2010年2月19日金曜日

聖霊の人格と働き

聖霊の人格と働き
暦年テープ、DVD2、CD22、0297
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
7:37さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

今、言われたように、今日は洗礼式であり、それだけではなく、五旬節でもありますね。日本ではそんなに大切にされていませんけど、外国へ行く、と非常に大切にされている日なんです。今日は、アイドリンゲンという小さい村で、若者だけで少なくとも、七千人、八千人くらい、集まるようになるんです。みんな一緒に、聖書を読んだり、学んだり、交わったりするのです。毎回、多くの人々が、イエス様を信ずるようになり、救われ、また、今から、イエス様のためにだけ生きたいと決心する人々は多いんです。


五旬節は、神の霊が、聖霊が、この地上に注がれたことを記念する日です。もちろん、五旬節は歴史的な事実であり、一回限りの出来事だったのです。今、兄弟のお読みになりました箇所を見ると、「聖霊はまだ与えられていなかった。イエス様がまだ、栄光をお受けにならなかったからである」と、書き記されています。イエス様は、もちろん、今、栄光を受けているのであり、そして、注がれた御霊の唯一の目的とは、信者たちを満たすことよりも、イエス様のご栄光を明らかにすることです。イエス様、ご自身が中心になることこそが、聖霊の切なる願いであります。イエス様の復活の後、五十日目に起こった出来事だったのです。もちろん、旧約聖書の中で預言されたことです。

イエス様は、すべての人のために、完全な救いを成就してくださいましたが、この救いが、我々一人一人の体験とならなければいけない。そして、このことはただ、聖霊によってのみ、実現されます。多くの人々は、聖霊について考えると、やはり、何かの力ではないかと考えています。決して、そうではありません。聖霊は力を及ぼすものよりも、人格です。父なる神、また、御子なる神、イエス様と全く同じような人格であります。もちろん、人間的な言葉でもって説明しようと思ってもできません。まことの神を理解できる人間は、もちろん、一人もいない。我々の考えられる神、想像され得る神は、自分の思想になります。偶像です。まことの神を私たちは皆、信じていますけど、本当の意味で理解することができません。したがって、いわゆる三位一体という奥義を理性でもってつかもうと思っても、決して、決して、できないからです。

別々にしようと思えば、次のように言えるかも知れません。

すなわち、父なる神は、我々一人一人のために、永遠の昔、救いの計画をお立てになったと言うことです。イエス様は、千九百数十年前に、この救いの計画を実現されたと言うことです。そして、この成し遂げられた救いとは、聖霊の働きによって、我々、人間一人一人のものとなると言うことです。自分のものにならなければ、もちろん、役に立たないでしょう。ですから、比較することができませんけど、クリスマスよりも、復活よりも、召天よりも、大切なのは五旬節ではないかと考えられます。

永遠なる救いも、自分のものにならなければ、役に立たないものです。単なる教えに過ぎないからです。

今夜は、五旬節だけではなく、洗礼式です。洗礼を受ける兄弟姉妹は、この聖霊の働きによって、イエス様の救いに与かることができたのです。聖霊の宿になることによって、彼らは生まれ変わり、新しく作りかえられたのです。彼らは別に、キリスト教という宗教に入ったのではないし、教会の会員になったのでもないし、大いなる知識を得たのでもない――彼らが心を開くことによって、聖霊が、彼らの今までの死んだ霊を生かしてくださった。聖霊の宿になることによってのみ、人間は新しく造られます。救われます。

今日は、ちょっとだけ、この聖霊の人格について、また、聖霊のはたらきについて、少しだけ、ご一緒に考えてみたいと思います。なぜならば、それは非常に、大切なことであるからです。すなわち、私たちが聖霊に対して、どのような態度を取るかということが、大切な問題であるからです。我々の人生が、永遠の滅びに終わるか、それとも、永遠のいのちに終わるかということにあります。

前に話したことがあるのですけど、サルトルと言うフランスの哲学者がいたのです。彼は、単なる哲学者だけでなく、無神論者だったし、神に対する信仰をダメにしようと、一生懸命、働いた人だったんですね。もちろん、本来の意味での無神論者は、あり得ないことなんです。無神論者は、皆、神の存在を認めています。全然、疑いません。けども、神の前に頭を下げたくないから、『いない』、『いない』、『いない』と言うんですね。いなければ、別に、『いない』と言わなくてもいいでしょう。

