2014年11月30日日曜日

主の声を聞く大切さ(原稿)

主の声を聞く大切さ(原稿)
2014年11月30日、北米よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

詩篇

81:10 わたしが、あなたの神、主である。わたしはあなたをエジプトの地から連れ上った。あなたの口を大きくあけよ。わたしが、それを満たそう。
81:11 しかしわが民は、わたしの声を聞かず、イスラエルは、わたしに従わなかった。
81:12 それでわたしは、彼らをかたくなな心のままに任せ、自分たちのおもんぱかりのままに歩かせた。
81:13 ああ、ただ、わが民がわたしに聞き従い、イスラエルが、わたしの道を歩いたのだったら。
81:14 わたしはただちに、彼らの敵を征服し、彼らの仇に、わたしの手を向けたのに。

このあいだの結婚式の時、愛する黒田ヒロシ兄弟とマイコ姉妹は1サムエル3:10を選んだのです



1サムエル

3:10 そのうちに主が来られ、そばに立って、これまでと同じように、「サムエル。サムエル。」と呼ばれた。サムエルは、「お話しください。しもべは聞いております。」と申し上げた。

人間はみな耳を持っています。しかし、もし聞く耳を持っていなければ、それこそ、悲劇的です。ですから、今日は、『主の声を聞く大切さ』について、すこし考えてみたいと思います。


過去を振り返ってみると、楽しかったことや、悲しかったことなどいろいろな、思い出が浮かんできます。その中でも一番素晴らしかったことは、疑いもなく主の御声を聞いたときです。主の声を聞いたことは、私たちにとって忘れることのできない事実です。そして、私たちの心の奥底のある強い欲求は主イエスのみ声を聞いて、主イエスとの交わりを持ちたいのではないでしょうか?どうしても必要なことは主イエスのみ声を聞くことであり、その他のことは、大したことではないのです。そして、主のみ声を聞くときに私たちは満たされるのです。そこで、いくつかのことについて、簡単に考えてみたいと思います。主の声とは、いったいどういう声なのでしょうか?

<1> 主の声は、『大水の音のように力強い声』です。


黙示

1:15 その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。

1:17 それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、

1:18 生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。」

ヨハネはこの大水の音のような声を聞いたとき、主の足元に倒れて死人のようになりました。主の声は、人間の声よりもはるかに力強いものです。


私たちは人間の声を聞いて、なんと、しばしばがっかりしたり、打ちのめされたような気持になったことでしょうか!なんと、多くの人が賞賛の言葉や、批判の言葉によって、動かされることでしょうか!ある先生は、生徒にあなたの人生はだめになるといって、自殺未遂になってしまったのです。確かに、人間の声は大きな影響力を持っています。しかし、実際は外側の声ではなく、心の中からの声も、力を持っているのです。


創世記

8:21 人の心の思い計ることは、初めから悪であるからだ。

エレミヤ

17:9 人の心は何よりも陰険で、それは直らない。

テトス

1:16 (人間は)実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。

すなわち、良いわざに関しては、失格者であると記されています。そして、人間の思いは主の思いとは違った方向に向いているのです。したがって、自分自身の心の声を大切にするものは、悪魔の罠の中に堕ちてしまうのです。


主イエスはかつて弟子たちにご自分がやがて十字架に付けられることを公にされたとき、ペテロはそれを止めようとしました。


マタイ

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。

16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

ペテロは自分の心の声に負けてしまったのです。ですから主イエスは、ペテロに向かって、『サタンよ、下がれ。お前は神のことを思わずに、人のことを思っている。』と言われたのです。


自分の心の声や、他人の声のみならず、悪魔の声も私たちの働きを妨げようとするのです。悪魔の目的は私たちがいつも自分のことばかり考え、自己決定や自己支配に陥ることに他なりません。悪魔が、この目的を達成すると、もはや主イエスの御声をきくことができなくなります。


