2014年5月13日火曜日

救われた目的は?

救われた目的は?
2014年5月14日、春日部家庭集会(午前の部)
ゴットホルド・ベック

エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

今、読んできたくださった箇所は、パウロが、エペソという街に住んでいる兄弟姉妹の送ったものです。どうしてであるかと言いますと、救われていても、どうして救われたのか、何のために救われたのか、救われた目的とは、いったい何なのでしょうか・・・・と、考えるべきだったからです。

我々の人生において、もっとも大切なことは、言うまでもなく、救い主を持つことです。イエス様を体験的に知ることです。救いの神を知るようになった人々の証しとは、いったいどういうものでしょうか?三千年前にダビデは、次のように言ったのです。

詩篇
118:14 主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。

救いとは結局、もらうものではなく、主ご自身です。ダビデは、本当によろこびをもって、『主は、私の救い、私のものである』と言うことができたのです。それだけではなく、イザヤも、全く同じ救いあずかるようになりました。ダビデの後に活躍した預言者です。

イザヤ
12:2 見よ。神は私の救い。私は信頼して恐れることはない。ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。私のために救いとなられた。

結局、イザヤも、ダビデと同じように、主ご自身が私の救い、そのものであると確信したのです。そして、イエス様を生んだマリアとは、ルカ伝を見ると、次のように書いてあります。

ルカ
1:46 マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、
1:47 わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」

こういうよろこびの声を上げることとは、救われた目的のひとつなのではないでしょうか。

救いの神を知ることによって、はじめて、私たちは、この地上において、本当に満たされた生活を送ることができます。満たされた人生を送るためには、永遠のいのち、主なる神との平和、罪の赦し、したがって、『主イエス様が私を心配し、導き、そして、守っていてくださる』という確信が、生活の土台とならなければなりません。そして、私たちが死んだ後は、永遠に、イエス様と交わり、栄光をともにすることになるという確信こそが、最高の宝物なのではないでしょうか。

いつまでも、主と共になる・・・・という事実について考えると、確かに、主を礼拝せざるを得なくなります。ですから、いつになっても、『もうちょっとでイエス様と一緒になる』と考えると、やはり、不安から、心配から解放されるという意味で、前向きに生活することができるようになります。このような人間の永遠の栄光と言うものは、新しく生まれ変わることによって初めて、可能となるものですから、そのことこそ、我々の人生において、もっとも大切なことに他なりません。

イエス様のおかげで、私たちも前向きに生活することができ、安心してすべてを任すことができるのです。もちろん、聖書は、新しく生まれ変わったばかりのキリスト者は、幼子のようなものにすぎないと言っているのです。

第一ペテロ
2:2 生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。

ここで、乳飲み子はいつまでも、乳飲み子の状態に留まっているのではなく、成長しなければならないということは、言わなくても、明らかなことです。

第一コリント
3:2 私はあなたがたには乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。・・・・実は、今でもまだ無理なのです。

パウロは、コリントにいる信者たちに対して、乳飲み子にミルクを飲ませるようなことだけしか、することができなかったのです。ミルクは確かに、消化のためにもっともよい食料である。けど、それは救いの基礎を形成するものに他なりません。

コリントにいる兄弟姉妹は、たとえば、エペソにいる兄弟姉妹、あるいは、コロサイにいる兄弟姉妹に対して、パウロが書き送ったような性質の高度な真理を理解することがはできなかったのです。このようにパウロは、多くの信者に対して、ちょうど母がその子供を育てるように振る舞ったのです。けど、パウロの目的は、いつまでも乳飲み子の世話をするのではなかったのです。信者たちが全き人となることでした。

エペソ
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

イエス様を持つことは、確かにすばららしいことです。けど、それだけでは決して、十分ではありません。むしろ、イエス様が、我々を御手の中に置くことによって、我々の主として、私たちのすべてを支配なさることが、大切です。

イエス様を知ることは、確かに言い表せないほどのすばらしい恵みです。しかし、私たちがイエス様のために用いられる器となるために、イエス様を我々の主として、よりよく、体験的に知ることが、大切なのではないかと思います。したがって、私たち信者は、すべての生活が、絶えず、イエス様のために営まれているように、主に従っていかなければなりません。