この哲学者であるサルトルは、いろいろな本を書いたのですけども、次のように告白したのです。「私の人生は、もうどうすることもできないものになった」と、彼は告白したのです。すなわち、彼は望みのない、平安のない、喜びのない人間になったんです。人からは、もちろん、大切にされ、尊敬されたのです。けれども、彼は、本当に、私の人生はもうどうすることもできないものになったと、告白するようになったのですね。彼は、その理由をはっきり言っていたんです。おもしろい表現なんです。日本人だったら、決して、そのような表現を使わないと思うんですね。彼は、何と書いたかと言いますと、『私は、地下室で聖霊をつかまえ、それを追い出した。』

私は結局、聖霊のはたらきを妨げようと思った。何があっても、心を開こうとしたくなかった。結果は、目的のない人生になってしまったんです。彼は、もちろん、福音を聞いたんです。間違いなく、聖霊のはたらきを感じたのです。けど、それに対して、意識的に、心をかたくなにしてしまったのです。そのことによって、彼はもっとも、憐れむべき人間に、成り下がってしまったのです。彼は、私の人生は、もうダメになってしまったと、告白せざるを得なくなったのです。彼は、神を否定する書物を、たくさん作ったり、配ったりしたんですね。自分で、印刷会社を作ったんです。その中で、もう夜昼、こういうとんでもない本を作ったんですね。彼が、死んでから、その印刷会社で作られたのは、聖書だけになってしまったのです。神の導きは、本当におもしろい。

ヘミングウェイという――アメリカ人だったと思うんですけど――作家がいたんですね。彼の書いたものを見ると、ちょっと似ているものではないかと、思うんですね。彼は、何と書いたかと言いますと、「我が人生は暗黒の道です。この道はいったい、どこに続いていくのか、全くわからない。皆目、分からん。我が道は終りなく、暗黒の道です。どこにも行かない道です。」彼の最後は、自殺だったんです。

聖霊は、どうして注がれたのでありましょうか。与えられたのでありましょうか。我々の人生が、目的のないものにならないためです。暗黒の道にならないように、聖霊が遣わされたのだと、聖書は、はっきり言っているのです。サルトルは、『私は、聖霊をつかまえ追い出してしまった』と言っているのです。結局、聖霊のはたらきに対して、彼は心を開こうとしなかったのです。

今日、洗礼を受ける兄弟姉妹は、イエス様の約束の御言葉を経験するようになったのです。

ヨハネ
8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

イエス様に出会った人々、今日、洗礼を受ける兄弟姉妹は、次のように告白することができます。「自分は失敗した。自分の力では、どうすることもできなかった。神の恵みによって、絶望から救われた。これは、神の測り知れない大きな憐れみでした。自分は、自分で救われようと思わなかったし、欲しいとも考えなかったけど、神が憐れんでくださった。今、イエス様を信じています。どうして、信ずるようになったか、さっぱりわかりません。自分で、理解することができません。説明することができませんけど、嬉しい。今からイエス様をよりよく知りたい』という心構えを持つようになったんです。

聖霊を持つことこそが、すなわち、聖霊の宿になることこそがもっとも大切です。パウロは、ローマ書の八章九節の後半に、「キリストの御霊を――すなわち、聖霊を――持たない人は、キリストのものではありません」と、書いています。

【参考】ローマ
8:9 けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。

救いとは、キリストのものとなることです。けども、聖霊を持たない人は、その人は、ローマの法王であっても、教会の牧師であっても、キリストのものではない。すなわち、救われていないことになります。

ここで、聖書の知識を持たない人は救われないとは書かれていません。「キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではない」とあります。すなわち、聖霊を持たない者は失われています。聖霊を持たない人は、霊的にメクラであり、神の目から見ると、死んでいる者です。聖霊を持たない人は、本当の喜びと本当の平安を知りません。もちろん、生き生きとした希望も持っていません。

聖霊のはたらきについて、ヨハネ伝の十六章の中で、手短に、次のように書き記されています。

ヨハネ
16:8 その方が(・・・・聖霊のことです。聖霊が・・・・)来ると、(・・・・一番目・・・・)罪について、(・・・・二番目・・・・)義について、(・・・・三番目・・・・)さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

