2019年3月16日土曜日

教会を建て上げる秘訣[主は生きておられる50号]

教会を建て上げる秘訣
主は生きておられる、第50号、2019年
ゴットホルド・ベック

はじめにみことばをお読みいたします。マタイによる福音書十六章十三節から二十五節です。

さて、ピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねて言われた。「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人もあり、エリヤだと言う人もあります。またほかの人たちはエレミヤだとか、また預言者のひとりだとも言っています。」
イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」
するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。
このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。ハデスの門もそれには打ち勝てません。わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」
そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた。その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16・13~25)


今、読んでくださったところは非常に大切な箇所です。イエス様の思っておられること、めざしておられる目的についてはっきり書かれています。すなわち「わたしは、わたしの教会を建てる」。

イエス様は目的を持たないお方ではありませんでした。いつもはっきりとした一つの目的をもっておられました。この時代にどのような目的をもっておられるか、イエス様は前からよくご存知でした。イエス様は目的をもち、目標をめざして死に向かって行かれたのです。そして、イエス様は死んだ後、三日目によみがえり、いまは天の御座に座しておられますが、イエス様はそこで休んでおられるわけではありません。イエス様はそこから御霊を送り、ご自分のご目的を完成しようとなさっておられます。

しかし、イエス様が望んでおられる目的とは何でしょうか。

今、話したように、イエス様ははっきり言われました。「わたしは、わたしの教会を建てよう」。イエス様のご目的はご自分の教会を打ち建てることです。イエス様がこの時代になそうとしておられるこのみわざを悪魔も知っています。もし知らなければ、これほどまでにこのみわざに反対し、逆らうはずがありません。けれどもイエス様は、かつて次のように言われました。「わたしは…わたしの教会を建てよう。黄泉のカもそれに打ち勝つことはない」(マタイ16・18口語訳)と。

この教会を見せられた人々は、今日まで幾世紀もの間にわたって、驚くべき激しい教会に対する悪魔の働きを見て来ました。もし、イエス様が私たちの心の目を開き、ご自分の目的である教会を私たちに見せることができなかったら、主は決して私たちに「わたしの心にかなった者である」というみことばをかけることがおできにならないでしょう。

私たちの目的とは一体何なのでしょうか。悪魔がイエス様のご目的を絶えず心に留めているように、私たちも主のご目的を、いつも心に留め、考えているでしょうか。多くの人々は滅び行く魂を主の御許に導き、それを一つの組織、団体に導き入れて、それで満足しています。しかし、イエス様はそれをもって満足されてはいません。何十年か前に、茨城県の那珂湊の時代だったんですけれども、一人の姉妹が次のように言われたことは、きょうまで忘れられません。「私の一番好きなみことばはエペソ人への手紙一章二十三節です」。そこをお読みします。

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1・23)

どうか、静かな所でエペソ人への手紙一章十五節から二十三節までを「主よ、どうか私の心の目を新たにお開きになってください」と祈りながらお読みになってください。

ここで、教会を建て上げる秘訣について、三つの事柄について一緒に考えてみたいと思います。第一に「三つの大切な点」、第二に「重要な質問」、第三に「必要な材料」です。

1.三つの大切な点

まず、どうしてもはっきりとさせておかなければならない三つの大切な点があります。それは、新しい土台をもつこと、十字架が必要であること、そして、イエス様の絶対的なご支配です。

(1)新しい土台をもつこと

第一に、教会は新しい土台をもっているということです。イエス様は「わたしはわたしの教会を建てよう」と言われましたが、それはどこでだったのでしょうか。マタイによる福音書十六章をみると、それは、ピリポ・カイザリヤの地だったことがわかります。(マタイ16・13)この地方は首都エルサレムから一番遠く離れた地方で、ガリラヤ湖の北端に位置しています。このビリポ・カイザリヤの地方で、イエス様はなぜ、ご自分の目的である「わたしは、わたしの教会を建てよう」というみことばを述べられたのでしょうか。

