2014年5月20日火曜日

勝利を得るための戦い

勝利を得るための戦い
2014年5月20日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一コリント
9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。

パウロは、はっきり解かった。失格者になる可能性がある。救われていても、主の働きのために全く役に立たない人になる可能性があるとあります。

今朝の題名は、「勝利を得る為の戦い」とつけようと思います。我々の人生において、もっとも大切なことは、言うまでもなく、救い主を持つことです。すなわち、イエス様を体験的に知ることです。救いの神を知ることによって初めて、私たちは、この地上において、本当に満たされた生活を送ることができます。


満たされた人生を送るために、永遠のいのち、主なる神との平和、罪の赦し、したがって、イエス様が私を心配し、導き、そして、守っていてくださるという確信が生活の土台とならなければなりません。そして、私たちが、死んだ後は、永遠に主イエス様と交わり、栄光を共にすることになるという確信こそが、最高の宝物なのではないでしょうか。いつまでも、主イエス様と共にあるという事実について考えると、もちろん、見方が変わります。重荷から解放されます。主を礼拝せざるを得なくなります。

パウロの目的はいつも、いつまでも、信じる者が乳飲み子の世話をするのではなく、救われた人々が全き人となることです。エペソ書の四章の中で、彼は、大人になるべきと書いたのです。

エペソ
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

イエス様を知ることは、確かに恵みです。しかし、私たちが主イエス様のために用いられる器となるために、イエス様を我々の主として、支配できるお方として、より良く体験的に知ることが大切なのではないでしょうか。私たちが、永遠の勝利の冠を得るために生きていることは、本当に大切です。パウロは、愛弟子であるテモテに書いたのです。

第二テモテ
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

すごい告白です。もちろん、その後で彼は、殉教の死を遂げて殺されてしまいました。

使徒行伝
20:24 ・・・・私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

ヘブル書の著者は――よく知られている箇所ですけど――次のように書いたのです。

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。・・・・

走ること、走り続けることとは、イエス様から目を離さないことです。

12:2 ・・・・イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

パウロは、おもに三つの異なったギリシャ、ローマ時代の競争について、いろいろなことを書き記したのであります。今、読みました箇所の中で、コリント第一の手紙、九章二十六節に、拳闘という言葉が出てきます。ギリシャ時代の競技のおもな種目の一つは、ボクシング、すなわち、拳闘だったのです。これは、もっとも激しい競技の一つだったようです。これは、ボクサーが互いに打ち合い、とくに顔を打つことを目的とするところに、その本当のおもしろさがあったようです。すでに有名なホメーロスの時代、すなわち、紀元前九百年頃、手に革のグローブをはめ、とくには金属をつけたので、非常に危険な競技であり、死者が出るほどだったそうです。

決定的なパンチは、目の下を打つことであり、それは今日、ノックアウトと呼ばれているようなものだったのであります。パウロは、この表現を聖書の中で用いていますね。すなわち、読んでもらいましたコリント第一の手紙、九章二十六節「私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。」失格者にならないようにとあります。

ここで、「自分のからだを打ちたたいて従わせます」とは、自分自身のからだにパンチを与え、とくに目の下にパンチを与えることによって、自分自身のからだを完全にノックアウトさせることを意味しているのであります。

すなわち、これは次のようなことを意味します。キリスト者は、自分のいのちを少しも惜しいとは思わないことです。すなわち、もしも自分中心の考え方、自分だけの願いや欲望、楽な生活を送ることや快楽を求めることが自分にとって、勝利の戦いを勝ち取るために妨げとなるならば、それらのものをはっきりと否定しなければなりません。

自分の拳(こぶし)、拳骨が傷つくのを恐れて、敵を打つ代わりに空を打つようなことは、決して許されません。そのような拳闘は、いずれにしても勝利を得ることができないことは確かです。パウロは、言うことができたのです。

使徒行伝
20:24 私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。

パウロは、ここで禁欲生活や修道院生活を勧めているのではない。むしろ、競技者としてすべての力を全身全霊を持って、ひとつの大きな目標に向けることが大切です。そのことによって、勝利を得ることができます。パウロは、ここで、霊、肉の戦いについて述べているのではないでしょうか。

新約聖書は、いろいろなところで、霊と肉との対立について書いてあります。一箇所、見てしょうか。

ローマ
8:4 それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。
8:5 肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。
8:6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
8:7 というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。
8:8 肉にある者は神を喜ばせることができません。
8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

