2014年11月26日水曜日

主イエスの眼差し(2014年、春日部)

主イエスの眼差し
2014年11月26日、春日部家庭集会
ゴットホルド・ベック

詩篇
32:7 あなたは私の隠れ場。あなたは苦しみから私を守り、救いの歓声で、私を取り囲まれます。セラ
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
32:9 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。
32:10 悪者には心の痛みが多い。しかし、主に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。
32:11 正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

今、言われたように、今までいろいろなことを経験しました。もう、数えられない。ひとつだけ経験していない。したがって、分からない。まったく分からない。なんでしょうかね?タイクツ。これも、恵みではないかな?


今、読んでもらいましたダビデの告白ですが、本当にすばらしいものではないでしょうか。もう一回、読みます。

詩篇
32:8 わたしは、あなたがたに悟りを与え、行くべき道を教えよう。わたしはあなたがたに目を留めて、助言を与えよう。
32:9 あなたがたは、悟りのない馬や騾馬のようであってはならない。それらは、くつわや手綱の馬具で押えなければ、あなたに近づかない。

これもダビデの経験したことです。主は、与えたい、教えたい、恵もうと望んでおられる方です。今、歌いました歌の中で、『イエスのまなざし』という言葉も出てきます。これが今日の主題であると言ってもいいかもしれない。私たちは、主の御声に聞き従うことの大切さ、必要性、可能性について、いろいろなことを体験的に知るようになりました。今日は、イエス様を見上げることの必要性、また、大切さ、すばらしさについて一緒に考えてみたいと思います。イエス様を見上げる者は、前に想像しなかったほどの喜びを与えられます。

そして、私たちのイエス様を見上げる程度に従って、私たちは、その度合いに応じた喜びを与えられます。聖書は、神の子であっても、救われたものであっても、救いの喜びを失う可能性がある、とはっきり言っています。信仰が成長しない理由は、イエス様だけを見ないで、他人を見たり、悪魔の惑わしに耳を傾けたりするからに他ならないでしょう。イエス様を見上げない者は、間違った道に進んでしまいます。けど、いつかは必ず回復されると聖書は約束しています。

聖書を見ると、2つの導き方があります。ひとつは、目を留めて諭す導き方であり、もうひとつは、くつわや手綱を持って、押さえて従わせる方法です。信じる者の中には、イエス様の目、あるいは、イエス様のまなざしによって、導くことのできない人もいるでしょう。そのような人々に対しては、主は、やむをえず、仕方がなくて、くつわや手綱をもって従わせざるを得ません。

それはしばしば、苦しみや悩みを伴うでしょう。けど、くつわや手綱を持って導かれる場合でさえも、主はその人を捨てることは絶対にしない。前とまったく同じように、愛し続けていてくださるのです。それですから、いかなる状態にあっても、イエス様の愛を覚えることによって、誰でも、安心して、前向き生活することができます。くつわや手綱を持って導かれる時には、確かに、苦痛が伴います。私たちが自己決定や自己支配を捨てて、イエス様を見上げて信仰生活を歩む方が、どれほど苦痛を伴わず、簡単なものであるか分かりません。

我々の見上げる目の方向によって、喜びに満たされた者となるか、あるいは、自ら墓穴を掘る結果となるかのどちらかに分かれてしまうでしょう。

皆さんも御存じのように、日光には、見猿、聞か猿、言わ猿という3つの猿がおります。すなわち、悪いものを見たり、聞いたり、話したりしなければ、安全に保たれるという教訓を意味しています。すなわち、人間は見たり、聞いたり、話したりすることがない状態に置かれた時、たとえば、メクラ、オシ、ツンボは色々なこと守られるということです。ただ、目に見えるものだけに心を奪われて、イエス様を見失ってしまう時が、一番、危険な時なのではないでしょうか。

旧約聖書の中で、イスラエルの民の経験したことについて、たくさん、書き記されています。ある時、12人の人々が、約束された地を調べるために遣わされたのです。その中の10人は、イスラエルの人々に報告したのです。結局、悪く言いふらしたのです。『我々には、自分がいなごのように思われ、また、彼らにも同じように見えたに違いない。』けれども、その時、幸いに、2人、ヨシュアとカレブの二人は違うことを言ったのです、『主に背いてはなりません。その地の民を恐れてはならない。主が我々と共におられますから、彼らを恐れてはならない。』

この聖旬からも解るように、確かに目に見える現実は、遣わされた使者が言った通りだったのです。嘘ではなかったのです。けど、彼らは目に見えない現実を見失っていました。すなわち、主を、主だけを見上げることを忘れたのである。けど、主を見上げる者は想像しなかったほどの力を体験するのです。

