2019年11月24日日曜日

教会はイエスさまのからだ

教会はイエスさまのからだ
2019年11月24日、吉祥寺福音集会
古田 公人

エペソ
1:20 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、
1:21 すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。
1:22 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。
1:23 教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

今、お読みくださいましたように、教会のかしらは全ての支配、権威、権力、主権の上におられるイエスさまであります。ですから、教会は隅から隅まで、イエス様のものだということができるのではないかと思います。


イエス様は、かしらでいらっしゃいますから、地上の教会のひとつひとつを良く知っておられます。その上で、ご自身を現してくださいます。今日は、イエスさまが七つの教会に現された御姿から、混乱の中にあって苦悩している教会が、どうすれば、隅から隅までイエス様のものとなって、主なる神の栄光を表わすことができるのかということについて、教会のかしらとして表わしなさったイエス様の愛と命令について、ご一緒に考えたいと思います。

黙示録
2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
2:2 「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。

イエス様は、エペソの教会に、七つの星を持ち、金の燭台のあいだを歩かれるお方として、ご自身を現されました。黙示録の一章二十節には、七つの星と七つの燭台は教会を意味すると記されています。ですから、イエス様は、七つの教会――黙示録に記されている七つの教会――を、全世界の教会の代表としてお語りになってるのだと思います。イエス様は教会のかしらとして、また、唯一の権威として、エペソの教会にご自身を明らかになさいました。

同じような姿で、イエス様はサルデスの教会にも、ご自身をあらわしておられます。

黙示録
3:1 また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」』

エペソとサルデスの教会には、共通点がありました。どちらも、イエス様との親しい交わりを失っていたということであります。

エペソの教会は、初めの愛から離れることによって、イエス様との交わりを失っていました。サルデスの教会は、生きているとされているが、実は死んでいました。言うまでもなく、死んでいるというのは、新しいいのちにある歩みをしていないということを意味しています。もちろん、イエス様との親しい交わりを持ちません。これら、エペソの教会とサルデスの教会に必要なことは、教会とはイエス・キリストそのものであって、イエス様が御自身にふさわしい地位と権威を持っておられなければ、それは教会ではないということを知って、悔い改めて、イエス様との交わりに立ち返ることだということを明らかにしています。ですから、イエス様は教会のかしらとして、また、権威として、ご自身を現されたのではないでしょうか。

兄妹姉妹が悔い改めて、イエス様を第一として歩むようにとの御心であったとも考えられます。私たちも、イエス様がかしらであることをいつも心に覚え、イエス様との親しい交わりの中に留まりたいと思います。

次は、スミルナの教会についてのイエス様の御姿を見てみたいと思います。

黙示録
2:8 また、スミルナにある教会の御使いに書き送れ。『初めであり、終わりである方、死んで、また生きた方が言われる。
2:9 「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。――しかしあなたは実際は富んでいる。――またユダヤ人だと自称しているが、実はそうでなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。」』

スミルナの教会は、イエス様に忠実でした。しかし、ユダヤ人たちからの迫害を受け、死をも覚悟するほどの苦しみと貧しさの中にいたことがわかります。彼らは、イエス様の励ましを何よりも必要としていたのです。ですから、イエス様はスミルナの教会に、初めであり終わりであり、死んでまた生きた方としてご自身を現されたのではないかと思います。

作られたものでないいのち、よみがえられたお方のいのちとしてのイエス様を知って、恐れるなという御心であったに違いないと思います。苦しみの中にいるスミルナの兄妹姉妹が、試練と苦しみの中にあっても、よみがえりの主に信頼して、最後まで歩み続けるようにと、そうしたことを通して主イエス様の栄光を現すようにとの励ましであったのではないでしょうか。

次は、フィラデルフィアの教会について現された御姿を見てみたいと思います。

黙示録
3:7 また、フィラデルフィヤにある教会の御使いに書き送れ。『聖なる方、真実な方、ダビデのかぎを持っている方、彼が開くとだれも閉じる者がなく、彼が閉じるとだれも開く者がない、その方がこう言われる。』

