2020年8月9日日曜日

絶望的状態からのすばらしい逃れ道

絶望的状態からのすばらしい逃れ道
ベック兄暦年テープDVD2、CD24-0331
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。

ヨハネ伝の今、読まれました三章の十六節に、『神は愛された』と書き記されています。いちばんよく知られている聖書の箇所ではないかと思います。もちろん、神は愛されただけではなく、神は今日も愛していてくださり、いつまでも愛したもうお方であると聖書は言ってます。

2020年8月2日日曜日

イエスの救い(三)進歩への道「知ること」

イエスの救い(三)進歩への道「知ること」
主は生きておられる、54号、2020年
ゴットホルド・ベック

今回は、ルカの福音書3章3節からお節、そしてローマ人への手紙6章1節から1節を学び「進歩への道、すなわち知ること」について考えてみたいと思います。

主なる神様のご目的は、私たちが主イエス様の似姿に変えられていくことです。これが私たちの内に実現する時に、私たちはパウロと同じように、「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2・2)と、言えるようになります。

ところで問題は、いかにしてそのようになるかということです。

これまで私たちは、どうしても知らなければならない基本的な二つの事柄について学んで来ました。「人間の罪と主イエス様の血潮の価値」、そして「私たちの古い人に対する主イエス様の十字架の価値」です。この事実がなければ、私たちは揺るがないしっかりとした土台の上に立つことはできません。この恵みの事実こそ、私たちの信仰生活の土台なのです。

2020年8月1日土曜日

The Salvation of Jesus (3), the Path to Progress: “Knowing” [Unser Herr lebt, Issue 54]

The Salvation of Jesus (3), the Path to Progress: “Knowing”
Unser Herr lebt, Issue 54, 2020
Gotthold Beck

In today's sermon, I would like to study the Gospel according to Luke, chapter 23, verses 33-43 and the Epistle to the Romans chapter 6, verse 1-11 and discuss the “knowing as the path to the progress.”

The purpose of the Lord God is for us to be transformed into the likeness of the Lord Jesus. When this is realized in us, we will be able to say just as Paul did, “I no longer live, but the Messiah lives in me (Galatians 2.20).”

The question, by the way, is how this can actually happen to us.

We have learned in the previous articles about two fundamental facts we absolutely need to know, which were, “sin of humans and the value of the Lord Jesus' blood” and “the value of the Cross of the Lord Jesus to our old man.” Without these facts, it is not possible for us to stand on a firm and unshakable foundation. These facts of grace are the foundation of our faith life.

2020年7月11日土曜日

悲しみの中の祈り

悲しみの中の祈り

2020年7月11日、芦屋ティータイム
古田 公人

第一ヨハネ
5:14 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。

詩篇
ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌
3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。セラ
3:3 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
3:4 私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ
3:5 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。
3:6 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
3:7 主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
3:8 救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ

この詩篇の三篇は、『ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの・・・・』と記されています。もちろん、ダビデでは、ご存知のように、イスラエルの王で、アブシャロムはダビデの三男でした。この息子は、父親に代わって、自分が王になりたいと思っただけではなくて、彼は行動に移しました。そのアブシャロムの謀反の中での、ダビデの祈りがこの詩編三篇であります。

2020年7月5日日曜日

エマオの二人

エマオの二人
2020年7月5日、秋田福音集会
翻訳虫

ルカ
24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。

[1]はじまり

今、読んでいただきました、ルカの福音書の最後の章には十字架で死なれたイエス様が三日後に復活した、その一日のあいだに起こった出来事が、三つの部分に分けられて、三組の人々の経験を中心に描かれています。初めの1節から12節は、イエス様の墓が空であることを見つけた女たち、次に、エルサレムからエマオへ歩いていた二人の弟子、そして、最後に、36節から後ろは、エルサレムに残っていた十一人の弟子たちであります。

祈りのかたち

祈りのかたち
2020年7月5日、吉祥寺福音集会
古田 公人

マタイ
6:5 また、祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。
6:6 あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

