2018年4月15日日曜日

パン種の入らない純粋で真実なパンとは

パン種の入らない純粋で真実なパンとは
2018年4月15日、吉祥寺福音集会
重田 定義

第一コリント
5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。
5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。

今日は、今、紹介していただいた、『パン種の入らない純粋で真実なパン』というのは、いったい何か、このことについて、ご一緒に考えたいと思います。


ご承知のように、パン種とは、パンを作るときに練った小麦粉を発酵させて膨らませるために用いる酵母のことであります。けれども、古いパン種や、悪いパン種は、パンの味を不味くして、ひいては、腐らせてしまうことになります。イエス様は、この誰でも知っているパン種を例にとって、弟子たちやイエス様のはなしを聞きに集まった人々に、信仰を守る上で、何に気をつけなければならないかを教え、諭されました。

マタイ
16:6 パリサイ人やサドカイ人たちのパン種には注意して気をつけなさい。

パリサイ人とは、ユダヤ教の一派であって、神様から与えられた掟である、律法の実践に熱心なことを自負している人々であります。そして、多くの律法学者は、この派に属しておりました。しかし、彼らの律法の守り方は、実際にはまったく、外面的な、形式的なものであって、イエス様は、そのような彼らを偽善者と、激しく非難されたのであります。

マタイ
23:23 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、はっか、いのんど、クミンなど(・・・これは、いずれも、香味料や薬剤に使われた貴重な植物です・・・)の十分の一を納めているが、(・・・『納めている』とは、神様への供え物として収めている・・・)律法の中ではるかに重要なもの、すなわち正義もあわれみも誠実もおろそかにしているのです。

23:25 忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放縦でいっぱいです。

このようにおっしゃいました。また、ここで言われているサドカイ人というのは、ユダヤの指導者階級のひとつでありまして、合理主義的、現実主義的な考えによって、律法を解釈しております。そして、その考えに基づいて、復活や神のさばきについて、否定的な人たちであります。イエス様は、彼らの教えや信仰の態度を、パン種にたとえ、信仰というパンの中に、このような間違った律法の解釈や、偽善的な守り方、生き方が入りますと、信仰が腐ってしまうから、気を付けなさいと、このように警告をなさったのであります。

パウロは、最初に読んでいただいたコリントの信者に宛てた手紙で、イエス様を信じる信者は、パン種のない純粋で真実なパンでなければならない、このように書いております。そして、その理由について、『私たちの過越(すぎこし)の小羊キリストが、すでにほふられたから』と、言っております。過越とは神様の裁きが通り過ぎるという意味であります。神様がかつて、イスラエルの民をエジプトから脱出させられたとき、神様から命じられたとうりに、傷のない子羊をほふり、その血を家の入り口と、かもいに塗っていたイスラエル人の家は、神様がその血をご覧になって、神様がその家のものを裁かずに通り過ぎられましたけれども、子羊の血を塗っていない、エジプト人の家のういごは、初穂はすべて、打たれました。その時に、神様がイスラエルの民に仰せられた御言葉は、次のようなものでありました。

出エジプト記
12:12 その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々に(・・・これは偶像の神々です・・・)にさばきを下そう。わたしは主である。
12:13 あなたがたのいる家々の血は(・・・この家々の血というのはイスラエル人の家の入り口とかもいに塗られた子羊の血のことを意味しております・・・)、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。
12:14 この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。
12:15 あなたがたは七日間種を入れないパンを食べなければならない。その第一日目に、あなたがたの家から確かにパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までの間に種を入れたパンを食べる者は、だれでもイスラエルから断ち切られるからである。

このように仰ったのですね。こうして、イスラエルの民は、毎年、神様の救いの恵みのしるしである過ぎ越しの救いの祭りを守り、そのたびに神様の仰せに従って、過ぎ越しの子羊をほふり、この子羊のいけにえというのは、私たち人間の罪を身代わりに負ってくださって、十字架の上で血を流し、肉を裂かれたイエス様をも象徴しておりますけれども、その過ぎ越しの子羊をほふり、パン種の入っていないパンを食べて、祝ってきたのです。

イエス様は、十字架にかかられる前に、弟子たちと晩餐を取られたときに次のように仰いました。

マタイ
26:26 イエスはパン(・・・これはパン種の入っていないパン・・・)を取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」
26:27 また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。
26:28 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

皆様もご承知のとおり、これが、私たちキリスト者が、イエス様のあがないの御業(みわざ)を感謝して、礼拝のつど、今日もそうでしたけど、守り行ってきた主の聖餐の原型であります。