それは、ご自分のこのご目的は、今までの古い伝統とは何の関わりもない、新しいものであることを教えるために他なりませんでした。それまで、ユダヤには宗教組織があり、宮にまつわるいろいろな古い伝統がありました。しかし、イエス様はご自分の教会をこのような土台の上には建てないとおっしゃるのです。教会は、イエス様の教会でなければなりませんでした。ですから、イエス様は新しい土台をお建てになったのです。この土台は言うまでもなく、イエス様ご自身です。ペテロはイエス様にはっきりと「あなたこそ生ける神の子キリストです」(マタイ16・16口語訳)と申し上げました。

教会がイエス様の教会でなければならないのなら、その教会は肉の欲によらず、血筋によらず、人の欲にもよらず、ただイエス様によって生まれたものでなければならないはずです。ですから、教会は決して一つの組織のようであってはならないのです。人間は一つのクラブを作って、そこで聖書を学ぶことはできますが、それは決してイエス様のからだである教会とは言えません。教会は主である神によって生まれた一つの生きた有機体です。伝統や人の力によって生まれ、人の努力やこの世の力によって支えられていく教会は、ほんとうの教会とはいえないのです。

「あなたは生ける神の御子キリストです」というこのぺテロの告白は、教会の秘密を解く「鍵」のようなものではないでしょうか。このことばは、教会の頭がイエス様であることを言い表しています。教会の頭であるイエス様は上から来られたお方ですから、イエス様のからだである教会も上から生まれたものでなければならないことは言うまでもありません。教会とは、この世から召し出された者を意味します。ですから、教会はこの世に関わりを持ち、興味をもってよいはずがありません。

次に、十字架がどうしても必要であることをちょっと考えてみたいと思います。

(2)十字架が必要であること

ピリポ・カイザリヤは地理的に首都エルサレムから離れた地方であるばかりでなく、霊的にも一つの意味があるのです。イエス様はこの地方で、初めてご自分が十字架におかかりになることを明らかにされました。二十一節にこう記されています。

その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。(マタイ16・21)

どのようにして、イエス様はご自分の教会を建て上げていかなければならなかったのでしょうか。「多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならない」と主イエス様ご自身が言われました。イエス様とともに教会を打ち建てるために働こうとする者は、そのためにイエス様が死に渡されなければならなかったということを知らなければなりません。イエス様はご自分のいのちを捨てて初めて、教会を打ち建てることがおできになりました。ですからイエス様と共に十字架につけられた者だけが、イエス様と共に働く者となることができると言えましょう。

人間の努力をもって新約聖書の教会について考え、構想を練ることが大切なことではありません。何にも勝って大切なことは、イエス様と共に十字架につけられて、この身が死に渡されるということです。私たちはパウロと等しく「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)と言えるようにならなければなりません。

イエス様の教会を建て上げるために必要なのは、いわゆるご奉仕ではなく、十字架を背負って、主に従うことです。

それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。(マタイ16・24)

いつ教会は打ち建てられるのでしょうか。

私たちが主の御心は何であるかを知り、そのためにはどんなに悩んでも苦しんでも誤解されてもよいと覚悟を決めるときに主の教会が建て上げられていきます。多くの人々は熱心に主のために働き、仕えようとしますが「わたしは、わたしの教会を建てよう」と言われる主の御心を深く知りません。これは一つの悲劇と言えるのではないでしょうか。また、ある人々は喜んで真理を宣べ伝えますが、イエス様の十字架を担ってイエス様にどこまでも従おうとはいたしません。

「収穫は多いが働き人は少ない」というみことばがあります。けれども、今ある一番め悩みは、働き人の少ないことではありません。働き人の数より質が問題です。イエス様はご自身の教会の土台を据えるために死に至りました。私たちも主と共に十字架につけられ、すべてを主に明け渡す時、初めて、主と共に主の教会を建てることができるようになります。