おはようございます。こういう機会をいただきましたことを、本当に感謝いたします。

2020年6月28日日曜日

五つの言葉

五つの言葉
2020年6月28日、吉祥寺福音集会
岡本 雅文

第二コリント
13:11 終わりに、兄弟たち。喜びなさい。完全な者になりなさい。慰めを受けなさい。一つ心になりなさい。平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神はあなたがたとともにいてくださいます。

一瞬にして全世界を覆ったこのコロナ・ウィルスによる災害でさえも、時がたてば、過去の時代の人間が自然界の脅威を克服した成果のひとつとして、記録に留まるのではないでしょうか。しかし、すべてのものの造り主が、意味の無いことをなさるはずがない。これが聖書、すなわち、イエス・キリストを信じるわたしたちの確信です。

そして、主なる神がアブラハムに対して考えられたように、信仰によるアブラハムの子孫である私たちも、御言葉によって、彼、アブラハムと同じように取り扱われています。

苦しみの中の祈り

苦しみの中の祈り
2020年6月28日、御代田福音集会
古田 公人

詩篇
ダビデがその子アブシャロムからのがれたときの賛歌
3:1 主よ。なんと私の敵がふえてきたことでしょう。私に立ち向かう者が多くいます。
3:2 多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼に神の救いはない。」と。セラ
3:3 しかし、主よ。あなたは私の回りを囲む盾、私の栄光、そして私のかしらを高く上げてくださる方です。
3:4 私は声をあげて、主に呼ばわる。すると、聖なる山から私に答えてくださる。セラ
3:5 私は身を横たえて、眠る。私はまた目をさます。主がささえてくださるから。
3:6 私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。
3:7 主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。
3:8 救いは主にあります。あなたの祝福があなたの民の上にありますように。セラ

おはようございます。久しぶりに御代田のこの礼拝堂で礼拝をさせていただき、キャンプがとても待ち遠しく感じました。本当に感謝です。

2020年6月14日日曜日

静かな奇蹟

静かな奇蹟
2020年6月14日、秋田福音集会
翻訳虫

ヨハネ
2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません。」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
<<<2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、――しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた。――彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」>>>
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。

三月からこの秋田集会も閉鎖されておりましたが、また、こうして兄弟姉妹の皆さまとともに礼拝し、また、聖書からご一緒に学びことができることに感謝します。

2020年6月7日日曜日

しばらく休みましょう

しばらく休みましょう
2020年6月7日、高知福音集会
高橋 義夫

マルコ
6:30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。
6:31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。
6:32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

きょうのタイトルは、「しばらく休みましょう」です。

お話のきっかけに・・・・

まず、ある教会であった笑い話のような出来事なんですけど、ひとつ紹介したいと思います。ある教会の牧師先生のブログに書いてありました。その教会に元気に教会に通い始めた熱心な若い姉妹がいたそうです。日は浅いけれども、教会の奉仕もよくしてくださって、牧師先生の良き助け手だったそうです。牧師先生の期待も大。また、いろいろと教会に提案もしてくれる。その姉妹が、夏の近づく前のある日、また話があると牧師室に来ました。夏も近いから、また、夏の集会とか、何かアイデアが浮かんだのかしらと牧師先生は、楽しみにお話を伺いました。すると、こんなふうに言ったそうなんです。

2020年3月16日月曜日

イエスの救い(二)「古い人」に対するイエス様の「十字架」の価値[主は生きておられる53号]

イエスの救い(二)「古い人」に対するイエス様の「十字架」の価値
主は生きておられる、53号、2020年
ゴットホルド・ベック

前回、私たちは、人間の罪と主イエス様の血潮の価値について三つのことを学びました。第一に、主イエス様の血潮によって神と人との間を隔てている罪という名の壁は取り除かれ、人は神との交わりが可能になりました。これを深く知るなら、第二に、良心の呵責は消え、第三に、悪魔の訴えは効き目がなくなります。

今回は、私たちの「古い人」に対するイエス様の「十字架」の価値について考えてみたいと思います。

かつて私たちは、神を知らず、望みもなく、滅んでいかなければならない自分を見出した時、このように叫びました。「主よ、私は滅びなければならない罪深い者です。どうか赦して、救って下さい」と。その時、私たちは、主イエス様の流された血潮は、すべての罪を聖める力があるということを深く知りました。そして悔い改めて信仰に立った私たちですが、大部分の兄弟姉妹はさらにその先を経験しているのではないでしょうか。

