2014年11月25日火曜日

天に届く祈り(一)

天に届く祈り(一)
2014年11月25日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ダニエル
9:1 メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、
9:2 すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。
9:3 そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。
9:4 私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。
9:5 私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。
9:6 私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。
9:7 主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。
9:8 主よ。不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです。
9:9 あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。

9:20 私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、
9:21 すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、
9:22 私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。
9:23 あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。

今日は、信じる者にとってもっとも高い召しについて、すなわち、主と共に働くことの可能性、また、すばらしさについて、一緒に考えてみたいと思います。

主と共に働くこととは、考えられない特権であり、主のあわれみそのものです。このダニエル書の中で、同じことばが何回も出てきます。すなわち、「神に愛されている人。」この9章23節、「あなたは、神に愛されている人だからだ。」また、10章の11節に同じことばが出てきます。

ダニエル
10:11 それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。」

10:19 「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。」

主に祝福され、用いられた人々とは皆、同じ願いを、また、祈りを持っていたのではないでしょうか。「主よ。お話しください。教えてください。守ってください。祝福してください。」主は、このような祈りを必ず聞いてくださいます。このことばは、主の御口から出た実に驚くべき、恵みに満ちたことばです。

まことの神は、もちろん、決して決して、嘘を言いません。小さなことを、いかにも大きいものであるかのように誇張して話すことをいたしません。主が語られるなら、真実をもって、ご自分の御心にあることを、そのままお語りしてくださいます。主は、ダニエルに、「わが愛する人よ」と、み声をおかけになりましたが、そうお語りになるには、何か理由があるはずなのではないでしょうか。全能なる主がそう言われるには、その後ろに何か理由があるはずです。

「わたしは、あなたを愛している。」これは、ダニエルに対する主ご自身の判断でした。もし、我々にも同じみことばがかけられるならば、どんなに幸いでしょうか。もちろん、ダニエルが、主に愛されただけではなく、聖書を読んでいると、私たち、一人ひとりが愛されている者であることを信じることができ、確信することができます。

聖書の中のいちばん知られていることばは、皆さん暗記しているでしょう。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を(・・・・世の代わりに自分の名前を入れてもいい・・・・)愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

聖書全体の言わんとしていることは、全部、この一節にまとめられています。パウロは、同じ事実について、ローマにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。

ローマ
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

愛されている証拠とは、結局、罪人であるどうしようもない者である我々のために犠牲になった、十字架につけられた主イエス様です。ヨハネも、イエス様の一人の弟子だったのです。他の弟子たちは、皆、次々と殺され、殉教の死を遂げてしまったのです。ヨハネだけ、守られたのです。どうして?黙示録を書くためでしょう。パトモス島、小さな島に追放されてしまって、急に暇人になった。聞く耳を持つようになった。「主よ、語ってください。」結果は、黙示録です。このヨハネは、また、次のように書いたのです。

第一ヨハネ
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

しかし、主は、ダニエルに向かって、なぜ、「大いに愛されている人、ダニエルよ」と、言われたのでしょうか。答えは、彼は、主と共に働く者、とりわけ、祈りにおいて、主と共に働く者でした。天にまで届く祈りを捧げたのです。けども、天にまで届く祈りとは、いったいどのような祈りなのでしょうか。

第一番目、主のみことばに基づいた祈りです。第二番目、生活の内に生きた証しを持つ人の祈りです。

ダニエル
9:2 すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。

これを見ると、ダニエルは、聖書を読んでいたことがよく解ります。この聖書――主のみことば――は、ダニエルの第一の場所を占めていました。ダニエルは、自分の考えを交えず、祈りながら主のみことばを読みました。ただ聖書の知識を蓄えるだけでなく、主の御心を正確に知り、それを行なおうとして、みことばを熱心に学びました。ダニエルが祈った時、その祈りは天に届きました。

それは、ダニエルが、主の御心をよくわきまえて、知っていたからです。新約聖書の時代、あのパウロは全世界に伝道旅行をし、全世界の信者たちと連絡をとり、各地でご奉仕しました。しかし、主はそのパウロを突然、牢屋に入れることを良しとされたのです。どうして?

