2014年11月16日日曜日

満ち満ちておられる主とみじめな私たち

満ち満ちておられる主とみじめな私たち
2014年11月16日、富山福音集会
ゴットホルド・ベック

黙示録

3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

第二コリント

8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

今日の題名は、『満ち満ちておられる主とみじめである我々。』今、読んでもらいました黙示録の3章17節に、主は当時のある教会の人々に書いたのです、『あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。』知っていればまだいいほうです。知らなければ、知ろうとしなければ、どうしようもないのではないでしょうか。


ある姉妹から、はがきをもらいました。そして、今のこの言葉の下に、彼女は書いたのです、『このみ言葉、私にぴったりです。主の忍耐に感謝します。』自分はダメ、けど、イエス様はダメなものを捨てない。これこそが恵みなのではないでしょうか。3000年前の王様であるダビデはこの恵みにも、与るようになりました。有名な詩篇の23編です。


詩篇

23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
23:5 私の杯は、あふれています。



彼は、問題を知らなかったわけではない。たいへん、悩んだ男です。けど、彼は何でも主のせいにしたのです。主が許したから・・・・どうしてか、なぜか、今は分からないけど、別に。今は分からなくてもいいでしょう。主は、最善のものしか与えられないお方です。我々も毎日、覚えるべきすばらしい事実なのではないでしょうか。パウロは書きました。


ピリピ

4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。

どこで書いたかと言いますと、ローマの刑務所の中。自分のことを、同情してもらいたい・・・・そういうことは全然、なかったのです。私は守られている。主は離れられないから。自分のことは別に、心配しなくても(いい)。けども、私はあなた方のために心配しているから、こういうふうに書くようになった。イエス様は、大声で言われたことがあります。


ヨハネ

7:37 だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。

満ちて、満ち満ちておられる主は、もちろん、我々をも満たしたいと望んでおられるとは、何と言う幸せでありましょうか。主の切なる願いは、ご自身の満たしでもって、我々のようなものを満たすことです。主の満たしとは、イエス様の内で形を取って現れて来るものであり、そして、イエス様と結びついてる者は、結局、満たされている。コロサイ書の中で、この事実は次の言葉でもって、書き記されています。


コロサイ

2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

私たちは、どんなに困ったことがあっても、その時こそ、イエス様の御許に行き、そのことを包み隠さず、主に打ち明けると、罪、咎を赦され、束縛から解放され、用いられるものとなります。聖書の言われている満たしとは、もちろん、物ではない。イエス様ご自身です。そして、このイエス様は、我々をも満たしたいと切に望んでおられます。詩篇の作者であるダビデは言ったのです。


詩篇

81:10 わたしが、あなたの神、主である。・・・あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。

主は、我々にほんの少しの物だけをあげたいとは思っていない。完全に満たしたいと願っておられます。残念ながら、多くの人は、祈りのために、また、祈りを通して、口を大きく開けようとしない。マタイ伝の中で、イエス様は次のように言われたことがあります。


マタイ

25:34 王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。

われわれ人間を本当の意味で満たしてくれるものは、目に見えるものではなく、世の初めから備えられている御国であると、イエス様は言われました。父なる神は、われわれにイエス様を通して、最も良いものを与えてくださいました。イエス様は、私たちのために苦しんでくださり、十字架の上で犠牲になられました。イエス様によって、われわれに必要な物は、全て与えられています。パウロは、ローマにいる人々に書いたのです。


ローマ

8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

一言で言いますと、主なる神は、我々に本当の満たしを与えようとなさっておられ、完全な満足を与えたいと望んでおられます。そのことを聖書は、何度も何度も繰り返して語っているにもかかわらず、いったいどうして、多くの人々は惨めな状態にとどまるのでしょうか?


