2014年5月5日月曜日

十字架こそ唯一の救いである

十字架こそ唯一の救いである
2014年5月5日、喜びへのコンサート(御代田)
ゴットホルド・ベック

今日は、喜びへのコンサートですけれど、それにちなんだお話を少しばかりいたしたいと思います。主題は、「十字架こそ唯一の救いである」というものです。

これから最初にお話することは、本当にあった出来事です。私も何年間か、スイスという国に住んでいました。あるスイス人が、大学生と向かい合っていろいろな話をしていました。彼らは、時の経つのを忘れるほど、いろいろなことを話し合ったのですが、一段落して、このスイス人は大学の窓の外を指差しました。そこには、畑もあれば、牧場もあり、果樹園もあれば、美しい湖もあり、その後ろには、雪におおわれた大きな山々が聳えていました。「これはすべて私のものです、これは私の楽園です」とそのスイス人は言いました。彼は、たいへんな金持ちで、欲しいものは何でも持っていました。


二、三年あと、同じ訪問客が再び彼のところにやって来ました。畑も牧場も前と同じように、そこにあり、湖も同じように美しく輝いていました。しかし、彼はもはや、何一つ役に立つものを持ってはいなかったのです。確かにすべてのものはまだ依然として彼の所有物でした。しかし、彼はつらいことを経験したのです。すなわち、ひとり息子が湖で溺れ死んでしまい、娘は不幸な結婚をし、そして、彼自身も恐らくは癌と思われる不治の病に罹っていました。訪問客が彼と話していると、彼の末娘が部屋に入って来て尋ねました。「お父さん、これから町へ買い物に行きますが、何か欲しいものはある?」すると、彼は言いました。「そうだね、ピストルを一つ頼む。もうこれ以上、生きたいとは思わない」と。

私たちは、皆、次のことを良く知っています。すなわち、この世の富は過ぎ行くものであり、この地上の一生は、すぐに消えてなくなる、霞のようなものである。しかし、主なる神の御目的は富やこの世の一生をはるかに越えたものです。主なる神は、人間が永遠の幸せにあることを望んでおられます。主なる神は、そのことを望んでおられるのみならず、主イエス様が、主イエス様を通して、永遠の幸福への道を開いてくださいました。その道とは取りも直さず、十字架です。十字架につけられた主イエス様です。この十字架によって全人類の債務をご自分の上に、引き受けてくださり、そのために、ご自分のいのちをささげてくださったのです。

スエーデンの首都、ストックホルムの墓地には有名なスエーデンの詩人、ストリンドベリーが葬られています。その墓石には、次のことばが刻まれています。すなわち、「十字架こそ唯一の救い」。この詩人は長いあいだ、主なる神を否定していました。しかし、歳をとってから、彼はそれまでの間違った道から立ち戻りました。死の少し前、彼は自分の日記に、次のことを書き記したのです。「私は、神なしに、自分勝手に生きたいと思っていたことから、私のすべての不幸がやって来た」と、正直に告白せざるを得なかったのです。

生けるまことの神との結びつきを持っていない者を主なる神は祝福することができません。人間は、自分自身の力、自分自身の知恵によっては、本当の幸福を見いだすことができません。イエス様が祝福してくださらなければ、すべてのことはまったく意味のないことであり、むなしいものです。ですから、彼は自分の墓石に、「十字架こそ唯一の救い」ということばを刻み込んでくれるように頼みました。

私たちは親しい人に会うと、しばしば、「お元気ですか?」と尋ねます。すると、ドイツでは、しばしばユーモアを交えて次のように答えます。「おかげさまで、元気です。健康でもあり、お金もたくさんあることですし」と。しかし、健康で、お金がたくさんあるということは、ほんとうにたいせつなことなのでしょうか。決して、そうではありません。病気で、その上貧しい人々。しかし、それにもかかわらず、ほんとうに幸せな人がいます。なぜなら、その人々は主イエス様にあって、永遠の幸福を見出したからです。人間は誰でも死に向かう者です。なぜでしょう。なぜなら、人間は誰でも主なる神の前に過ちを犯す者であるからです。

