2014年11月17日月曜日

御心を知る道(三)

御心を知る道(三)
2014年11月18日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

エペソ
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

詩篇
143:10 あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。

今日も引き続いて、「御心を知る道の必要性、大切さ、可能性、すばらしさ」について、ちょっと考えたいと思います。

今、読みました詩篇百四十三篇の十節とは、三千年前に祈られたダビデの祈りというだけではなく、我々、一人ひとりの毎日の祈りであるべきではないでしょうか。『あなたのみこころを行なうことを教えてください。』教えてくださらなければ困る。分かる。けども、教えてください。『あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。』教えてください、導いてくださいと、御心にかなうダビデの切なる祈りでした。

どうしたら、主の御心を知ることができるかについて、今まで考えてまいりました。もう少し、学び続けたいと思います。結論は、もちろん、わかります。御心を知るために、御霊の働きが必要です。イエス様は、「御霊は、わたしの栄光を現す」と、言ったのであります。

だから、どうしたら、御霊に導かれる生活を送ることができるかと知るべきです。そのために、今まで話したように、まず第一に、みことばを聞く備えです。人間は確かに、耳を持っています。けれども、聞く耳を持っているかは、全く違う。ダビデは決して、完全ではなかった。けれども、聞く耳を持っていたのです。だから、「教えてください。導いてください」と心から祈ったのです。

みことばを聞く備えが必要であり、もう一つ、みことばに従う備えです。ダビデの主に対する態度は、「主よ、教えてください」という態度でした。このように、主の御前に教えを乞うた人々は、はかり知れない祝福に預かるようになるに違いない。大切なのは、御霊が我々の霊にお語りになり、私たちが、主の御心を知って、それを確信して立つことです。

我々を導くことのできるお方とは、今、話したように、聖霊だけであり、また、御霊と聖書のみことばは、常に逆らうことなく、そのあいだに一致があります。御霊は、みことばを我々のために用いて語りかけてくださいます。我々は、何か問題にぶつかると、御霊は聖書のみことばを取り上げて、そのみことばを生かし、我々の心に投げ込んでくださいます。内住の御霊が、みことばを生かして、語りかけてくださいます。

どのように、御霊の導きを知ることができるのでしょうか。御霊の導きを求める場合、すべての物事は、主の栄光のためであるということを知るべきです。このあいだも話しましたが、コリント第一の手紙を見ると書かれています。

第一コリント
10:31 こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

神の栄光のため。パウロのように言うことができれば、本当に幸いです。

エペソ
6:6 人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方でなく、キリストのしもべとして、心から神のみこころを行ない、
6:7 人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。

これはパウロの切なる願い、また、祈りでした。御霊の導きを求める場合、すべての物事は、主の栄光のためであるということを知るべきです。

二番目、主の導きは、いつも、必ずみことばにのっとっています。聖書は、何と言っているか。聖書の一か所が何と言っているかではない。みことば全体は何と言っているのでしょうかと、考えるべきです。

どうしたら聖霊の導きをわかることができるか、今、話したように、御霊の導きを求める場合、すべての物事は、主の栄光のためであるということを知らなくてはならない。第二番目、主の導きは、いつも、必ず、みことばにのっとっている、いつも、み言葉に基づいているべきです。

もうひとつ、御霊の導きは、良心と理性も関係があることを知っておく必要があるのではないでしょうか。導きは、御霊だけがなさることです。理性は、御霊の導きを実現する道具のようなものです。もし、何か大きな問題にぶつかったなら、その問題を理性をもって、あらゆる面から考える必要があります。前に述べた二つのこと、すなわち、どうしたら主の御栄(みあさかえ)が現れるか、また、この問題に当てはまるみ言葉があるだろうかと、理性をもって、考えてみる必要があります。

四番目、御霊の導きと主のご目的は、決して、離すことのできない関係にあるということを知る必要があります。イスラエルの民の場合を考えると、それがよく解ります。主なる神が、ご自分の民をエジプトの国から導き出された時、目的地、カナンという国を、すでにその時、民に教えられました。そして、御霊は、イスラエルの民を、主の目指す地、カナンへ導きたもうたのです。カナンは、イエス様の富と満たしを我々に教えています。私たちは、御霊に導かれて、この目的地に歩んで行くべく備えられています。

もし、主のご目的が解り、その目的が我々の生涯の目標となるならば、我々の身辺に起こるすべての物事は、その目標、目的を得るために益となって働くことがわかるはずです。ローマ書八章、よく知られている箇所です。

