2014年11月10日月曜日

御心を知る道(二)

御心を知る道(二)
2014年11月11日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ローマ
8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

人間とは、誰でもが、「どうしましょうか?」と思う者なのではないかと思います。救われた人々でさえも、そういう気持ちになります。けれども、御心を知る道とは、いったいどういうものでしょうか。

どうしたら、我々は主の御心を知ることができるのかについて、この間、考えはじめましたし、今日も続けたいと思います。結論から見ると、主の御心は、ただ主の霊によってのみ、御霊によってのみ、知ることができる。

簡単に言いますと、みことばを通してです。もし、ある人が「私は、神の声を聞いた。この耳で聞いた」と言っても、私は信じようとしない。神の声だったか、悪魔の声だったか、誰がわかるの?結局、みことばです。

ですから、どうしたら御霊の導きを知ることができるかと言いますと、もちろん、みことばを通して。このあいだ、言いましたように、みことばを聞く備えがあれば、ありがたい。

サムエルという男は、我々の模範であるべきです。サムエルは十二歳、十三歳の子供であったか、十五、六歳の青年であったか解らない。けれども、若かった。彼は大いに祝福された男になった。どうして?「主よ、語ってください。しもべは聞いております」と、心から思っただけではない。叫んだのです。

このような祈りは、必ず聞かれます。ダビデも、御心にかなう人だった。完全だったのではない。滅茶苦茶なことをしてしまった男です。けれども、彼の祈りは、本当にすばらしい。

詩篇
143:10 あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。

この心構えを持つ人々とは、『主はすごい。忍耐深い。永遠にわたっても礼拝すべきお方である』と思うようになるに違いない。

御心にかなうダビデは、御霊の導きを求めて祈りました。だから、「教えてください。導いてください」と思うようになりました。このダビデの祈りは、我々の祈りにもなっているのでしょうか。

ダビデは、主の御心にかなった人でした。どうして?こういうふうに祈ったからです。もう、わかっているのではない。わからないから教えてください。ダビデの、主に対する態度は、今、話したように、「主よ、教えてください」という態度でした。このように、主の御前に教えを乞うた人は、計り知れない主の恵みに与かるようになるに違いない。御霊の導きの約束は、ダビデに与えられました。

詩篇
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。

すばらしい主の呼びかけなのではないでしょうか。また、ローマ書8章の26節も、何度も一緒に読みましたけれども、非常にすばらしい箇所です。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

御霊は、我々の祈りを導くためにおられるお方です。そして、まことの祈りとは、結局、我々を通して祈られる御霊の祈りであるべきなのではないでしょうか。

大切なのは、御霊が我々の霊にお語りになり、私たちが主の御心を知って、それを確信して立つことです。我々を導くことのできるお方は、結局、聖霊だけです。また、御霊と聖書のみことばは、常に逆らうことなく、そのあいだに一致があります。御霊は、みことばを我々のために用いて、語りかけてくださいます。私たちが何か問題にぶつかった時、御霊は聖書のみことばを取りあげて、それを生かし、我々の心に投げ込んでくださいます。

内住の御霊が、聖書のみことばを生かして語りかけてくださいます。ですから、我々を導き得るのは御霊です。ですから、ローマ書8章に書かれています。

ローマ
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

この内住の主の導きは、言うまでもなく、特定のキリスト者だけでなく、すべての主の恵みによって救われた人々に与えられている特権です。けれども、問題にぶつかった場合、どのように御霊の導きを知っているかについて、ちょっと考えましょうか。

御霊の導きを求める場合、すべての物事は主の栄光のためであるということを知らなければならない。

第一コリント
10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

神の栄光のために、現すことができるように。もし、これを深く心に留めているなら、自らの思いや、自らの願いは捨て去ってしまう備えがあるずです。まことの献身者は、いったい誰でしょうか。まことの献身者とは、自分の意思を、全く主に明け渡し、日々、その明け渡しを新たにしている者です。この自らの意思を主に捧げた人だけが、御霊に用いられる、また、導かれることができます。イエス様は、全く御霊に導かれたお方でした。イエス様が間断なく、御霊に導かれた秘密は、詩篇に書かれています。ダビデは祈ったのです。

