2019年9月29日日曜日

悔い改めてはじめの行いをしなさい

悔い改めてはじめの行いをしなさい
2019年9月29日、吉祥寺福音集会
古田 公人

使徒行伝
20:27 私は、神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。
20:28 あなたがたは自分自身と群れの全体とに気を配りなさい。聖霊は、神がご自身の血をもって買い取られた神の教会を牧させるために、あなたがたを群れの監督にお立てになったのです。
20:29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
20:30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
20:31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。


最初にエペソ書の五章、二十五節から二十七節を、ご一緒にお読みしたいと思います。

エペソ
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

このみことばから、イエス様が十字架におかかりくださったのは、私たちの救いのためだけではなく、教会のためでもあったということを知ることができます。私たちは、み体なる教会の器官として救われました。エペソの教会は、初代教会の時代には祝福されていましたが、急速にイエス様を見失いました。この教会に何が起こったのかを知ることは、私たちにとっても必要なことと思います。

今日は、エペソの教会に起こったことについて考えてみたいと思います。

先ほどお読みくださいました黙示録の二十章には、パウロが語った言葉が記されています。パウロは、エペソの教会の長老たちを集め、『私は神のご計画の全体を余すところなくあなた方に伝えておいた』と語っています。事実、エペソ人への手紙を読みますと、エペソの兄弟たちが、非常に霊的な力であの手紙を読んだのだろうと、考えさせられてしまいます。エペソの兄弟たちは、霊的な理解力に富む人たちであったと、言ってよいのではないかと思います。しかし、パウロはエペソの教会の将来を楽観しませんでした。

使徒行伝
20:29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
20:30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。

こう言って、注意をいたしました。そして、パウロがエペソを離れて、四十年ほど後のエペソの教会の様子が、黙示録の二章に記されています。

黙示録
2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
2:2 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
2:6 しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。
2:7 耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」』

このエペソにある教会への手紙が書かれた時は、パウロの宣教によって導かれた初代の信者も、まだ少なからず生きていたのではないかと思いますけど、多くは第二世代の人たちだったのではないでしょうか。四十年の時間が経過しているからであります。教会は大きく変わっていました。

イエス様は、右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台のあいだを歩く方として、ご自身を表されました。一章の二十節には、星は教会の御使たち、燭台は教会であると記されています。ですから、イエス様は、エペソの教会に、教会の唯一の権威として、ご自身を表されたことがわかります。

【参考】黙示録
1:20 わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。

イエス様は、教会の全てを知るお方です。人間の目には見えないものも知っておられます。このエペソの教会は、確かに祝福された教会でした。そして、祝福された教会は、いつも悪魔の攻撃を受けます。パウロが予見したように、外からも中からも、教会を混乱に陥れようとする者たちが現れました。しかし、教会は、悪いものたちを放置しなかったと、記されています。

『悪いもの』とは、聖書でいう場合は、だいたい悪魔を表しています。また、『使徒と自称した者たち』とは、多分、十字架の救いを骨抜きにして、ユダヤ教との融合を図ろうとした人たちであったのではないかと思いますけど、そうした人たちが、使徒とは自称していても、使徒ではないことを見抜きました。言うまでもなく、そのような偽りの人の背後にも、悪魔が働いています。そのような中で、エペソの教会は、福音の真理を固く守り、戦ってきたことが記されています。イエス様は、『あなたはよく忍耐して、私の名のために耐え忍び、疲れたことがなかった』とおっしゃっています。

悪いものや偽使徒との戦いが、極めて厳しいものであったことが分かりますけど、同時に、エペソの教会が、もし自分のことを考えて戦ったなら、疲れてしまったと思います。エペソの教会は自分のことではなくて、イエス様のことを考えたから、疲れなかったというよりも、疲れるわけにはいかなかったのではないでしょうか。

このエペソの境界には、しかし、放置することのできない二つの問題がありました。ひとつは、初めの愛から離れてしまったこと。もうひとつは、ニコライ派の者たちが現れたことでした。

初めの愛から離れたということは、イエス様との親しい交わりが失われたことを意味しています。エペソの信者たちは、それまでは、どのような時にも、どのようなことがあっても、正直な心でイエス様の前に行き、罪を言い表し、み言葉に従いたいという姿勢を持っていたのですけれども、その姿勢が、いつのまにか失われていました。多分、自分の信仰に自信を持つようになったのではないかと思います。これは、教会にとっては、致命的な問題になる可能性のあるものでした。

第一コリント
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

教会はキリストの体であり、一人一人は各器官です。ですから、一人ひとりは頭(かしら)であるイエスと交わりを持ち、イエスのみ心に従うことが、絶対的に求められています。また一人ひとりは、与えられている奉仕は違っても、新しいのちにあって生きる者として互いに尊敬し、信頼しあうことが求められています。ですから、言い換えるなら、他の信者に対して、責任を持っていると言っていいのではないでしょうか。他の信者に対する尊敬の念と、責任感を持っていないとすれば、新しいいのちにあって生きていないことを、吟味する必要があるのではないでしょうか。

ヨハネ
15:9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。

イエス様の愛は、言うまでもなく、十字架の愛であり、自己犠牲の愛です。イエス様の愛の中に止まるとは、自己犠牲の愛の中にとどまることを意味します。『自分は大切ではない。イエス様だけが大切だ』という姿勢です。しかし、初めの愛から離れると、御心をたずね求めることをしなくなってしまいます。そうすれば、イエス様のお考えよりも、自分の理想、自分の考え、自分の判断を優先するようになってしまいます。