これは、いったい何を意味しているのでありましょうか。「聖霊が、罪について目を開かせる」と、ここで書き記されています。

人間は、誰でも罪人です。神の判断は、義人――正しい人――はいない。一人もいない。善を行なう人はいません。一人もいない。これは、すべてを知りたもう、まことの神の――多くの人にとっておもしろくない――判断です。聖書は、はっきり、すべての人が迷い出て、皆ともに無益な者となってしまったと、言っているんです。このような罪人が、聖霊の働きによって、自分の本当の姿、すなわち、自分の罪にまみれた姿、自分の神から離れている状態を認める以外には、決して、何の望みも、いかなる救いもあり得ません。自分が、ほんとうの逃れ道のない者であることを知るようになった人が、もちろん、神を呼び求めるようになります。そして、主の御名を呼び求める者は救われると、聖書は、はっきりと言っているのです。

たとえば、ルカ伝十八章に出てくる取税人は、「神様、こんな罪人の私をあわれんでください」と、叫んだのです。結果として、彼は救われました。今から聖書を読むと約束したからではない、今から、より良い人間になろうと努力しますと言ったからではない。ただ、真心から、「あわれんでください」と叫ぶ結果、救われたのです。イエス様と一緒に十字架につけられた一人の犯罪人も、同じ態度を取ったのです。「主よ、私のことを思って下さい。」それだけだったんです。そこで、イエス様は救いの内容について、いろいろなことを教えようとはしなかったのです。彼は砕かれている、ほんとうの助けを求めていると、イエス様はわかったから、すぐ、あなたは、今日、わたしとともにパラダイスにいる、天国にいる、すなわち、あなたの罪は赦されているということです。主の御名を呼び求める者は皆、例外なく救われます。もちろん、人間がほんとうに救いを求めるようになることとは、決して、その人の努力の結果ではなく、聖霊のはたらきの結果です。

第二番目に、義について、目を開かせるのも聖霊であると、ここで書いてあります。すなわち、イエス様によって、救いが提供されているという、この事実に他なりません。イエス様は、このように私たちを義と認めるのです。義とは、ものではない、イエス様、御自身です。コリント第一の手紙に、「キリストは私たちにとって義となられた(一・三十)」と書いてあります。

【参考】第一コリント
1:30 しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。

たとえば、永遠のいのちも同じです。永遠のいのちも、決して、ものではなく、イエス様、御自身です。ですから、聖書ははっきり、「イエス・キリストを持つ者は永遠のいのちを持っているのであり、キリストを持っていない者は永遠のいのちを持っていない」と、はっきり言っているのです。義もイエス様、御自身です。この義であられるキリストを信頼し、受け入れる者は、義とされます。

義とされることとは、もちろん、罪の赦しを得ることよりも、神は、その罪を永久的に忘れてしまったと確信することです。すばらしい事実です。人間には、絶対できないことです。たとえば、争いのあとで、ちょっと、「ごめんなさい、許して」と、もちろん、言えますし、相手の人は、「いいよ、いいよ」と言うでしょう。けど、また、何かあれば、また、前のことをきれいに思い出します。忘れません、忘れようと思ってもできない。

心の傷は結局、残ります。神は違う。神は、わたしはあなたの罪を心に留めません、永久的に忘れます。これこそが神によって義と認められることです。これも、もちろん聖霊のはたらきの結果です。コリントにいる信者たちに、パウロは次のように書いたのであります。

第一コリント
6:11 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。(・・・・彼は本当に、とんでもない罪を犯してしまったんですけど・・・・)しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。

「御霊によって、義と認められた」と、書いてあります。ですから、『聖霊のはたらきがなければ、誰も義と認められません』と、はっきり言えるのです。

主なる神の前に義とされるのは、従って、決して、人間の行ないや、努力によるのではなく、ただイエス様を信ずることによるのです。

ローマ
3:28 人が義と認められるのは律法の行いによるのではなく、信仰による(のです。)

信仰のあらわれとは、結局、主に向かって叫ぶことです。憐れんでください。赦して。恵んでください、また、パウロはローマにいるクリスチャンたちに、次のように書いたのです。

