2014年11月3日月曜日

御心を知る道(一)

御心を知る道(一)
2014年11月4日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ローマ
8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。
8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行ないを殺すなら、あなたがたは生きるのです。
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。
8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。

8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。
8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

ピリピ
1:9 私は祈っています。あなたがたの愛が真の知識とあらゆる識別力によって、いよいよ豊かになり、
1:10 あなたがたが、真にすぐれたものを見分けることができるようになりますように。またあなたがたが、キリストの日には純真で非難されるところがなく、
1:11 イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされている者となり、神の御栄えと誉れが現わされますように。

コロサイ
1:9 こういうわけで、私たちはそのことを聞いた日から、絶えずあなたがたのために祈り求めています。どうか、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力によって、神のみこころに関する真の知識に満たされますように。
1:10 また、主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。
1:11 また、神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くされて、忍耐と寛容を尽くし、
1:12 また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。

エペソ
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。


今日も残念ですけれども、最後までいられない。毎日、病院で放射線を受けなければいけないからです。ですから、逃げるつもりではない。けれども、十二月十四日がたぶん最後だと思います。

今日の題名は、「御心を知る道」について、一緒に考えてみたいと思います。どうしたら、主の御心を知ることができるのでしょうかという問題についてですね。結論から言いますと、主なる神の御心は、ただ神の霊によってのみ、御霊の働きによってのみ知ることができます。

主の御心を知ろうとする者は、御霊に導かれる生活をしていなければなりません。ですから、その前にどうしたら御霊に導かれる生活を送ることができるかを、知らなければなりません。そのために必要なのは二つでしょうね。ひとつは、みことばを聞く備えと、二番目、みことばに従う備えです。

詩篇の作者であるダビデは、祈りました。心から願ったのです。非常に大切な祈りです。我々も毎日、祈るべきものなのではないかと思います。

詩篇
143:10 あなたのみこころを行なうことを教えてください。あなたこそ私の神であられますから。あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように。


「教えてください、導いてください」と、主の御心にかなうダビデは祈ったのです。このダビデの祈りは、我々の祈りであるべきなのではないでしょうか。ダビデは、主の御心にかなった人であったと、聖書は言っています。

私たちも、主に喜ばれる者になりたいのではないでしょうか。けれども、主の御心にかなう者になるには、どうしても御霊に導かれる生活を知るべきなのではないでしょうか。ですから、私たちも、ダビデのように、「あなたのいつくしみ深い霊が、平らな地に私を導いてくださるように」と、心から、今日、新たに主の御前に祈りをささげたいのではないでしょうか。

ダビデは、先ほどの詩篇で、「あなたこそ私の神であられます」と言っていますが、御霊の尊い導きを受けるには、まず、新しく生まれ変わり、主のものとなり、御霊を内に宿している者でなければなりません。ダビデの主に対する態度は、「主よ、教えてください」という態度でした。

このように祈る者は祝福されます。このように主の御前に教えを乞うた人々は、はかり知れない祝福に与かるようになるに違いない。生まれつきめくらであった男は、イエス様の教えを乞うたのです。すなわち、「主よ、それはどなたですか。その方を信じたいのですが」と言った時、イエス様は、ご自分の御姿をその男に教えてくださったのです。

ヨハネ
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。


拝んだ。礼拝した。

アフリカのエチオピアの宦官も、ピリポに教えを乞うて、「誰かが手引きをしてくれなければ、どうして解りましょう」と救いを求めたとき、宦官は救いに与かることができ、喜びながら旅を続けたと書いてあります。使徒行伝の八章、非常にすばらしい箇所であります。

使徒行伝
8:26 ところが、主の使いがピリポに向かってこう言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」(このガザは今、荒れ果てている。)
8:27 そこで、彼は立って出かけた。すると、そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の財産全部を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、
8:28 いま帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。


ちょっと考えられない話ですね。アフリカから、エルサレムまで行ったのです。礼拝するために。聖書には詳しく書かれてないけれども、彼はがっかりしたと思う。ユダヤ人は、みな、宮に入ることができ、みことばを聞くことができたのです。彼は異邦人だったよ。

頼んでも必ず断られたに違いないけれども、金持ちだったから、イザヤ書を買うことができた。今、聖書を買おうと思えば、吉祥寺だったらただでもらえますけれども、昔は大変だった。印刷した本はなかった。もっとも金がなければ、買うことができなかった。けれども、彼にはできた。そして、帰り道で読みました。