したがって、自分の心の声を否定し、他人の声にも、動かされれることなく、また、悪魔の声に対しても、耳をふさぐ者だけが、主の御声の偉大さ、すばらしさを体験することができます。主イエスの声の代わりに人間の声を大切にすることの結果は決してよいものではありません。主イエスの霊によってではなく、自分の心の声によって動かされる者はまことに哀れなものです。御言葉の上に立たず、悪魔のささやきに耳を貸し、それにしたがう者は、道を誤り、だまされてしまいます。主イエスの声を、他の声よりも、大切にする者は、幸いです。その時にのみ、私たちは奇跡を体験することができるのです。



主イエスの声はいったいどういうものなのでしょうか?その第一は、主の声が、『大水の音のように力強い』声です。

<2> 主イエスの声は、人を納得させる力を持っています。


使徒行伝

9:1 さてサウロは、なおも主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、
9:2 ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてくれるよう頼んだ。それは、この道の者であれば男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムに引いて来るためであった。
9:3 ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
9:4 彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
9:5 彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」

このサウロ、後のパウロは、主なる神に仕えたい、という切なる願いを持っていました。そのため、パリサイ人と同じように厳しい神の律法を大切にしたのです。彼は、主イエスが最もひどい偽り物であると思いこんでいました。そのため、主イエスの弟子、ステパノが石で打ち殺されたとき、彼はそのそばにいて、それを喜んだのです。


彼は熱心に主イエスを信じる者たちを迫害する者でした。しかし、主の声によって、一瞬にして納得させられたのです。そのときから彼は、『主よ、私は何をすればよいのでしょうか』と言う問いを持ちながら、絶えず、主の声を求め続けたのです。彼は皇帝ネロに捕えられたときでさえも、決して失望落胆せず、むしろ反対に主イエスのしもべ、主イエスの奴隷とされていることを喜び、そのために絶えず感謝していたのです。主イエスの声を聞くことによって、パウロの人生は百八十度の転回をし、そのことが、絶えず喜び、感謝することの秘訣だったわけです。


パウロと同じように、『主よ、私は何をしたらばよいのですか、どうぞ御心を明らかにし、しもべに語ってください』と祈ることのできる信者は幸いです。



主イエスの声とは、いったい、どういうものなのでしょうか?その第一は、主の声は大水の音のように力強い声です。第二に、主イエスの声は、人を納得させる力を持っています。

<3> 主イエスのみ声はいのちを与えるものでもあります。


ヨハネ

11:43 イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」

ベタニヤという小さな町にマルタ、マリヤ、ラザロの三人兄姉が住んでいました。そして、主イエスはしばしば彼らのところに立ち寄られ、すばらしい交わりを持っていたのです。彼らにとって主イエスのみ声を聞くことは最大の喜びでありました。しかしながら、今や彼らは最大の悲しみに見舞われたのです。すなわち、ラザロが死んでしまったのでした。


しかし、主イエスは死人に叫び、『出てきなさい』と呼ばわれたのです。死人は主イエスの声を聞くのです。そして、主イエスのみ声を聞くことによって死人は生き返えるのです。


たとえば、義務的に聖書を読んだり、集会に行ったりするようなことは、まさに、いのちのないもの、死んだものに他ならないのです。主イエスのみ声を聞くことは、どうしても必要なものです。なぜならば、主イエス様のみ声はいのちを与える力を持っておられるのですから。今まで死が支配していたところにも、主イエスのみ声を聞くことによっていのちが生まれるのです。



主イエスの声とはいったいどういうものなのでしょうか?その第一は、主の声は大水の音のように力強い声です。第二に、主イエスの声は、人を納得させる力を持っています。第三に、主イエスのみ声は、いのちを与えるものでもあります。