信じる者の生活の目的とは、どういうものであるべきでしょうか。信じる者の使命とは、いったい、何なのでしょうか。別の言葉で表現すれば、私たちは永遠の勝利の冠のために、生きてゆくことが大切なことであると言えるのです。

新約聖書の中では、この地上における普通のいわゆる競争と、我々、信者の霊的、信仰的な戦いとが、対比されています。従って、競争、あるいは、戦いは、我々の信仰を励ますためのものとして、考えられていると言うことが分かります。

そこで、私たちは、まず初めに、その当時のいわゆるスポーツについて、ギリシャ、ローマで行われたスポーツについて、一緒に考えてみたいと思います。パウロは、もちろん、その当時のスポーツのことをよく分かっていたようです。当時、ギリシャ人はただ単に精神的な訓練だけではなくて、肉体的な訓練をも、非常に大切にしたようです。健全なる精神は、健全なる肉体に宿ると言うように、一般に考えられていました。そのために、その当時のギリシャ人は、男も女も、七歳になると、激しい運動をやらされたのです。

小さい時から、そのような訓練を受けたために、大人になった時には、非常に美しく健康な体が、かたち造られたのでした。それが、その当時の彫刻などを見れば、よくわかります。美と徳とは、切り離すことのできないものであるというのが、その当時のギリシャ人の共通した考え方でした。したがって、美しい体と健全な身体とが、理想とされたのです。

ギリシャ語以外の言葉では、良い物と美しい物とは、区別され、別の表現でもって表されるが、ギリシャ語では、それらの言葉が、同じ語源から作られています。このようにギリシャでは、善と美とが理想とされたが、これに対して、ローマでは、正義と力とが理想とされていました。それにもかかわらず、それぞれの違った理想は、共にスポーツによって達成されると考えられたのです。

たとえば、オリンピック競技は、ゼウスの神の名誉のために行われたようです。別の競技は、コリントの近くで行われたために海の神、ポセイドンを褒め称えるために開かれました。また、ある競技は、太陽の神、アポロを記念するために行われたのです。オリンピアでは、中心にゼウスの祭壇が築かれており、すべての競技が終った後で、この祭壇の前に、華やかな行進が繰り広げられたのです。

ローマでは、スポーツを始める前に、神々の偶像が、車に乗せられて、競技場を回ることが習わしとされた。この競技は、非常に有名で、人々はいろいろなことを明らかにしようと思ったのです。パウロもその競技については、よく知っていたようです。ただし、それが偶像礼拝であるため、彼はもちろん、決して参加したことがない。そのようなわけで、確かに、このスポーツは偶像礼拝であったけど、パウロは、ひとつの例として、この競技を使って説明したのです。けれども、パウロは、決して、妥協したのではなく、始めから終わりまで、真理を証ししたのです。彼は、ギリシャ人の考え方やローマ人の考え方をよく知っており、それらの人々に分かりやすく説明するために、このような例を用いたにすぎない。

パウロがこのようにひとつの例を用いて宣べ伝えた福音は、イエス様が救い主であると言うことに他ならなかったのです。イエス様こそ、罪と債務と、罪の力から解放される救い主であると、このイエス様を信じた者は、新しいいのちを得ることができ、あらゆる問題を解決することができ、そして、喜びと力とが与えられるのですと。それのみならず、イエス様は、勝利の生涯、すなわち、栄光に満ちた永遠の目標と生き生きとした望みとを、我々に与えてくださると、パウロはよろこんで述べ伝えたのです。

パウロは、次のように証しし、告白しました。

ローマ
1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。

しかし、主イエス様と結びついている時にだけ、この力が現れることを忘れてはなりません。御霊がこの力を我々に与えるように、とりなしてされます。けども、大切なことは、私たちがすべてを主にゆだねることです。イエス様を信じることは、すなわち、勝利の戦いを勝ち取ることを意味します。従って、私たちは、この力によって、主のご目的である勝利の冠を得るために走ることを急がなければなりません。

このように、私たちにとって、イエス様から与えられた力を用いて、主の目的に向かって走ることが必要です。したがって、救われた者の生涯は、おもむくままの散歩ではなく、まさに、勝利の冠を得るための戦いに他なりません。私たちは、自分自身の力によって戦うのではなく、主の恵みと、主の憐れみによって与えられた、上からの力によって戦わなければなりません。