(3)イエス様の絶対的ご支配

イエス様は決して「わたしは一つの教会を建てよう」とは言われませんでした。「わたしは、わたしの教会を建てよう」と言われたのです。イエス様は私たちがイエス様と共に教会を打ち建てる仕事にあたることを許してくださいました。けれども、その教会をいかなる人間も自分のものとして、所有することは許されていません。イエス様の教会はあくまでイエス様の教会であり、所有権はイエス様にあります。

イエス様はご自身の教会をひとつのミッションや団体、組織、国民のために建てようとは言われませんでした。イエス様はご自身のために教会をお建てになります。

多くの人々は「私は主のために働いている。教会の責任をもっている」と言いますが、人間が教会を主に与えることはできません。イエス様はご自分の教会をご自分がご自分に迎えると言われました。エペソ書の五章二十七節、よく読まれる箇所です。

ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5・27)

教会の所有権は一つの組織、一つの国民にはありません。教会はただイエス様のものです。教会はある宣教師、ある牧師のものでもない、すみからすみまで、主のものです。教会は聖霊の宮、主である神の住まい、御子イエス様の花嫁であるとあります。テモテ第一の手紙三章――これはパウロが愛弟子であるテモテに書いたのです――を読みます。

それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。(1テモテ3・15)

このみことばを読むと、私たちにとって大切なのは、どのように教会を導くか、どのように教会を治めるか、どのように教会を助けるか、などということではなく、自分自身が神の家で、どんな生活を送るべきかが大切であるということがよくわかります。教会は神の家であり、主である神ご自身がそこに住んでおられます。教会はすみずみまで主のものです。ですから、教会を支配したもうお方は、イエス様だけであるべきです。イエス様は教会のお客様ではなく、教会の頭であり、支配者であり、したがって教会はイエス様の御心を行い、イエス様の願いを満たしていかなければならないはずのものです。

ここまで、どうしても知らなければならない三つのことを共に考えてきました。その一番目に、教会の土台は伝統や組織ではなく、新しい土台、イエス様ご自身であることを見てきました。教会の頭であるイエス様は、天から来られましたから、からだである教会も上から生まれたものでなければなりません。教会は、天的な有機体として、地のものとは何の関わりも持たないものです。二番目に教会は、キリストと共に死に、日々、イエス様の十字架を担ってイエス様に従って行く者だけが、その建設のみわざに参加することができるということを見てきました。三番目に教会の特徴は、イエス様だけがご支配なさるべきであることを見ました。私たちの場合も、ある人、ある組織団体、ある教派に属し所有されるものではなく、すみからすみまでイエス様のものであるはずです。

今まで私たちは、三つの大切な点について考えましたが、こんどは第二の事柄、「重要な質問」についてちょっと考えてみたいと思います。

2.重要な質問

重要な質問は、私たちはイエス様と共に働く者でしょうか、それとも、イエス様の働きを妨げる者なのでしょうかという問いです。

「わたしは、わたしの教会を建てよう」と言われたイエス様だけが、この霊の宮を建てることがおできになるお方です。どんな人間もこれを建てることはできません。私たちは、主と共に働くことができます。しかし、優先権は常に主にあるべきです。人間は自分の思い通りにここ、あそこに教会を建てようと言うことはできません。

パウロでさえも自分で教会を作ることはできなかったんです。パウロはタルソの町に生まれましたが、この町は大きな都市でした。パウロはこの町でも証しし、伝道したに違いありません。人間的な考えでは、この生まれ故郷に教会を打ち建てたかったに違いありません。パウロはやがてバルナバに導かれて、タルソからアンテオケに行き、そこで素晴らしい教会を打ち建てることができました。もちろん主がお働きになったのですが、これを見ましても、パウロは自分がどこで働くか、ということさえ主の導きによらなければならなかったのであり、自分では好きな所を選ぶことができませんでした。パウロは、主のご目的とご予定をよく知っていました。イエス様がご自分でご自分の教会をお建てになることを知っていました。だから、パウロはイエス様にその身を任せ、導いていただき「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる」という態度を取り続けました。私たちもパウロと同じように主と共に働く者になりたいものです。もし、イエス様のみわざの邪魔をし、用いられない状態になったら、まことに悲しむべきこと、禍と言わなければなりません。