<4> 主イエスのみ声は招きの声です。


マタイ

11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

苦労している者は解放されるべきであり、重荷を負っている者は休むべきです。こんにち、想像することもできないほど、重荷となっているものは満ち満ちています。多くの信者でさえも、もはや本当の喜びを見出すことは難しくなっています。多くの信者は、聖霊の導きに対して心をかたくなにしてしまうのです。主イエスに従うこと以外に、楽しみを求めようとしている信者もあります。意識して悪魔との関係を断ち切らない限り、私たちは悪魔の手玉にされてしまいます。


現在、主イエスとの関係がどうであれ、あなたの悩みと苦しみはどのようなものであれ、主イエスはあなたを招いておられるのです。あなたは苦痛、心配、動揺のうちにいるのですか?イエス様は、『わたしに来たれ。我、汝を休ません』と言っておられます。『全て、重荷を負って疲れた人、重荷を負っている人は、私のところに来なさい。私があなた方を休ませてあげます。』


あなたは不幸、不満、不自由ですか。また、あなたの心には喜びがないのですか?主イエスは、私のもとに来なさい。あなたがたは、この世では悩みがある!しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている、と言っておられます。


あなたは、試みがあなたの弱い点、あなたが逆らうことのできない点を、いつも掴んでいるので、元気がないのでしょうか?主イエスは、わたしのもとに来なさい、わたしに呼び求めよ。あなたはわたしのうちにおいて、すべてのことにおいて、勝ち得て余りある!と言っておられます。


あなたの心の中には、今まで誰も満たすことができなかった癒しがたい渇きがあるのですか?主イエスは、わたしはいのちのパンです。わたしのもとに来る者は、もはや飢えることがない』と約束しておられます。


あなたの魂はどんな医者に診せても治せないような、カラカラに乾いた土地のような渇きを持っているのですか?主イエスは、誰でも渇く者はわたしのところに来て、飲むがよい、と呼んでおられます。


あなたの一日は失望と誘惑と試練に満ちていて、あなたの目の前には真っ暗なのでしょうか?主イエスは、わたしは、この世の光です。わたしに従って来る者は、闇のうちを歩むことがなく、いのちの光を持つ!と約束しておられます。


あなたの魂が罪で汚れているのに驚き、この魂がきよめられるかどうかとと、あなたは疑っているのですか?主イエスは、わたしのところにすぐ来なさい、私に呼び求めよ!たとい、あなたの罪は緋のようにあっても、雪のように自くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ!と言っておられます。



主イエスの声とは、一体、どういうものなのでしょうか?その第一は、主の声が大水の音のように力強い声です。第二に、主イエスの声は、人を納得させる力を持っています。第三に、主イエスのみ声は、いのちを与えるものでもあります。第四に、主イエスのみ声は招きの声です。

<5> 主イエスのみ声は、私たちに慰めを与えてくれます。


ヨハネ

11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。

11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

11:40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」


11:43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラサロよ。出て来なさい。」

11:44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
11:45 そこで、マリヤのところに来ていて、イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた。

このとき、マルタとマリヤとは兄弟ラザロの死を非常に悲しんでいました。その状態は、まったく望みのない状態でありました。その時は最も絶望的な状態になってしまっていたのです。なぜならば、ラザロの死体は、死んでから四日も経っていたため、既に腐っていたからです。


しかし、このようなまったく絶望的な状態の中に、主イエスの声が入って来ました。わたしは、よみがえりです。人間の目には絶望的に見え、どうすることもできないような状態においても、主イエスのみ声は逃れ道を与えてくださるのです。私たちがいかなる者であるかが大切なのではなく、主イエスがいかなるお方であるかということ、すなわち、主イエスが、よみがえりであられることが、一番、大切なことなのです。


自分自身が駄目な者であることを知り、沈んでしまう人も今日、決して、少なくありません。すなわち、そのような人たちは自分の無力さ、惨めさを知って、絶望的になってしまうのです。そのような失望、落胆した者、絶望した者にとって、ただ一つの逃れ道は主イエスのみ声を聞くことです。わたしはよみがえりであり、あなたのいのちである!という主イエスのみことばは、なんという慰めを与えてくれることでしょうか。