詩篇
40:8 わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。

この主の御心の持ち方こそ、常に御霊に導かれる秘訣なのではないでしょうか。だからこそ、イエス様はこういうふうに、告白してくださいました。

ヨハネ
8:29 わたしを遣わした方はわたしとともにおられます。わたしをひとり残されることはありません。わたしがいつも、そのみこころにかなうことを行なうからです。

イエス様は、このように言うことができたのです。御霊に導かれるということは、時には、自分のいわゆる良い意思を捨てて、主の御心だけに従うことを意味しています。これは、決して簡単なことではありません。ひとつも罪を犯されなかったイエス様でさえ、難しく思われたほどでした。イエス様は、十字架を前にして祈りました。ゲッセマネの園で祈られたみことばです。

マタイ
26:38 ・・・・わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。

26:39 ・・・・わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。

イエス様は、この苦しい祈りを父の御心を行うためになさいました。イエス様を産んだマリヤも、同じ態度をとったのではないでしょうか。

ルカ
1:38 ・・・・ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。

このマリヤは、自らの意思を主に明け渡していました。

1:31 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。

1:34 そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
1:35 御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」

1:38 マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

マリヤは、イエス様の母になる心の備えがありました。もし、結婚する前に身ごもるなら、掟では、石で打ち殺されなければなりませんでした。その危険も顧みず、ただ、主の御心をならせたまえと、マリヤは、主にすべてを明け渡していたのです。

ルカ
1:38 ・・・・「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。

主の御栄(みさかえ)が第一の場所を占めていなければなりません。この態度を持つ人々に与えられる祝福は豊かです。私たちも、イエス様やマリヤのような献身者となり、パウロのように言うことができれば、本当に幸いです。パウロの告白は、本当にありがたいものです。

エペソ
6:6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
6:7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。

これこそがパウロの願いであり、心からの告白でした。主に聞き従い、己を捨てる備えのある人は、御霊の導きを受ける資格のある人です。若い兄弟姉妹は、例えば、結婚の相手を考える時にも、「主よ、私は、あの兄弟、あの姉妹を好きだけれども、御心でなければ間を断ち切ります」という、主に従う態度が必要なのではないでしょうか。

我々の心の態度が、主の御栄を第一にしているならば、主は豊かに導いてくださいます。我々の心の態度が、主の御栄を第一にしているならば、主は、本当に祝福してくださるのです。御霊の導きを求める場合、すべての物事は、主の栄光のためであるということを知らなければならない。

二番目、主の導きは、いつも聖書、神のみことばにのっとっています。御霊の導きは、いつも、必ず神のみことばである聖書に基づいています。したがって、聖書の知識は、我々にとって、本当に大切なことと言わなければなりません。言うまでもなく、救われるため、成長のため、導かれるため、用いられるためです。主は、次のように言われました。

ホセア
4:6 わたしの民は知識がないので滅ぼされる。

主の悩みでした。『わたしの民は知識がないので滅ぼされる。』

箴言
19:2 熱心だけで知識のないのはよくない。急ぎ足の者はつまずく。

イエス様は、当時の聖書学者、宗教家たち、パリサイ人たちを叱ったのです。『読んだことがないのか』と、彼らの聖書の知識のないことを、イエス様は非難されました。

マタイ
12:3 しかし、イエスは言われた。「ダビデとその連れの者たちが、ひもじかったときに、ダビデが何をしたか、読まなかったのですか。」

こうイエス様は言われたのです。知らないのですか?読まなかったのですか?み言葉を大切にしないの?