ヨハン・セバスチャン・バッハという男は、いろいろな、いわゆるカンタータを作ったのですね。音楽はだいたい35分から50分のあいだのものを作ったのです。毎週、作ったのです。それも、ちょっと、考えられない。毎週、いろいろな人に教えたし、あまり、尊敬されなかったし、子供を養うのも大変だった。子供が20人いました。そして、当時の信じるものの大部分は、『アイツは辞めるべきです、教会の中では音楽など必要ない。』彼は本当に苦労しました。けども彼は、ひとつのカンタータ―の中で、『主を見上げる者は、新たなる力を得、鷲のようになる。』言葉だけでも、いいけども、音楽を聴くと、本当に踊りたい気持ちになる。もう、もう、もう、目に見える現実など、どうでもいい。主は生きておられる。全部、任すことができる。思い煩ってはいかん。バッハはこの態度を取りました。

けども、今日の多くの人は、鷲のようにではなくて、モグラのようになっているのではないでしょうか。モグラのようにになっているという意味は、自分のことだけでがんじがらめになってしまい、主を見上げることができなくなっている状態に他ならない。

イエス様のまなざしとはどういうまなざしだったかな。まず、愛に満ちたまなざしでした。ちょっと一箇所読みます。よく、知られている箇所です。

マルコ
10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた。「尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。」
10:18 イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかには、だれもありません。
10:19 戒めはあなたもよく知っているはずです。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。欺き取ってはならない。父と母を敬え。』」
10:20 すると、その人はイエスに言った。「先生。私はそのようなことをみな、小さい時から守っております。」
10:21 イエスは彼を見つめ、その人をいつくしんで言われた。・・・

その人をいつくしんだ。

10:21 ・・・「あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
10:22 すると彼は、このことばに顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。なぜなら、この人は多くの財産を持っていたからである。

彼は、悲しみながら立ち去った。もしかすると、彼よりもイエス様は、悲しんだのではないでしょうか。この箇所を見ると、この金持ちは、少なくても、飢え渇きを持っていましたから、イエス様の御許に走りよって、御前にひざまづき、「永遠のいのちを得るためには、何をしたらいいの」と尋ねました。この人は、確かに豊かな財産にもかかわらず、心は全然、満たされていませんでした。というのも、彼には目に見えるこの世のものが、移り行く、はかないものであることが解っていたために、永遠のいのちのことを思ったんです。永遠のいのちのことについて尋ねました。

人間はすべて、永遠のいのちによってのみ、本当に満たされるようになります。永遠のいのちを得るためには、自分の滅び行く状態を知って、救いの必要性を知ることは、どうしてもなくてはならないことです。その状態を示すために、イエス様は、この若者にモーセの十戒を示されました。「殺すな。姦淫するな。盗むな。偽証を立てるな。欺き取るな。父と母を敬え。」すると、この彼は、「それらのことは、守っております」と、答えました。すなわち、彼は自分自身の本当の状態を、まったく知らなかったのです。まったく、メクラでした。自分自身の罪を知らない者は、当然、罪を告白することもできません。そして、罪を告白しない者は、罪の赦しをも得ることができません。さらに、罪の赦しを得ていない者は、永遠のいのちをも、持つことができない。

ヨハネ(口語訳)
3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである。

信じるものは持つ、永遠のいのちを。確かに、多くの人々は、この金持ちと同じように、「私はすべてのことを守っている」と、思うでしょう。これは、取りも直さず、悪魔がその人々の心の目をくらまし、自分自身の本当の状態を見ることができないため、そのようなことになってしまうのです。いわゆる、ラオデキヤの信じる者に、次のように書かれています。本当に、大変なことばです。

黙示録
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

知らなければ、悲劇的そのものなのではないでしょうか。イエス様は、この若者の心の状態を見ておられ、彼が確かに、悪魔によってメクラにされていることを、よく知っておられました。けど、彼を決して、見捨てようとは思わなかったのです。主は見捨てない。これこそが、すごい約束です。ダビデは、それを何回も何回も経験したから、告白しました。

詩篇
34:18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕かれた者を救われる。

聖書全体の言わんとしていることはこれなんです。へりくだれば、謝れば、告白すれば、主は恵んでくださるのです。

詩篇
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。

ダビデは、こういうことができたのです。

詩篇147:3
主は心の打ち砕かれた者をいやし彼らの傷を包む。

本当に、すばらしい約束です。この主は変わらないお方です。他にも、似ている箇所はもちろん、聖書の中にいっぱい、書かれています。主は、どういう人々をかえりみてくださるかと言いますと、へりくだる人々です。頭を下げる人々です。今、読みました青年は、自分自身の本当の心を状態をまったく、知りませんでした。けど、イエス様は限りない愛を持って、彼を捨てようとしなかった。『愛を持って見つめられた』と、あります。その時、イエス様は彼に向って、「あなたは、一番、大切なものが欠けている」と、言われました。『もしも、あなたがわたしに従って来たいならば・・・』来たくなければけっこう、私は強制しません、けど、『私に来たいと思えば、持っているものをみな売り払って、わたしの十字架を負って、わたしに従って来なさい』と、イエス様は答えてくださいました。イエス様は、御許に来た人を、心から愛したのです。