フィラデルフィアの教会は、イエス様の御言葉に固く立っている教会でした。スミルナの教会と同じように、ユダヤ人の攻撃を受けていましたけれども、イエス様の再臨を待ち望んで忍耐していた教会であったと、その後に記されています。

御霊に導かれている信者は、試練や攻撃を通して、イエス様の御心をより深く知るようになります。そのようにして、イエス様に似たものとしていただく歩みを歩むのではないでしょうか。様々な試練や攻撃は、イエス様と親しい交わりを持つ信者にとっては、むしろ、主の憐れみであると知るべきではないかと思います。イエス様は、フィラデルフィアの教会に、聖であり真実な方、ダビデの鍵を持つ方としてご自身も現されました。どのような攻撃の中でも、主の再臨を待ち望みつつ、耐え忍ぶようにと、それが真の信者の生き方だと励ましておられるように思えてなりません。

次は、ベルガモの教会です。

黙示録
2:12 また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。』

イエス様は、『鋭い両刃の剣を持つ方』として、ベルガモの教会に望んでおられます。この御姿は、悪いものに対して妥協することのない、さばき主としての御姿だと考えられます。

実は、ペルガモだけではなくて、テアテラの教会にも同じような姿で現れておられます。

黙示録
2:18 また、テアテラにある教会の御使いに書き送れ。『燃える炎のような目を持ち、その足は光り輝くしんちゅうのような、神の子が言われる。』

ペルガモとテアテラの教会は、敵対する者の中にあって、忍耐して信仰を守っていましたけれども、いつのまにか、バラムの教え、ニコライ派の教え、イゼベルというような主イエス様の権威に挑戦する分派をうちに持つようになっていました。

黙示録
2:14 しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。
2:15 それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。

バラムは――民数記だったと思いますけど――、そこに載っているように、霊的な働きを通して、報酬を得ようとした最初の人でした。そして、ニコライ派は、霊的な任務を担わせる信者を、他の信者たちの上に立たせよう――そういう集団でした。ですから、現代の教会の牧師制度は、バラムの教えと、ニコライ派が合わさったものということができるようであります。

今度は、テアテラの教会です。

黙示録
2:20 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。

イゼベルは、自分自身を預言者と自称して、教会に偶像を持ち込みました。多くの人々は、このイゼベルとはカトリック教会を指していると、そういうふうに考えています。ベック兄も、そういうふうに記しています。

これら、バラムの教え、ニコライ派、イゼベルの背後には、言うまでもなく悪魔がいます。悪魔は主なる神の権威に逆らって、天から落とされた天使でしたから、天使の役をすれば、最高の役者だと言えるのではないかと思います。御言葉を用いて、信者を惑わせ、イエス様の権威に対して反抗します。

しかし、主なる神は、ご自身の権威に逆らうものを放置することはなさいませんでした。例えば、アダムは主なる神の権威に逆らい、エデンの園から追放されました。エジプトを脱出したイスラエルは、偶像を作って主なる神の権威に逆らい、多くの人たちが死にました。偶像の神々を崇めるようになったイスラエルはバビロンに移されています。

マタイの福音書、十三章の三十八節を見てみたいと思います。これは、毒麦の例えのお話を、イエス様が解き明かされたところです。

マタイ
13:38 畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。
13:39 毒麦を蒔いた敵は悪魔hであり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。
13:40 ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。
13:41 人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、
13:42 火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

毒麦のたとえでは、三十節にこうあります。

マタイ
13:30 収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。

悪魔の手先である毒麦は、畑ではそのままにしておかれますけど、それは間違って麦を抜いてしまうことがないようにとの御心であります。イエス様は、毒麦のことを考えて、放っておきなさいとおっしゃるのではない。イエス様は、麦のことを全てに優先して、考えていてくださっているのです。そして、三十節にありますように、収穫の時には、毒麦は、束にして火に焼かれると記されています。『束にして』と言うほどに、毒麦はどこにでもあるということを意味しています。しかし、イエス様は、その一本さえも見逃されません。