マタイ
19:4 イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、
19:5 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。」

聖書を読まない人は、御霊の導きを待っていても何の役にも立ちません。迷いに導かれるばかりです。またイエス様は、パリサイ人に言われました。

マタイ
22:29 しかし、イエスは彼らに答えて言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからです。

神のみことばに逆らう者に、御霊の導きがないのは当然です。言うまでもありません。もし、ただ一つのみことばに、それを知りながら従わないなら、どんなに祈っても、導きは与えられません。神のみことばに逆らうということは、主の御霊に逆らうことです。したがって、そのような人には、尊い導きが与えられません。主は我々にみことばを学ぶように、みことばに頼るように、勧めておられます。旧約聖書から同じことが何回も書かれています。

申命記
17:19 自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。

似た箇所は他にもあります。

イザヤ
34:16 主の書物を調べて読め。これらのもののうちどれも失われていない。それぞれ自分の連れ合いを欠くものはいない。それは、主の口がこれを命じ、主の御霊が、これらを集めたからである。

また、イエス様は言いました。

ヨハネ
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

みことばこそ、考えられないほど大切であり、すばらしい宝物です。使徒行伝十七章に、人を褒めたことが書かれています。

使徒行伝
17:11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで(・・・・どうして良い人たちであったかと言いますと・・・・)、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

「あのパウロの言っていることは、本当だったらありがたいけれども、わからない。だから自分で見ましょう。自分で調べましょう」と、彼らは言ったから、パウロは非常に嬉しくなったのです。みことばは、いかに大切であるか、ちょっとうまく表現できない。けれども、ダビデはいちばん長い詩篇の中で書いたのです。

あの詩篇を全部、読みなさい、いっぺんに読みなさいと絶対に言えない。

詩篇
119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

119:97 どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。

119:140 あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。

ダビデはこの態度を取ったから、結局、御心にかなう人と呼ばれたのであります。もちろん、読むことだけではなく、自分のものにすることです。エレミヤのように。有名な箇所です。彼は、次のように告白したのであります。非常に悩んでいた時、周りの人々に誤解されてしまった時、彼は言ったのです。

エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。(・・・・理解したのではない、みことばについて考えたのでもない。自分のものにした。食べた・・・・)あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

我々の信仰生活は、みことばを食べる計りにしたがって、程度にしたがって、成長してまいります。いのちのパンである主イエス様ご自身が、我々の食べ物とならなければいけませんし、また、イエス様はそうなりたく、我々の心の奥底に入ることを、心から願っておられるのです。

いったいどうしたら、イエス様をより良く知ることができ、理解することができるのでしょうか。みことばによってのみです。聖書、すなわち、主のみことばは、単なる教理、学説を述べているものではない。イエス様ご自身の啓示の書物です。ですから、聖書を読むことだけではなく、(読むことも)大切ですけど、読むことだけではなく、研究することだけではなく、主ご自身を知るために、より良く知りたてまつるために、読むべきです。主は、みことばによって、ご自身を明らかにするからです。

イエス様は、パリサイ人に、「あなた方は、聖書の中を調べているが、みことばを食べることを欲せず、いのちを受けようとしない」と、言われました。聖書を読むことと、いのちを得ることは、ひとつのことであり、決して、二つのものではありません。主は、ことばをもってご自身をお現しになります。

主のみことばは、我々にとって、いのちのパンとならなければいけないはずです。なぜなら聖書は、教理や真理の原則を語っているのではなく、いのちのパン、そのものであるからです。みことばは、我々にとっていったい何でしょうか。死んでいるもの、冷たい餅にすぎないものなのでしょうか。重荷となっているのでしょうか。あるいは、いのちとなっているのでしょうか。

もし、生けるみことばが我々の内に入るなら、その必然的な結果として、いのちがやって来ます。理解力をもってしては、決して、いのちは訪れてまいりません。もし、聖書が我々にとって単なる掟であり、また、真理であるなら、それは、我々にとって重荷となり、不自由なものです。けれども、いのちなら、自由と喜びをもたらすものです。どうして、聖霊の導きが解るのでしょうか。今、話したように、御霊の導きを求める場合、すべての物事は、主の栄光のためであるということを知らなければならない。

二番目、主の導きはいつも、みことばに則っています。いつもみことばに基づいている。

三番目の答えは、御霊の導きは、良心と理性も関係があることを知っておく必要があります。私たちも、また、私たちの持っている良心は、イエス様によって与えられたものです。もし、ある問題について、良心が、これは良くないと判断したら、御霊の導きを待っている必要があるでしょう。行くべき道が解らず、どちらか迷っているような場合、あるひとつの道に行くのに平安がなかったら、さらに、導きを求める必要もないのではないでしょうか。