主の満たしついて、色々なことが考えられますけど、ここで、ちょっと4つの点について考えましょうか。第一番目、命の満たし、すなわち、命によって満たされることです。二番目、愛の満たし、すなわち、愛によって満たされることです。三番目、喜びの満たし、すなわち、喜びに満たされることです。そして、四番目、平和の満たし、すなわち、平和に満たされることです。


それでは、まず、いのちの満たしから考えてみることにしましょうか。ここでひとつの例えを申しあげると、もし、私が重病人を病院に訪ねるとします。そして、私がその人の名前を呼んだ時に、その人が一度はかすかに目を開けても、また、すぐ瞼(まぶた)を閉じてしまいますと、どうでしょうかね?確かにその人はまだ生きている、また、命はあるけど、命に満たされていません。


旧約聖書の中では、例えば、サムソンと言う男について書いてありますけど、彼はライオンを殺したのです。ちっぽけな人間とライオン、ちょっと考えられない。ダビデはライオンだけではなくて、熊も殺してしまいました。確かに、このサムソンとダビデは命に満たされたものでした。多くの人々は、新しく生まれ変わっていますけど、証しをする備えも意思もない。パウロは、今日は暇がないんですけど、使途行伝の9章と22章と26章の中で、三度、おおやけに証しをしました。主はご自分の証し人を求めておられ、私たちがその証し人となること、そして、どの様にしてイエス様の命をいただいたかを、他の人々に述べ伝えて貰いたいと願っておられます。イエス様は言われました。


ヨハネ

10:10 わたしが来たのは羊が命を得、またそれを豊かに持つためである。

これこそイエス様が、この地上に来てくださったことの目的であり、その意味において、私たちは自分だけが満たしを受けるだけではなく、その命の満たしを一人でも多くの人々に伝える使命を持っているのです。この使命に邁進するために祈り、また、そのような器として用いられるように日々、祈ろうではないでしょうか。イザヤはすばらしい約束を書いたのです。


イザヤ

60:22 最も小さい者も氏族となり、最も弱い者も強国となる。時が来れば、わたし、主が、すみやかにそれをする。

主は奇跡をなすお方です。主にとって不可能なことはありえません。いのちに満たされているイエス様だけが、我々をいのちに満たしてくださるお方です。それだけはでなく、他の人々にもいのちの満たしを持つようになることがおできになるのですが、けど、主は、それをすみやかにしてくださると約束しておられます。


第二番目、愛の満たし、すなわち、愛に満たされることの可能性、必要性について、ちょっと、考えたいと思います。愛に満たされた人は、初めての殉教者であるステパノなのではないでしょうか。このステパノは、結局、主を証ししたから、迫害されたのであり、結局、殺されてしまったんです。その時、『ひどい』とは思わなかったよ。彼は、その時、何を言ったかと言いますと、もちろん、人間に何を言っても、どうせ役に立たないから、主に祈ったんです。何を祈ったかと言いますと、『主よ、この罪を彼らに負わせないでください。』ちょっと考えられないことです。これこそ、愛の満たしです。


私たちもまた、我々の関係者、隣り人、兄弟姉妹、そして、敵でさえも、愛すべきであると聖書は言っています。『よし、そうしましょう』と思っても無理。できません。多くの人々は、聖書の戒めは守るために書かれていると思っているのです。うそ。破るため。自分の敵を愛する人間はいないよ。許すことができれば、もう精一杯だよ。愛せない。どうして、聖書はこんな変なことを要求しているのか。結局、破るため。自分の惨めさを分からせるため。自分はできないけど、主はできるでしょう。ローマ書5章5節はその秘訣でしょうね。『我々に与えられた聖霊によって、神の愛が・・・』、神御自信の愛が、『我々の心に注がれている。』神の愛が与えられているからできる、ということです。


三番目、喜びの満たし、すなわち、喜びによって満たされることです。ダビデはこれを経験しました。詩篇を見ると、ダビデの証しを読むことができます。


詩篇

16:11 あなたの御前には喜びが満ちています。

これはダビデの証しですが、けど、主なる神の御前で、光りの中を歩む者は、誰でもこの喜びに満たされます。この喜びを、主は我々、一人ひとりにも与えたいと望んでおられます。主の喜びは波の様に変わるものではない。絶えざるものです。変わらないものです。ハバククと言う預言者は、この喜びを知るようになりました。非常に多くの人々の大好きな言葉のひとつですけど、読みます。


ハバクク

3:17 そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。

『もう、がっかり、みんな、何のためにそんなに苦労したのか、無駄だったのではないか』と、彼は思わなかった。


ハバクク

3:18 しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。

意志の問題、喜ぼう。気持ち的には、彼は喜べなかったよ。もう、がっかり。全部、無駄だった。どうしよう?けど、『私は主にあって喜ぼう。』この喜びの満たしは、この世の財産や、様々な事情にかかっているのではない。この喜びは理解することも、説明することもできません。初代教会のイエスさまを信じる人々とは、確かに誤解されました。迫害されました。いじめられました。けど、それにも拘わらず、聖書はなんと言っているかといいますと、ペテロ第一の手紙、1章の8節、『ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどりました。』