イエス様は、ペルガモとテアテラの二つの教会には、さばき主の姿でご自身をあらわされました。『主を怖れなさい』と仰せにになります。イエス様の権威に挑戦し、悔い改めを拒むなら、鋭い両刃の剣で魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、光り輝くしんちゅうのような足で不義を働く者を踏みつけると明らかになさっているのではないかと思われます。

黙示録、三章の十四節、ラオデキアの教会です。

黙示録
3:14 また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。
3:15 「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」

3:17 「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」


3:19 「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」』

イエス様は、ラオデキヤの教会の外におられます。この教会には、何も良いところはありませんでした。ですから、迫害もなかったのです。豊かになった、乏しいものは何もないと思っていますから、彼らはイエス様を必要としていません。しかし、イエス様は、熱心になって悔い改め、私のところに来なさいと呼びかけておられます。

私は、長く教会にいた個人的な経験から、ラオデキヤの教会とは、世俗化した教会のように思っています。そうであるなら、『豊かになった、乏しいものは何もない』というのは、無知によるものだということであります。分からないからそう思っている。しかし、イエス様は、ラオデキヤの教会に、『アーメンである方、忠実で真実な証人、神に造られたものの根源である方』としてご自身を現されました。

この御姿は、実はイエス様から褒めておられるあのフィラデルフィアにあらわされた御姿と、言葉は違ってますけど、内容的に同じなんです。フィラデルフィアには、『アーメン』の代わりに『聖なる方』、『忠実で真実な証人』の代わりに『真実なかた』、『神に造られたものの根源である方』の代わりに『ダビデのかぎを持ってる方』と、現されています。ですから、イエス様の目から見たとき、フィラデルフィアとラオデキヤには、同じ姿を現さなければならないとお考えになったと、理解することができるのではないかと思います。

もし、『豊かになった、乏しいものは何もない』というのが、無知によるものではなくて、高慢によるものだとしたら、ラオデキヤの教会は、フィラデルフィアの教会と双子の兄弟だということを意味しているのではないでしょうか。そういう意味では、ラオデキヤの教会の姿は、堕落したフィラデルフィアの教会だということができるのではないかと思います。

イエス様は、ひとつひとつの教会を知っておられます。どういう状態にあるか、何が問題か、何を必要としているのかをご存知です。そして、迫害や困難の中にあるなら、イエス様に信頼して主の再臨を待ち望むようにと、イエス様の権威に反抗するものがあるなら、そうしたものから離れて悔い改めるようにと、イエス様との親しい交わりを失っているなら、受けたこと、聞いたことを思い出し、悔い改めて立ち返るようにとの、愛の御心のあらわれだと考えられるのであります。

全ての教会は、悔い改めて新しいいのちにあって歩むことを通して、主イエス様の栄光をあらわすものでなければなりません。もし、悔い改めようとしないなら、イエス様は燭台を外してしまわれます。もはや、イエス様の役に立たない教会となってしまいます。

イエス様は今、私たちの集会には、どのような姿でご自身は現そうとなさるのでしょうか。そのことを考えなければならないと思います。エペソやサルデスのように、権威としての御姿でしょうか。ベルガモやテアテラのように、さばき主としての御姿でしょうか。スミルナのように、よみがえりの主、また、一切のものの支配者としての御姿でしょうか。あるいは、フィラデルフィアやラオデキヤのように、天と地のものの上に立つ支配者としての御姿でしょうか。

言うまでもなく、その全てではないでしょうか。七つの教会に現されたイエス様の姿と御言葉は、混乱の中にある全ての教会のすべての信者たち、また、私たちに与えられています。主イエス様は、私たちがイエス様をもっとよく知って、主を怖れ、主を愛し、主に信頼して、主に従うことを通して、主イエス様の栄光を褒め称えるものとなる、そのことを求めておられるのであります。

最後にエペソ書の三章、十四節から二十一節を読んで終わりたいと思います。

エペソ
3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

どうも、ありがとうございました。

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