イエス様を信じる者が、古いパン種や悪いパン種の入らない純粋で真実なパンとなることができたのは、過越しの小羊として、イエス様が十字架の上で流された清い尊い血によって、神様の御心に反する罪というパン種が、私たちの中から取り除かれたからにほかなりません。けれども、このように神様の多いなる恵みと哀れみによって、清められたパンとされた信者に再び、古いパン種や悪いパン種が入れば、そのパンのふくらみは、一人の信者の信仰を腐敗させ、堕落させるだけではなく、他の信者にも広がってしまうのであります。

パウロは、先ほどの第一コリントの5章6節で、『あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい』と、警告しているのは、そのためであります。そして、パウロは、ガラテヤの五章で書いています。

ガラテヤ
5:4 律法によって義と認められようとしているあなたがたは、キリストから離れ、恵みから落ちてしまったのです。

5:8 そのような勧めは、あなたがたを召してくださった方から出たものではありません。

要するにイエス様からのものではない。

5:9 わずかのパン種が、こねた粉の全体を発酵させるのです。

このように、ガラテヤの教会の中で、イエス様を信じる信仰によってのみ義とされるのではなくて、律法を行うことによらなければ、神様からは義と認められない、このような間違った教えが広まりつつあるのを心配しまして、パウロは正しい信仰の妨げとなるパン種には注意をするようにと言っております。

では、冒頭の御言葉にある『悪意と不正のパン種』とはいったい、何でありましょうか?それは、異端の教え、すなわち、私たちの信仰の根幹である、『イエス様が神様である』というイエス様の神性を否定する教え、聖書の真理を曲げた、聖書の真理を否定する誤った教えであります。イエス様の神性については、聖書のいたるところに記されておりますが、その例をいくつか挙げてみましょう。皆さんもご存知の箇所ばかりでございます。

イエス様は、私に父なる神を見せてほしいと乞われた弟子のピリポに、こう仰せになりました。

ヨハネ
14:9 わたしを見た者は、父を見たのです。・・・
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。

イエス様、御自身も仰いました。

ヨハネ
10:30 わたしと父とは一つです。

イエス様は、父なる神様と自分はひとつだと、強い口調で、ここで仰っております。コロサイ人への手紙には、このようにあります。

コロサイ
1:15 御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。
1:16 なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。

イエス様は、父なる神様とともに、天地万物をお造りになったお方であります。ヘブル人への手紙にも、次のようにあります。

ヘブル
1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。

これらの御言葉によって、それ以外の数々の御言葉によって、万物をお造りになったイエス様が、私たちに見えるかたちを取って、この世においでになった神であることをはっきりと示しております。しかしながら、聖書を読みますと、すでに初代教会のことから、私たちの信仰の根幹でありますイエス様の神性を否定するような異端の教えが、悪いパン種、不正なパン種として、信者の中に入り込んで、信者の信仰を惑わせていたことが分かります。これも、例を挙げますと、ペテロの第二の手紙の一章でペテロは次のように言っております。

第二ペテロ
2:1 あなたがたの中にも、にせ教師が現われるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定する(・・・イエス様を否定する・・・)ようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。

また、パウロは、愛する弟子テモテに宛てた手紙の中で、次のように言っております。

第一テモテ
4:1 御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。

主の御心、主のお考えは、私たち人間の理解をはるかに超えた、高く深いものであります。到底、そのお考え、御心を私たちの頭で、計り知ることはできません。ですから、私たちは、自分の浅はかな知恵によってではなくて、ただ信じるものに恵みとして与えられた御霊のお導きによって、正しく御言葉をわきまえ、受け入れ、従うこと、これこそが主が私たちに求めておられる信仰なのであります。

しかしながら、惑わす霊と悪霊の教えは、この主の御心に反して、御言葉に人間的な解釈を施し、人間が自分の頭で理解できるようにしてしまいます。たとえば、『イエス様は神様ではない、罪の性質は持っておられたけれども、生涯において、一度も罪を犯さなかったただ一人の方だ』というように、神であるイエス様を、人間のレベルにまで引き降ろすようなことを、言葉巧みに教え説きます。そして、このような異端の教えは、悪いパン種、不正なパン種として兄弟姉妹の心を惑わせ、信仰から離れさせるだけではなくて、主の御体なる教会に、霊的な不一致をもたらし、キリストの生ける御体なる教会から、死んだ教会に堕落させるように働きます。