つまり、私たちは罪を犯しただけではなく、自分自身が罪の本質を根深く持った「罪人である」ということを、認めるようになったのではないでしょうか。

2020年3月15日日曜日

The Salvation of Jesus (2), the Value of Jesus' 'Cross' to the 'Old Man' [Unser Herr lebt, Issue 53]

The Salvation of Jesus (2), the Value of Jesus' 'Cross' to the 'Old Man'
Unser Herr lebt, Issue 53, 2020
Gotthold Beck

In the previous article, we learned three things regarding the sin of humans and the value of the blood of the Lord Jesus. Firstly, by the blood of the Lord Jesus, the wall called sin, that used to separate humans from God was taken down, and this made it possible for humans to have fellowship with God. Secondly, when we deeply understand this fact, our guilty conscience disappears and thirdly, the accusation of the devil loses his influence.

In this article, I would like to continue the discussion and talk about the value of the 'Cross' of Jesus against our “old man.”

Once, we found ourselves perishing without knowing God, and with no hope, which made us cry out, “Lord, I am a sinful person who is destined to perish. Please forgive and save me.” At that moment, we have realized deep in our heart that the shed blood of the Lord Jesus has the power to cleanse all our sins. And this realization has made us repent and stand in faith, I believe that most of our brothers and sisters have shared the same experience.

In other words, we recognized that not only have we sinned, but we are “the sinners” who inherently have the nature of sin deep inside our beings, didn't we?

2020年2月25日火曜日

エペソ人への手紙から学ぶ

エペソ人への手紙から学ぶ
2020年2月25日、火曜学び会
水渡 紀久雄

エペソ
4:1 さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。
4:2 謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
4:3 平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

ご存知のようにエペソ人への手紙というのは、新約聖書の中で、ローマ人への手紙と並んで、パウロが残した重要な書簡とされております。ただし、ローマ人への手紙は、パウロがエペソの教会で活動し、ご奉仕した頃に、コリントで書かれたと言われてます。その代わり、このエペソ人への手紙は、ローマで殉教の死を遂げる前に、ローマに幽閉されていた時に書きました。だから、むしろエペソ人への手紙の方が、最後の手紙ということになると思います。ローマ人の手紙は、ローマで書かれたわけではないということです。

2020年2月23日日曜日

新しいいのちにあって生きる

新しいいのちにあって生きる
2020年2月23日、吉祥寺福音集会
古田 公人

エペソ
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

イエス様を信じる者は、罪が赦され、主なる神との和解をいただき、永遠のいのちを受けます。しかし、大切なことは言うまでもなく、永遠のいのちを持つだけではなくて、その新しいいのちにあって生きることだと言えるのではないかと思います。

2020年2月9日日曜日

イエス様の前に置かれた喜び

イエス様の前に置かれた喜び
2020年2月9日、御代田福音集会
古田 公人

ヘブル
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

イエス様は、『ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の右に着座されました』と記されています。このみ言葉の中にある四つの言葉のうち、『はずかしめ』、『十字架』、『神の御座の右』、この三つの言葉については、それぞれが具体的に何であるかは、聖書を読めば、それなりに明らかになります。しかし、『ご自分の前に置かれた喜び』というものは、やはり、りちょっと聖書を読んだだけでは、何を指しているのかは、分かりにくいところではないかと思います。ですけど、この『ご自分の前に置かれた喜び』のゆえに十字架を忍ばれたのですから、前に置かれた喜びとは、イエス様が人のかたちをとってこの世に来てくださった、そのご目的に関わることであったということは、明らかであろうと思います。

2020年2月8日土曜日

来なさい。休ませてあげます

来なさい。休ませてあげます
2020年2月8日、御代田家庭集会
古田 公人

『来なさい、休ませてあげます』という題を紹介していただきましたけど、ちょっと、羊頭を掲げて、狗肉を売るという感じがしないわけではありません。お話しさせていただきたいことは、『必要な心構え』というほうがいいかもしれないんですけど、イエス様の愛の御言葉を題とさせていただきました。

