2019年11月3日日曜日

集会の権威と秩序

集会の権威と秩序
2019年11月3日、御代田よろこびの集い
黒田 禮吉

ローマ
13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

私は若いころ、世の中の権威に従えない者でありました。むしろ、古い権威に抵抗してこそ、新しい世界が開かれると信じていました。ですから、読んでいただいたみ言葉を知ったとき、たいへんに驚いたことを覚えています。

聖書は、上に立つ権威は、神によって建てられたものだから、従いなさいと言っています。私たちには、法律をはじめ、様々な決まりごとがあります。それらに従って生きることが、信じる者としての務めです。私たちは、神の恵みによって、信仰によって、救われたものです。けれども、世の中の決まりから、自由にされているということでは、決してありません。社会のルールに従うことは、律法主義ではありません。逆に、ルール違反をすることに対して、決して言い訳をすることはできません。


けれども、もちろん、この世は完全ではなく、むしろ、『全世界は悪い者の支配下にある』――これは第一ヨハネ五章十九節のみ言葉です――そのように、聖書は言っています。したがって、社会の中にある決まりや法律の中には、神が建てられたおきてに違反しているものがあります。そのようなときは、人の決まり事よりも、神の定めに従うべきです。

聖書の中には、そのような例を見ることができます。例えば、ペテロとヨハネは、イエスの名によって語ったり、教えたりしてはならないと、祭司長たちに命じられました。しかし、主イエス様は全世界に福音を宣べ伝えなさいと言われました。ですから、彼らは神に聞き従うより、あなたがたに聞き従う方が、神の前に正しいかどうか判断してくださいと言って、み言葉を語り続けたのであります。

さて、御体なる教会においてもルールがあります。何でもかんでも自由であるということはできません。エペソ人への手紙から読ませていただきます。

エペソ
4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

4:16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。

使徒や預言者、あるいは、伝道者が与えられておるのは、聖徒たちを整えて、奉仕の働きをさせるためであると書かれています。

けれども、奉仕をするのは、牧師や伝道者だけでなく、一人一人の信者なのです。全ての人が奉仕者として、召されているのです。そして、御体なる教会をどのように建て上げるのか、その道を示し、その歩みを助けるのが指導者の役目であり、聖徒たちを整えることではないでしょうか。

こうして、集会、教会は、兄弟姉妹によって、組み合わされ結び合わされて、成長するのであります。敵であるサタンはですから、御体なる教会を攻撃し、信じるものの互いの関係に、そして、立てられている指導者とのあいだにきしみをもたらしますま。もちろん、悪い指導者は多くおり、そのため、その支配を受けた民が迷い、神がそれら指導者を裁かれたことは、聖書に多く出てきます。けれども、必ずしもそうではない指導者を、神は選ばれて、立てておられ、ご自分の民を導かれたことも同時に記しています。大事なのは、神は完全な人を立てておられるのではなく、不完全なものを用いておられるということです。

聖書は徹頭徹尾、神のみが義であることを教えています。そして、主が用いられた人々、例えば、アブラハム、モーセ、ダビデ、これらの人々には失敗があり、欠点がありました。しかし、その弱さや欠点も織り込み済みで、恵みの神が確かに働かれていたことを知ります。そこに、人ではなく、神のご計画を見ることができます。ところが、人に注目するときに、うるわしい神の共同体に亀裂が入ります。お互いが人ではなく、神を見る必要があるのではないでしょうか。

モーセは、イスラエルの民ではない異邦人を妻としていました。そして、律法を授けるのに、預言を行うのに、モーセだけが用いられていました。これはおかしいと思ったのが姉のミリアムであります。

民数記
12:1 そのとき、ミリヤムはアロンといっしょに、モーセがめとっていたクシュ人の女のことで彼を非難した。モーセがクシュ人の女をめとっていたからである。
12:2 彼らは言った。「主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。私たちとも話されたのではないでしょうか。」主はこれを聞かれた。

12:9 主の怒りが彼らに向かって燃え上がり、主は去って行かれた。
12:10 雲が天幕の上から離れ去ると、見よ、ミリヤムは、らい病にかかり、雪のように白くなった。アロンがミリヤムのほうを振り向くと、見よ、彼女はらい病にかかっていた。
12:11 アロンはモーセに言った。「わが主よ。私たちが愚かで犯しました罪の罰をどうか、私たちに負わせないでください。
12:12 どうか、彼女を、その肉が半ば腐って母の胎から出て来る死人のようにしないでください。」
12:13 それで、モーセは主に叫んで言った。「神よ。どうか、彼女をいやしてください。」

『主はただモーセとだけ話されたのでしょうか。』このように、言われたんですね。これに対して、モーセは、非常に謙遜であったと、神は評価しておられます。彼は黙って、主の前にひれ伏していたのでありましょう。自分自身が深く傷ついたことでしょうが、裁きを主に委ねました。そして、主はミリアムがモーセを非難したことを怒り、彼女をらい病にしました。モーセは彼女の癒しを叫んで、祈ったのであります。