同じ事実についてパウロは、またガラテヤ地方に住んでいる兄弟姉妹に書いたのであります。

ガラテヤ
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

ここで肉という場合には、ただ単にイエス様に逆らう罪深い肉欲のことだけではなく、人間の生まれつきの古い性質について語られています。

ガラテヤ
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。

パウロは、このように、ガラテヤという地方に住んでいる兄弟姉妹に書きました。彼の挙げた肉の業の半分以上は、まさに、精神生活の罪の領域に属しているのではないでしょうか。ただ単に不品行、汚れ、好色だけが、肉の業ではなく、敵意、ねたみ、争い、愛のないこと、さらには、呪い、偶像礼拝、さらには、律法的になることや、禁欲主義なども肉の業に他なりません。

コロサイ書の中で、またパウロはコロサイとという町に住んでいる人々に書いたのです。

コロサイ
2:16 こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、だれにもあなたがたを批評させてはなりません。
2:17 これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。
2:18 あなたがたは、ことさらに自己卑下をしようとしたり、御使い礼拝をしようとする者に、ほうびをだまし取られてはなりません。彼らは幻を見たことに安住して、肉の思いによっていたずらに誇り、
2:19 かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。
2:20 もしあなたがたが、キリストとともに死んで、この世の幼稚な教えから離れたのなら、どうして、まだこの世の生き方をしているかのように、
2:21 「すがるな。味わうな。さわるな。」というような定めに縛られるのですか。
2:22 そのようなものはすべて、用いれば滅びるものについてであって、人間の戒めと教えによるものです。
2:23 そのようなものは、人間の好き勝手な礼拝とか、謙遜とか、または、肉体の苦行などのゆえに賢いもののように見えますが、肉のほしいままな欲望に対しては、何のききめもないのです。

たとえば、不品行と禁欲主義とは、表面的には正反対のものであるけども、イエス様の目から見ると、一つのものの両面にすぎません。言葉を変えるならば、みだらな卑しい肉の業だけでなく、謙遜らしく、信心深くカモフラージュされた肉の業も、全く同じものです。なぜならば、イエス様に頼らないで、自分自身の力でやろうとすることは罪だからです。

ガラテヤの兄弟姉妹は、律法的な行ないをして、自分自身を清めることによって、自分自身を完成させることができると思い込んでしまったのです。パウロは、このような宗教的な努力に対して、次のように書いたのです。

ガラテヤ
3:3 あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。

このような意味において、霊と肉、すなわち、古き人と新しい人、すなわち、罪人の自己と新しく生まれ変わり、新しいいのちを植えつけられた人とのあいだには、常に対立が存在します。

ガラテヤ
5:17 なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

酒呑み、快楽を求めること、あるいは、官能的な生活の奴隷は全て、彼をいつも欺き、抑えつける力の支配として、この明らかな事実の力を軽蔑しています。これは、肢体に存在する罪の法則です。この戦いについて、パウロは有名なローマ書七章の最後に書いたのですね。

ローマ
7:23 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。

主の恵みによって救われたパウロの正直な告白です。罪は、体の肢体を乱用し、私たちの肢体を不義の武器としたがっています。

ローマ
6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

つまり、罪は我々の身体を用いて、それを武器として、イエス様に逆らおうとしています。私たちの目、耳、舌、手、ようするに、体のあらゆる肢体を、この敵は自分の目標のために使いたがっています。こういうふうに人間の体は卑しめられてしまいます。つまり、それは悪魔に用いられる器であり、罪の体となります。

ローマ
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

人間の体は悪魔の武器となり得るのです。

ローマ
6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

結局、裁きが成される復活のときには、滅びの体になり下がってしまうのです。

ダニエル
12:2 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。

善を行ったものは、よみがえっていのちを受け、悪を行ったものは、よみがえって裁きを受けると、聖書の中で何回も何回もあります。では、イエス様のものとなったものは、何をなすべきなのでしょうか?私たちは、聖なるエネルギーを用いるべきです。あらゆる罪深い、本能的な生活に対して、『ノー!』と言うべきです。私たちは霊を汚すあらゆるものから、目をそらすべきです。また、すべての悪口や、意味のない無駄話などに対しては、耳をふさぐべきなのではないでしょうか。

ヤコブ
3:7 どのような種類の獣も鳥も、はうものも海の生き物も、人類によって制せられるし、すでに制せられています。
3:8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

3:10 賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

ヤコブは、当時の救われた人々にこう書いたのです。怒りに満ちた罪深い、価値のないこと、すなわち、呪いではなく、祝福を語るように、自分の舌を慎むべきことです。私たちはイエス様に逆らう自分自身の身体を打ちたたき、それを完全に支配すべきです。私たちはちょうど、ボクサーがリングで敵にするように、自分自身の目の下にパンチを与えるべきです。つまり、私たちは、自分自身をノックアウト――KOさせるべきです。あるいは、イエス様ご自身が、山上の垂訓で命令しているように――次のように書かれています。内容的に、全く同じ意味でしょう。