まことの深い愛が、すべてを売り払い、十字架を負って、従うことを要求したのです。この若者に向けられたイエス様の深い愛のまなざしは、もちろん今日(こんにち)、一人一人の人間に対しても、向けられています。イエス様は、人間、一人一人を幸せにしようと望んでおられます。そして、自分に従ってくるように招いておられます。

罪を赦された者こそ、永遠のいのちを持ち、救われている者です。イエス様は、いつも我々のことを思い、最高の目的を指し示そうとしておられるのです。その意味で救われたから、あとは大したことはない、もう充分だと思っている人がいるなら、それは、もちろん、大間違いです。

イエス様のまなざしとは、どういうものでしょうか。今、話したように、愛のまなざしでした。もう一箇所、ちょっと見てみましょうか。ルカ伝19章、有名なザアカイのはなしです。

ルカ
19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。」

今まで、お金、お金、お金としか考えなかった人が、半分すぐにあげます。間違ったやり方で取ったものを4倍にして返します。そしたら、何も残っていない。けど、もう十分でしょう、お金は。イエス様は、この人を救ったのです。イエス様の判断は、『きょう、救いがこの家に来ました。』このザアカイが何を経験したかと言いますと、イエス様のまなざしとは、愛のまなざしだったのであり、それから、今の箇所を見ても、イエス様のまなざしとは、どういうまなざしだったかと言いますと、希望のまなざしでした。

背景になっている場所はエリコという町でした。このエリコという町は、旧約聖書を見ると分かりますけども、神によって呪われた町でした。ザアカイは、取税人のかしらで、金儲けに一生懸命になっていました。おそらく彼は、正しくない方法をも使って、金を貯めたことでしょう。けど、彼は、豊かであるにもかかわらず、満足していなかった。

この男は、どういうわけか、イエス様によって、自分の満たされない気持ちが満たされるのではにないかと、思うようになりました。だから、イエス様を見たい、イエス様に会いたいと思ったのです。そして、ここに書いてあることは、『イエスは上を見上げました。』そこで、桑の木に登っていたザアカイの視線がぶつかったのです。ザアカイは、イエス様の眼差しを見た時、そこに本当の希望があることを悟ったのです。ザアカイは、イエス様が自分の名前を呼ぶのを聞きました。それと同時にイエス様が、自分に対して、何らかの関心を持っていることも、すぐに分かりました。しかも、イエス様はザアカイの家に泊まるとおっしゃり、ザアカイとの交わりをも提供してくださったのです。ザアカイは、イエス様を自分の家に受け入れる準備ができたのです。イエス様を受け入れることによって、重荷から解放され、孤独から解放され、喜びに満たされたものになったのです。聖書の中で、約束の言葉はいっぱいあります。

ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

すごい特権です。ザアカイはそれを体験したのです。

第1ヨハネ
5:13 私が神の御子の名を信じているあなたがたに対してこれらのことを書いたのは、あなたがたが永遠のいのちを持っていることを、あなたがたによくわからせるためです。

はっきり確信するためです。

イエス様の近くにいることは、大いなる祝福を意味しているということを、ザアカイは知ることができました。イエス様に出会った者は、決して闇の中に留まることはない。なぜならイエス様は、光であられるからです。ザアカイは、罪を告白せざるを得ませんでした。そして彼は、イエス様の口から直接、自分の罪が赦されていることを聞かされたのです。このことはザアカイに彼、ひとつの大転換を意味していました。それまで彼は、自分中心の生き方をし、欲のかたまりで、がんじがらめとなっておりましたが、今や、イエス様を喜ばせ、イエス様に従って行きたいという願いだけを持つようになったのです。

私たちもイエス様の希望のまなざしを必要としているののではないでしょうか。

将来のこと事を考えると、人間的には望みなく、慰めもない状態のように思われます。焦ったり、失望したり、落胆したりすることがあるかもしれない。その時には、イエス様を見上げるべきです。そうすれば、ザアカイと同じように、イエス様の希望のまなざしを知ることができます。

イエス様の希望のまなざしは、私たちがイエス様と交わりを持つようにと招いておられます。イエス様との交わりとは、イエス様が光の中を歩まれたように、私たちもイエス様と共に光の中を歩むことを意味しているのです。イエス様との交わりとは、いのちそのものであるイエス様以外に、拠り所を持たないことであります。また、イエス様との交わりとは、ただ主に喜ばれたいという、心からの願いでもあります。

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