、主なる神と人とのあいだを隔てる罪という名の壁は、イエス様の血によって、もうすでに取りのけられました。それから、イエス様の十字架の血をよく知るならば、我々の良心の呵責は消えてなくなります。また、私たちが、イエス様の血潮の価値を深く知るなら、悪魔の訴えは効き目がなくなります。このように、イエス様が十字架で流された血の力は、無限に価値あるものです。主なる神に対し、我々の良心の呵責に対し、また、悪魔の訴えに対して、十二分の効果を持っています。

私たちが、霊的に成長したいと思えば、どうしてもイエス様の血の限りない力を知る必要があります。イエス様が、十字架にお架かりになり、その時、流された血の絶大な価値を知らなければなりません。この知識なしに、イエス様にお従いすることはできないからです。イエス様は代わりに罰せられ、亡くなった。イエス様の血は注がれたのです。

もう一回、言いましょうか。イエス様の流された血の3つの働きは、第1番目、壁の廃棄、主なる神との交わりは可能となった。2番目、罪の赦しが提供されています。結果として、喜びと平安に満たされます。そして、3番目、十字架の犠牲こそが、悪魔に対する勝利を意味しています。

血を注ぎだすことがなければ、罪の許しはない。けど、イエス様の血は流された。だから、私たちは大いに喜ぶことができます。

おわり

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