マタイ
5:29 もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナ(・・・・すなわち、地獄・・・・)に投げ込まれるよりは、よいからです。
5:30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに落ちるよりは、よいからです。

だからパウロは、コロサイにいる人々に、また書いたのです。

コロサイ
3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

しかし、それと同時に私たちは、次のような事をも体験するでしょう。すなわち、肢体の存在する罪の法則を克服することによって、からだは卑しめられず、むしろ、聖められ、高められるのです。人間のからだは、実際問題として、聖霊の宮であると聖書は言っています。

第一コリント
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。

「忘れたのでしょうか?」とパウロは、コリントにいる兄弟姉妹に書き記したのであります。新約聖書の手紙を見ると、はっきり言えることとは、すなわち、人間のからだは、義の武器であるべきです。

ローマ
6:13 また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。

人間のからだは、生きた聖なる供え物であるべきですから、パウロは、同じくローマ書十二章に書いたのですね。

ローマ
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

人間のからだは、主の栄光を現す手段であるべきです。

第一コリント
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

人間のからだは、よみがえりの時には、栄光のからだに変えられるようになると、パウロはコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。15章、いわゆる、『よみがえりの書』と呼ばれている箇所ですね。

第一コリント
15:43 卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、
15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。
15:45 聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。
15:46 最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。
15:47 第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。

人間の身体(からだ)そのものは、決して、主に反するものではない。それゆえに、あえてそれを否定する必要はありません。そうではなく、むしろ逆に、主なる神が造られたものとして、人間の精神と同様に、身体も肯定されなければなりません。しかし、私たちの身体は、しばしば罪のために悪魔の道具として用いられる可能性、また、危険性があるので、絶えず打ちたたかなければならないのです。

前に述べたように、身体を打ちたたくということは、身体そのものが悪いということを意味するのではなく、そのことによって、本来人間の身体が果たすべき機能と役割を、正しい状態に置き、そのことによって、真の自由を得ることができます。罪は低くされ、神聖さは高められます。罪は恥であり、神聖さ、聖さは我々の名誉です。このことは、我々の魂の精神だけではなく、肉体についても当てはまることなのではないでしょうか。

したがって、からだを打ちたたくことは、からだを駄目にしてしまうことではない。むしろ反対に、からだを助ける役割を果たすものです。人間の身体が、罪の道具として用いられないようにするため、絶えず身体を打ちたたき続けなければならない。けれど、主の創造としての身体は、主の道具として用いられることもあることを忘れてはなりません。身体は、非常に大きな使命を持っています。それは、精神の道具です。この身体を通して、私たちは外の世界と交わりを持っています。

我々を取り巻く周囲の人々は、我々の身体が行動することによって、私たちがいかなる者であり、何を考えているかということを、正しく理解することができます。例えば、話したり、書いたり、動いたり、行なったり、目の動きであるとか、顔の表情やしぐさ、さらには、一般に身体の形、人の歩き方や働き方、食べ方や飲み方を通して、回りの人々は我々の事を理解することができます。

もしも、身体がなかったならば、周囲の世界は何も解からない、謎なのではないでしょうか。したがって、我々の身体の肢体は、義なる主の道具として、次のことを明らかにするために用いられるべきです。イエス様は、生きておられる。私たちは、イエス様を通して、生きておられる救い主であることができる。イエス様だけが、我々の罪の支配から解放し、死の恐れから解き放ってくださる唯一のお方です。イエス様は、復活された方であり、新しい永遠のいのちを私たちに与えてくださった方であり、実際、イエス様は我々のいのちに他ならない。

パウロはコロサイにいる人々に書いたのです。

コロサイ
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

パウロは、ローマの刑務所の中で書いたのです。

ピリピ
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

パウロは、この身体のことについて、主イエスのいのちがこの身に現れるためであると、はっきりと言っています。

第二コリント
4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。

そして、イエス様のいのちが、私たち自身の身体を通して完全に現れると、聖書は言っています。聖書の約束によると、人間の身体も、将来に対して希望を持っています。現在の身体の聖めも大切ですけど、それは同時に、将来の変容をも意味しているのではないでしょうか。

ローマ
8:11 もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

したがって、最後の賞与を得るためには、現在、我々の身体が聖められなければなりません。パウロは、ピリピ書三章の中で次のように言ったのであります。私たちは、競技場で一生懸命に戦うことが必要である。それは、ただ単に、救われる問題なのではなく、神の賞与を得るために必要なのです。

ピリピ
3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。
3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

そして、最後に私たちの身体が、イエス様の栄光のからだと同じかたちに変えられるようになります。

ピリピ
3:20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
3:21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

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