ローマ
5:1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っている。御霊によって、信仰によって、神の憐れみによって、人間は、義と認められます。

そして、聖霊のはたらきの第三番目の点は、さばきについて、目が開かれるということです。さばきについて、目が開かれるのも、聖霊の働きによるのです。イエス様を個人的に、また、意識的に受け入れない者は、誰でもさばきを受け、愛の泉、喜びの泉、いのちの泉であられる、まことの神から、永遠に離れた状態にとどまらなければなりません。人間は皆、神から離れている者です。そして、神から離れている者として、永遠の死に服さなければなりません。しかし、イエス様は、全人類の身代わりに死んでくださり、人間の受けるべき罰を、お受けになってくださったのです。

この点をいつも、強調すべきではないかと思うんですね。

新興宗教は、よく、何かあれば、うまくいかなければ、あなたの罪の結果だよ。だから、癌になった。だから、うまくいっていない。成功しない。あなたが悪い子であるからです。聖書の言っていることは全く違う。まことの神は、人間を罰しようと思いません。なぜなら、本当の意味での天罰をお受けになったのはイエス様だったからです。イエス様が代わりに罰せられ、除け者にされ、捨てられてしまったから、だから、神は人間を罰しようと思いません。いろいろなことで悩んで、苦しんでいる人々に、いつも逆のことを言いたい。天罰ではなくて、あなたが苦しんでいるのは、特別に愛されているらしい。おめでとう!

今は、わからないことだけなんですけども、主は、やはり、いろいろな病気、いろいろな問題、悩みを与える方です。けども、これは、罰ではなくて、神の愛のひとつのあらわれです。それによって、永遠なる幸せを得るようになれば、まわりの人々が、それによって導かれれば、それこそ、すばらしいことではないでしょうか。

たとえば、もしどなたかが、奇跡的に癒されたとします。まわりの人々は、『よかった、よかった。おめでとう』としか言いません。誰も、悔い改めようとはしませんし、誰も、自分の死後の世界の運命について、考えようとはしないでしょう。けれども、もしどなたか癒されないで――ササガワ兄の場合はどういうふうになるかわからないけど・・・・今の段階では、ちょっと無理らしいけど――彼は、やっぱりもう癌だ、手遅れだ、おしまいだとわかりながら、喜びに満たされています。彼を見ると、やはり、誰でもイエス・キリストこそが本物だと認めざるを得ません。結局、彼は癒され、今まで、癒されなかったんですけど、けども、死んでも一足、先に行くだけなんです。けど、『待っているよ。』この態度を取っているから、結局、多くの人が、彼のような態度を取らないと罪だ、彼のように徹頭徹尾、主に信頼しないと、聖霊は働くことができないと、わかるようになり、そして、救われていない人々は、もちろん、飢え渇きを感じ、このようなものを欲しいと思うようになります。

主は、さばこうと思いません。色々な重荷を通して、悩み苦しみを通して、自分の愛を明らかにしようと望んでおられます。どうしてであるかと言いますと、イエス様ご自身が、私たちの代わりに罰せられ、神のさばきのまとになられたからです。

イエス様に信頼を置くならば、恵みによって義とされます。このすばらしい贈り物を意識して拒み、自分勝手な道を行く者には望みがありません。救いがありません。この真理を明らかにするためにも、聖霊は一生懸命、働いておられます。この真理をすなおに肯定する者には、本当の悔い改めと罪の認識があるのです。罪を告白し、罪から離れると言う者は、結局、イエス様を信じるようになります。

千九百数十年前の初めての五旬節の時、ペテロは、次のようなことを宣べ伝えたのです。

使徒行伝
2:38 そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」

ある意味で、理解しにくいことばです。間違って解釈しようと思えば、簡単にできるんです。このような言葉に基づいて、カソリック教会は、洗礼を通してのみ救われると言うようになっています。ここで、二つの条件について書かれています。それから、二つの賜物についても書かれていますね。条件とは、悔い改めと洗礼です。二つの賜物とは、赦しと聖霊です。