主のみ手を縛り、主のわざを妨げる三つのことがあります。それは、一番目、自己中心の霊。二番目、二つに分けられた霊。三番目、狭い心、狭く他を受け容れない霊です。

(1)自己中心の霊

まず、自己中心の霊について考えてみましょう。イエス様は「あなたを建て上げる」とは言われませんでした。「わたしは、わたしの教会を建てよう」と言われたのです。もちろん、イエス様は私たちを祝福してくださいます。しかし、それは他の人々に私たちを通して恵みが及ぶための祝福です。

もし、私たちが自分たちだけの祝福を願い求めるならば、それは、イエス様の教会を打ち建てようとなさるその御手を縛り、主のみわざを妨げることになります。「わたしは、わたしの教会を建てよう」とイエス様が言われたその後、すでに、ペテロはイエス様のみわざを妨げようとしてしまいました。ペテロは自分のことばかりを考えていました。イエス様が十字架に行かなければならないと言われたとき、もし、イエス様が十字架で亡くなられたなら、自分も困ってしまう、そこでイエス様に十字架にはかからないでください、と頼みました。このようにペテロは自分のことを中心に考えることにより、イエス様のみわざを妨げてしまう結果になったのです。

(2)二つに分けられた霊

二つに分けられた霊も、主のみわざを妨げます。妥協することなく主に従わなければなりません。主の恵みによって導かれ、救われた人々は、互いに平和の絆を持って結ばれ、愛の交わりがなければ、教会は建っていきません。これは決してたやすいことではありません。まことの愛をもつことは難しいことです。しかし、私たちは自らの難しいことに目を留めず、主の恵みがそれをなしてくださることに目を留めていきたいものです。

いわゆる一致を図るために、真理を曲げることはできません。主の御心と反対の思いをもっている人々と妥協してまで交わっていくことはできません。けれども、どのように真理のためでも、兄弟姉妹に対して愛のない態度をとってはなりません。

たとえ他の兄弟姉妹が自分の考えと違う考えをもっていても、その人の上に立ってその人を裁くようなことがあってはなりません。絶えず愛をもって、平和の絆をもって、一つの霊に結びついていかなければなりません。これがまことの愛であり、この愛なくしてイエス様のからだは建っていきません。教会を建て上げていくことは、決して簡単なことではありません。

主のみわざを妨げるものは、自己中心の霊であり、二つに分けられた霊であり、次に見る、狭い心、狭い他を受け容れない霊です。

(3)狭い心、狭い他を受け容れない霊

狭い霊は、イエス様の教会を建て上げる邪魔になります。

主の目は世界中のすみずみまで各教会を見渡し、ご自分の教会を建てようとなさっておられますが、イエス様は「わたしは、わたしの多くの教会を建てよう」とは言われませんでした。「わたしは、わたしの教会を建てよう」と一つの教会を建てることを願っておられます。このイエス様の、いわゆる「一つ」の教会は世界的なものです。

ある人々は日本の教会を建てようと考えています。そして日本人でない者は、外国人だからといって日本の教会から締め出そうとする人々がいます。これらの人々は、日本の教会は日本人が責任をとるべきだと考えますが、教会がある特定の国民、個人、団体のものではなく、ただイエス様のものであることを知らない人々です。もし、まことの教会が何であるかを心の目で見ることができなければ、主のまことの働き人となることはできないでしょう。狭い心の霊は、イエス様の御手を縛り、その働きを妨げます。

最後に「必要な材料」について考えたいと思います。

3.必要な材料

教会を建てるためには、どのような材料を使ったらよいのでしょうか。それにはペテロのような男を使う必要があります。イエス様はペテロに「あなたはペテロである」と言われ、すぐそのあとで「わたしは、わたしの教会を建てよう」と言われました。ペテロは上からの啓示によって、イエス様がどのようなお方であるかを教えられ、人間が変えられていきました。ペテロのように上からの啓示によって主を知った人々を、主は教会を建てる材料としてお用いになることができるのです。

