2019年3月14日木曜日

聖霊に満たされなさい[主は生きておられる50号]

聖霊に満たされなさい
主は生きておられる、50号、2019年
ゴットホルド・ベック

さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。「あなた睦わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」(ルカ3・21~22)

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(口ーマ8・9)

また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩(ほうとう)があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5・18)

1.キリストの御霊を持たない人

きょうは、御霊に満たされることについてゆっくり考えたいと思います。


使徒パウロは「御霊に満たされなさい」とエペソにいる人々に書き送りました。また、ローマにいる人々に「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません」と書いています。キリストの御霊を持っていなければ、キリストのものではない、つまり、救われていないということです。たとえ教会の牧師であろうと、ローマ法王であろうとも、もしキリストの御霊を持っていなければ、救われていないことになります。聖霊がその人の内に住まわれ聖霊の宮になることこそが、救われることです。聖霊の宮にされた人々だけが、本当の意味で人生において前向きに生活することができるのです。

けれども、キリストのものとされ聖霊の宮になっても、ただそれだけでは充分とは言えません。聖霊をいただいて、さらに聖霊に満たされなければならないのです。最も大切なことは、御霊に満たされることです。聖霊に満たされている人は、その苦しみが静められ、問題が問題でなくなり、欠乏は取り除かれるようになります。

2.御霊に満たされること

ここで、主イエス様ご自身の場合を見てみたいと思います。それを通して私たちは、イエス様に用いられるために何を経験しなければならないかを考えるべきではないでしょうか。もう一度、ルカによる福音書を読みます。「さて、民衆がみなバプテスマを受けていたころ、イエスもバプテスマをお受けになり、そして祈っておられると、天が開け、聖霊が、鳩のような形をして、自分の上に下られるのをご覧になった。また、天から声がした。『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。』」。イエス様の洗礼は、イエス様が公のご奉仕をされる出発点でした。この洗礼の時、聖霊は鳩のようにイエス様の上に下られたとあります。もちろんイエス様の洗礼は、私たちの洗礼とはまったく違うものでした。けれども、イエス様が経験なさったことは、私たちの経験でもなければなりません。つまり私たちは聖霊に満たされた者でなければならないということです。

また私たちはイエス様が聖霊によってマリヤの胎(たい)に宿られ、お生まれになられたということを知っています。聖書がこう証言しています。

彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎(たい)に宿っているものは聖霊によるのです。」(マタイ1・20)

もう一箇所、お読みします。

御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨(のぞ)み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。」(ルカ1・35)

イエス様が聖霊によってお生まれになった証拠として、聖書はイエス様が完全な、聖い、罪のない人生を送られたと言っています。

また、このようにきよく、悪も汚(けが)れもなく、罪人から離れ、また、天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。(ヘブル7・26)

イエス様は神であられましたが、ご自分の意思で、この世に来てくださいました。罪と滅びに定められ、絶望し、悩み、孤独になった人間を救うという目標をもって、地上にお出でになられました。そしてイエス様がこの公のご奉仕を始める前に、聖霊が鳩のように主の上に下られたとあります。後になってイエス様は、このことについて次のように証しなさいました。

「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣(つか)わされた。捕われ人には赦免(しゃめん)を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年を告げ知らせるために。」(ルカ4・18-19)

神の御子であるイエス様にとって、上からの力を着せられることは、ご自身の三年半におよぶご奉仕を特徴づける経験でした。聖霊はイエス様の上に留まり、イエス様は絶えず聖霊に満たされていました。

ペテロも聖霊に満たされた後、イエス様のことを「それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました」(使徒10・38)と伝えました。ペテロやイエス様の弟子たちが後に証言したことは、すでにバプテスマのヨハネが言っていたことでした。

ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授(さず)けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解(と)く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。(ルカ3・16)

そしてイエス様は、弟子たちがそのような経験をすることを約束なさいました。

「わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所からカを着せられるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24・49)

昇天なさる前には、弟子たちに次のように告げられました。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1・8)

バプテスマのヨハネが告げ、イエス様が約束なさったことがすぐに成就されたことは、使徒の働き二章に記されています。

五旬節(ごじゅんせつ)の日になって、みなが一つ所に集まっていた。…すると、みなが聖霊に満たされ・・・、(使徒2・1、4)

主は、私たちをも同じ聖霊に満たしたいと願っておられるのではないでしょうか。私たち信じる者は、自分の人生が変えられ、そのことによってイエス様が栄光をお受けになり、多くの人が真理に至るようにと願うべきです。聖霊に満たされることほど、信じる者にとって大切なことはありません。