『善を行なう者はいない。ひとりもいない』(詩篇14:3)と、聖書は言っています。聖書の言っている罪は、生けるまことの神からの隔てです。人間の本来の病は、罪の本質です。この病をいやすためにイエス様は十字架にかかってくださいました。

聖書は言っています、『わたしは主であり、あなたの医者である。』主イエス様がこの地上におられた時、ご自分が偉大なる医者であることを証明してくださいました。盲人が目に見えるようになりました。足なえが歩けるようになりました。死人もよみがえらされました。イエス様の最大の批判者、および、敵でさえも、目の前で起こった奇跡を否定することはできませんでした。なぜなら、彼らはそれらの奇跡をすべて自分の目で本当に見たからです。旧約聖書の中でイザヤ書53章に次のようなことばが記されています。

救い主はわれわれの病をにない、われわれの苦しみをご自身の身に受けた。主イエスの、救い主である主イエス様の傷によって私たちはいやされた。

罪の支払う報酬は死です。けれど、イエス様は、この報酬をご自身の身に受けてくださいました。主イエス様は、われわれの代わりに罰を受けてくださったのです。イエス様は債務を支払ってくださいました。唯一の主なる神が今日、提供したいと思っておられることは先ず第一に、富とか、健康とかいうものではなく、わがままの赦し、絶えざる喜び、まことの平安です。

それでは、人間はどのようにして、これらのものを自分のものにすることができるのでしょうか。主イエス様のみもとに行くことによって、主イエス様に自分の債務を告白することによって、そしてまた、イエス様を信じ、忠実に従うことによってです。恐らく、私たちの中には、まだ精神的に悩んでいる人や、主なる神との平和を持っていない人や、希望と喜びを持っていない人もいるかもしれない。そのような方々に、私は、次のような勧めをいたしたいと思います。どうか、次のように祈ってもらいたい。

イエス様、どうか、あなたが私の生活を見ておられるように私に私の生活を見させてください。

この祈りは必ず聞き届けられ、あなたは次のことを知るようになります。すなわち、あなたの生活のうちには何一つ、主なる神によって受け入れられるものはない。ひとつも・・・・ということです。誰でも、死、すなわち、主なる神との永遠の隔て以外の何ものにも値しないものでしょう。けれども、生けるまことの主なる神によって、お一人お一人にも、主イエス様による永遠の救いと罪の赦しが、人間一人一人のために備えられていることを聖書は、はっきり言っています。

十字架においてイエス様は、聖なる神のさばきを受けてくださいました。イエス様は、われわれの身代わりとして死んでくださいました。そして、イエス様の死と、イエス様のよみがえりこそ、罪の赦しの土台、また、源です。自分のあやまちをイエス様に打ち明ける者は、次のことを知ることができるようになります。すなわち、私のあやまち、わがままは赦されている。イエス様は、私をも受け入れてくださった。私は新しいいのちを持つことが許されている、と。

聖書の言っている罪の赦しと、薬とはお互いに似ている点を持っています。すなわち、誰もそれを受け入れることを強制できません。医者は、あなたに薬を与えることができますが、それを強制することはできません。それと同じように、主なる神も、御子イエス様を通して、罪の赦しを与えたいと望んでおられます。けれども、その救いを受け入れ、永遠に言い表わすことのできない栄光のうちにイエス様とともにいるようになるか、あるいは、主なる神なく、望みなく、永遠の時を送らねばならないかということに対して、人は責任を問われています。

たいせつなことは、肉体上の健康でもなければ、また、たくさんのお金を持つことでもありません。また、多くの友だちを持ったり、権力や名誉を持つことでもありません。たいせつなことは、人間が債務の重荷から解放されること、そして、主なる神が自分の罪を赦してくださり、自分に永遠のいのちを与えてくださったという確信を持つことです。人間は自分の健康や名誉のために、どれほど測り知れない努力をしているかわからないほどですが、死後の世界、永遠の救いについては何も考えていないとは、何という悲劇でしょうか。

今日、ここにおられるすべての方々が、自分の罪と債務を主イエス様に告白し、そして、イエス様は私を受け入れてくださったから、私は救われているということを体験なさることこそ、私の祈りです。ただイエス様にだけ私は従いたい、ただイエス様にだけ栄光があるように、という切なる願いを持つ者は大いに祝福され、用いられるようになります。

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