新約聖書の中には、ギリシャ・ローマ時代の競技のことが描かれているが、いったいこれは、何のために書かれているのでしょうか。

我々にとっては、救われた者であるということだけでは、決して、十分ではない。それは単に、はじめの第一歩にしか過ぎません。むしろ、永遠の戦いの目標が大切なものです。そのために、私たちは今以上に、もっとイエス様に信頼し、イエス様にすべてをゆだねなければなりません。私たちは真剣に、そして、喜びに満ちて、主に従っていくべきです。私たちは、今以上に、もっとイエス様に信頼し、イエス様にすべてをゆだねなければなりません。私たちは真剣に、そして、喜びに満ちて、主に従っていくべきです。私たちは、主の証し人として、主を紹介するものとして、用いられなければなりません。したがって我々は、主の御目的を目指して走り、イエス様において上に召してくださる主の勝利を得ようと努めるべきです。

すべて、この世のものは過ぎゆき、はかないものです。ただ、永遠なるものだけが、いつまでも存続するのです。そのために、永遠なるものを目指して、私たちは一生懸命にならなければならないのではないでしょうか。従って、私たちは、このような信仰の戦いをするときには、私たちが持っている霊的なエネルギーを全部、出し切って、主のために生きなければならないのではないでしょうか。

私たちが目指して走っている目的、目標とは、いったいなんでしょうか?すばらしい栄光に満ちているものです。私たちが忠実な主のしもべとして、最後まで奉仕するなら、それによって得られる報いは大きいと、聖書は、はっきり言っているのです。

生きておられるイエス様は、私たち、信者に霊の力を十分に備えていてくださいます。イエス様は、我々に大胆な証しをする勇気と、信仰の確信と、確実なる勝利とを与えてくださいます。パウロが言ったように、信じる者の生涯とは、いわば、組み討ちのようなものである、つまり、悪霊に対する戦いであります。

エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。

6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

別の言葉で言えば、競技場で走る競争の武具です。もう一箇所、読みます。内容的に、全く同じようなものです。

ピリピ
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

こういうふうに、パウロはピリピにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。

結局、私たちは、このようないろいろな力に対して、霊の戦いをしなければならない。ある場合には、救いのかぶとをかぶり、御霊の剣を持って白兵戦を行い、また、ある場合には、火の矢が飛ぶ遠隔地の戦争を行わなければなりません。

エペソ
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

そこでは、うち砕かれた悪魔の要塞が問題となります。

第二コリント
10:4 私たちの戦いの武器は、肉の物ではなく、神の御前で、要塞をも破るほどに力のあるものです。
10:5 私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、
10:6 また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。

我々、主の恵みによって救われた者は、その意味で、戦士であると言えます。テモテ第二の手紙を見ると、この『兵士』という言葉が使われています。

第二テモテ
2:3 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。

イエス様のために、奉仕することは、すなわち、戦いです。イエス様のしもべとして、証し人として、堅く立とうと思う者は、この戦いの意味を、自ずから感じ取るはずです。私たちが、イエス様とともに行こうとするなら、この世の未信者から確かに攻撃を受けることが明らかでしょう。なぜならば、それがイエス様を受け入れない者、すなわち、生まれながらの人間の性質だからです。主は勝利者です。この主に頼ると、主の勝利にあずかるようになります。

バプテスマのヨハネは、次にように願ったし、祈ったし、告白しました。

ヨハネ
3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

彼の人生そのものは、結局、そういう心からの祈り、叫びでした。イエス様は盛んになり、私は別にどうでもいい。衰えなければならない。パウロも、意味として、同じことをガラテヤ書に言ったのです。信じる者にとって、このガラテヤ書二章二十節は、いちばん、大切な言葉なのではないかと思います。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

パウロは、どうして幸せだったのでしょう?どうして、用いられるようになったのでしょうか?結局、『私のためにご自身をお捨てになった神の御子』と、心から言うことができたのです。『私を愛し私のためにご自身をお捨てになった』主のために生きることとは、最高の特権であり、まことの自由であり、幸せであると。

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