それは、パウロに、今の時代における主のみ心が何であるかを教えるために、それを考える時をお与えになったに違いない。パウロが牢獄で記した手紙、エペソ書、コロサイ書、ピリピ書を見ると、その書簡の中に、主の永遠の秘密がパウロに表わされたことがわかります。すなわち、信じる者はキリストのからだであり、全く天的な者であり、頭にイエス様をいただいている者です。多くの人々は、信じる者の群れが全く天的なものであり、霊的なものであり、世界的なものであることを知らないから、非常に残念です。パウロは、エペソ書の終わりに次のように書いています。

エペソ
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

絶えず祈り、どんな時でも御霊によって祈り、すべての聖徒のために祈りなさいと、命令されています。

天にまで届く祈りとは、今、話したのは、みことばに基づいた祈りであり、もうひとつの答えは、生活の内に、生きた証しを持っている人でなければなりません。ダニエルの祈りは、聞き届けられました。いったいどうしてでしょうか。ダニエルは、あらゆる点において、主に反するものから全く離れた生活をしたからです。ダニエルは、自分自身を喜ばせることを欲しくなかった。自分自身を喜ばせることから離れていたのです。

もし、私たちが主の目的を思わず、自らの願いだけで祈るなら、祈りは天に届けられないでしょう。自らの目的は、真の祈りを妨げます。ダニエルは、自らを喜ばせようとする何ものも、持っていなかったのです。彼の切なる願いは、主だけが中心になってもらいたい。主よ、しもべは聞いておりますから、語ってください。

パウロは、ピリピにいる信じる者に書いたのです。

ピリピ
2:21 だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

これこそが、パウロの痛みでした。彼は、ピリピ書に書きました。

ピリピ
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。

ダニエルは、この世のあり方から全く離れていました。異邦の民が願い、目指している主に反する目的、やり方には少しも妥協しませんでした。今日の信じる者は、いったいどうでしょうか。多くの人は、この世と同じ生き方をしたいとしているのではないでしょうか。ダニエル書の中で、次のように書かれています。すばらしい証しです。

ダニエル
3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

多くの信じる者は、この世にあって認められ、賞賛されようと務め、上にある朽ちないものを求めようとしないのではないでしょうか。これは、悲劇そのものです。ダニエルは、どうだったでしょうか。人間を恐れなかった。ダニエルは、当時、もっとも権力を持った王様をさえ、決して、恐れなかったのです。

ダニエル
1:8 ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。

王のごちそうは、すごいものだったと思うけど、けっこうです。断食した方がいい・・・・と思ったことでしょう。

ダニエル
6:10 ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように(・・・・いつものように!・・・・)、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。
6:11 すると、この者たちは申し合わせてやって来て、ダニエルが神に祈願し、哀願しているのを見た。

6:16 そこで、王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。「あなたがいつも(・・・・たまにではない!・・・・)仕えている神が、あなたをお救いになるように。」

6:23 そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。

もし、私たちが人を恐れ、人にへつらうなら、ダニエルのような力を持つことができない。ダニエルのように力ある祈りは、決してできないでしょう。

もうひとつ、ダニエルは、この世のいかなる関係にも、心を奪われませんでした。この世と関係を持たないことは、ダニエルとその友だちにとって、決して、生やさしいことではなかったのです。ダニエルは、獅子の穴に投げ込まれ、友だちは燃える火の炉に投げ込まれました。彼らの前には、その時、二つの道が置かれていたでしょう。ひとつは、世と妥協して、居心地の良い生活をすること、もうひとつは、獅子の穴と火の炉でした。彼らは、主の道を選び取りました。妥協せず、自らを主に捧げきって、命までも惜しみませんでした。主は、彼らの祈りを聞き、御栄(みさかえ)を現したのであります。

ダニエルは、このように主に反するものから、全く分離していましたが、それと共に、ひとつの目的に心を定めていました。ダニエル書、10章の12節を見ると、次のように書かれています。彼が決めたことについてですね。

ダニエル
10:12 彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」

心を込め、ダニエルの心は、主のご目的に集中されきっていました。我々の心は、イエス様に許嫁(いいなずけ)された聖い乙女である集会のために、祝福され、祈りにその心が注ぎ出されているのでしょうか。パウロは、主の御心を知って祈りました。第二コリントを見ると、彼は次のように告白しています。