私たちは、どのように対処したらよいのでありましょうか。

パウロは、コロサイの教会の信者たちに宛てた手紙の中で、次のように言っております。

コロサイ
2:6 あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼(…すなわち、イエス様・・・)にあって歩みなさい。
2:7 キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
2:8 あのむなしい、だましごとの哲学(・・・当時のコロサイの教会にあった異端的な教えのことをさしております・・・)によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。
2:9 キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

このように、教会に入り込んで信者たちを惑わしていた、パン種である異端の教えに騙されないためには、イエス様に、イエス様だけに固く結びついて、信仰を守ることであると、このように信者たちに教え諭しております。もうひとつ、あげます。イエス様の弟のユダから、その当時の信者に宛てた手紙に次のようにあります。

ユダ
1:17 愛する人々よ。私たちの主イエス・キリストの使徒たちが、前もって語ったことばを思い起こしてください。
1:18 彼ら(・・・すなわち、使徒たち・・・)はあなたがたにこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」
1:19 この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間(・・・生まれつきのままの罪の性質を持った人間ということでしょう・・・)です。
1:20 しかし、愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、
1:21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。

このイエス・キリストの待ち望みとは、イエス様の御再臨をも意味していると思いますが・・・待ち望みなさい。このように、終わりのときに現れ、そして、信者の分裂を計るサタンの惑わしにかからないためには、イエス様という土台の上に固く立って、そして、信じる者に与えられた御霊によって、いつも祈る、そのような信仰を持つことである。こういうふうに信者に勧めております。

このように、教会には、いつの時代にもさまざまな悪いパン種が入り込む危険があります。そして、終わりの世にあって、私たちの愛する集会にも、サタンは悪いパン種、不正なパン種を送り込んできました。残念なことに、それによって苦しみ、惑わされた兄弟姉妹が出てしまいました。また、集会も苦しみました。けれども、主の助けをいただいて、パン種を取り除くことができたのです。そして、パン種によって、集会に生じた波紋も、主に示された兄弟たちによって語られる力強いメッセージ、そして、多くの主にある兄弟姉妹の熱い祈りが実を結んで、しだい次第に静まってまいります。そして、集会は元気を取り戻しつつあります。これも、主が私たちの集会をご自分のものとして愛し、哀れんでくださり、サタンから守ってくださった、そのように私たちは確信できますので、本当に主に感謝いたします。

けれども、サタンは、私たちの集会を、主のみからだなる教会ではなくて、死んだ教会に堕落させようとして、いつまた別の異なったかたちのパン種を送り込んで来るやも知れません。私たちは再び、サタンの惑わしに陥って、集会が乱されないように、純粋で真実なパンとして、集会がみからだなる生きた教会として、主の御栄光を輝かせることができるように、霊の目を覚まし、主から与えられた全ての武具をしっかり身に着けて、サタンと戦っていかなければなりません。

私たちは、毎週、火曜日の学びのはじめに、日々の歌の212番を賛美しております。ここで、ご一緒にその歌詞を詠んでみたいと思います。

『世界のうちに選び出され、
主に立てられた小さな群れ、
主イエスひとりをかしらとして、
建てあげられた主のみからだ。

みことばだけを頼りとして、
御心求め共に祈る、
いのちあふれるこの集いを、
主は御手をもて造りたもう。

救いの民はひとつに群れ、
ひとつの心、ひとつの御名、
ひとつのからだ、ひとつの霊、
ひとつの祈り、ひとつの歌。

これが純粋で真実なパンとしての教会の姿ではないでしょうか。今、私たちは、あらためて、私たちの集会が、この歌詞のように、いのちあふれる主のみからだなる教会として機能するために、みからだなる教会の部分部分として組み入れられている私たち、一人ひとりがそのことをしっかりと自覚して、イエス様をかしらとして、ひとつになって、御心に従うことができるように、心を新たにして、この歌をうたう必要があると思います。

イエス様の御再臨が間近いこの世の終わりにあって、サタンの跳梁はますます、激しさを増しております。主に選ばれ、救われた私たち一人ひとりは、まことに、小さく弱いものですけれど、主の御心にかなうよう、パン種のない純粋で、真実なパンとして整えられ、かしらなるイエス様にしっかりと結びつき、いつも霊の目を覚まし、兄弟姉妹がひとつとなって、御言葉だけに頼り、御霊に満たされ、祈りあい、支えあい、助け合って、私たちの愛する集会が、主のみからだなる生きた教会として、サタンとの戦いに勝利し、主の御再臨をお迎えすることができるように、心から祈る次第であります。

おわり

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