もう一度最初にお読みしたみことばを読みます。

するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。」(マタイ16・17)

イエス様はペテロをいつも「ヨナの子シモン」と呼んでおられました。シモンのお父さんヨナはどんな人だったでしょうか。聖書はペテロの父親について何も教えていません。それを知っている者は、誰もいません。シモンは誰も知らない、知られていない人の子でした。名もない人でした。主はこのように取り柄のない人を教会を建てるためにお用いになります。

イエス様はシモンが生まれつきの力をもって、主のみわざを助けるどころか、主のみわざの妨げになるので、彼を召し出すことができませんでした。けれども、イエス様はシモンの生まれながらの人を見ないで、このだめなシモンをご自分の恵みよって造り変えることができることをよく知っておられたのでした。シモンは、ヨナの子シモンのままではいませんでした。やがて彼は変えられ、主に「あなたはペテロである」と呼ばれるようになったのです。ペテロはキリストにある、新しい人間に生まれ変わりました。

ペテロはイエス様に「あなたは、生ける神の御子キリストです」と告白しました。イエス様も、彼に向かって「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです」と言われたのです。

人の心はイエス様を知ることによって変えられていきます。イエス様は私たちのためにどのようなことをされたお方であるか、また、私たちのうちにどのようなみわざをなさるお方であるかを知り、それに基づいて生きるなら、そのような人をイエス様は教会を建てる材料としてお用いになることができます。イエス様はペテロのような人を教会を建てるために用いられます。ペテロのような人とは、堅く立って動かされない人であり、強い人であり、そして霊的な人を言います。

(1)堅く立って動かされない人

シモンのような男が、主の恵みによってペテロと呼ばれる男に変えられました。ペテロという名前の意味は「岩」ですが、岩のように文字通り動くことのない者に彼は変えられました。教会を建てるためには、ペテロのようにはっきりとした立場をとる、動かされることのない性格の持ち主が必要です。

けれどもペテロはかつて、海の砂のように定まりのない、信頼のおけない人物でした。ある時には主を思い、その次の瞬間には主から目を離し人のことを思うといった人間でした。イエス様が彼に「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは血肉ではなく、天にいますわたしの父です。」と言われた直後に、「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と言われなければならないような定まりのない男でした。天からの啓示によって、イエス様が神の御子であることを知らされた直後、もう、悪魔の手に用いられるといったありさまでした。これは、彼の性格が弱く、まことに信頼のおけない人物であったことを表わしています。このシモンが一体どうして、ペテロのような人に変えられたのでしょうか。

彼は十字架と五旬節の経験を通して変えられました。私たち人間は生まれながら、本質的に悪い性質を持っています。その人の持っている一番良い性質ですら、教会を建てあげるご奉仕には何の役にも立ちません。私たちはパウロのように「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」という経験を経て、全生涯を御霊のご支配のうちにゆだねるのでなければ、シモンのように揺れ動く、不安定な砂のような状態にとどまり、決して岩のように動かない、確かな歩みをなすことはできません。イエス様はまだ五旬節の経験をしてない弟子たちに、ご自分をすべてまかせることがお出来にならなかったのです。ですから、弟子たちに自分がキリストであることを誰にも言ってはいけないと戒められました。二十節に「そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた」とあります。弟子たちは信頼のおけない、自己中心的な人々ばかりでした。私たちは一体どのようにしたら、信頼のおける堅く立った者になることができるのでしょうか。二十四節を読みます。「それから、イエスは弟子たちに言われた。『だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』」

ペテロは十字架と五旬節を通されてはじめて、岩のように動くことのない者になりました。ペテロは自分で自分をペテロ(岩)とは呼びませんでした。この名前は、主が、つけてくださった名前です。自分でどんなに努力しても自らを信頼のおける人間にすることはできません。マタイニ十六章からお読みします。

すると、ペテロがイエスに答えて言った。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。(マタイ26・33~35)

しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言った。すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。(マタイ26・73~75)