主イエスの声とは、一体、どういうものなのでしょうか?その第一は、主の声が大水の音のように力強い声です。第二に、主イエスの声は、人を納得させる力を持っています。第三に、主イエスのみ声は、いのちを与えるものでもあります。第四に、主イエスのみ声は招きの声です。第五に、主イエスのみ声は、私たちに慰めを与えてくれます。

<6> 主イエスのみ声は、導き、伴い行く声です。


ヨハネ

10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
10:28 わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。
10:29 わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。

主イエスのみ声を聞き、それに従う者は永遠の安全を持っています。主イエスの願いは、私たちを導き、伴い行くことです。主イエスは決して私たちを奴隷のように束縛することを望まず、私たちの本当の幸せを思っておられるのです。


マタイ

9:36 また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。

『飼う者のない羊』とは、なんという姿でしょう!『飼う者のない羊』とは、羊飼いのない羊です。


エレミヤ

50:6 わたしの民は、迷った羊の群れであった。その牧者が彼らを迷わせ、山々へ連れ去った。彼らは山から丘へと行き巡って、休み場も忘れてしまった。

50:17 イスラエルは雄獅子に散らされた羊。


飼う者のない羊は休むところがありません。飼う者のない羊は獅子に追われて散った羊です。


エゼキエル

34:6 わたしの羊はすべての山々やすべての高い丘をさまよい、わたしの羊は地の全面に散らされた。尋ねる者もなく、捜す者もない。

飼う者のない羊は、諸々の山に散らされている羊です。飼う者のない羊は、誰も捜す者のない、訪ねるもののもない助けるもののない羊です。飼う者のない羊は弱り果てて倒れています。こんにちも、このように、飼う者のない羊のようにさまよっている人々がなんと大勢いることでしょうか!


羊飼いなる主イエスのみ声に聞き従うということは、まったく明らかな導きを意味しております。したがって、主イエスのみ声に聞き従う者は、弱り果てて、散らばっている、導き手のない、さまよう羊のようにではなく、はっきりとした安全な導きを持っているのです。彼らをわたしの手から奪い去る物はない!と、主イエスは言っておられます。


私たちは主イエスのみ声に聞き従うとき、はじめて本当の満足が与えられるのです。あなたは主イエスのみ声に聞き従い、主イエスに導いていただこうとしているのでしょうか?それとも自分勝手に自分の道を歩もうとしているのでしょうか?



主イエスの声とは、一体、どういうものなのでしょうか?その第一は、主の声が大水の音のように力強い声です。第二に、主イエスの声は、人を納得させる力を持っています。第三に、主イエスのみ声は、いのちを与えるものでもあります。第四に、主イエスのみ声は招きの声です。第五に、主イエスのみ声は、私たちに慰めを与えてくれます。第六に、主イエスのみ声は、導き、伴い行く声です。

<7> 主イエスのみ声は、願っている声です。


黙示

3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

主イエスは立って、戸を叩いて、呼んでいると言っておられます。このように、主イエスは常に、未信者の心の戸を叩いておられ、その人が、主イエスの声を聞いて、戸を開けること、そして、その中に入ることを願っておられるのです。しかし、主イエスは、ただ単に未信者の心の戸を叩いて、その人が主イエスの声を聞いてもらいたいだけではなく、信ずる者に対しても、その心の戸も叩いておられるのです。


イエス様を『主』として、『主』にすべての支配権をゆだねる用意のできている信者は何と少ないことでしょう。それこそ、少なからざる信者が、主イエスとの生き生きとした交わりを持てないことの原因なのです。主イエスと『食をともにする』ことは、主イエスとの交わりを持つことを意味しています。そして、私たちと交わりを持つことこそ、主イエスの切なる願いですから、主は私たちの心の戸の外に立って扉を叩き、私たちを呼んでおられるのです。