イエス様一人一人に、来なさい、私のところに来なさい、休ませてあげますと、呼びかけてくださっています。今日は、この御言葉を、個人的に体験するために必要な心構えについてご一緒に考えたいと思います。

まずマルコの福音書の中のいくつかの逸話から、ご一緒に考えたいと思います。最初にマルコ5章、長血の女のところです。

2020年1月26日日曜日

三つ撚りの糸

三つ撚りの糸
2020年1月26日、秋田福音集会
岡本 雅文

マタイ
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

イエス様を知らなかった頃の私たちもそうですけれども、イエス様を救い主として信じておられない現代の多くの善良な人々は、悔いのない人生を送りたいと思っておられるのではないかと思います。

この世の中で広く受け入れられているこの価値観について、少し考えてみると、ただ自分の思うとおりに生きていきたい、自分が満足する道を歩んでいきたい、すなわち、自己満足の道を歩みたいという人間の普遍的な自己愛の性質を、きれいな言葉で言い表したに過ぎないのではないかと思います。言葉を変えて言えば、多くの人々にとって――以前の私たちにとっても――悔いのない人生を送るということばで表される人生観は、ある種の高尚な生き方にさえ思われるのではないかと思います。こうして、『悔いのない』という短いフレーズの中に、人間の利己的な思いが覆い隠されて、美化された志(こころざし)として、広く人々に受け入れられています。

2020年1月21日火曜日

キリストの弱さと強さ

キリストの弱さと強さ
2020年1月21日、吉祥寺学び会
黒田 禮吉

第二コリント
13:3 ・・・・キリストはあなたがたに対して弱くはなく、あなたがたの間にあって強い方です。
13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

兄弟に読んでいただいた聖書の箇所の少し前から、もう一度、読ませていただきたいと思います。

2020年1月5日日曜日

サタンもみことばを利用する

サタンもみことばを利用する
2020年1月5日、吉祥寺福音集会
重田 定義

マタイ
4:5 すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、
4:6 言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる。』と書いてありますから。」
4:7 イエスは言われた。「『あなたの神である主を試みてはならない。』とも書いてある。」

新しい年を迎えました。私たちにとって、今年はどんな年になるのでありましょうか。たしかなことは、主の御再臨が間近に迫ることを示す、聖書に記されている通りの数々の世の終わりの前兆が、いよいよ明らかに、そして、その激しさを増す年となることであり、それはまた、私たちの集会に対するサタンの攻撃が、激しさを増す年となることだと思います。

2019年12月31日火曜日

金を数えてはならない

金を数えてはならない
2019年12月31日、御代田よろこびの集い
岡本 雅文

第二列王記
22:1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。彼の母の名はエディダといい、ボツカテの出のアダヤの娘であった。
22:2 彼は主の目にかなうことを行なって、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。
22:3 ヨシヤ王の第十八年に、王はメシュラムの子アツァルヤの子である書記シャファンを主の宮に遣わして言った。
22:4 「大祭司ヒルキヤのもとに上って行き、主の宮に納められた金、すなわち、入口を守る者たちが民から集めたものを彼に計算させ、
22:5 それを主の宮で工事している監督者たちの手に渡しなさい。それを主の宮で工事している者たちに渡し、宮の破損の修理をさせなさい。
22:6 木工、建築師、石工に渡し、また宮の修理のための木材や切り石を買わせなさい。
22:7 ただし、彼らの手に渡した金を彼らといっしょに勘定してはならない。彼らは忠実に働いているからである。」

先日、長い信仰生活を送ってこられた兄妹姉妹の家に泊めていただきました。そのとき、その方は、今、読んでいただいた最後の七節、「ただし、彼らの手に渡した金を彼らと一緒に勘定してはならない。彼らは忠実に働いているからである」という箇所を読んで、非常に驚いたと言われました。そして、同時に、本当に考えさせられたと語ってくださいました。主イエス様が、私たちの群れにも、この旧約聖書から御心を告げてくださっていると、私は思います。「金を勘定してはならない」、すなわち、「計算してはならない」という御言葉は、何を意味しているのか、聖書に耳を傾けてみたいと思います。