初めの条件は悔い改めることです。悔い改めるとはいったい、どういうことなのでありましょうか。ひとことで言いますと、趣味が全く変わるということです。以前には、罪を愛していたけど、今は、それを嫌うようになった。罪に対する考え方が変わります。未信者は、罪を犯しても、誰もわからなければ、つかまえられなければ、良かったではないか、皆やってるではないかという気持ちなんです。けども、イエス様を知るようになった人は、確かに罪を犯すでしょう。けど、平気な顔をすることができない。やはり、喜びがなくなる。心の平安がなくなります。

それから、以前にはこの世は、自分にとって魅力だった。今は、この世の快楽は、自分を惹かなくなった。もう興味がない。何をやってもどうせ心は満たされないと、わかるようになったからです。

以前には、イエス様を信ずるようになるということが恐れだった。今は、イエス様のものであるということが、無上の喜びです。イエス様は私のものであり、私はイエス様のものですと言う知識こそが、絶えざる喜びの源です。

あるいは、以前には、あれこれ努力して、自分のものとしようとしたけど、今は、追い求めるのはイエス様だけです。何があっても、イエス様をより良く知りたいという切なる<<願いが生まれ、それまで>>軽蔑していたものがいちばん、尊いものになってしまった。

このように、趣味の変化を経験した人が、初めてまことの悔い改めを<<した人である>>と聖書は言っているのです。

二つ目の条件は、洗礼です。他の言葉で言いますと、自分の信仰の告白が必要であるということなんです。形式的に洗礼を受けることは、もちろん、役に立たないことですし、主の望まないことです。けども、自分の信仰の告白として、水のバプテスマを受けると、祝福があります。洗礼は、心の信仰のあらわれであるべきです。自分の信仰の告白です。救われている人は、どうしても、まだ救いにあずかっていない人々に、信仰を告白しなければなりません。

ある人は、もう十年間、あの会社に勤めているけど、私がイエス様を信ずていることに、まだ誰も気がついていないと誇って、言ったことがあるんです。それは、おかしい話なんです。結局、どうして会社に行くんですか?もちろん、生活するために金が必要です。けど、そのためだけに行くのはおかしい。やはり、イエス様の証し人として、イエス様ご自身を運ぶ物として、会社へ行かないとよくない。そして、他の人々の幸せを望むことによって、束縛から解放されます。不思議な力が働くようになります。

結局、私たちは用いられるために、他の人々の永遠の幸せのために、救われたのだと、聖書ははっきり言っています。ですから、自分の信仰を、公に証ししなさいと、聖書は言っています。そして、そのひとつの手段とは洗礼を受けることです。たとえば、重病人が、洗礼を受けようと思ってもできません。けども、神はそのようなことをもちろん望みません。洗礼を受けないで天国へ行く人はいっぱいいます。洗礼を受けても、地獄へ行く人もいっぱいいる。

洗礼、水のバプテスマとは、結局、救いと関係のないことです。そう聖書は、はっきり言っています。今のキリスト教が、絶対に認めたくない事実です。今のキリスト教は、はっきり洗礼は、救いと関係があるものです、と言います。絶対に離れません。カソリック教会は、前に言いましたように、洗礼を受けないと、絶対に救われませんと言います。プロテスタントの教会は、洗礼を受けないと聖餐式にあずかってはいかんよ、キリスト者として認められませんと、平気で言う。全く非聖書的です。結局、今のキリスト教は、洗礼は、救いと関係のあるものだと言うのです。聖書は、全く違うことを言っています。

今朝、一人の兄弟が、ローマ書、六章から一ヵ所を引用してくださったんですけど、その中で、バプテスマということばが、何回も出てきたんですけど、バプテスマとは水の洗礼ではない。イエス様のまことの救いです。これを区別しないと、簡単に間違った方向に行ってしまいます。バプテスマ、洗礼ということば、よく聖書の中に出て来ますけど、九八%くらいは、水のバプテスマと関係のない意味なのです。イエス様の救いを意味しているだけなんです。

自分の信仰を告白するように。

ローマ
10:9 もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

水のバプテスマとは、ひとつの告白に過ぎません。自分の信仰を表わすためのひとつの手段に過ぎません。

イエス様を信じ、受け入れるということは、自分の罪を認め、告白して、憎み、罪から離れ、そして、イエス様の救いのわざを信じ、感謝することです。あなたは、悔い改めて、罪を赦しをいただく、また、世人に信仰を告白したのでしょうか。もし、そうなら罪の赦しと、御霊の賜物をいただいていると信ずることができます。理性でもってつかめなくても、何も感じなくても、そうなんです。聖霊は、信ずる者に与えられると、聖書ははっきりと言っているのです。