モーセとアロンだけが選ばれている。これは差別だと叫んだ者もいました。

民数記
16:1 レビの子ケハテの子であるイツハルの子コラは、ルベンの子孫であるエリアブの子ダタンとアビラム、およびペレテの子オンと共謀して、
16:2 会衆の上に立つ人たちで、会合で選び出された名のある者たち二百五十人のイスラエル人とともに、モーセに立ち向かった。
16:3 彼らは集まって、モーセとアロンとに逆らい、彼らに言った。「あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか。」
16:4 モーセはこれを聞いてひれ伏した。

16:8 モーセはさらにコラに言った。「レビの子たちよ。よく聞きなさい。
16:9 イスラエルの神が、あなたがたを、イスラエルの会衆から分けて、主の幕屋の奉仕をするために、また会衆の前に立って彼らに仕えるために、みもとに近づけてくださったのだ。あなたがたには、これに不足があるのか。
16:10 こうしてあなたとあなたの同族であるレビ族全部を、あなたといっしょに近づけてくださったのだ。それなのに、あなたがたは祭司の職まで要求するのか。
16:11 それだから、あなたとあなたの仲間のすべては、一つになって主に逆らっているのだ。アロンが何だからといって、彼に対して不平を言うのか。」

『あなたがたは分を越えている。全会衆残らず聖なるものであって、主がそのうちにおられるのに、なぜ、あなたがたは、主の集会の上に立つのか』と、このように言ったんですね。教会はキリストの体ではないか。ならば、全ては部分であって、私の分もあるはずなのに、なぜ、上に立って差別するのかと言っているわけであります。

一見すると、民主的でもっともな意見であります。しかし、それはアロンを立てた神の選びに対するコラの反逆でありました。結果、神ご自身が彼を生きたまま、黄泉に落としたのであります。そして、その後もアロンとモーセにつぶやく民がいました。それだけコラの意見に同調して、不満に思ってる人たちがいたのであります。

民数記
16:41 その翌日、イスラエル人の全会衆は、モーセとアロンに向かってつぶやいて言った。「あなたがたは主の民を殺した。」
16:42 会衆が集まってモーセとアロンに逆らったとき、ふたりが会見の天幕のほうを振り向くと、見よ、雲がそれをおおい、主の栄光が現われた。

16:49 コラの事件で死んだ者とは別に、この神罰で死んだ者は、一万四千七百人になった。

主の権威に反逆したからでありますが、考えられないほど恐ろしい結末となりました。

もうひとつ、サムエルの例を見てみたいと思います。彼は、非難されるどころか、指導者として不適格として、免職されてしまいました。そのきっかけとなったのは、彼の息子たちであります。

第一サムエル
8:1 サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとした。

8:3 この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた。
8:4 そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、
8:5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」
8:6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。
8:7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。
8:8わたしが彼らをエジプトから連れ上った日から今日に至るまで、彼らのした事といえば、わたしを捨てて、ほかの神々に仕えたことだった。そのように彼らは、あなたにもしているのだ。
8:9今、彼らの声を聞け。ただし、彼らにきびしく警告し、彼らを治める王の権利を彼らに知らせよ。」

この息子たちは父の道を歩まず、利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていたと、書かれています。こんなものたちをサムエルは、次のさばきつかさにしようとしたのです。これではいけないと思ったイスラエルの長老たちが、他のすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててくださいと願いました。確かに、サムエルは間違ったことをしました。しかし、その間違いを利用して、自分たちがもっと大きな本質的な過ちを犯していたのです。それは、主なる神の統治を否定するということでした。主はサムエルに言われました、『それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。』

教会において、指導者の責任を取り上げるときに、しばしば起こるのが、このような問題ではないでしょうか。しかし、イスラエルの民がサムエルにしたように、自分が問題を棚上げして、相手の欠点のみを指摘することによって、自分自身の問題を見ないようにしたのは、大きな間違いであります。

ゴットホルド・ベック兄が召された後、ごく一部の兄弟がベック兄の晩年を批判し、誤解や間違いがあったと公言するようになりました。私はそれを聞いて、非常に悲しくなりました。もちろん、ベック兄にも、人間的な弱さや誤りはあったでしょう。しかし、私たちは一人として、自分のことを棚に上げて、兄弟のことをあれこれ言う資格などないものであります。そして、何よりも、ベック兄ご自身は、先生とか、指導者と呼ばれることをもっとも嫌われたのは、周知の事実であります。大切なことは、ベック兄を通して、主が建て上げられたこの集会を、そのような人間的な偏った思いや意図でもって、台無しにしてはならないということではないでしょうか。