2019年11月24日日曜日

教会はイエスさまのからだ

教会はイエスさまのからだ
2019年11月24日、吉祥寺福音集会
古田 公人

エペソ
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

今、お読みくださいましたように、教会のかしらは全ての支配、権威、権力、主権の上におられるイエスさまであります。ですから、教会は隅から隅まで、イエス様のものだということができるのではないかと思います。

2019年11月16日土曜日

The Salvation of Jesus (1), Sins of Humans and the Value of Jesus' Blood [Unser Herr lebt, Issue 52]

The Salvation of Jesus (1), Sins of Humans and the Value of Jesus' Blood
Unser Herr lebt, Issue 52, 2019
Gotthold Beck

The Bible is not trying to convey some theories or teachings to us; rather, it is telling us the truth.

The most important truth written in the Bible is the salvation accomplished by the Lord Jesus. It is not enough for us to have this fact merely as knowledge stored in our heads, but our daily lives need to be filled with this knowledge and we need to understand this fact as our personal experience. This kind of knowledge is completely different from what we have in our heads; it is penetrated so deep within us that it cannot be separated from our personality.

Now, we are living in the dark age of the end time. We need a solid foundation that is as stable as a rock. I am convinced that this foundation is the knowledge embedded deep into our lives, as I just mentioned and the eternal fact about God that is conveyed in the Bible.

2019年11月15日金曜日

イエスの救い(一)人間の罪とイエス様の血潮の価値[主は生きておられる52号]

イエスの救い(一)人間の罪とイエス様の血潮の価値
主は生きておられる、52号、2019年
ゴットホルド・ベック

聖書は私たちに理論や教えを伝えようとしているのではありません。事実を伝えようとしています。

聖書の中でもっとも大切な事実は、主イエス様のなされた救いです。私たちはこの事実を、頭の中に蓄えた知識として知っているだけでは駄目で、生活の中にその知識が満たされ、体験的に知っていなければなりません。このような知識は、頭の知識とは遠くかけ離れた知識であって、私たちの人格から切り離して考えることのできないほど内に深く浸透しているものです。

私たちは今、末の世の暗黒の時代に生きています。私たちには岩のように堅いしっかりとした土台が必要です。その土台とは、今述べたような生活の中にしみこんだ知識、聖書が伝える神の永遠に変わらない事実でなければならないと確信しています。

2019年11月3日日曜日

集会の権威と秩序

集会の権威と秩序
2019年11月3日、御代田よろこびの集い
黒田 禮吉

ローマ
13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

私は若いころ、世の中の権威に従えない者でありました。むしろ、古い権威に抵抗してこそ、新しい世界が開かれると信じていました。ですから、読んでいただいたみ言葉を知ったとき、たいへんに驚いたことを覚えています。

聖書は、上に立つ権威は、神によって建てられたものだから、従いなさいと言っています。私たちには、法律をはじめ、様々な決まりごとがあります。それらに従って生きることが、信じる者としての務めです。私たちは、神の恵みによって、信仰によって、救われたものです。けれども、世の中の決まりから、自由にされているということでは、決してありません。社会のルールに従うことは、律法主義ではありません。逆に、ルール違反をすることに対して、決して言い訳をすることはできません。

2019年9月29日日曜日

悔い改めてはじめの行いをしなさい

悔い改めてはじめの行いをしなさい
2019年9月29日、吉祥寺福音集会
古田 公人

使徒行伝
20:27 私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。
20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
20:29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
20:30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
20:31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。

2019年7月20日土曜日

What Kind of Man is Jesus? [Unser Herr lebt, Issue 51]

What Kind of Man is Jesus?
Unser Herr lebt, Issue 51, 2019
Gotthold Beck

And one of the Pharisees desired him that he would eat with him. And he went into the Pharisee's house, and sat down to meat. And, look, a woman in the city, which was a sinner, when she knew that Jesus sat at meat in the Pharisee's house, brought an alabaster box of ointment, And stood at his feet behind him weeping, and began to wash his feet with tears, and did wipe them with the hairs of her head, and kissed his feet, and anointed them with the ointment.
Now when the Pharisee which had bidden him saw it, he spoke within himself, saying. This man, if he were a prophet, would have known who and what manner of woman this is that touches him. for she is a sinner.
And Jesus answering said to him. Simon. I have somewhat to say to you. And he says, Master, say on.
There was a certain creditor which had two debtors. the one owed five hundred pence, and the other fifty. And when they had nothing to pay, he frankly forgave them both. Tell me therefore, which of them will love him most? Simon answered and said. I suppose that he, to whom he forgave most. And he said to him. You has rightly judged.