主イエスは私たちとひとつになることを望んでおられるのです。主イエスは友と語り合うように私たちと語ることを望んでおられるのです。


ヨハネ

3:29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。
3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

主イエスの友であるヨハネは、主イエスの声を聞いて喜び、満ち足りたのです。ですから、本当に満ち足りて喜びたいと思う者は、ヨハネと同じように、主イエスのみ声を聞くべきです。主イエスだけが栄えることを切に望み、そのためにはいかなる犠牲をも払う覚悟を持ち、そのためには、自分が衰えることもいとわないという者こそ、完全なる満足を得ることができるのです。


主イエスは私たちともっとも親密な、深い交わりを持ちたいと願っておられます。それは、私たちが主の前を、光の中に歩むとき、すなわち、隠された罪がなくなったときにはじめて与えられるものです。主イエスとの交わりは、私たちが100パーセント、主イエスにより頼み、すべてを主にゆだね、明け渡したときに成就されるのです。主イエスとの交わりは、本当に主イエスと一体になることに他なりません。それこそ、主イエスが切に望んでおられることですが、私たちの求めているものは、いったい何なのででしょうか。


<まとめ>


主イエスの声は、あまりにも力強かったので、ヨハネはそれを聞いたときに、死んだようになって倒れてしまったのです。主イエスの声は、あまりにも説得的であったため、猛り狂った迫害者サウロは、本当に燃えた証し人に生まれ変わったのです。また、主イエスの声はいのちを与える力を持っておられたので、死んだラザロを、すぐに生き返らせることがおできになったのです。


主イエスの声は、招く声であったため、何千万という苦しんでいる人々が主イエスの御許で憩うことができたのです。また、主イエスの声は、慰めを与える声でもあったため、自殺をしかけた人々が、主イエスのみ声によって、生きる望みを与えられたのです。また、主イエスの声は、導く声でもあったので、さまよう人々が主イエスのみ声によって立ち返ることができ、本当の満足を見出すことができたのです。主イエスの声は、願っておられる声でもあったため、あらゆる国民の多くのものは、主イエス様を単に『救い主』としてだけでなく、『主』として受け入れ、本当の満足を与えられたのです。


主イエスはいつも変わることなく、以前と同じお方です。主イエスの声も昔と異なるところがないのです。主イエスの声を聞こうと思えば、そのみ声が、他のものよりも強いものであることがわかります。主イエスの声は、あなたをも納得させようとしておられるのです。いのちを与える主イエスのみ声は、あなたの生活をも満ち足らせようと願っておられるのです。また、招いておられる主イエスの声が、重荷を負って苦しんでいる人々を解放し、完全な安らぎと憩いとを与えてくださるのです。


また、慰めを与える主イエスのみ声はあなたが、過去に犯した諸々の事柄を洗い流してくださり、あなたが完全に全てを主イエスに明け渡すことができるようにしてくださるのです。


万物をお造りになった主は、私たちとの生き生きとした交わりを望んで、願っておられるのです。私たちは主イエスの声に聞き従う覚悟ができているでしょうか。それとも私たちは自分の心の声や他人の声、さらには、悪魔のささやきが渦巻いている状態にとどまろうとしているのでしょうか。

主イエスの声に聞き従うただ一つの道は、『自分が衰えて主イエス様が栄えることを望む』心構えであります。この心構えを私たち一人ひとりが持つときに、はじめて、主イエス様は私たちと一つになってくださるのです。


おわり



【ノート】これは、2014年、北米よろこびの集い、福音集会で語られたメッセージの原稿です。日本語の分からない人に、英訳を用意しておきたいと、ベックさんにお願いしたところ、快く事前に原稿を送ってくださいました。元の原稿はすべて、ローマ字です。


英訳、『We Need to Listen to His Voice』も、掲載しています。

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