信じることとは何でしょうか。救いに至る信仰について、三つのことが言えます。

救いに至る信仰とは、見ようとすることです。「見る」ということばは、よく聖書の中に出てきます。たとえば、ヨハネ伝の一章二十九節に、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」見て。あなたの罪は、もうすでに取り除かれた。神の救い主なるイエス様、ということばです。心の目で、イエス様は、私のようなつまらない者の代わりに死なれたと見た人は、結局、信ずるようになります。信じることとは、少なくとも、頭の知識を得たことではない。わかった、わかったということではない。イエス様は、私のような者の代わりに死なれたと、心の眼で見ることこそが、まことの信仰であります。

第二番目は、来ようとすることです。イエス様は、いつも、『わたしのもとに来なさい』と、何回も何回も呼ばれたのであります。重荷を負って苦労している者は、『お願い、キリスト教に入れ』ということではないのです。『聖書を研究せよ』、『立派な人間になれ』ということでもない。わたしのところに来なさい。わたしは義と認めます。受け入れます。救います。イエス様のみもとに行こうとすることが、まことの信仰を得る秘訣であります。イエス様は、わたしのもとに来る者を、わたしは決して捨てませんと、言われたのです。

実際問題として、イエス様のところに行くこととは何なのでしょうか。

箴言
28:13 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。

すなわち、正直になり、頭を下げること、自分の罪を隠さないことです。告白して、それを捨てる者は、あわれみを受けると約束されています。ですから、イエス様のみもとに行くということは、自分の罪を認め、そして、イエス様に告白することです。また、罪から離れることです。信じるということは、イエス様を受け入れようということです。

ヨハネ
1:12 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

多くの人々は、この方の教えを、よく勉強して、理解するようになれば、あるいは、教会員になれば、洗礼を受ければ、神の子となると考えています。ここには、全く違うことが書かれています。この方を、すなわち、提供された救い主なるイエス様を受け入れる人々は、すなわち、神の子どもです。

最後にちょっとだけ、聖霊の信者に対する働きについて、考えて終わりたいと思います。今まで、おもに聖霊の、まだ救われていない人々に対する働きかけについて考えたのですけども、聖霊が信者に働くということとは、いったいどういうものなのでありましょうか。前に言いましたように、イエス様を救い主として受け入れたとき、何が起こったかと言いますと、主なる神が聖霊を通して、あなたの霊のうちに入り給うて、あなたは神の宮、聖霊の宮となったのです。

第一コリント
3:16 あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

このコリントの教会の信者たちは、悪魔の攻撃の的になっただけではなく、悪魔の誘惑に負けてしまって、あのコリントの教会は、めちゃくちゃな教会だったんです。そして、だから、パウロは、あなたがたはこの大切なことを知らないのですか。忘れたの?どういうことですか。あなたがたは神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。

同じくコリント第一の手紙、六章同じ事実が述べられています。

第一コリント
6:19 あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

この代価とは、もちろん、イエス様の捧げられたいのちであり、イエス様の流された血潮だったのであります。「あなたがたは知らないのですか」と、パウロはコリントの信者たちに尋ねたのです。私たちは、それをほんとうに知っているのでしょうか。確信しているのでしょうか。そのために、毎日感謝するのでありましょうか。

あなたは、信ずる者として聖霊があなたのうちに宿り、あなたは、永遠の聖霊の宮であるということを、本当に考えているのでありましょうか。聖霊の宮として、信じる者は、存在目的を持っています。信じる者は、神の宮であり、御霊がうちに宿っているという知識、確信は、今日のキリスト者にも、どうしても必要です。御霊によって新しく生まれた人は、誰でも、栄光の主を担って歩いている者です。

真のキリスト者とは結局、生けるまことの神を運ぶものです。そうすると、何もしなくても証し人となり、まわりの人々は、やはり、飢え渇きを感じて、どうしたらいいの・・・・と、きかれるようになります。

