2014年11月5日水曜日

あなたのみことばは真理です

あなたのみことばは真理です
2014年11月2日、近江八幡、福音集会
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
17:1 イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。
17:2 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。
17:3 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
17:4 あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを、わたしは成し遂げて、地上であなたの栄光を現わしました。
17:5 今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。
17:6 わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らはあなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました。彼らはあなたのみことばを守りました。
17:7 いま彼らは、あなたがわたしに下さったものはみな、あなたから出ていることを知っています。
17:8 それは、あなたがわたしに下さったみことばを、わたしが彼らに与えたからです。彼らはそれを受け入れ、わたしがあなたから出て来たことを確かに知り、また、あなたがわたしを遣わされたことを信じました。
17:9 わたしは彼らのためにお願いします。世のためにではなく、あなたがわたしに下さった者たちのためにです。なぜなら彼らはあなたのものだからです。
17:10 わたしのものはみなあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました。
17:11 わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。
17:12 わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました。彼らのうちだれも滅びた者はなく、ただ滅びの子が滅びました。それは、聖書が成就するためです。
17:13 わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。
17:14 わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。
17:15 彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。
17:16 わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。
17:17 真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。

このヨハネ伝17章は、本当にすばらしい祈りです。毎日、読んでもいいのではないかなと思います。結局、あなたのみことばは真理です。これは、イエス様の確信であり、喜びの源でした。

私の悩みの一つは何でしょうかね。悩んでいない人はいない。信仰があってもなくても、人間は悩む者です。私の悩みのひとつは、イエス様にとって、からだなる教会がいかに大切なものであるか、分かっていない人が多いということです。

イエス様の教会とは、仲良し会ではない。イエス様は、「わたしはわたしの教会を建てる」と約束してくださいました。どうせ、人間はできないからです。けれども、イエス様はその約束を必ず守ってくださいます。だからこそ、すべてをめちゃくちゃにする悪魔は、信ずる者が、このからだなる教会の大切さを知らないように昼夜、攻撃し、メクラにしようと思っています。そして、ある程度まで成功したように見えます。けれども、この勝利は、もちろん本物ではない。偽物です。イエス様はご自分の教会を――自分のからだなる教会を建てる。このからだなる教会では言うまでもなく、かしらはイエス様です。主のからだなる教会は、イエス様にとってすべてです。

コリント第一の手紙の中で、次のような大切な箇所が書かれています。

第一コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

そうなってもらいたいのでなく、そうなんです。事実が述べられています。

上からの光に照らされて、すなわち、上からの啓示によって、この真理を心の目で見ていることのできる人は、本当に幸いです。それによって、すべての疑問、また、疑いが飛んで行ってしまいます。今も歌いましたように、いつまでも、いつまでも、主と生きる喜び。何があっても、もうちょっと、イエス様は近いうちに来られます。いろいろな問題がある。どうしたらいいかわかりません。けれども、確実なのはイエス様は近いうちに来る、それによって問題はいっぺんに解決されます。

人間の祈りは大切です。もっと大切なのはイエス様の祈りでしょうね。イエス様は祈りの中で、今の読んでもらいました箇所を読むとわかります。

ヨハネ
17:17 ・・・・あなたのみことばは真理です。

聖書を学ぶ場合にいちばん大切なことは、次のようなことではないでしょうか。すなわち、聖書自身が自らを明らかにするということです。したがって、みことばを学ぼうとする時には、聖書全体が何を言っているかを正しく理解しなければなりません。たとえば新約聖書の中の福音書、あるいは、手紙を学ぼうとする時には、絶えず新約聖書と旧約聖書の関係の中で、そのところを読まなければなりません。それですから、聖書の中の一部分を読む場合などには、それが聖書全体の中で、どのように位置付けられているかに注意し、そのところだけでなく、ある場合には、前の方に遡り、ある場合には、後の方を見なければなりません。

また、みことばを読む目的は大切です。単なる知識を得るためではなく、心から真剣に真理を求めて行くという飢え渇きを持つことが大切です。聖書は、神のみことばですから私たちはみことばを主なる神のみことばとして学び、主のみことばとして、素直に受け入れることが大切です。

