2014年11月27日木曜日

イエスから目を離さないでいなさい

イエスから目を離さないでいなさい
2014年11月26日、春日部家庭集会
ゴットホルド・ベック

へブル 
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

箴言
4:25 あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたはあなたの前をまっすぐに見よ。
4:26 あなたの足の道筋に心を配り、あなたのすべての道を堅く定めよ。
4:27 右にも左にもそれてはならない。あなたの足を悪から遠ざけよ。

今のヘブル書12章の1節は非常に大切です。すなわち、『イエスから目を離さないでいなさい。』意味は、他のものから目をそらし、イエス様だけを仰ぎ見なさい。もちろん、これは単なる提案ではなく、はっきりとした命令です。この命令に従わないと、祝福がない。結局、聖書の言わんとしていることとは、『イエス様を仰ぎ見るべし』ということです。主の御心とは何でしょうか?イエス様を見ることです。イエス様を見ることによって、永遠のいのちを持つようになるからです。


このへブル書12章2節の後半、「イエスを仰ぎ見るべきである」というみことばから、ちょっと一緒に考えてみたいと思います。私たちは、今、主の一方的な愛、また、主の大いなる恵みによって救われていますが、もちろん、救われるために救われたのではない。ひとつの目的をもって、ひとつの褒美を得るために救われたと、聖書は、はっきりと言っているのです。

この目的、褒美は我々にとって、大切なことがらです。聖書全体を見ると、私たちがこの目標、褒美に預かるための道が、その中に教えられていることが分かります。とりわけ、へブル書の著者は、信じる者が常に前進すべきことを教え、何々すべし、何々すべしと、我々に前進を要求しています。とともにへブル書の著者は、おそらくパウロだったでしょう、はっきり分かりませんけど、前進することを薦めているだけではなく、必ず、問題の目的に達することを約束しています。そのわけは、イエス様ご自身がこの目的に達する道を先に歩まれ、今は想像を絶する栄光の内におられるのです。

イエス様は、身を低くし、我々のあらゆる悩み、苦しみをなめられ、遂に勝利を得て、今は父の栄光のうちに引き上げられておられるお方です。ですから、私たちも、そこに至ることができるという確信を持つことができます。

これを説明するために、ヘブル書の著者は、ひとつの例話を持って語っています。今、港の近くで、一艘の船が嵐にあい、危機に瀕しているとします。乗組員たちは心配ですけど、そのうちに勇敢な一人が、船の錨を波穏やかな港の中に投げ入れます。すると、船の一部である錨が、安全な港に入っていると言う安心から、乗り組み員の心配はなくなることでしょう。それと同じように、かしらである主イエス様は、既に天の御国にお入りになりましたから、その肢体である我々も、御国に入る確信を持つことができます。私たちはこの目的に達する確信を持っているでしょうか。

ひとつ、注意しなければならないのは、旧約聖書と新約聖書は、私たちがこの目的に達しないかもしれないという、悲しい可能性を書いていることです。私たちは救われて、永遠のいのちを持っていますから、これを失うことはできません。永遠のいのちは、永遠のいのちだからです。けど、この目的を達せないかもしれません。すなわち、私たちは、目的を達せず、褒美をもらえない可能性があるということです。我々の生活は、この意味で失敗しているのでしょうか、それとも、成功しているのでしょうか。

失敗か、成功かは、我々の見ているところによって決まるものなのではないでしょうか。私たちは、いったい、どこを見ているのでしょうか。何に目を留めているのでしょうか。間違った見方、すなわち、誤っている見方の危険性について、ちょっとだけ、一緒に考えたいと思います。

【1番目】それは、後ろを振り返ることです。ルカ伝の中で次のように書かれています。

ルカ
9:62 だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。

これはイスラエルの民が、現実にやったことです。詩篇の作者であるダビデは次のように書いたのです。

詩篇
78:41 彼らはくり返して、神を試み、イスラエルの聖なる方を痛めた。

なぜイスラエルの民は、カナンの国に入り得ずして、荒野(あらの)で40年もの間、さまよい続けたのでしょうか。何故、彼らのあいだに実りがなく、勝利、喜び、安らぎ、賛美と、また、感謝がなかったのでしょうか。答えは、彼らが後ろを振り向いたからです。