四番目、平和の満たし、すなわち、平和によって満たされることです。イエス様はご自分の全き平安を、ひとりひとりにも与えたいと望んでおられます。


イザヤ

26:3 志の堅固な者を、あなたは全き平安のうちに守られます。その人があなたに信頼しているからです。

イエス様は平和の君ですから、イエス様なしには、誰も全き平安を持つことはできません。イエス様がこの世に来られたのは、ご自分の平安を、どうしようもない人間に与えるためでした。イエス様に信頼するならば、必ずイエス様は我々にご自身の平安を与えてくださるのです。イエス様は捕まえられました。けども、心配したのではないし、がっかりしたのでもない。


マタイ

26:30 賛美の歌を歌ってから、みなオリーブ山へ出かけて行った。

イエス様はゲツセマネの園に行く前に賛美の歌を歌いました。イエス様はまもなく捕らえられ、5~6時間後には、必ず十字架に釘付けられ、われわれの全ての罪の苦しみを受けてくださり、天の父なる神に見捨てられると言うことを知っておられました。それにしても、イエス様は賛美の歌を歌ったとあります。イエス様は十字架の上で考えられないほどの苦しみと悩みを経験なさり、『わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と、叫ばれました。この様な苦しみを前もって知っていながら、どうしてイエス様は賛美の歌を歌うことができたのでしょうか。それは主が、全き平安を持っておられたからです。主はわれわれにも同じ平安を与えたいと望んでおられます。


そのためには何が必要であるかと言いますと、一言で言えば、イエス様に満たされること、すなわち、主の命、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされることです。けど、満たされるためには何をしたらいいの?主の満たしを受ける秘訣とは、一体、何なのでしょうか。


先ず、第一に私たちは自分が空っぽの者であると言うことを知る必要があります。もしも私たちが本当に正直であるならば、自分の内には何も良き物がないと言うことを認めざるを得ないのではないでしょうか。けども、ヨハネ第一の手紙の中に、非常な喜びの訪れが書き記されています。


第1ヨハネ

1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

主は既に、ご自身の血によって尊い代価を払ってくださいました。だから、我々の罪を赦したくて、赦したく仕方がないと、切に願っておられます。ある人は、自分の罪はあまりにも多すぎる、果たして主はこんな罪をも赦してくれるのだろうかと疑っています。しかし主は必ず、その様な罪をも、赦してくださるのであり、その時を待っておられます。満たされる根拠は、全ての罪は赦されており、忘れられていると言う確信なのではないでしょうか。我々は過ぎ去ったことをなかなか忘れられない。また、思い出すのです。主は違う。ですから、聖書の中で最もすばらしい言葉のひとつは、『わたしはあなたの罪を思い出さない。』考えられない。人間にはできませんけど、主はできるから、約束しておられます。


しかし、大切なことはただ単に空の器として、ありのままの状態で、主の御前に行くだけではなく、すなわち、ただ単に自分の罪を認めて、言い現すことだけではなく、第二番目に幼子の様な信仰を持つこと、主の約束を掴むことも要求されています。悔い改めた後で、あなたは、主が自分の罪を本当に赦して、洗い清めてくださったと言う確信を持たなければならない。どうして?聖書がいっているからです。この確信の土台となるものは、もちろん、人間の感情でもない、人間の理解力でもない。御言葉です。神の約束の御言葉こそ、まことの土台です。中途半端な信仰は何にもならず、主が求めておられることは徹頭徹尾、主に信頼する信仰です。イエス様は次のように言われました。


マルコ

9:23 できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。

信仰とは、主の贈り物をいただく空の手の様なものです。けども、まことの信仰とは、提供された主の贈り物を意識的に受け取って、それを自分の物にすることです。主の目から見て、最も恐ろしい罪とは、なんでしょうかね。不信仰です。不信仰の罪の故に、救われていない人は滅びるようになります。そして、この不信仰の故に、既に救われている人々は、成長しなくなってしまい、用いられなくなってしまいます。信仰のあるところでは、悪魔は逃げざるを得なくなります。信仰のあるところには、主がご栄光を現すことがおできになり、奇跡を行うことができます。信仰のあるところには、主は礼拝され、誉れを受けるようになります。