イエス様はご自身でシモンにペテロという名前をおつけになり、そうすることによって、ご自分が揺るぎやすいシモンを岩のように動かない者に造り変えることがおできになることをお教えになりました。ペテロは名前だけではなく、その性質が変えられました。これを経験した者を通して、主は教会をお建てになるのです。生まれながらの弱い性質をもったままでとどまっている人は、主のみわざを妨げ、主の御手を縛ってしまいます。十字架により、自己から解き放たれ、聖霊の支配に身を任せた人々だけを、主はご自分の教会を建てるためにお用いになります。もし、私たちがこのように造り変えられていかなければ、私たちの交わりは一つの仲良しクラブにとどまり、決して教会とはなっていかないでしょう。

(2)強い人

ペテロのような人は、堅く立って動かされない人であり、そして強い人です。

「岩」のもう一つの特徴は強いことでしょう。

パウロはエペソ人への手紙の中で、「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」(エペソ3・16)と祈っています。もし、私たちが主の御心にかなった教会でありたいと思うなら、私たちには主よりの強さが必要です。シモンはこの主である神の強さをもっていませんでした。ペテロという名前をつけられて主に完全に従おうと決心した、その時に反対のことをしてしまいました。イエス様を三度も否んでしまいました。ペテロ自体はそんなに弱い男ではありませんでしたけど、ペテロを引きとめ、落とそうとする、悪魔の力に抵抗するだけの、十分な強さをもっていなかったのです。

しかし、主の言われたとおり五旬節の日に聖霊が注がれ、聖霊に満たされました。五旬節のあとも、同じく悪魔の力は強く働きましたが、イエス様は約束どおり、黄泉に打ち勝つ教会を打ち建てられました。この闘いは、今日まで続いています。私たちは、共に一つになって、心を合わせて生活し、主にこれこそまことの教会であると認められるような教会に建て上げられていきたいものです。主が私たちを十字架と御霊により、強い人としてくださったら幸いです。

(3)霊的な人

ペテロは堅く立って動かされない人であり、強い人であり、それから霊的な人でした。第一コリント人への手紙十章をみますと、霊の岩について書かれています。

みな同じ御霊の飲み物を飲みました。というのは、彼らについて来た御霊の岩から飲んだからです。その岩とはキリストです。(1コリント10・4)

岩は霊である(御霊の岩)、と書かれています。ペテロは肉につける信者から、霊的な信者に変えられるという段階を通らなければなりませんでした。ペテロは人間の思いでことをなそうとしたとき、イエス様に邪魔者と呼ばれました。

イエス様の教会は「霊の家」と呼ばれています。

あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。(1ペテロ2・5)

教会は「霊の家」である以上、それに連なる信者もみな、霊的であるべきはずです。多くの人々は霊的とはどういうことであるか、正しく理解していないようです。何か漠然としたものを考えているようです。これは誤りです。イエス様は霊的なお方でした。イエス様は心にあることをそのまま口に出し、説教されたことを身をもってなしていかれました。イエス様は、私たちが口先でなく身をもってみことばと御旨に従順に従うことが、父なる神様の御心であることを自ら教えられたのです。

イエス様が建て上げようとなさっておられるまことの教会は、兄弟姉妹が心を一つにして共に礼拝し、祈る人々の共同体です。そのためには、それに連なる肢体である、兄弟姉妹ひとりびとりが霊的でなければなりません。同じ霊、同じいのち、同じ思いをもって、御栄えのために、心を用いていくものでなければなりません。ですから、イエス様の教会を建て上げていくことは、第一に、内面的な霊的な事柄であり、外面的な形は第二、第三の問題であるべきです。兄弟姉妹は御霊に満たされ、日々、時々刻々、主の御姿に似せらていくことが、まず大切です。このような者になりたいものではありませんか。主に満たしに満たされ、主の御姿に似せられた教会になりたいものです。そして、イエス様のからだの一部として、私たちひとりびとりがイエス様のからだの欠けたところのなくなるまでに、満たしていきたいものではないでしょうか。

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