2019年7月19日金曜日

イエス様とはどのようなお方でしょうか[主は生きておられる51号]

イエス様とはどのようなお方でしょうか
主は生きておられる、51号、2019年
ゴットホルド・ベック

さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。
イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。
するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。
「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」シモンが、「よけいに赦してもちったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。

2019年6月30日日曜日

イエスは岸べに立たれた

イエスは岸べに立たれた
2019年6月30日、市川福音集会
黒田 禮吉

ヨハネ
21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
21:6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

今、読んでいただいた聖書の箇所ですね。『夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。』私が敬愛するある兄弟が、かつてこの聖句を礼拝の時にしばしば、読んでお祈りしてくださいました。そのときは、あまりよくわからなかったのですけど、この御言葉の意味するところが、次第に心に刻み付けられるようになりました。今日は、この御言葉の背景を、ご一緒に学んでみたいと思います。

2019年5月19日日曜日

主の計画

主の計画
2019年5月19日、富山よろこびの集い


箴言
16:9 人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。

聖書を読むと、神に仕えたいという願いをもって、生活のすべてを投げ出してまで、自分で考えた道筋に沿って行動しながら、主によって行く手をさえぎられた人たちの例が多く描かれています。

今の世界に生きている私たちもまた、ものごとが計画したとおりに進まず、挫折を味わうことは少なくありません。

人生の新しい機会を模索して、周到な準備をし、一歩を踏み出しながら、その足を取られて、希望を失った経験を、多くの人が持っているのではないでしょうか。

2019年5月12日日曜日

サタンに侵された病んだ集会、みからだなる集会を主が治療される

サタンに侵された病んだ集会、みからだなる集会を主が治療される
2019年5月12日、町田福音集会
重田 定義

エペソ
4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

私たち、人間の体は研究すればするほど、実に巧妙にできております。ここで、人間の体の仕組みを、改めてみてみたいと思います。

人間の体には、何十億もの細胞があります。そして、これらの細胞は、各々の役割に応じて、例えば、心臓の細胞は、心臓が正常に機能するように、心臓を支えるために働きます。同じように、肝臓の細胞は、肝臓が正常に機能するよう、肝臓を支えるために働きます。このように、体の全ての臓器、器官は、それぞれの細胞の働きに支えられて、正しく働くことができるのです。さらに、細胞の働きに支えられた多くの臓器、器官は、身体全体が正常に働くために、それぞれの機能を用い、互いに密接に協力し合い、調和を保ち、秩序正しく働くことによって、人間は生きているのです。小さな細胞も、大きな臓器も皆、決して、自分だけのために生きているのではありません。ですから、もしある臓器や器官の細胞に異変が起これば、その臓器、器官も正常に働くことができなくなり、その影響は身体全体に及び、病気になってしまいます。

2019年3月23日土曜日

回復への希望

回復への希望
2019年3月23日、バンクーバー喜びの集い


エゼキエル
36:25 わたしがきよい水をあなたがたの上に振りかけるそのとき、あなたがたはすべての汚れからきよめられる。わたしはすべての偶像の汚れからあなたがたをきよめ、
36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

(1)

今、読んでいただいた箇所を含め、エゼキエル書は私にとって、とても心を惹かれる書のひとつであり、また、何かわからなくなると必ず戻ってきて読み返すところです。

2019年3月17日日曜日

The Secret to Build up the Church. [Unser Herr lebt, Issue 50]

The Secret to Build up the Church.
Unser Herr lebt, Issue 50, 2019
Gotthold Beck

I would like to begin this sermon with this passage from the Gospel according to Matthew, chapter 16 verses 13 to 25:

When Jesus came into the coasts of Caesarea Philippi, he asked his disciples, saying, Whom do men say that I the Son of man am?
And they said, Some say that you are John the Baptist: some, Elias; and others, Jeremias, or one of the prophets.
He said to them, But whom say you that I am?
And Simon Peter answered and said, You are the Christ, the Son of the living God.
And Jesus answered and said to him, Blessed are you, Simon Barjona:
for flesh and blood has not revealed it to you, but my Father which is in heaven. And I say also to you, That you are Peter, and on this rock I will build my church; and the gates of hell shall not prevail against it. And I will give to you the keys of the kingdom of heaven: and whatever you shall bind on earth shall be bound in heaven: and whatever you shall loose on earth shall be loosed in heaven.
Then charged he his disciples that they should tell no man that he was Jesus the Christ. From that time forth began Jesus to show to his disciples, how that he must go to Jerusalem, and suffer many things of the elders and chief priests and scribes, and be killed, and be raised again the third day.
Then Peter took him, and began to rebuke him, saying, Be it far from you, Lord: this shall not be to you. But he turned, and said to Peter, Get you behind me, Satan: you are an offense to me: for you mind not the things that be of God, but those that be of men.
Then said Jesus to his disciples, If any man will come after me, let him deny himself, and take up his cross, and follow me. For whoever will save his life shall lose it: and whoever will lose his life for my sake shall find it. (Matthew 16:13-25)
[King James Version]

2019年3月16日土曜日

教会を建て上げる秘訣[主は生きておられる50号]

教会を建て上げる秘訣
主は生きておられる、第50号、2019年
ゴットホルド・ベック

はじめにみことばをお読みいたします。マタイによる福音書十六章十三節から二十五節です。

さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。
このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16・13~25)

2019年3月15日金曜日

Be Filled with the Holy Spirit [Unser Herr lebt, Issue 50]

Be Filled with the Holy Spirit
Unser Herr lebt, Issue 50, 2019
Gotthold Beck

When all the people had been baptized, Jesus too was baptized. While he was praying, heaven opened and the Holy Spirit descended on him, appearing in the form of a dove. Then a voice came from heaven, saying, “You are my Son, whom I love. I am pleased with you!” (Luke 3:21-22)

You, however, are not under the control of human nature but under the control of the Spirit, since God’s Spirit lives in you. And if anyone does not have the Spirit of the Messiah, he does not belong to him. (Romans 8:9)

Stop getting drunk with wine, which leads to wild living, but keep on being filled with the Spirit. (Ephesians 5:18)
[International Standard Version]

1. Those who do not Have the Spirit of Christ.

Today, I would like to discuss some aspects of being filled with the Holy Spirit.

2019年3月14日木曜日

聖霊に満たされなさい[主は生きておられる50号]

聖霊に満たされなさい
主は生きておられる、50号、2019年
ゴットホルド・ベック

さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなた睦わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカ3・21~22)

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(口ーマ8・9)

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩(ほうとう)があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5・18)

1.キリストの御霊を持たない人

きょうは、御霊に満たされることについてゆっくり考えたいと思います。

2019年1月29日火曜日

信仰の従順

信仰の従順

2019年1月29日、吉祥寺学び会
黒田 禮吉

創世記
22:2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」

信仰の父、アブラハムは数々の試みを受けましたが、最大のものとは、独り子、イサクを捧げるようにとの命令であったに違いあるません。ここで彼は、神の愛を疑うこともできました。けれども、次の三節にありますように、アブラハムが出かけて行ったのは翌朝、早くであります。つまり、彼は、神の御声を聞いてからすぐに、言われる通りにしています。愛するひとり子を捧げるという過酷な試練に、彼はすぐに、従順に、聞き従ったのであります。アブラハムは、イサクから祝福が来るという神の約束を信じていました。しかし、それをどうやって信じたのでしょうか?