我々は信仰生活において、いつも別れ道に立たされているのではないでしょうか。すなわち、目に見える現実の世界を見て、それに動かされ、支配されているか、あるいは、御言葉を自分のものとして、主に拠り頼むかのどちらかです。これこそ、主の望んでおられる信仰であり、この信仰によって私たちは主を喜ばせることができます。


多くの人は、自分のことだけを考えるから、不幸になっています。それでは、どうすれば幸せになるのでしょうか。それは、イエス様と結びつくことによってのみ実現されます。


そのための段階は、先ず、今、話したように、第一段階として、ありのままの状態でイエス様の御許に行き、全てを包み隠さず、イエス様に打ち明けて、罪を言い現すことです。隠すものは成功しない。第二段階は幼子の様に素直な信仰と信頼を持って、イエス様を見上げ、エス様の約束を掴み、赦しのために、主に感謝することです。


そこで、第三段階は何かと言うと、それは、主の霊に満たされることによって幸せになることです。信じる者は誰でも聖霊の宮であり、聖霊を宿しています。けど、多くの信者の場合、聖霊は、イエス様の栄光を現すことができません。これは、本当に悲しい事実と言わざるを得ません。もちろん、聖霊に満たされるとは、奇跡を体験したり、異言を語ったりすることではない。従順に主に従うことであり、自分の支配権をイエス様に明け渡すことです。そうすると、結果として二つのことが言えます。そのひとつは、イエス様が信ずる者が喜んでイエス様を証しすること、すなわち、主の証人となり、そして、他の人々をイエス様に導くことです。使徒行伝に次のように書かれています。約束されています。


使徒

1:8 聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。

多くの人々は、自分は聖霊に満たされていると思い込んで、傲慢な生活を送っているのです。けど、聖霊に満たされることの特徴はなんでしょうか?すなわち、滅びゆく人々のために最善を尽くすこと、イエス様を証しする、イエス様を紹介することです。それは、自分を否定すること、また、犠牲を払うことなしには決してできません。もうひとつ、御霊の実が結ばれることです。聖霊に満たされたことの、もうひとつの特徴はそれなんですね。皆さん、暗記している箇所です。ガラテヤ書にパウロは御霊の実とは何か、いろいろなことを書いているのですね。


ガラテヤ

5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。

この様な御霊の実が実らないと言うことは、その人は御霊に満たされていないことの現れです。言うまでもなく、この御霊の実は、人間の自分の努力の結果ではない。聖霊の支配の結果です。ありのままの状態でイエス様の御許に行き、全てを包み隠さず、打ち明け、幼子の様な信仰を持って、主を見上げ、自分の支配権をイエス様に明け渡すことによって、私たちは主の満たしをいただくくことができのです。


もう一箇所、読みましょうか。エペソと言う町に住んでいる人々とは本当に、模範的な主に従うものでした。彼らにパウロは書いたのです。


エペソ

3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

これは、救われた人々へのパウロの切なる、心からの願い、また、祈りでした。


私たちが主の命、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされるための、第四の段階は、主を信ずる者どうしの交わりの必要性を知ること、そして、実際に交わりを持つことです。だから、18節に、『全ての聖徒と共に』と言う表現が使われています。そして、私たちは特別な人々だけではなく、イエス様を信ずる全ての兄弟姉妹を愛することを学ばなければなりません。


これもまた、自己否定を通してのみ実現することができます。自分自身を守ろうとする努力はやめましょう。主に満たされるために、喜んで犠牲を払い、そのためには自分が犠牲になってもよいと言う人は本当に幸いです。その人は決して損を受けることがなく、必ず主の命、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされます。これもまた、決して私たちだけが、独り占めする物ではなく、悩み、苦しみ、悲しんでいる人々に対して、我々を通して、彼らもまた、主の命、主の愛、主の喜び、主の平安に満たされるためです。私たちがこのように用いられるように、切に祈ろうではないでしょうか。最後にもう一箇所、コリント第二の手紙を読んで終わります。はじめにもお読みになりました箇所です。


第2コリント

8:9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。

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