使徒行伝
8:30 そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」と言った。
8:31 すると、その人は、「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」と言った。そして馬車に乗っていっしょにすわるように、ピリポに頼んだ。


個人タクシーのようなものだったね。

8:32 彼が読んでいた聖書の箇所には、こう書いてあった。「ほふり場に連れて行かれる羊のように、また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。
8:33 彼は、卑しめられ、そのさばきも取り上げられた。彼の時代のことを、だれが話すことができようか。彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
8:34 宦官はピリポに向かって言った。「預言者はだれについて、こう言っているのですか。どうか教えてください。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
8:35 ピリポは口を開き、この聖句から始めて、イエスのことを彼に宣べ伝えた。
8:36 道を進んで行くうちに、水のある所に来たので、宦官は言った。「ご覧なさい。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何かさしつかえがあるでしょうか。」


与えられた信仰を証ししてもいいのではないの?

8:38 そして馬車を止めさせ、ピリポも宦官も水の中へ降りて行き、ピリポは宦官にバプテスマを授けた。
8:39 水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られたので、宦官はそれから後彼を見なかったが、喜びながら帰って行った。
8:40 それからピリポはアゾトに現われ、すべての町々を通って福音を宣べ伝え、カイザリヤに行った。


福音を伝えたとは、イエス様を紹介したということです。あのエチオピア人は、御心に対して聞く耳を持っていただけではなく、みことばを受け入れて、みことばに従ったのです。

パウロがすばらしい改心をした後、言ったのです。「主よ、私は何をしたらいいのでしょうか」と、彼が主の御前にへりくだって尋ねた時、主はパウロに行くべき道を、はっきりとお示しになりました。

使徒行伝
16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。


また、あの獄吏は、パウロとシラスに、「先生方、私は救われるために何をすべきでしょうか」と、震えおののきながら教えを乞うたとき、「イエス様を信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と、驚くべき救いのみことばが与えられました。

この言葉とは、本当に考えられないほどすばらしい言葉です。なぜなら、この新約聖書が書かれた時、家族とは、今の我々の家族とは違うものでした。今、家族とは血のつながりを持つものでしょう・・・・と皆、考えているのですけれども、当時は違った。家族とは、親戚も含まれていたし、知り合いの人々も皆、含まれていたのです。それを考えると、まだ救われていない家族の人々、親戚、知り合いの人々のために感謝することとは、いかに大切であるかが分かります。

今、挙げたこれらの人々は皆、主のみことばを聞く備えができていました。また、主に従う備えができていました。主に従いやすい、柔らかい心を持っていたのです。御霊に導かれるということ、御霊の導きは、聖書のはっきりとした約束です。イスラエルの民は、それを実際に経験しました。

出エジプト記
40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
40:35 モーセは会見の天幕にはいることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
40:37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。
40:38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。


このイスラエルの経験したものとは、すばらしいものでした。ダビデも導きを経験しました。もちろん、欲しかったから、祈ったから。有名な詩篇三十二篇に、すばらしい約束があります。

詩篇
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。


イエス様も、御霊の導きについて語っておられました。

ヨハネ
16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。


イスラエルの民が荒野を旅した時、主なる神が雲の柱、火の柱をもって導いてくださったのと同じように、すべての救われた人々は、御霊の導きを受けるすばらしい特権を持っています。

ローマ
8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。


御霊がイスラエルの民を導いて行こうとなさった目的地は、実り多いカナンの地でした。御霊は、いつもひとつのはっきりとした目的を持って、そこへ我々をも導こうとなさいます。

詩篇
78:53 彼らを安らかに導かれたので、彼らは恐れなかった。

107:7 また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。


イスラエルの民が荒野をさまよった時、色々なことが起こり、小さな一つひとつのことを取り出して考えますと、安らかに導かれたとは、決して言えません。しかし、御霊は最後に、カナンの地に導き入れてくださいました。それを考えると、確かに、御霊はご自分の民を安らかに導かれたと、心から言うことができるのです。