マタイ
7:1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
7:2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
7:4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。
7:5 偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。

私たちは、兄弟の目のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのです。そして、自分の肉の部分は、そのまま放置するため、内側で腐敗して、大きな罪を犯すにいたるのではないでしょうか。

指導者の欠けたところを利用して、自分自身を大々的に売り込んだのはアブシャロムです。ダビデが罪を犯し、ウリヤの妻、バテシェバを奪い、ウリアを殺しました。そこから、彼の家に剣が入ってきました。ダビデの子、アムノンが、同じく子であったアブシャロムに殺されました。いろいろな事情がありましたけども、それで、ダビデはアブシャロムと口をきかなくなりました。そうこうしているうちに、親子の溝が生まれ、アブシャロムはしつけを受けない結果、うぬぼれと憎しみでいっぱいの人間になりました。

第二サムエル
15:2 アブシャロムはいつも、朝早く、門に通じる道のそばに立っていた。さばきのために王のところに来て訴えようとする者があると、アブシャロムは、そのひとりひとりを呼んで言っていた。「あなたはどこの町の者か。」その人が、「このしもべはイスラエルのこれこれの部族の者です。」と答えると、
15:3 アブシャロムは彼に、「ご覧。あなたの訴えはよいし、正しい。だが、王の側にはあなたのことを聞いてくれる者はいない。」と言い、
15:4 さらにアブシャロムは、「ああ、だれかが私をこの国のさばきつかさに立ててくれたら、訴えや申し立てのある人がみな、私のところに来て、私がその訴えを正しくさばくのだが。」と言っていた。
15:5 人が彼に近づいて、あいさつしようとすると、彼は手を差し伸べて、その人を抱き、口づけをした。
15:6 アブシャロムは、さばきのために王のところに来るすべてのイスラエル人にこのようにした。こうしてアブシャロムはイスラエル人の心を盗んだ。

このようにして、アブシャロムはダビデに反逆したのでした。指導者の欠けたところを、代わりの者たちが満たそうとすると、何が起こるのでしょうか。分裂です。そこには、争い、流血が起こります。

確かに、ダビデは弱い人間でした。しかし、主を愛し、全てを主にお任せして、耐え忍びました。その結果、神によって守られたのです。主に召されたものは、へりくだり、主の御心を選び取る力を与えられています。そして、弱さの中に神はおられて、不思議な働きをされるのであります。

使徒たちの中でも、パウロは、あることないこと、いろいろ批判されていました。しかし、彼は毅然として、主から示されたことを語り、さばきを主にゆだねました。

第一コリント
4:1 こういうわけで、私たちを、キリストのしもべ、また神の奥義の管理者だと考えなさい。
4:2 このばあい、管理者には、忠実であることが要求されます。
4:3 しかし、私にとっては、あなたがたによる判定、あるいは、およそ人間による判決を受けることは、非常に小さなことです。事実、私は自分で自分をさばくことさえしません。
4:4 私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで無罪とされるのではありません。私をさばく方は主です。

パウロは寛容であり続けましたが、いつまでも強行に彼の評判を貶めている者たちに対して、強い処罰で臨むということも述べています。けれども、彼は敵対しているコリントの人たちにも、悔い改めて、立ち返るようにと祈っていたのであります。

第二コリント
13:5 あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか。――あなたがたがそれに不適格であれば別です。――
13:6 しかし、私たちは不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいます。
13:7 私たちは、あなたがたがどんな悪をも行なわないように神に祈っています。

分派とは、元をたどると、十字架からの逸脱ということではないでしょうか。十字架は、私たちが救いようのない存在であり、ただ神の憐れみによってしか、歩むことのできないものだということを教えます。私たちはただ、主の前に出て、へりくだって、神の哀れみを請うだけ者ではないでしょうか。一人一人が、そのように自分をわきまえれば、分派は起こらないのではないでしょうか。

集会の現状に対して、私たちは人間的に何かするべきことがあるのかもしれません。私はそれが分かりません。けれども、私たちには大祭司であるイエス様がおられます。主には、欠けはありません。隠されているすべてのことを明らかにして、み心を行われる方であります。

モーセはひれ伏して、主の裁きを待ちました。ダビデは全て、主にお任せて耐え忍びました。そして、パウロは必要な処断をしましたが、悔い改めて立ち返るようにと祈ったのであります。私たちも、全能の主に信頼して、祈りつつ、忍耐して、この危機を持つことこそ、大切ではないでしょうか。

最後に、ガラテヤの二章二十節を読んで終わりにしたいと思います。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

私たちの肉は、イエス様とともに十字架につけられました。私たちは、信じる者のうちに、御霊として入っておられるイエス様とともに歩む者と変えられたのです。ですから、主こそが第一であるとの信仰に立ち、主の御手を妨げないようにしたいものであります。

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