信じる者に、大きな重荷をパウロが感じていたのも、この後ろを振り向くという点だったのです。したがって、パウロはガラテヤ書を書いたのです。なぜならば、ガラテヤ地方の信者たちは、後ろを振り向き始めたのです。ユダヤ教の信者たちは、主イエス様に出会った人たちに帰依することを薦めていました。後ろを振り返るということは、この世に戻ることではない。無神論に帰ることでもない。また、イエス様を捨てることでもない。当時のガラテヤ地方に住んでいる人々にとって、後ろを振り向くとは、冷たい、いのちのない、掟的なユダヤ教に立ち返ることを意味していたのです。これは、やはり、パウロの悩みの点だったのです。

信じる者は、イエス様の満たしに与かるために召された者ですけど、ガラテヤの信者たちは、もしも冷たいユダヤ教に立ち返ったとしたら、決して、かかる満たしに与ることができなかったでしょう。また、それは、決して主の御心にかなった霊的生活とはならなかったでしょう。当時のガラテヤの信者たちは、後ろを振り返り、少しも前進する兆し、要素がなかった。その場に立ち止まったままでした。

ガラテヤの人々が、内面的に前進するか、または、霊的に退くかが問題です。後ろを振り向かず、前進すべきだとのことがらは、パウロの切なる願いであり、また、祈りでした。だから、彼はこのガラテヤ書を書いたのです。後ろを振り向くと、疑いが起こり、悪魔が勝利を握ります。

【2番目】2番目の間違った見方とは、不安そうにあたりを見回すことです。

イザヤ
41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

イエス様から、目を離し、辺りを見回したとき、結局、波の中に沈み始めたと、マタイ伝に書かれています。

マタイ
14:28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
14:29 イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
14:30 ところが、(・・・イエス様ではなく・・・)風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。
14:31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」

イスラエルの民も同じく、不安げにあたりを見まわしたことがあります。ご存知のように、12人の使いがカナンの地をのぞき見て、そのうちの10人は結局、不安げにあたりを見回し、カナンの地の固い要塞と、内に住む巨人だけを見て恐れたのに対して、残りの二人は、ただ主だけを見上げ、カナンの地に入ったことは、旧約聖書を見れば明らかです。疑った人々は途中でだめになりました。荒れ野で死んでしまったのです。

イスラエルの民は、恐れおののいた10人に従ったのです。カナンの地に入ることができなかった。カナンの地に入ったのは二人だけ、ヨシュアとカレブの二人だけでした。不安げにあたりを見回してはいけない。主は、私たちを救いたまいました。その主が、救われて以来、私たちを導いていてくださったのです。困難や苦しみは、確かにあることでしょう。けど、困難や苦しみに縛られ、主に従うことができなくなるというようなことにならないように、主だけを仰ぎ見よう。

【3番目】もうひとつの間違った見方とは、コリント第2の手紙10章に書かれています。簡単に言いますと、近視的にものを見ることです。『あなたがたは、うわべのことだけを見ている』と、パウロは彼らに書いたのであります。

もちろん、近視眼的にものを見ることも、危険な誤った見方のひとつです。私たちは時々、我々の現在、直面している悩みだけを見てしまいます。私たちの直面しているそのものだけが、我々に影響を及ぼします。もし私たちが、周りの問題だけを近視眼的に見るならば、決して主の目的に達することができません。このような限られた視野を持つことは、主の栄光を奪う結果となるのではないでしょうか。

私たちは、目の前のものを見て、すっかりこんがらがってしまいます。『もう駄目』と考えてしまいます。この近視眼的見方は、我々の大きな悩みなのではないでしょうか。私たちは、未解決の苦しみや問題だけを見つめます。苦しみや問題は確かにあります。しかし、だからといって、それでおしまいなのではない。回りにあるそれらの問題は、我々を妨げるものであり、へブル書12章1節の、「いっさいの重荷とまつわりつく罪」を意味しているものです。今日(こんにち)ある問題は、重荷のように私たちの上にのしかかり、私たちはもう駄目だと思っているかもしれない。これこそ我々にまとわりついている罪です。

近視眼的な見方は危険です。悩み、妨げになることです。だから、前に読みました箇所の中で、『あなたの目はあなたの前をまっすぐに見よ。』結局、イエスから目を離さないでいなさい。今の悩みが大切なことではない。目に見えない霊的な現実が、目に見えることがらより我々にとって、現実的な問題とならなければならない。