また、御体なる教会にあっては、御霊の一致が大切です。御霊の一致とは、一人一人の御霊が集まって一致することではないと思います。

エペソ
4:4 からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。

こう、記されています。『御霊は一つ』とあるように、一人一人が主イエス様と結びついているとき、御霊の一致がそこにあります。ですから、初めの愛から離れてしまうと、御霊の一致はありえないと知る必要があると思います。

ヨハネ
13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

『私があなたがたを愛したように』と仰せになりました。信者がイエス様を愛することとは、御体を愛することであり、御体を愛することとは、他の信者を愛することを含んでいます。いや、他の信者を愛することなくして、御体を愛することはできないのではないでしょうか。もし、イエスさまとの親しい交わりを持っていないにも関わらず、信者どうしのあいだに愛があると言うなら、それはイエス様の愛ではなく、人間の愛です。人間の愛は、教会の中に妥協と偶像崇拝を持ち込みます。

教会に求められるのは、初めの愛に留まることと、私たちはこの黙示録を通して、教えられるのであります。

エペソの教会が持つもう一つの問題は、ニコライ派が現れたことでした。ニコライ派とは、どうも特定の人々と一般の信徒のあいだに立場の差を認める考えだと、そういうふうに言われているようであります。私は詳しいことはわかりませんけど、そういうふうに、よく記されています。

第一ペテロ
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。

こう、記されています。御体なる教会にあっては、このみことばのように、特定の人がではなくて、信者一人一人が――確かに奉仕においては違いがあっても――イエス様と親しい交わりを持ち、教会を建て上げるというイエス様のご目的のうちに、同じ立場でいます。しかし、エペソの教会では職業的宗教家とも言うべき立場に立とうとする人と、それを支持する人々が現れたことがわかります。

エペソの教会の持つこれら二つの問題は、相互に無関係ではありませんでした。もし、初めの愛にとどまっていたなら、ニコライ派は現れなかったでしょう。初めの愛から離れたために、ニコライ派が現れたのだと考えられます。しかし、エペソの教会は、全体としては、ニコライ派の行いを憎んでいましたし、イエス様も、『わたしもそれを憎んでいる』とお語りになっています。

黙示録、二章十五節、これはペルガモにある教会に当てられた手紙です。

黙示録
2:15 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。
2:16 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。

主はこういうふうに仰せになるのであります。ペルガモの兄弟たちのうちにも、ニコライ派の人々の行いを憎む人たちは、エペソの教会と同じようにいたのではないかと思います。しかし、多くの兄弟たちはニコライ派と妥協していました。そのような中で、多分、ニコライ派の人々の行いを憎む人たちは、他の人々からは、『あなた方には愛がない』という非難を受けたのではないかと思います。

ローマ
16:17 兄弟たち。私はあなたがたに願います。あなたがたの学んだ教えにそむいて、分裂とつまずきを引き起こす人たちを警戒してください。彼らから遠ざかりなさい。
16:18 そういう人たちは、私たちの主キリストに仕えないで、自分の欲に仕えているのです。彼らは、なめらかなことば、へつらいのことばをもって純朴な人たちの心をだましているのです。

こういうふうに記されています。主の御心は、このみことばからも明らかであります。

エペソの教会に戻りたいとと思います。黙示録の二章で、イエス様はエペソの教会に、『あなたはどこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めの行いをしなさい』と仰せになります。でも、もし、どこから落ちたかが分からなければ、悔い改めようがありません。また、たとえ悔い改めたとしても、それは本当の悔い改めではないと思います。

しかし、イエス様は、もしあなたが御霊をうちに宿しているなら、あなたはどこから落ちたかが分かるはずだと、お考えになっています。しかし、現実には、どこから落ちたかがわからない人もいたようであります。多分、その多くは第二世代の人たちだったのではないかと思いますけれども、初めから、イエス様との交わりを持っていなかったのではないかと考えられます。

エペソの教会は祝福された教会でした。しかし、初めの愛から離れたとき、イエス様は、『悔い改めないなら、あなたの燭台を取り外そう』と、仰せになります。私たちはどうでしょうか。もし、私たちが初めの愛から離れるなら、主は燭台を取り外してしまわれます。

そのことに関して、ベック兄は、あの四冊からなる『ヨハネの黙示録』の『すぐに起こるはずのこと』、第一巻で次のように記しておられます。

わたくしたちのキリスト集会では、エペソの教会の人々のように初めの愛を忘れることのないように、毎日曜日、主の聖餐に与ることにしています。私たちは主の聖餐を通して、主の苦しみと死と恵み、そして、愛を思い起こそうとしています。私たちは聖日ごとに、主の恵みに対する感謝の思いを新たにし、心から主に礼拝を捧げています。このことによって、私たちは初めの愛にとどまることができます。

このようにお書きになっています。このベック兄の文章を読んで、私は、果たして私は、日曜ごとに聖餐を通して、主の苦しみと死と恵み、そして、愛を思い起こし、主の恵みに対する感謝の思いを新たにしていたのか・・・・と考えさせられました。聖餐が、礼拝の中の単なる儀式になっていたのではないかとも思いました。

イエスさまのご臨在を恐れをもって受け止めて、主の恵みに対する感謝の思いを新たにして、心から主に礼拝を捧げていたのかなとも考えさせられています。自分のうちにある曖昧なところを悔い改めて、初めの行いをしたいという思いを持って歩むものでありたいと今、思っています。

どうもありがとうございました。

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