同じように、私たちも御霊が我々を導こうとなさっておられる目標を、はっきりと見つめて歩まなければならないのではないでしょうか。恵み深い御霊は、私たちがイエス様と同じ姿に変えさせ、天的な完全に、また、霊の満たしに導いておられるのです。私たちも、イスラエルの民の場合と同じように、周りに起こるひとつひとつの問題や苦しみや悩みを見ると、主は我々を捨てたのではないか・・・・と疑います。

けれども、先へ導かれてから、後ろを振り返ってみると、過去に起きた病や悩み、苦しみ、ありとあらゆる問題は、御霊の導きだったと認めざるを得ません。御霊が導こうとなさる目標に行きつくまでには、いろいろな問題が、我々の身に起こってくるでしょう。けれども、そのたびに、主の御心は何であるか、教えていただかなければなりません。

問題が起こると祈ります。けれども、結果が現れない場合があります。祈り会においても、同じでしょう。聖書を開き、みことばを学んで祈りますが、結果が現れません。どうして?その分けは、これから祈ろうとすることが、主の御心であることを確信していないからです。

従って、祈りの中に、「御心ならば、このようにしてくださるように、あのようにしてください」ということが、たくさん出てくるのではないでしょうか。このような状態ですと、祈った後にも確信が湧いてこない。誰かが、「祈りは聞き届けられたのか」と尋ねると、それを願っている・・・・としか答えられません。けれども、このような祈りの態度は、聖書に記されていませんし、主も求めておられません。

まず、主の御心が何であるかを教えていただく。それを確信し、信仰による祈りを捧げなさいと聖書は我々に教えています。エリヤは、主の御心を確信して立ち、権威をもって、次のように言うことができたのです。第一列王記のすばらしい証しです。

第一列王記
17:1 私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。


もちろん、その通りになったのです。けれども、このエリヤの確信とは、告白とは、すばらしいね。主は生きておられます。

ヤコブ
5:17 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。
5:18 そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。


この箇所を見ると分かります。すなわち、エリヤの祈りは、聖霊に導かれた祈りだったからこそ、聞き届けられたのだということが分かります。私たちも、もし御座にまで届く祈りをしたいならば、御霊に導かれる祈りを捧げなければなりません。

大切なのは、祈りではなく、祈りの前に、主の御心を確信して立つことです。この確信を我々に与えてくださるために、御霊がお出でになったのです。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。
8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。


御霊は、我々の祈りを導くためにおられます。そして、真の祈りは、我々を通して祈られる御霊の祈りであります。御霊はまず、我々に主の御心を教えてくださいます。その時、私たちはイエス様の信仰をもって祈ることができ、祈りが必ず応えられるという確信を持つことができます。

信仰と確信の欠乏は、主の御心を知らないところから来ています。それゆえに、多くの祈りが聞き届けられないのです。私たちは、主の御心をはっきり知るまで、待ち望み、御心を知った後、初めて行動すべきです。モーセの場合がそうでした。まず、主が語り、次にモーセは、主の言われた通りに行動しました。パウロもまず、主の御声を聞き、次にその御声に聞き従いました。

ヨハネ
14:10 わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。


ここでわかることは、イエス様は、心の内にささやかれる父の御声に従っておられたということです。イエス様は、実際に耳に聞こえる声、また、回りに起こることどもによって導かれていたのではありませんでした。大切なのは、御霊が我々の霊にお語りになり、私たちが主の御心を知って、それを確信して立つことです。

我々を導くことのできるお方は、聖霊だけであり、また、御霊と聖書のみことばは、常に逆らうことなく、その間に一致があります。御霊は、みことばを我々のために用いて、語りかけてくださいます。私たちは、何か問題にぶつかっている時、聖書のみことばを取り上げて、それを生かし、我々の心に投げ込んでくださいます。

内住の御霊が、聖書のみことばを生かして、語りかけてくださいます。私たちを導き得るのは、御霊だけです。だからパウロは、ローマ書に書き記したのです。

ローマ
8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。


このみことばは、信仰生活の初めであり、当てはまるみことばであるばかりでなく、信仰生活を送っていく間にも、当てはまるみことばです。初めに、神の子たることを証ししておられる御霊は、我々の内に語りかけながら、我々を導いてくださいます。導きは、内に住みたもう御霊によってだけ成されることです。そして、この内住の主の導きは、特定のキリスト者だけでなく、すべての主に救われた兄弟姉妹に与えられている特権です。

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