私は、聖書を読んでいる人の絵を四枚、持っています。一枚目の絵を見ると、大きな人が小さな聖書を読んでいます。二枚目の絵になると、その大きな人は、その前よりも少し小さくなり、その代わりに、聖書は前よりも少し大きくなりました。三枚目の絵を見ると、その人は、前よりもさらに小さくなり、聖書は、その人と同じくらいに大きくなっているのです。そして、四枚目の絵を見ると、その人は、非常に小さくなり、それとは反対に、聖書は比較にならないほど、大きなものとなりました。

これから分かることは、始めは自分の考えによって聖書を解釈していた人が、聖書を読むうちに聖書が絶対的な権威を持つに至ったということです。つまり、その人は聖書を主なる神のみことばとして真剣に読み、このみことばに耳を傾け、注意してきましたから、みことばがその人の血となり、肉となり、自分の思いが消えて行ってしまったのです。その結果、みことばがすべてとなり、主イエス様がますます大きくなったということです。

今日、多くの人は、みこころを軽く考えて、自分の考えで勝手に解釈したり、みことばに対して耳を傾けることをしなくなってしまいました。けれども、正しくみことばを学ぶ時、聖書のみことばこそ、絶対的な権威を持たなければなりません。聖書というものは、決して研究のためのものではない。それを通して主なる神ご自身が我々に語りかけてくださるみことばですから、私たちは注意深く聞かなければなりません。

主のみことばを聞き、それに従う者は、ローマ書10章のみことばを体験できます。

ローマ
10:17 そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

聖書に書かれていることがらを、絶対的な権威を持った神のみことばとして受け入れ、それに耳を傾けない者は、決して、生き生きとした信仰を持ち得ないのです。聖書は確かに世界のいわゆるベストセラーですけど、聖書を読むことによって、教養を身につけ、足りないところを補っていこうとするのでしょうか。それとも、別にはっきりとした目標を持たずに、気の向くままに、あっちを読んだり、こっちを読んだりすれば良いのでしょうか。決して、そうではありません。みことばを読む場合、本当の目的は、イエス様を体験的に知り、イエス様に出会い、そして、イエス様を受け入れること、また、主イエス様をより良く知ることであるべきです。

イエス様は言いました――告白として。わたしはいのちのパンです。それだけではなくて、わたしを食べる者は永遠に生きる、と言われたのです。

ヨハネ
6:51 わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。

6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

パンは、見て驚くために博物館の中に飾られているものではありませんし、また、そうしても良いものではありません。食べなければ何の価値もないものです。イエス様を信ずる兄弟姉妹の霊的ないのちは、このいのちのパンを食べる量りにしたがって、程度にしたがって、成長して参ります。いのちのパンであるイエス様ご自身が、我々の食べ物とならなければいけませんし、また、イエス様ご自身は、そうなりたいと思っておられ、願っておられます。

エレミヤという男は、悩んだ男でした。誤解されてしまったし、刑務所に入ってしまったこともあるし、けれども、彼は悩みながら元気になった。どうして?エレミヤ記を見ると、次のように書かれています。ほんとうにすばらしい証しです。

エレミヤ
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

エレミヤは何と言いたかったかと言いますと、「喜ぼうと思えば、みことばを食べなさい。みことばは、人間にとって最大の宝物です。」ダビデも、みことばの大切さ、すばらしさが分かったから、いちばん長い詩篇ですけれど、119篇――全部は読みませんから、心配しないで――詩篇119篇から、皆さん、暗記している言葉です。

詩篇
119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

119:162 私は、大きな獲物を見つけた者のように、あなたのみことばを喜びます。

私たちが何かを表現しようとするなら、ことばをもってしなければいけない。もし、私たちが何も話さないでいるなら、皆さんは私の心の奥底を知ることはできないでしょう。いったい、どうしたらイエス様をもっと知ることができ、理解することができるのでしょうか。みことばによってです。

聖書は、主なる神のことばです。みことばは、主ご自身の啓示そのものです。すなわち、単なる教理、単なる学説ではなく、主のあらわれ、主の啓示、そのものです。だから、聖書を読むことは大切ですけれど、聖書を研究し、また、いわゆるキリスト教の教えを知るためではなくて、聖書を読むことにより、イエス様を知ること、より親しい交わりを得るために読むべきです。