良心とともに、我々の持っている理性も、主がくださったものです。多くのキリスト者が迷ってしまい、支離滅裂な信仰生活を送っているのは、自分の考えと、主の御心をごちゃごちゃにしているから。自分の理性を主の前にもって来て、主の導きを仰がないからです。

信仰の父と呼ばれたアブラハムという男は、飢えを恐れて、自らの考えで、豊かなエジプトへ逃れて行きました。そこで、罪を犯してしまいましたが、自分の理性で勝手に行動する時の危険を、聖書はアブラハムを通して、教えているのではないでしょうか。ある人々は、理性は何の役にも立たない、理性は肉につけるものだと言いますが、これは間違いです。

もし、理性が信者の内で僕(しもべ)の位置をとるなら、非常に用いられる存在となります。けれども、理性が信者の中で、支配者の立場をとるなら、間違った道へ我々を導いてしまうでしょう。我々は、理性と聖書を学び、真理を秩序立て、みことばを暗記します。しかし、この時も、理性は我々の内に住みたもう御霊によって支配されなければなりません。導きは、御霊だけがなさることです。理性は、御霊の導きを実現する道具のようなものです。もし、何か大きな問題にぶつかったならば、その問題を理性をもって、あらゆる面から考える必要があります。前に述べた二つのこと、すなわち、どうしたら主の御栄が現れるだろうか。また、この問題に当てはまるみことばがあるだろうかと、理性をもって考えてみる必要があります。

時には、理性を抜きにして、御霊が直接、「今、祈りなさい。今、あの人に手紙を書きなさい。今、あの兄弟姉妹を尋ねなさい」と、教えてくださることもあります。

ピリポの場合がそうだったんですね。彼は、サマリヤの町々でみことばを宣べ伝え、非常に祝福されていましたが、ある時、御霊は、「荒野に行きなさい」と、ピリポを導かれました。これは、ピリポの理性には、逆らう出来事だったでしょう。「このサマリヤには、たくさんの求める人がいるのに、どうして人もいない荒野に行かなければならないのだろう」と考えたに違いありません。けれども、彼は御霊の声に聞き従い、荒野に出た時、エジプトの宦官に会い、彼を救いに導き、主の御栄を拝することができたのです。聞く耳を持つこと、聞き従うことこそが大切です。

第一サムエル
15:22 ・・・・主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。

同じような内容のことばは、使徒行伝にも書いてあります。

使徒行伝
5:29 ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に(・・・・すなわち、人間に・・・・)従うより、神に従うべきです。」

この中には、人の理性に従うよりは、主に従うべきであるという意味が含まれているに違いない。パウロは、イエス様の啓示に会ったとき、血肉に相談せず、すなわち、人の理性に従わず、天の啓示に従ったと、聖書は言っています。

ガラテヤ
1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされたとき、私はすぐに、人には相談せず、
1:17 先輩の使徒たちに会うためにエルサレムにも上らず、アラビヤに出て行き、またダマスコに戻りました。

こう、パウロは言ったのであります。使徒行伝を見ても、彼の心がまえとはどういうものであったかが分かります。

使徒行伝
26:19 こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむかず、・・・・

主の導きを求める時、兄弟姉妹の忠告も助けになります。そのために、集会に欠かさず集うということが大切なわけでしょう。したがって、集会に出るときの心構えは大切です。もし、主のみことばを聞き、導きを求めたいという深い飢え渇きがなければ、結局、なんの役にも立ちません。

アモス
8:11 見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。

イザヤ
66:2 ――主の御告げ。――わたしが目を留める者は、へりくだって心砕かれ、わたしのことばにおののく者だ。

主のみことばを、恐れおののいて聞く者には、主は豊かなる導きを与えてくださいます。

もう一回、まとめましょうか。どうしたら聖霊の導きがわかるの?第一番目、御霊の導きを求める場合、すべての物事は、主の栄光のためにあるということを考えるべきです。二番目、主の導きは、いつもみことばに則っています。いつも、みことばに基づいています。三番目、御霊の導きは、良心と理性も関係があることを知っておく必要があります。

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