ローマ
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

イエス様の信じる者に対するご計画は、信者、一人ひとりが御子のかたちに変えられて行くことです。これは、実に驚くべきすばらしいご計画ではないでしょうか。主の御旨(みむね)は、コロサイ書に、まとめられて表わされています。

コロサイ
1:19 神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ(た。)

3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

さらに進んで、大切なことは、御霊の導きは、教会、すなわち、イエス様に属する信じる者の群れと深い関係があるということです。教会によって、主の目的が表わされ、達成されて行くからです。

旧約時代のイスラエルの民に対しては、主の導きは幕屋に表わされました。エジプトを出るなりモーセは、四十日かかって、主より幕屋の構造を詳しく教えられ、御霊に満ちた人々の手によって、主の指図通りに幕屋が出来あがりました。この時、主は目に見える幕屋の裏に霊的な意味をもたせ、それを私たちに教えようとなさったのです。この目に見える幕屋に、なぞらえられる霊的な幕屋は、イエス様とご自身のからだである教会です。

イスラエルの民の場合、幕屋と主の導きは深い関係があったのです。御霊を象徴する雲の柱、火の柱が上にあがると民は出発し、雲の柱がくだると、そこに留まり、導きのままに、イスラエルの民は歩みました。幕屋の上に雲の柱、火の柱が降りたったように、イエス様のからだなる教会の上に、御霊がおくだりになりました。私たちが主の御心にかなった教会であるならば、主は、私たちを思いのままに導くことができるのです。

もし、雲の柱によって導かれたあの幕屋がなかったなら、イスラエルの民は約束のカナンの地に入ることができなかったのです。これと同じように、我々も、教会なしに主の満たしに至ることはできません。他の兄弟姉妹と共に生活しないで、霊の満たしに達することはできません。我々に対する主の個人的な導きは、多かれ少なかれ、いつも主の目的と教会の関係があります。

もし、主のご目的である御子の内に満ち満ちた徳を宿らせるという事実に、心の目が開かれ、また、この目的を達成するために、教会が道具として存在しているのだということを知ることができたら、本当に幸いです。たいぶ、、難しくなってきましたが、これをわかりやすく言っているみことばを読んで終わりましょう。おもにコロサイ書、エペソ書の中で、いわゆる教会の秘訣について、いちばん細かく書き記されています。

コロサイ
1:9 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。

2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

3:11 そこには、ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。

エペソ
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

このような箇所を見ると、主の御心とは何であるか、わかります。いかなる御霊の導きも、この神の目的に、深いつながりがあります。今日(こんにち)の主の関心は全部、この目的の実現にかかっているのであり、我々の病や問題がたちどころに解決されることでなく、それらの環境を通して、主の御心が、我々の内に成されて行くことを願っておられます。

主が我々に望んでおられることは、私たちが今、ひとつの欠けるところもなく幸福であるということではなく、主の御心が、我々の内に全く成るということです。この目的のために、御霊が遣わされ、この目的を目指して、我々を導こうと望んでおられます。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

ここまで、御霊の導きについて、四つの点で考えてまいりましたが、もし何か導きを求める必要のある問題にぶつかったら、この四つのことを思い浮かべて、御霊の導きを求めましょう。

けれども、その時に大切なのは――五番目になります――心の静けさを持っているということです。

リーダーズ・ダイジェストという雑誌の中に、挿絵が出てきました。どういう絵かと言いますと、ライオンが檻の中で暴れるように、一人の主を信じる者が、自分の部屋の中を、行ったり来たり、忙しそうにしている絵で、そのそばに説明が書いてありました。誰かが、その信じる者に、「どうして、そんなに忙しくしているのか」と尋ねますと、「私は、どうしても解決しなければならない問題があるので、一生懸命だ。しかし、神様は、暇であんまりのんびりして、急がないらしい」と言ったと、書いてありました。

もし、主の導きがはっきりわからなかったら、主の前に静まり、「我が目を留めて、汝を諭さん」と言わる主のことばを信じて、待ち望むことです。悪魔は、いつも急かせます。主は、いつも要求を持っておられます。主の前にすべてありのまま、問題を広げてお見せし、静かに主の御声を待ち望むことが、考えられないほど大切です。

問題がある時、私たちは問題だけを考えて、いろいろと思い煩うとき、主の御手が働くゆとりはありません。私たちが、問題を全部、主にお委ねし、解決を求める時、主は豊かにお応えになるのです。ともに、御霊は我々の霊に確信を与え、『これがあなたの行くべき道である』と教えてくださるはずです。