イエス様は聖く、罪なく、罪人から離れていました。それにもかかわらず、なぜ、イエス様は聖霊に満たされることを必要とされたのでしょうか。私たちにはわかりません。それは奥義のようなものではないでしょうか。

一方、弟子たちの場合は違っていました。その点についてほ、私たちも同じで疑問の余地はありません。聖霊に満たされることなしには、弟子たちにイエス様の福音は宣べ伝えられなかったに違いありません。けれども、彼らが聖霊に満たされた時、その人生はいっぺんに変えられました。私たちも主に喜ばれる人生を送りたいと思うなら、そしてまた、主が私たちを主のご奉仕にお用いになられるには、私たちもまた、聖霊に満たされなければなりません。

3.鳩のような聖霊

そこで、まず一つの質問についてご一緒に考えてみましょう。

聖霊は、なぜ鳩のような形をして、イエス様の上に下られたのでしょうか。鳩について聖書はいろいろなことを告げていますが、おもに四つの特徴を挙(あ)げることができます。第一番目に純粋さ、第二番目に美しさ、第三番目は謙遜、そして第四番目は「喜んでする覚悟」です。

まず、鳩の純粋さについて簡単に見てみると、雅歌(がか)六章九節に次のようにあります。「汚れのないもの、私の鳩はただひとり」。これは、花嫁に対する花婿(はなむこ)の判断です。鳩は純粋なものであり、汚れのないものです。

次に鳩の美しさについては、詩篇六十八篇十三節に「銀でおおわれた、鳩の翼。その羽はきらめく黄金でおおわれている」とあります。このように、鳩は非常に美しいものであることを聖書は言っています。

それから鳩の謙虚さについては、マタイによる福音書十章十六節に「鳩のようにすなおでありなさい」とあり、鳩の特性が素直であることを聖書は認めています。

鳩のもう一つの特徴は、喜んでする覚悟です。詩篇五十五篇六節に「ああ、私に鳩のように翼があったなら」とダビデが言ったことが記されています。鳩の特徴は、何かあればすぐにそこへ飛んで行くということです。

聖霊は、鳩のようにイエス様の上に下られました。なぜならば、イエス様はすでに鳩の特徴、すなわち完全な純粋さ、美しさ、謙虚さ、喜んでする覚悟を身につけておられたからです。父なる神様は、このことを次のようなことばで証明してくださいました。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ」と。

ところで私たちの場合は事情が異なります。私たちの内には、純粋さというものを考えることが出来ません。私たちはみな汚れています。美しさというのも考えられません。イエス様の前に、私は忌(い)むべき者です。謙虚さということも考えられません。私たちはみな、誇り高く、傲慢(ごうまん)です。喜んでする覚悟ということも考えられません。私たちはみな自己追求的であり、自己中心そのものです。自分の意思を通そうとするのが私たちです。私たちはみな、生まれた時からそういう者であり、死ぬまでそういう者に留まるのではないでしょうか。もし私たちが聖霊に満たされなかったら、私たちの状態はこのままです。

聖霊は鳩のようにイエス様の上に下られました。なぜなら、イエス様こそ鳩の特徴、すなわち、完全な純粋さ、美しさ、謙虚さ、そして喜んでする覚悟をお持ちのただ一人のお方だからです。実際、聖霊に満たされた人の人生には、イエス様の純粋さ、美しさ、謙虚さ、喜んでする覚悟のうちの何かが明らかに現わされることでしょう。私たちのように蛇のような性格の持ち主は、聖霊に満たされることによって鳩のような性質を持つ者に変えられるべきではないでしょうか。

4.聖霊に満たされている人

聖霊に満たされるとは、いったいどういうことを意味しているのでしょうか。いまみてきたように、イエス様の純粋さを知ること、イエス様の美しさを反映すること、イエス様の謙虚さにあずかること、イエス様の喜んでする覚悟を経験することです。

第一に、聖霊に満たされている人は、イエス様の純粋さを知っています。イエス様が私たちの人生を聖(きよ)めてくださるのです。聖霊に満たされる前、イエス様の弟子たちは、肉的であり、その人生は絶えず上がったり下がったりしていました。彼らは、誇りに満ち、妬み深く、党派心に満ち、復讐心に燃え、批判的な考えに満ちた者でした。けれども彼らが聖霊に満たされた時、もはや誇り、妬み、党派心、復讐心、批判的な思いなどの余地がまったく無くなるほどになっていました。彼らは、内面的に聖められ、純化されることを経験したのです。