誤った聖書の読み方もあるでしょう。ある人は、聖書の中の主の愛について書かれたところだけを好きで、いつもその箇所だけを見ます。そして、主の愛だけを口にします。また、少し謙遜な人は、主なる神は柔和であるとの箇所を好んで読み、主の柔和だけを云々します。これに対し、少し激しい気性の人は、主の裁きだけを口にするようになります。これは皆、自分の考えを入れて聖書を読む結果です。それは、あたかもいろいろな色のセロファン紙を聖書の上に置いて読むようなものです。そのようなことをすれば、聖書がいろいろな色に見えるのは当たり前なことです。その色のセロファン紙を取り除き、すべての考えを除くなら、イエス様は、ご自分を啓示なさることができます。

また、理解力をもって聖書を理解しようと思えば、もちろん、うまく行きません。パリサイ人たち――よく聖書を読んだ学者たち――は、結局、その読み方をしました。イエス様は彼らに厳しく言われました。

ヨハネ
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

聖書の単なる教理が問題なのではありません。イエス様ご自身が問題です。なぜなら、イエス様が、『聖書がわたしについて証言している』と言われたがゆえに大切です。『わたしのことばは永遠に残る』と、イエス様は約束してくださいました。聖書を読むことと、いのちを得ることは、一つのことがらであり、決して、二つのものではありません。

申命記
32:47 これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちで(す。)

内容として、パウロの愛弟子であるテモテも同じことを書いたのです。

第二テモテ
3:16 聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。

聖書全体は、主なる神の息が吹き込まれることによって書かれたものです。主なる神の感動により、主の息吹により、霊感によって書かれた書物です。だから、聖書は、主なる神の教えではなくして、主なる神の啓示と言わなければなりません。主のみことばをもって、自身をお現わしになりました。主のみことばは、我々にとっていのちのパンとならなければなりません。なぜなら、聖書は教理や真理の原則を語っているのでなく、いのちのパンそのものであるからです。イエス様は言われました。

マタイ
4:4 人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。

イエス様はご自身、私がそれによって生きる、自分がいのちのパンとなりたく思っておられる。私たちは、イエス様によって生きているのでしょうか。私たちは、主のみことばによって生きているのでしょうか。ヨハネ伝を見ると、イエス様はまた次のように言われました。

ヨハネ
6:63 いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。

主のことばは、主ご自身を啓示するのです。みことばを食べることは、いのちを得ることを意味します。生けるみことばが我々のうちに入るなら、その必然的な結果として、いのちがやって来ます。理解力をもってしては、決して、いのちは訪れてまいりません。もし、聖書が我々にとって単なる掟であり、単なる真理であるならば、それは我々にとって重荷であり、不自由なものです。けれども、いのちならば自由と喜びをもたらすのです。

もう一回、言いましょうか。聖書は学問のために書かれたものではない。新しい真理を打ち立てるために書かれたものでもありません。聖書は主の呼吸、すなわち、主なる神の息です。すなわち、主なる神は、ご自身をこのみことばによって、みことばで包んで、みことばにご自身を含んで、あらわされているのですから、私たちはそのみことばを――イエス様を――、いのちのパンとして受け入れ、食べなければなりません。古い聖書の読み方を捨てなければなりません。何か、ある先入観念をもって聖書に接することをやめ、イエス様ご自身を、すなわち、いのちのパンを食べるように、心がけなければいけない。食べるなら味がするはずです。

何年か前に、私たちはとってもすばらしい支那料理を食べたことがあります。今まで食べたことのない料理が、次から次へとたくさん出てきましたが、私はどんな味がするのかと隣の人に聞いたりはしませんでした。すぐ、それをちょうだいしました。あれやこれを理解したり、他の人に訊ねてみたり、聖書の註解書を見たりする必要はない。ただ、いのちのパンを食べ、満腹することが大切です。