主の御前に静まることは、このように大切です。そして、主の御前に静まることは、それが、どんな人ごみの中にあっても、混んでいる電車の中であっても、できることです。静まることは、自分の持っている問題を全部、イエス様に明け渡すために必要です。その時、大切なのは、私たちが、幼子のようになることです。素直に主にゆだね、主の答えを強制しないということです。

私たちは、主のしもべとして、主の御声を聞くことができる特権を持っている者です。いちばん低い立場にある人のしもべでさえ、主人の言いつけを聞く権利を持っていることを考えれば、当然のことです。

待ち望みのときにも、もちろん、与えられた勤めを忠実に全うすることがあります。また、主は、今までの導きに従順に従わなければ、さらに勝るる導きに、我々を導くことができません。主の御心を知る方法は、一概にこれであるということはできません。ある時は、周囲に目に見える環境によって、導きたまいます。急に環境が変わり、行くべき道を見失ってしまい、思いがけないところに道が開かれる場合があります。パウロがそうでした。パウロは、小アジアでの伝道を禁じられ、ヨーロッパに遣わされました。

使徒行伝
16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
16:8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。
16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

ある時には、友の便りにより、また、ある時には本より、御霊が働いて、我々を導いてくださる場合もあるでしょう。また、ある場合には、一つのみことばを御霊が取り上げ、これこそ、主の御栄(みさかえ)を現す道である。この道を行くべきだと、示してくださる場合もあります。いかなる方法にしろ、御霊は、我々についに確信を与えてくださいます。その時、主ご自身の平安が我々の魂を支配し、不安と恐れはすっかり消えてなくなります。パウロはコロサイ地方にいる人々に書いたのであります。

コロサイ
3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

けれども、ここで、ただ一つ言えることは、導きの方法が何であれ、御霊だけが我々を導くことがおできになるということです。もし、主の御心を知ることができたら、我々は、確信をもって、その御心を成すことができます。私たちは、これから勝利を得るために務める必要はない。

もうすでにイエス様にあって、勝利を得ている者ですから、勝利を伝えていきたいものです。アブラハムは、そのようにしたのです。ローマ書の中で、このアブラハム、信仰の父と呼ばれた男について、次のように書いてあります。本当にすばらしいことばです。

ローマ
4:18 彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。
4:19 アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。
4:20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、
4:21 神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。

イエス様も言われました。

マタイ
17:20 あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。

最後に、主の導きに対する従順と、その従順の結果について、一言、つけ加えておきたいと思います。御霊は、ただ一つの目的をもって、我々を導いてくださいます。

その目的は、我々にとって、イエス様がすべてのすべてとなり、私たちが主の御姿に変えられて行くことです。御霊は、限られた視野を持った我々と違って、すべてを見極めて、私たちを導いてくださいます。霊的な成長は、御霊の導きに従順に従うことによってだけできるのです。従順に従って行くとき、さらに豊かに御霊に満たされていきます。

従順に従うことの結果は、私たちに特別な賜物を与え、いわゆる幸福の生涯に我々を導くとは限りません。従順に従う者には、御霊が与えられると約束されていますが、聖い御霊の存在は、古き人にとっては――我々の生まれつきの性質にとっては――決して、ありがたくないことです。

ヨハネは、「彼は必ず栄え、私は衰える」と言いましたが、古い性質が消え、己を滅し、謙遜な谷にくだることは、決して、楽なことではない。御霊に導かれるということは、我々の本質の性質に反する事です。御霊に導かれて行くとき、自分を義とすること、悪にさといこと、許しがたい心を人に突き付けたいこと、これらの醜い性質があらわにされてくることを意味します。

イエス様が父に従順に従った結果は、孤独になり、誤解され、ついには、十字架につけられるということでした。もし、私たちが御霊に導かれるままに、従順に歩むならば、イエス様や使徒たち、また、多くの聖徒たちと、同じように苦しみに会うことでしょう。イエス様は、十字架を前に次のように祈られました。

ヨハネ
17:14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。

17:24 父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。

すごいイエス様の祈りでした。必ず聞かれる祈りです。また、昇天された後、イエス様は天より御声をかけて、次のように言われました。

黙示録
3:21 勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。

もし、御霊が我々を導いて、私たちが、パウロと同じように「私は、キリストの思いを持っている」と、心から言えるようにしてくださったら、本当に幸いです。

第一コリント
2:16 いったい、「だれが主のみこころを知り、主を導くことができたか。」ところが、私たちには、キリストの心があるのです。

このように言えるようになったら、御霊はさらに我々を導いて、御座にいますイエス様のもとに導いてくださるに違いない。

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