そしてまさに、私たちもまたこのことを必要としているのではないでしょうか。つまり、あらゆる汚れからの聖めです。主なる神の霊が私たちを満たすことができるならば、私たちはイエス様の聖さを知ると同時に、自分自身の不純さ、汚さを知ります。私たちはそのありのままの状態で、つまり汚れたままで、主の御許に行くことが許されています。主の前で自分の過ち、わがままを告白することができます。そうするなら主は、新たに罪の汚れから聖めてくださいます。

力を持つために、聖霊に満たされたいと思っている人々もいますが、すべてのものに勝って私たちが必要としているものは、力ではありません。内面的に聖くされることです。その時はじめて主は、私たちを主の器として用いることがおできになります。

第二に、聖霊に満たされている人は、イエス様の美しさを反映するようになります。化粧をして美しくなるために、ある人はたくさんのお金を使ったりします。けれども本当の美しさは、聖霊が私たちを満たしてくださることによって現れます。聖霊によって満たされている人は、美しく魅力的ではないでしょうか。聖書にステパノという、初代教会の最初の殉教者のことが書かれています。彼は大胆にイエス様を紹介し、証ししました。イエス様の御手の内にある器でした。そのために攻撃され、議会に引き渡されて、弁明せざるを得なくなりました。このときのステパノについて次のように記されています。

議会で席に着いていた人々はみな、ステパノに目を注いだ。すると彼の顔は御使いの顔のように見えた。(使徒6・15)

御使いの顔は、疑いもなく、きれいなものです。ステパノが美しかったのはどうしてでしょうか。それは、生まれつきの自然の美しさではありませんでした。ステパノは聖霊に満たされていたと書いてあります。

しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、(使徒7・55)

ステパノのように主を見上げる者は、主の栄光をも見るようになります。彼がイエス様を見たとき、イエス様の美しさが彼の顔に反映するようになったのでしょう。主を仰ぎ見ることこそが、考えられないほど大切なことです。

第三に、聖霊に満たされている人は、イエス様の謙虚さにあずかるようになります。別のことばで表現するならば、マタイによる福音書十一章二十九節にあるように、主は私たちを、心優しく、へりくだった人にしたいと願っておられるのです。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ11・29)

鳩の特徴は、胆嚢を持っていないことです。胆嚢から出る胆汁は苦いものです。苦さと争いと誇りとは、私たち人間の性格の特徴ではないでしょうか。鳩は、柔和、謙虚さ、温和によって特徴づけられています。何と多くの人生が、誇りの胆汁のせいで破壊されていることでしょうか。

鳩の謙虚さは、どのようして現れるのでしょうか。あなたは、間違った事をしたと気がついたならば、その時、その事を正直に告白しなければなりません。「さっき言ったことを許してください。言うべきじゃありませんでした」と。また、「私はあなたに対して、批判的な態度を取ってしまいました。深く考えもせず、あなたのことについて話してしまいました。本当にごめんなさい」と。これこそが、主が求めておられる謙虚さです。

けれども、もしある人が他の誰かに「あなたから謝罪を要求します」と言うならば、それはその人の誇り、辛辣さ、喧嘩好きの印です。私たちの主イエス様は言っておられます。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば…」、そうしなければ、もちろん無理ですが「そうすれば、たましいに安らぎが来ます。」(マタイ11・29)

私たちの主イエス様は心の優しい方でしたが、決して弱い方ではありませんでした。それまで従ってきた弟子たちに、本当の意味で弟子になってほしいというのがイエス様の関心事でした。イエス様は、御足のあとに踏み従ってくる人々を、もちろん欲しておられます。どのようにすれば、イエス様のあとに従っていくことが可能なのでしょうか。弟子たちは聖霊に満たされたとき、自分の傲慢さや、自己追求、闘争心から完全に解放されました。聖霊に満たされたすべての人々と共に生活することは、本当に楽しみであり喜びです。人の心は、いかにして変えられるのでしょうか。聖霊に満たされることによってのみ変えられます。

第四に、聖霊に満たされている人は、イエス様の喜んでする覚悟を経験します。別の表現をすれば、聖霊によって満たされている人の特徴は、あらゆる主の願いを喜んで満たそうとすることです。主にだけ仕えることを喜んでする覚悟、イエス様の合図に応じて即座に行なう従順、主がなしたいと思っておられることを自分も行いたいという切なる願い、これが私たちの生活の特徴でなければなりません。次の詩篇は主の告白の預言ですが、私たちの願いを言い表すものともなっていれば幸いです。