自分の身に起こるあらゆる問題の解決は、自分のうちに宿りたもう栄光の主です。この事実に目が開かられると、私たちはひとつの思い煩いも、起きて来ないでしょう。パウロは、よく何事も思い煩ってはならない、主は近い、と言ったのです。再臨は近いと言うよりも、主があなたがたのうちにいるから、心配しなくてもいい。主にとって不可能なことはない。徹頭徹尾、主に頼りなさい。キリスト者は聖霊の宮であり、神の神殿であると、聖書ははっきり言っているんです。

ローマ書八章に、御霊のもう一つの働きについて、次のように書き記されたのです。

ローマ
8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

パウロ、また、初代教会の人々は、皆、立派だったと多くの人々は考えていますけど、決してそうではない。ここで、何と書いているかと言いますと、「私たちは弱い者です、そして、何も知らない者です」と、はっきり告白されています。自分の弱さ、惨めさを感ずる人は、やはり、主に頼るようになります。そういう人々だけが、満たされ、用いられるようになります。すなわち、我々がこの態度を取ると、主は導くことができ、聖霊は、イエス様の栄光をあらわすことが出来るのです。

このコリント第一の手紙、六章のことばは、本当に、非常に大切な言葉です。

第一コリント
6:20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

あなたがたは、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや、自分自身のものではない。自分自身からの解放とは、何という救いでありましょうか。もし、私たちが内住の主を知るならば、自らを全く、主に明け渡し、主の支配にこの身をまかせなければならない。自分が神の宮であることを知ったその瞬間、自分のからだ、自分のすべては、自分のものではない、主なる神のものであることも知るようになります。御霊の支配に自分自身をゆだねることこそが、まことの解放です。

私たちは皆、とくに今日、洗礼を受ける兄弟姉妹は、『私は私のものを欲しない。私は、あなたの他に慕うものはない。みこころのままに動きたい』という、主におささげし、おゆだねした心の態度になっているならば、本当に祝福されます。

前に言いましたように、いわゆる洗礼とは、自分の信仰を公に証しする手段です。それだけではありません。洗礼は、聖霊の支配のもとに置かれることも意味します。

前に言いましたように、主なる神は、人間の罪を罰せざるを得ない。だから、神は我々の死を望まれました。罪を犯した魂は死ぬべしと、聖書は言っているのです。けど、一人子なるイエス様を、十字架におつけになられることによって、全人類の罪は罰せられたのです。そして、私たちが洗礼を受けるとき、自分自身の生活は、十字架でその終わりを告げたと、告白すべきではないでしょうか。

イエス様も、もちろん、洗礼を受けたのです。けども、イエス様の受けた洗礼と、われわれの受けた洗礼は、ちょっと違うんです。けども、ある意味で洗礼は、イエス様の公の生活の始まりだったと言えます。イエス様は、洗礼を受けることによって、新しくすべてを聖霊の支配のもとに置かれたと、聖書は言っているんです。すなわち、イエス様は、父なる神の考えなしに、自分の考えで物事を決定することを、意識して退けました。イエス様の考えは、もちろん、完全でした。

イエス様は、神の性質の持ち主であり、イエス様は罪を犯す可能性がなかったんです。

それにしても、イエス様は自分の考えで物事を決定することを、意識して退けられたのです。イエス様は、人間や、弟子たちや、悪魔の影響を受けることを、意識して拒んだのです。イエス様は、いつも聖霊によって与えられた言葉だけを語られたのです。イエス様のなされたことは、聖霊に導かれてやられたことだった。すなわち、イエス様の態度は、わたしの思いでなく、あなたの御心だけがなるようにという態度だったんです。

わたしの判断でなく、あなたの判断であるように。わたしの考えではなく、あなたの考えになるように、と。結局、イエス様でさえも、ご自分の考え、ご自分の思いに対して、死んでおられたということです。イエス様を信ずることとは、自分を信じないことを意味しているんです。

これが、イエス様の洗礼の意味でした。そして、これは、我々の洗礼の意味でもあるべきです。パウロ、また、今日、洗礼を受ける兄弟姉妹は、次のように証しする特権が与えられるのです。よく、ササガワ兄が引用される箇所です。ガラテヤ書の二章二十節です。『私はキリストとともに十字架につけられました。生きているのは私ではなく、キリストが私のうちに生きている』のである。

【参考】ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
2:21 私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。

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