2018年11月15日木曜日

Growth of the Life of Faith [主は生きておられる49号]

Growth of the Life of Faith
Unser Herr lebt, Issue 49, 2018
Gotthold Beck

He was also saying, “The kingdom of God is like a man who scatters seeds on the ground. He sleeps and gets up night and day while the seeds sprout and grow, although he doesn’t know how. The ground produces grain by itself, first the stalk, then the head, then the full grain in the head. But when the grain is ripe, he immediately starts cutting with his sickle because the harvest time has come.” (Mark 4:26-29)
[International Standard Version]

In this article, I would like to discuss with you the “growth of the life of faith” for the Christians. In chapter 4, verse 26 of the Gospel according to Mark we cited at the beginning, it is written, “the kingdom of God is like a man who scatters seeds on the ground,” which implies the beginning of the life regenerated through the belief in the Lord. And this expression in verse 27, “he sleeps and gets up night and day while the seeds sprout and grow,” illustrates how the regenerated life continues to grow.

2018年11月14日水曜日

信仰生活の成長[主は生きておられる49号]

信仰生活の成長
主は生きておられる、49号
ゴットホルド・ベック

また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」(マルコ4・26~29)

きょうは、キリスト者の「信仰生活の成長」について、ご一緒に考えてみたいと思います。はじめに読んだマルコによる福音書4章26節には「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので」とあって、主を信じ新生したいのちの生涯の始まりが書かれています。そして次の「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます」という27節は、新生したいのちの成長について書かれています。

2018年4月15日日曜日

パン種の入らない純粋で真実なパンとは

パン種の入らない純粋で真実なパンとは
2018年4月15日、吉祥寺福音集会
重田 定義

第一コリント
5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。
5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。

今日は、今、紹介していただいた、『パン種の入らない純粋で真実なパン』というのは、いったい何か、このことについて、ご一緒に考えたいと思います。

2018年4月14日土曜日

The Parable of the Mustard Seed (2) [主は生きておられる48号]


The Parable of the Mustard Seed (2)
Unser Herr lebt, Issue 48, 2018
Gotthold Beck

からし種のたとえ(2)
主は生きておられる48号
ゴットホルド・ベック


He was also saying, “How can we show what the kingdom of God is like, or what parable can we use to describe it? It is like a mustard seed planted in the ground. Although it is the smallest of all the seeds on earth, when it is planted it comes up and becomes larger than all the garden plants. It grows such large branches that the birds in the sky can nest in its shade.” With many other parables like these, Jesus kept speaking his message to them according to their ability to understand. He did not tell them anything without using a parable, though he explained everything to his disciples in private. (Mark 4:30-31)[International Standard Version]

In our previous issue, we discussed two things through the parable of the mustard seed; firstly, what the kingdom of God is, and secondly, how the kingdom of God is revealed to us at this present time. In this article, I would like to discuss with you briefly the third point; how the kingdom of God will be realized in the ages to come.

2018年1月15日月曜日

The Parable of the Mustard Seed (1) [主は生きておられる47号]

The Parable of the Mustard Seed (1)
Unser Herr lebt, Issue 47, 2018
Gotthold Beck

からし種のたとえ(1)
主は生きておられる47号
ゴットホルド・ベック

He presented another parable to them, saying, “The kingdom from heaven is like a mustard seed that a man took and planted in his field. Although it is the smallest of all seeds, when it is fully grown it is larger than the garden plants and becomes a tree, and the birds in the sky come and nest in its branches.” He told them another parable: “The kingdom from heaven is like yeast that a woman took and mixed with three measures of flour until all of it was leavened.”

Jesus told the crowds all these things in parables. He did not tell them anything without using a parable. This was to fulfill what was declared by the prophet when he said, “I will open my mouth to speak in parables. I will declare what has been hidden since the creation of the world.” (Matthew 13:31-35, International Standard Version).

So Jesus went on to say, “What is the kingdom of God like? What can I compare it to? It is like a mustard seed that someone took and planted in his garden. It grew and became a tree, and the birds of the sky nested in its branches.” Again he said, “What can I compare the kingdom of God to? It is like yeast that a woman took and mixed with three measures of flour until all of it was leavened.” (Luke 13:18-21sion).

In this article, I would like to discuss briefly the parable of the mustard seed. Let us divide the discussion into three parts.