患難に閉じ込められてしまってはいけない。艱難は決して尽きることがありません。私たちの腹痛(はらいた)のような問題は、大した問題ではない。イエス様の御苦しみが最大の問題です。ペテロは、それをはっきり掴んだから次のように書いたのです。

第1ペテロ
4:12 愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、
4:13 むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現われるときにも、喜びおどる者となるためです。

【4番目】もうひとつの間違った見方はなんであるかと言いますと、すなわち、自分勝手な物の見方です。パウロがピリピに住んでいる兄弟姉妹に書いたのは、ピリピ書2章4節、「自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい」とあります。己のことのみを顧みることは、まことに自分勝手なことです。キリスト者として、利己的な生活することは許されません。

私たちは、イエス様の肢体として、イエス様から目をそらせている人々、罪に沈んでいる方々に対する責任を持っています。自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさいと、命令されています。これはいったい何を意味しているのでしょうか。

何かひとつの問題がある場合、それは私にどんな影響があるかと、考える必要はありません。人には、もし、ことが起こった場合、自分に害が及ばなければそれで良いとする考えが、往々にしてあります。もし、集会の兄弟姉妹が、悩みにあっており、あるいは、意識的に主に不従順であり、また、主から目をそらし、他のものを見ているとしたら、私たちは無関心でいることが、はたしてできるでしょうか。自分のことだけを顧みてはいけないと、聖書ははっきり言っています。己のことだけを顧み、己にだけ意を用いる考え方は、誤ったものの見方です。己自身を顧みることは、結局、自分を不幸にする一番の早道ではないでしょうか。

【5番目】もうひとつの間違った見方とは、自己を分析することなのではないでしょうか。パウロは書簡をもって、かかることを行わないよう、警告を与えているのです。

己の内に目を留めることの結果は、霊的な停滞をきたします。なぜ私たちは、己の内を見つめるのでしょうか。自分の内に、主を満足させるものがあると考えているのでしょうか。自分を見ることによって、自分を喜ばせたいと思っているのでしょうか。これはもちろん、誤った見方のひとつです。

己自身を見つめると不幸になり、また、絶望する結果となります。我々の内には、何の良いところもありません。これは知る必要があります。我々の内に、良きことを期待することをやめましょう。だから聖書の中では、「あなたの目は、あなたの前をまっすぐに見よ。」イエス様から目を離さないでいなさい。

【イエス様を仰ぎ見る祝福】今まで、誤っている見方の危険性について、考えたのですけど、今度は逆に、イエス様を仰ぎ見る祝福について、考えたいと思います。

我々の見るところは非常に大切です。へブル書の著者は、このへブル書を通して、救われた者の特権に目をとどめることを教えてきて、最後にこのヘブル書12章2節にまとめて、『このイエスを仰ぎ見るべし』、『イエス様から目を離さないでいなさい』という言葉を書いたのです。イエス様を仰ぎ見るべし。この言葉の原語を見ると、『他のものから目を反らし、イエスだけを見よ』という意味が含まれています。過ぎ去ったすべてのことがらを振り向かず、我々を取り巻いていることがらに目を奪われず、あらゆる己につけていることがらに目を奪われないで、あらゆる心の妨げとなっているもの、目前にある悩みに目をくれずに、己自身を見つめないで、ただ、主イエス様だけを見よう。

我々の見るところは、非常に大切な働きをいたします。我々の目は、あれこれを見渡します。我々の目は、ここ、あそこと満足を追い求めます。けども、イエス様は、『あなたの目は前方を見つめ、あなたのまぶたは、あなたの前をまっすぐに見よ』と、言っておられるのです。

我々の目的とはいったい何なのでしょうか。我々の目は、どこに向けられているのでしょうか。天的なものに目が向けられているのでしょうか。それとも、地的なものに、この世的なものに、目が向けられているのでしょうか。もし我々の目が、天的なものに向けられているなら、それは信仰の前進の原動力となります。霊的成長の秘訣は、天に眼(まなこ)を向けることです。

このような言葉は、何を意味しているのでしょうか。主の御心、主の目的が何であるかを、みことばと御霊によって教えいただきたいものです。主の御心、そのものを教えていただきたいものです。

全生涯を、主の御心と目的にかなうように、していただきたいものです。イエス様を仰ぎ見る者は、主の目的を得ることができます。もし私たちが主の目的ではなくて、おのれの目的を目の前に置くならば、我々の生涯は失敗に帰し、主の目的を達することができず、褒美に与かることもできないでしょう。主の御目的は目に見えるものではなく、永遠のものです。一箇所、見てみましょうか。