心の目がいったん開かれるなら、真理を理解することなど問題ではなくなります。ただ、自分が主のみこころにかなっているかどうか、また、いかにして、みことばによって満腹するかどうかだけが問題になります。満腹させないものは役に立たない。そのようなものはすべて捨て、満腹させるいのちのパンとイエス様ご自身を食べましょう。食べたら消化して、その結果、力が与えられるのです。食べるなら、それは体の一部分となり、そうすることによって、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられてまいります。一日の静慮の時を、このいのちのことばを食べるために用いましょうか。

誰が書いたのかわからないけれど、「ある聖書の日記」と言う題なのです。聖書が話しています。

1月15日、静かな一週間を過ごした。新年の数日間の晩、私の持ち主は私を規則正しく読んだ。しかし、今は、私を忘れているらしい。
2月2日、今日、整頓されて、他のものと一緒にほこりを払われた。そして、元の場所に戻された。
2月8日、持ち主が朝飯を終わってから、少しの間、用いられた。持ち主は二、三ヵ所を読んだ。持ち主と一緒に教会へ行った。
3月7日、整頓され、ほこり払われ、もとの場所へ置かれた。教会に行ってから、玄関に置きっ放しになっていたから。
4月2日、今日、私は忙しかった。持ち主は司会をやったので、私を読まなければならなかったのである。ちゃんとその場所にあるのに、その聖句を長いあいだ、持ち主は見つけることができなかった。
5月5日、午後いっぱい、おばあちゃんのひざの上にいた。おばあちゃんは、ここを訪ねたのだ。コロサイ書2章5節から7節を読んで、おばあちゃんは涙を流した。
5月9日、今、毎日、午後おばあちゃんのひざの上にいる。私はそこを居心地よく感ずる。おばあちゃんはしばしば読み、私に語りかける。
5月10日、おばあちゃんは出かけた。私はもとの場所に戻された。お別れの時に接吻してもらった。
6月3日、今日、誰かが私の頁のあいだに、クローバーの葉を二、三枚挿んだ。
7月1日、着物や他のものと一緒に、トランクに詰められた。休みにどこかへ出かけるらしい。
7月7日、まだ、トランクの中にいる。
7月10日、他のものはほとんど皆、取り出されたのに、私はまだ、トランクの中にいる。
7月14日、再び家に帰ってもとの場所にいる。かなり長い旅行だった。しかし、私は読まれなかったのに、なぜ一緒に行かなければならなかったのか、理解に苦しむ。
8月1日、ひどく息苦しく暑い。二冊の雑誌と小説が一冊、それに、古い帽子が私の上に乗っかっている。取り除かれば、うれしいのだがなあ。
9月5日、整頓され、ほこりを払われききちんと置かれた。
9月10日、今日、花子が私を少しのあいだ使った。花子はお兄さんを亡くした友だちに手紙を書いた。それで適当な聖句を用いたのだ。
9月30日、また、ほこりが払われた。

霊的いのちにも、食べ物が必要です。この霊的な食べ物を、私たちはいったい、どこで見つけるのでしょうか。聖書、すなわち、主なる神のみことばの中に見つけるのです。聖書は、イエス様の啓示、そのものであります。そして、イエス様こそが、我々の渇ける魂にとって、いのちの糧です。みことばを読んで、深く考えて、心にとどめましょう。イエス様を知る者として経験する難しい問題の九十五パーセントは聖書を読まないからです。聖書を読まない怠慢と言う罪を主に告白しましょう。もし、私たちが飢え渇きをもって聖書に接しなければ、また、みことばを深く味わわなければ、霊的に一歩も前進しないからと言って、不思議ではありません。みことばを読まない罪を言い表わすなら、主は、我々にみことばに対する飢え渇きを新しく与えてくださり、また、主が新しい御声をもって、語りかけてくださるのです。

申命記
17:19 自分の手もとに置き、一生の間、これを読まなければならない。それは、彼の神、主を恐れ、このみおしえのすべてのことばとこれらのおきてとを守り行なうことを学ぶためである。

ヨシュア
1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。

詩篇
119:72 あなたの御口のおしえは、私にとって幾千の金銀にまさるものです。

119:97 どんなにか私は、あなたのみおしえを愛していることでしょう。これが一日中、私の思いとなっています。

119:140 あなたのみことばは、よく練られていて、あなたのしもべは、それを愛しています。

我々も、ダビデのような態度を取ることができれば、祝福されます。

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