そのとき私は申しました。「今、私はここに来ております。巻き物の書に私のことが書いてあります。わが神。私はみこころを行なうことを喜びとします。あなたのおしえは私の心のうちにあります。」(詩篇40・7-8)

私たちは、心から主の御心を行いたいと望んでいるでしょうか。このことは、一体、どうすれば可能になるのでしょうか。聖霊が私たちを満たす時、私たちは何があっても、御心だけが成されるようにという切なる願いによって満たされるようになります。聖霊に満たされるとき、私たちは主に次のように叫ぶようになります。「主よ。たとえどんな事があろうとも、御心が私の人生において成就されますように。」

5.聖霊に満たされるためには

終わりに、もう一つの問いについて考えましょう。私たちは、聖霊に満たされるために、何をしなければならないのでしょうか。パウロは、次のように証しする者でした。

私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく、御霊と御力の現われでした。(1コリント2・4)

御霊に満たされる生活の秘訣とは何でしょうか。

一つは、主の御心への完全な明け渡しです。イエス様は父なる神様の御心に完全に従いました。「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」(ルカ22・42)。イエス様の変わらない祈りとは、こういう切なる叫びでした。だからこそ、イエス様は父の御手にある従順な器であられました。その態度は、いつも「父よ。わたしはここにいます。どうかあなたのご自由になさってください」というものでした。「この地上でただあなたの御心だけが行なわれますように。わたしは何でもいたします」という祈りが、イエス様の変わらない願いの表れでした。イエス様がこの態度をお取りになられたので、聖霊は高い所からの力として、イエス様の内に宿られました。

二つ目は、祈ることです。はじめに読みましたルカの福音書三章二十一、二十二節に「(イエス様が)祈っておられると、…聖霊が…自分の上に下られるのをご覧になった」とあります。祈りこそ、聖霊に満たされるための前提なのです。

使徒の働き二章には、五旬節の日、兄弟姉妹が集まって祈っているときに、「みなが聖霊に満たされ」たと書いてあります。そしてその少しあとでも祈りの答えとして、弟子たち一同が聖霊に満たされたのです。

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(使徒4・31)

「使徒の働き」は、初代教会の歴史を語っているものです。教会の奥義を知らされ、選びの器とされたサウロのことがよく出てきますが、九章十一節に「そこで、彼は祈っています」と記されています。そしてすぐその後で、彼もまた聖霊に満たされました。「彼は祈っています」、祈りの答えとして考えられないことが起こったのです。

私たちが聖霊に満たされたいと願うなら、私たちの人生はすべて主に明け渡されなければなりません。主の御心だけを行なうということが、私たちの願いとならなければなりません。そしてまた、私たちの祈りは「主よ。私は、ただあなた様の命令だけを望みます」というものでなければなりません。

イエス様が、バプテスマを受けるためにヨルダン川の中に立った時、主イエス様の切なる心からの願い、祈りは次のようなものでした。「父よ。わたしがここにおります。あなたの御心だけが、わたしを通して行なわれますように」と。聖霊は、主イエス様が与えられた使命を果たすために必要とした高い所からの力として、主の上にお下りになりました。

今日、イエス様は私たちに次のように言っておられます。「父がわたしを遣わされたように、わたしはあなたがたを世に遣わします」と。御子イエス様だけではなく、御父も私たちを遣わしたい、用いたいと望んでおられます。御父は、私たちを一人にさせないで、聖霊が私たちの上に下られ、私たちの中に留まるようにしてくださいました。

主イエス様の次の御声を聞く人は幸いです。「わたしを通して、父は聖霊の力によって、贖いのみわざを成就してくださいました。そして今、わたしたちは、あなたがたを遣わします。あなたがたを通して、誰でも罪の赦し、神との平和、永遠のいのちをいただくことができるのです。けれども、わたしはあなたがたを一人では行かせません。わたしに、あなたがたの人生の全支配権を与えなさい。そうすれば、わたしは、あなたがたを用いることができるようになります。主の霊があなたがたを満たし、あなたがたは器として用いられるようになります。」

聖霊に満たされるとはどういうことでしょうか。第一に、イエス様の純粋さを知ること。第二に、イエス様の美しさを反映すること。第三に、イエス様の謙虚さに与かること。そして第四に、イエス様の喜ぶ覚悟を経験することです。聖霊に満たされることほど大切で、そしてイエス様の御手にある器となること以上に大いなるものは何一つないでしょう。

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