第2コリント
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。

私たちは永遠に連なるものを見ているのでしょうか。私たちの生涯は、主の目的にかなっているのでしょうか。悪魔は、私たちが主の目的を達成しないように、また、私たちが地的なもので縛られているように、また、私たちが世的な目的を追い求めるようにと、あらゆる画策をいたしております。悪魔は、しばしば我々を目的から外した興味を持って、麻痺した状態に陥れることは、経験することありましょう。

我々の生涯が、主の目的と、主の御心に、全く合致しているように祈り、求めたいものです。

例えば、今、対人関係に縛られ、自分でどうしたらいいか、分からないでいるかもしれない。主の目的を考え、イエス様を仰ぎ見ましょう。もし、悩んでいる対人関係が、主の目的を達成することを妨げているならば、その関係を速やかに断ち切らなければいけないでしょう。次に訪れる未来の出来事がいかなるものであるか、皆目、見当がつかないかもしれない。主なる神の御目的を深く考え、イエス様を高く、高く見上げようではないでしょうか。将来、どこでどのようにして働いてよいか、見当がつかないかもしれない。そのような時も、主を仰ぎ見ようではないでしょうか。私たちはどうしたらいいか分からないような悩みを、持っているかもしれない。けど、この問題を解決する時、まず、どうしたら主の御心にかない、主の御心を全うすることができるかをよく考えるべきなのではないでしょうか。

己の悩みではなく、主の御目的を見つめてください。あらゆる悩み、困難、苦しみを突き通して、イエス様だけを仰ぎ見てください。我々の全生涯を、主の御心に合わせたいものなのではないでしょうか。

私たちが、上からの啓示によって主の御目的を知り、この目的に我々の全生涯が全く一致せしめられたいものです。主の御目的は何であるかを知っているのでしょうか。主なる神の教会が、父なる神にとって、いかに大切なものであるか、私たちは知り得たのでしょうか。花婿なるイエス様が、どんなに花嫁なる教会を愛し、恋い慕っていることか、知っているのでしょうか。

悩みは確かにあります。未解決の問題は山積(さんせき)しています。困難は続いています。また、悪魔は、「お前の目指す目的は高すぎる、これで満足せよ」と、囁きます。私たちは、それをもって満足してよいのでしょうか。これをもって満足しているならば本当に大変です。災いであるといわなくてはならない。

主なる神の目的とは、いったい何なのでしょうか。ひとつの答えはエペソ書に書かれています。

エペソ
3:10 これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、
3:11 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。

これこそが主の御心である。簡単に言いますと、イエス様を仰ぎ見るべし。他のものから目を反らし、イエス様だけを見なさい。悪魔は、イエス様にこの世の富のすべてを示し、そして、提供しましたが、イエス様はそれを断固として退け、天なる神の目的に目を留め、ひたすらに前進したのではないでしょうか。悪魔は、イエス様が十字架にかかることがないように、この世の一切のものをイエス様に提供したのでした。けれども、イエス様の眼(まなこ)は、ひたすらにただ、前を見つめていたのです。このへブル書12章2節は、本当にすばらしい証しです。

へブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

イエス様は、ただ、天の父なる神の御目的だけを思っておられました。私たちはいったいどうでしょうか。イエス様を高く、高く仰ぎ見ようではないでしょうか。

今まで、誤っている見方の危険性について考えたのですね。第1番目、後ろを振り返ること。2番目、不安そうにあたりを見回すこと。3番目、近視的にものを見ること。4番目、自分勝手な物の見方をすること。そして、5番目、自己を分析することです。正しい見方とは、結局、イエス様だけを仰ぎ見ることです。自分自身を見たり、他人を見たりすることは、劣等感や卑屈な気持ちをもたらしたり、反対に、優越感や傲慢な気持ちをもたらしたりするものです。そのような状態にある者を、主は用いることはできない。むしろ、悪魔の道具にされてしまいます。ダビデの告白は本当にすばらしい告白でした。

詩篇
16:8 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
16:9 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。

自分自身を見たり、他人を見たり、周囲を見たりしないで、ただ、イエス様だけを見上げることが勝利の秘訣です。『光なき、小道を歩むときも、主の御顔を排すれば、恐れなく、心は満ち足りる』とあります。

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