第二コリント
11:2 というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。

浮草のように定まらない心ではなく、主のご目的に思いを定めた心を、主は祝福してくださいます。これこそが、ダニエルの経験でした。私たち信じる者がめいめい、イエス様を頭とする生ける神の教会であるとの自覚を持って集まり、心を定めて祈るなら、天の窓が開き、祈りは豊かに聞き届けられようになります。パウロの気持ちの表れそのものとして、コリント第一の手紙の中に、次のように書かれています。

第一コリント
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

すばらしい証しです。ピリピ書でも、パウロは書いたのです。刑務所の中で書かれた文章です。

ピリピ
3:14 (私は・・・・)キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

へブル書の著者は、誰だったのか、誰も分からないけど、おそらくパウロだったのではないかと思われています。

へブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

ダニエルは、大いに用いられた者でした。どうして?今、話したように、彼は、主に反するものから全く分離していたからです。それから、彼は、ひとつのはっきりとした目的に心を定めたからです。もうひとつ、彼は、忍耐を持っていたからです。

ダニエル
10:12 彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。
10:13 ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていた・・・・」

ダニエルは、心を込めて二十一日間、主のみ前に祈り込んだのです。ひとつの問題のために、二十一日間、祈るということは、決して、簡単ではありません。我々の場合はどうでしょうか。このような祈りを捧げたことがあるのでしょうか。

主のみ前に、ひとつの問題を携えて、ほんのしばらくのあいだ祈り、すぐに立ち上がってしまいます。だから、何も祈りの答えがありません。ダニエルは、忍耐深く、ひとつの目的のために、主のみ前に留まり、祈り続けました。忍耐深い祈りをもってして初めて、ダニエルのように、すばらしい経験をすることができます。

信仰の父と呼ばれたアブラハムについて、聖書は何と言っているでしょうか。一文章だけですけど、大切な文章です。

創世記
18:22 アブラハムはまだ、主の前に立っていた。

主から離れようとしなかった。「主よ、語ってください。しもべは聞いております。」そういう切なる願いを持っていました。

創世記
19:29 こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。

ダニエルが用いられたもうひとつの理由は、彼の節制なのではないでしょうか。ダニエル書10章12節によると、ダニエルは主の前でへりくだろうと決めたと書いてありますが、これは、ダニエルが己に打ち勝った、その戦いを表わしているのではないでしょうか。ダニエルは、自分の考え、自分の意思、自分の感情に負けずに、それを克服しました。

【参考】ダニエル
10:12 彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」

ダニエル書、10章3節にも、ダニエルがいかに節制したかが書かれています。彼は少しも、自分に益になることをも考えず、すべてを主に捧げていたのです。

【参考】ダニエル
10:3 満三週間、私は、ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった。

聖霊が我々を支配してくださり、私たちがただ一つ、主のご目的を成さんとする熱意に燃えるようにしてくだされば幸いと思います。

パウロは、またコリントにいる兄弟姉妹に書いたのです。

第一コリント
9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

ダニエルの用いられた、また別の原因とは、彼の確信でした。前に読みましたダニエル書10章12節、「あなたのことばは聞かれている」という表現が出てきます。すでに聞かれたと、ダニエルは確信しました。ダニエルは、主のみ心を知っていましたし、祈りのとおりに主は成してくださることを信じて、待ち望んでいました。

祈りが、主に聞き届けられるには、このように主の心を知り、結果を期待し、確信することが必要です。主のみ心を知っていなければ、何をどのようにして祈ったらよいのか、全くわかりません。もし、私たちが主のことばにより、その御心を知るならば、それは、我々の力となることは間違いない。

主と共に働くことこそ、我々に与えられているもっとも大切な使命です。私たちは、ダニエルと同じように、主は何を成さんとしているのか知っているのでしょうか。もし、それを知ると、ダニエルを襲ったように、悪の霊の働きの攻撃も身近に感じるようになります。主の御心を知った者は、悪魔の攻撃の的となります。

パウロも同じことを経験しました。悪魔は、パウロを集中的に攻めました。

コロサイ
4:2 目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。
4:3 同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。

もう一箇所、読んで終わります。同じパウロの言葉であります。

第一テサロニケ
2:18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。

主が、ダニエルやパウロにしてくださったように、我々の心の目を開き、何をおいてもまず、主と共に働く者となりたいという願いをもたらしてくださるなら、本当に幸いと思います。主が我々に向かって、「大いに愛される人よ」と、呼びかけられるようになれば、本当に感謝と思います。

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